29.緊急事態発生
獅子王の遠吠え。
それは猪の王宮どころかその外側にも響き、夜空をつんざいた。
リュカはそれを聞き、目を覚ました。
まだ、傷口と思われる箇所が痛い。腹を支えながら、何とか立ち上がる。
窓の外を見る。獅子王の遠吠えに共鳴し、城壁の外で待機している獅子たちも同じ遠吠えを発する。
それは聖女協定に入る獣人に伝わる、遠吠えの暗号だった。つまり猪族には分からないアラート。
──聖女に緊急事態発生:被害〝連れ去り〟
(……何だと!?)
驚きはしたものの、すぐさま冷静に判断しようと身構える。
(……その割に、城内は静かだが?)
リュカは色々と察して頭を働かせた。
彼は狼特有の聴覚で、フィリアの居場所を感じ取ろうとする。
リュカは何かに気づき、窓から目の前の塔を見つめる。
「……あの塔の中が騒がしいな」
と。
塔の小さな鉄格子から、光がぽっと差した。
「……やはり、あそこか」
光はすぐに消えた。
リュカは鉄格子の隙間の大きさを確認する。
(あの隙間からなら──)
そして狼の姿に変身すると、窓から遠吠えを発した。
──緊急応援:兎
──行き先:猪の町バシリク、東の塔。
それから荷物を体に結び付け、部屋を飛び出し城内を走る。
(声の方角はあっちか。シリウスさんと合流しよう。それから……)
リュカはくんくんと空気の匂いを嗅ぐ。
(これは、温泉の匂い。上手く行けば猪の湯が得られるか……?)
その頃。
兎の里ヤムナの女王、ニナは布団から飛び起きた。
「起きなさいよ、こらっ!」
そう叫んで近くにいたもふもふ白兎を揺すり起こすと、彼は慌てて兎耳筋肉兵士へと変貌した。
「へ、へい姐さん!何が起きなすったんで!?」
「兎の緊急応援が発令されたわ!バシリクで聖女に危機が迫っているらしいの」
「バシリクってーと、聖女協定に入っていない都市じゃねーか。なぜそんなところに」
「誘拐されたのかもしれないわ。兵を集めて。バシリクへ行くわよ!」
兎族はすぐさま王宮に集められた。
全員、兎の姿をしている。
大小、毛色、様々な兎たち。ニナは、遠吠えを聞いて確信していた。
(きっと聖女様は狭いところに閉じ込められたのだ……だから兎に応援要請が来た)
女王ニナは白兎姿で叫ぶ。
「諸君!我々は今からバシリクへ向かう!具体的な指令はあとで行う!とにかくバシリクまで全力疾走!」
おー!と野郎どもの叫び声が上がり、兎は全員一斉に王宮から駆け出して行く。
城塞都市を出、地形も無視してまさに脱兎のごとく疾走する。
草むらに隠れていた兎たちもそれを見て加勢し、兎の大群が荒野を駆け抜けた。
バシリク城塞へ今、全世界の兎を集めた大群が、波のように押し寄せつつあった。
一方。
フィリアはようやく瞳を開けた。
周囲を見渡し、また違う場所へ連れて来られたのだと悟る。
頭上には鉄格子。
目の前には、錠を掛けられた鉄の扉があった。
フィリアはとりあえず扉を開けようと体当たりを試みた。
びくともしない。
と。
「起きたか?」
扉の向こうから、エレンの声がした。
扉の上蓋を開けた箇所から、ひょいと猪頭の目だけが現れる。
「エレン!こんなことをして、どうするつもり!?」
「どうするって……さっきも言っただろう。君は最強兵器。これを手に入れれば、世界は猪族の意のままに操れるんだ」
フィリアは青ざめた。
聖女が人間と戦ったあの光景を、猪族はつぶさに観察していたのだ。
「聖女協定は、協定者が聖女を平等に持つ権利を保障するものだと言う。だがそれを守って何になる?それを出し抜き、聖女を手に入れれば全て意のままになるというのに。法律を守ろうとする獣人族は馬鹿だなぁ」
フィリアはぎゅっと奥歯を噛む。
そして力を込めると、目を見開いた。
どんっ。
鉄の扉がひしゃげる。しかし、まだ開きはしない。
「おー!大した魔力だ」
猪族はひとしきりはしゃいでから、静かにこう言った。
「そんなに怒るなよ、俺は君をお嫁さんにするつもりなんだから。これから二人で楽しい人生を歩もうじゃないか」
フィリアは目を見開いた。
「私が……お嫁さん?」
同時に、おぞましさに背中が粟立つ。
「ああ、知らないのか?人間は、獣人との子を産むことが出来る。だいたい、獣人というものは元々人間と獣の合いの子なんだからな」
フィリアは怒りに任せて再び魔力を使おうと思ったが、今度は振るわない。
魔力が底をついてしまったようだった。
「誰が、猪の子など……!」
「狼の子ならいいのか?」
下卑た笑いが塔に響く。
フィリアはぶちんと何かが切れた。
「──滅ぼす」
「え?」
「贅沢を覚え、魔力が回復した暁には、真っ先にこの都市と猪獣人を滅ぼして見せる」
「!」
それを聞き、エレンは青くなった。
「あっ、それはタンマタンマ!」
「強大な力を欲したのはそっちでしょう」
「そ、そういうこと言わないでよ。困ったな~」
猪獣人には、後先を考える能力が著しく欠けているらしい。
そうなのだ。
フィリアを手に入れれば強大な魔力が手に入るかもしれないが、その魔力がどのように使われるかは、本来聖女の腹次第。
力を得れば、救うことも滅ぼすことも可能──
「今、あなたは私の敵になったの。よく覚えておくことね」
エレンがたじろいだ、その時だった。
地響き。
フィリアが何事かと鉄格子を振り返る。
すると。
鉄格子からおびただしい数の兎が、波を打つようにどっと流れ込んで来た。




