28.目覚めのキス
フィリアはリュカの頬にキスをした。
狼は寝息を立て、何の反応もしない。
フィリアはそれを見てから幾度となく狼の頭に、柔らかいキスの雨を降らせた。
彼は起きては来なかったが、最後にうなされるような低い声を出した。
聖女はようやくリュカの声が聞けて、心が少し満たされる。
「……あなたにはたくさん癒して貰ったわ」
フィリアは膝をついてベッドの中の狼を覗き込むと、彼をふわふわと撫でさすった。
「今度は私が癒す番」
その時だった。
ふと、リュカが瞳を開ける。
フィリアはハッとして立ち上がった。するとふわりと風が吹き──気づけばリュカの腕が、しっかりと彼女の腕を掴んでいた。
「……リュカ!」
「……眠ってる間にそんなことをするんだ、フィリアは」
フィリアはあわあわと真っ赤になった。
「だ、だって」
「だって?」
「童話で、見たんだもの」
リュカは力なく微笑んだ。
「俺を起こそうと?」
「……現に、起きたじゃない」
「そういうのは……」
「うん」
「起きてる時にやってくれないかな」
言いながら、リュカは掴んだ彼女の腕をそうっと引っ張った。
その少しの我儘が嬉しくて、フィリアは心を決める。
フィリアは身をかがめると、ベッドの上のリュカの頬を撫で、その唇に口づけた。
リュカはフィリアの後頭部をさすると、しばらくそのままの格好で聖女の唇を味わう。
唇を離してから、リュカはくやしそうにうめいた。
「あーあ……」
フィリアはぽーっとリュカの顔を間近に見る。
「初めては、こんなところでするつもりじゃなかったんだけどな」
その乙女のような口ぶりに、フィリアはくすくすと笑った。
「ごめんなさい。でもあなたが命をかけて助けてくれた日に、あなたにキスをしないっていう選択肢は……私の中にはなかったみたい」
「じゃあ、しょうがないか……」
言いながら、リュカはこわごわ自らの腹をさする。
「うーん……?矢を受けたはずだが、何ごともなくなってる」
フィリアは頷いた。
「リュカ。私ね、治癒の力が使えるようになったの」
「……そうか。随分、早いな」
「リュカのおかげよ」
「道理で、聖女の髪の色が白くなったと思った」
フィリアはその言葉を受け、慌てて自身の毛先を眺めた。
黄ばんでいた髪色が、白くなっている。
「俺の傷を治すのに、かなりの魔力を消費したんだろう。今まで得た癒しの力をほぼ使い切ったらしい」
「そっか……」
「そんなにがっかりするなよ。きっと頑張って、俺の傷を治してくれたんだ」
「うん」
「ありがとう、フィリア。失った分の魔力は、また癒されれば元に戻るよ」
窓から、夕餉の香りが漂って来た。
「おーい、ちょといいかー?」
猪頭の大きなエレンがすごすごと扉を開け、入って来た。
「今日はご馳走だぞ!確か聖女は癒されると魔力が戻るんだよな?」
リュカとフィリアは顔を見合わせる。
リュカが言った。
「まだ体がところどころ痛いし、動きたくない」
「じゃあ聖女だけでも来いよ。色々話したいことがあるんだ」
扉の向こう側から、シリウスが顔を覗かせる。
「ならばリュカはここで待つか?俺がフィリアを連れて行こう」
「あれ?シリウスさんがどうしてここに……」
「詳しい話は後だ。リュカは見ていないだろうが、俺も色々あってこっちに来たんだ」
「まあいいや、シリウスさんがいるなら心強い。フィリア、腹が減っているだろう。行って来たらどうだ?」
フィリアは余り気が乗らなかったが、魔力がなくなったこともあり、とりあえず誘われるまま行ってみることにした。
フィリアは見覚えのある光景に、瞳を輝かせる。
黄金色のビールやソーダに、串に刺さった肉とピーマンのミルフィーユ。とろりとした煮こごりのような豚の角煮に、パリパリとした大根の梅酢和え。ダントンから逃げ出した一番近くにあった、猪族の居酒屋で見たメニューと瓜二つだ。
「どうだ!猪族は住まいには頓着ないが、食事には命を懸けているんだぞ!」
エレンが胸を張り、その隣で猪王が目を細める。
ここは王宮内の食堂。テーブルいっぱいにメニューが並べられ、四人でそれを囲んでいる。
「聖女よ、とくと食うがいい」
「は、はい……」
フィリアは巨大な体躯の猪王族を前に、その居酒屋メニューに遠慮気味に手を付けた。
シリウスは警戒しているらしく、手をつけようとしない。
「ところでだな」
嫌なタイミングで猪王が口を開いた。
「狼頭の聖女は、人間界では何ごとからも遠ざけられ、幽閉され、挙句に殺されそうになったと聞くが」
フィリアは頷いた。
「それでも本当に人間を恨んだことはないのか?」
聖女は、またその質問かとうんざりする。
恨んだから、恨まなかったから、何だと言うのだろう。
「私は、恨みの感情は抱きません。恐らく……そんなことを考えても無駄だからです」
それを聞き、途端に猪族たちは無表情になる。獅子王が横槍を入れた。
「……貴様らは一体、何を企んでいる?聖女に人間を恨ませようとして、何をしようと言うのだ」
すると猪王は目を見開きこう答えた。
「聖女は、最強の〝兵器〟である!」
シリウスは何かの予感に気づき、すぐさま獅子の姿に変身した。
「聖女を手に入れし獣人が、この世界を制覇する……!」
フィリアはその言葉に驚き、立ち上がる。
「フィリア!すぐに背中に乗れ!!」
フィリアがシリウスのところまで走ろうとした、その瞬間。
彼女は急に意識を失って倒れた。
「フィリア、どうした。おい!しっかりしろ!」
すると、猪の兵士がわらわらとやって来てフィリアを取り囲んだ。獅子は彼らを蹴散らして聖女の倒れた場所へ進もうとするが、猪の大群に阻まれ先へ進めない。
「フィリア!」
シリウスが叫ぶと、エレンがビールをシリウスの顔面にぶちまける。
その瞬間に、シリウスは全てを悟って緊急の遠吠えを発した。
ウォォォォォォーーーーン!……
そのまま、シリウスもぐらりと失神した。
横たわる獅子を見下ろし、エレンが呟く。
「へへへ、俺たちを馬鹿にしやがって。……馬鹿はどっちだよ」




