27.猪獣人の町バシリク
聖女の、本当の力。
それを嫌が応にも見せつけられた上、アドルフの腕からは容赦なく血が滴り落ちる。
アドルフは離れた腕を自身の腕に引っ付け、脂汗をかきながら叫んだ。
「くそっ。おい貴様ら何をしている!早く聖女を殺せ!遺体を持ち帰るんだ!!」
兵士らは馬上でためらう様子を見せた。
聖女に近づけば体を切り刻まれ、かと言って遠くから矢を射れば燃え尽きる。
手立てがない。
アドルフは焦った。このままでは己の腕を失う。最悪失血死だ。
更に彼の心をくじいたのは、騒ぎを聞きつけた猪獣人が城壁の向こう側から投石を始めたことだった。
馬の嘶き、落石。次第に城壁を挟んで戦闘の気配が立ち上がる。
更に遠吠えと共に、山の裾野から巨大な獅子が群れを作りよじ登って来た。
人間兵士は猪の投石と獅子に挟まれる格好となり、あっという間に逃げ場を失った。
獅子王シリウスが先陣を切って兵士の乗る馬に襲い掛かる。兵士は落石には冷静だったものの獅子の登場には慌てふためき、城壁周辺はあっという間に阿鼻叫喚の戦場と化した。
「退避ー!退避ー!」
獣人の素早さは人間を遥かにしのぐ。勝ち目がないと悟ったアドルフが退避を叫ぶものの、獅子が馬を食い散らかしているので先へ進めない。
アドルフは別の馬に乗り変えると、一目散に山を駆け下りた。
それに次々兵士が加わって行き、彼らは兵力を四分の一にまで減らして退却した。
フィリアはただ、静かに血まみれの白狼を抱き続けている。
シリウスがやって来て、ぽつりと聖女に告げた。
「癒しの力が戻ったようだな」
フィリアは無表情で頷いた。
「治癒の力は元よりあるとして、加護と攻撃の力をかの温泉から得た。それがリュカの危機をきっかけに、先程いかんなく発揮されたというわけだ」
フィリアはまた頷いた。
「リュカは、まだ目覚めぬか」
フィリアは頷く。獅子王は狼の血濡れた毛を掻き分け、傷の状態を確認した。
「傷口は塞がっているが、痛みに失神したままのようだ。少し寝かせてやれ」
それを聞くと、ようやくフィリアは顔を歪めて目をこすった。
ギイ、とどこかで錆びついた音がする。
獅子と聖女が音の方を見やると、のっしのっしと重い足取りと共に、大きな体躯の猪獣人が現れた。
「ふーん。お前が最近噂になっている聖女か」
猪はフィリアと白狼とを眺めると、静かにこう告げた。
「俺はエレンって言うんだ。ま、中に入れよ。疲れただろ」
シリウスがフィリアに耳打ちをした。
「あいつらは聖女協定に入っていない上、人間を古くから恨み続けている。ひとりで中に入るのは危険だ。入るなら、リュカが起きてからにすべきかと思うが」
フィリアは、ぽつりと応える。
「でも……リュカを柔らかいベッドに寝かせてあげたい」
シリウスは唸ってから猪獣人に告げた。
「……おい、猪。俺も入れろ」
しばし、間があって。
「んー、しょうがないなー。まあいいけど?」
それを聞くと、シリウスは自身の群れに壁の外で待機するよう命じた。
かくして獅子の背中に白狼を乗せ、聖女一行は猪獣人の城塞都市バシリクに足を踏み入れたのだった。
猪獣人の城塞都市に入ったフィリアは、唖然として周囲を見渡す。
猪獣人は、皆頭だけ猪だ。エメのように、全員年老いているとでも言うのだろうか。
シリウスが言う。
「猪獣人は、人間に化け切れないのだ」
そしてこともなげに続ける。
「馬鹿だから」
猪獣人は即激怒した。
「俺のどこが馬鹿だ!」
「……そういうところだぞ」
獅子王はそう言って目をすがめた。
廃墟のような城塞都市では、そこに藁や木を乗せて雨風を凌いでいた。
レンガやモルタルで修復する術を知らないらしい。
シリウスは聖女に囁く。
「いいか。聖女協定に入っていない獣人族は、たいていこんな調子だ。協定や法律といったものを理解出来ない。更にこの城塞都市は、大昔、人間の都市を襲って手に入れたものだ。彼らは自分たちで建物を作ることが出来ないのだ」
聖女は頷く。それを確認すると、シリウスは猪獣人に尋ねた。
「おい、俺たちは一体どこへ連れて行かれるんだ?」
猪獣人は答えた。
「俺は王子だ。王宮に行く」
「ほー。王宮ねえ」
「聖女の求めている、いいベッドがあるぞ」
「本当か?どうせ藁の上にでも寝かされるんだろう」
一行は、朽ち果てた王宮に辿り着いた。
その奥の朽ち果てた玉座には、猪の王がぐったりと腰掛けていた。
金色の猪だ。
「おー、何の用だ人間よ」
シリウスが口を開こうとするより早く。
「お願いがあります。この狼を、体力が回復するまで寝かせてあげて欲しいんです」
とフィリアが乞う。猪の王はぐったりしたリュカを眺めると、目を細めた。
「ふーむ。まあいいだろう。ただし、その前にちょっと聞いておきたいことがある」
フィリアは身構えた。
「……何でしょう」
「お前は人間に、そのおともの狼を殺されそうになった」
「……」
「人間が憎いと思わないか?」
フィリアは目を見開いた。
「いいえ。人間を憎んだことは……ないです」
「そうか。まあいい、とりあえず聞いてみたかっただけだ──」
フィリアは疲れた頭で考える。
猪獣人は表情が読めない。
だからそれがどのような意図での発言なのかが、まるで見えて来ない。
「ベッドならこの上の階にあるぞ。おいエレン。案内してやれ」
「はーい」
エレンはちょいちょいと手のひらを動かした。
フィリアとシリウスは互いに見交わし、王子のあとをついて行った。
確かに、そこには大きな白いベッドがあった。
エレンとシリウスとで狼の首と足を掴むと、よいしょとベッドに寝っ転がす。近くにいた猪獣人が、用意していたおしぼりで軽くその血濡れた腹を拭いてやる。
リュカはようやくベッドに横たわった。
「リュカ……」
フィリアは彼の上下する湿った腹にそっと触れると、急に肩から力が抜け、ぽたぽたと涙を流した。
シリウスがじっとその光景を眺めていると、エレンがその肩を叩いて首を横に振って見せる。
「……?」
「俺たちお邪魔虫だから、ちょっと席を外そうぜ」
シリウスは少し後ろ髪を引かれるように、そろそろと部屋を出た。
扉が閉められる。
フィリアは狼の頭にそっと額を寄せると、さわさわとその白い喉をさすった。
ふと、童話の一場面を思い出す。
お姫様を目覚めさせる、王子様のキス。
フィリアは願いを込めるように、狼の頬にそっとキスをした。




