20.獅子の里「無名」
その頃。
白狼の背に乗ったフィリアはウルフ・トラベラーズ・ガイドを読み耽っていた。
リュカも彼女の読書の妨げにならぬよう、今日はゆっくりと歩いている。
「へー。獅子の里には、名前がない。それに、特定の場所にあるわけじゃないのね」
リュカが答えた。
「獅子はエサを求めて集団で移動しながら暮らしているんだ。狼族や兎族のように城塞都市を持たない。テントを張ったり洞穴に住んだりして、その日暮らしをしている。大体決まった四カ所ぐらいをうろついて生活しているんだ」
「そうなのね。放浪の旅団……これはこれで、とても素敵な暮らし方」
「獅子は何せこの獣人界で一番強い。だからこそ、頑丈な家や持ち物がなくてもやって行ける。非常に身軽で、器用で、気持ちのいい奴らだ」
「早く会ってみたいわね」
「聖女のことがあるから、割と近くにいると思うんだ。ああ、ほら、ここ」
リュカが示した場所に、杭を打ったような穴の跡がある。
「おっ、これは温泉のある方に向かっているな」
「温泉!」
「やはり目論見は当たった。獅子は聖女が来ることを見越して、温泉のある地域を目指しているんだ」
二人は徐々に山間の、川の上流に足を踏み入れていた。
切り立った崖が川を挟んでそびえ立ち、清流の音だけが流れている。
平地とはどこか違った、清らかに透き通る日差しが降り注ぐ。
美味しい空気を大いに吸い込み、フィリアはぐうと腹を鳴らした。
リュカがくつくつと笑う。
「もう腹が減ったのか」
「だ、だって……いい景色を見てたら、なぜかお腹が空いたんですもの」
「もう少しの辛抱だ」
しばらく川沿いに歩いて行くと、何やら遠くに煙が立ち上るのが見えた。
「あれは……」
「きっと獅子だ」
香ばしい香りが漂って来ると同時に、金属を打つような音も聞こえる。
リュカはフィリアが体を低くしたのを合図に、全速力で駆け出した。
木々の立ち並ぶ一角に、黄金の髪の獣人たちが生活の用意を始めていた。
ひとりがようやく火打石で火を起こすと、それぞれが火種を貰ってそれぞれのテントの前に焚火をした。焚火のそばで、早速肉を焼いているテントが目立つ。
金の髪と金の瞳、浅黒い肌を持ったひときわ体の大きな筋肉質の獅子獣人が、美しい女性たちに囲まれてゆったりと木にもたれくつろいでいた。
リュカは、ふわりと狼から獣人の姿になった。
「……失礼します」
城塞都市のように門がないので、集団にそのまま入り込むしかない。
フィリアは少し不安を覚えながらも、リュカの背にくっついて行った。
獅子獣人は何の感情もなくこちらに顔を向ける。
「何用だ」
「その……これを」
リュカが聖女の通行手形を掲げた。
周囲がしばしどよめき、獅子獣人はふんと鼻を鳴らした。
「……聖女か」
フィリアは頷き、ようやく前に進み出た。
「はい。で、ですね……その、温泉に入ろうかと」
「ああ。それなら、あの川沿いを掘るがいい」
「はい?」
獅子獣人が顎で示した方向に歩くと、確かにその川の周辺では白い煙がもうもうと立ち込めていたのであった。
「シャベルを貸してやる」
いそいそと戻って来たフィリアに、こともなげに獅子獣人は言った。
「あ、ありがとうございます。ところで」
「何だ」
「あなたの、お名前は」
獅子獣人はその金の瞳をぐるりと動かすと、少し微笑みながら答えた。
「シリウスだ」
「シリウス……」
「獅子王とも呼ばれている」
言いながら、シリウスは隣でしなだれかかっている獣人女性の肩を抱いた。彼女はうっとりと獅子王に抱かれた喜びに震えている。
フィリアはそれをぽかんと眺め、リュカは聖女を少し落ち着かない瞳で一瞥する。
「えーっと、寝床を貸してもらえませんか?」
「寝床なら、そこにあるだろう」
再び彼が顎で差し示した場所には、布切れと木の棒が数本転がっていた。
「……へ!?」
「あれを建てればいい。我々は聖女を歓迎する。しかし、生活の諸々の世話はせん」
「はあ……」
「それとこれとは別である。よく覚えておけ。食事もそなたが確保せよ」
「!」
「そこに、我々より便利な狼神官がおるであろう。そいつにやらせればいいのだ」
リュカも前に進み出た。
「獅子王の歓迎を、心より感謝致します」
シリウスはくっくと笑った。
「この前会ったのは三年前だったか。随分と成長したな」
「はい」
「いい男になった」
「ありがとうございます」
「聖女とは、どこまで行った?」
「兎の里までですね」
「違う。どこまでとは、場所ではない。関係性のことだ」
リュカは平然と答える。
「手を繋いだところまでです」
「ほう……やりよるな。小僧の癖に」
フィリアは赤くなって、少しむくれる。あまり感じのいい人物ではないと思った。リュカが事前に言っていた「気持ちのいい奴」とは到底言い難い。
「まあ、適当にやって、適当に帰れ。じゃあな」
シリウスはそう言うと、美女たちをはべらせぐうぐうと眠ってしまった。それを合図に、美女たちは甲斐甲斐しく獅子王の世話を焼き始める。フィリアはその光景を眺め、何とも言い難いふつふつとした苛立ちと軽蔑とを心の中に溜め込んでいた。
フィリア一行は火種とテントの材料とシャベルを受け取ると、先程湯気の上がっていた川べりの方まで、いそいそと下りて行くのであった。




