2.聖女の遺体
フィリアは耳を疑った。
(聖女の……遺体!?)
そう心の中で叫ぶや否やフィリアは背中を殴打され、うつ伏せに押し倒された。何かを叫ぼうともがくが、口へ布を詰められる。
「おい、どこを刺すんだ?」
「首を裂け。首ならあとからひっつけられると聞いた」
「首か……」
頭上で金属のすれる音がする。フィリアは声にならない悲鳴を上げるが動けない。
ざくっ。
ざくざくざくざくざくざくざくざく。
フィリアは気を失いそうになったが、体が軽くなった気がしてはっと顔からローブを外す。
周囲を見渡すと、フィリアの腕は縄から解放されており、自分を殺そうとした兵士らはなぜか地べたに転がっていた。
その代わり、少女の目の前に現れたのは──
二頭の獅子。
その獅子が、兵士らをさも美味そうに骨ごとざくざくと食い散らかしていたのだ。
フィリアは声なく叫び、走り出した。城塞都市の外は野獣だらけだと聞いていたが、本当にその通りであった。
獅子はやせっぽっちのフィリアには目もくれず、大きな兵士の体から血肉を引きずり出している。
フィリアは口から布の塊を放り出し、呼吸を整えて走った。
生まれてから、16年目。
初めて聖女フィリアは大地を全力疾走した。
月が出始めている。
フィリアは大きな木にもたれてしくしくと泣いていた。幽閉の末、出たら突然殺されそうになるとは予想もしていないことだった。
(聖女の遺体……)
どういうことだろうか。
王宮兵士と両親が結託して、フィリアを殺そうとしたのだけは確かだ。
(ダントンには、もう帰れない)
人間界に戻れば、再び命を狙われることは目に見えている。
「……歩こう」
フィリアは、少ない荷物を持って歩き出す。
少なくとも城塞都市から離れた方が、生き延びることが出来るはずだ。
「何か食べ物は拾えないかしら」
果実を探して木々を見上げると、ふんわりと嗅ぎ覚えのある香りが漂って来る。
「……これは……」
フィリアは歩いた。
歩いて歩いて歩いて──
どきどきと胸が高鳴る。
心なしか、足取りが軽くなって行く。
「夕餉の香りだわ!」
誰かがどこかで調理をしている。それだけで、フィリアの心は勇気づけられる気がした。
調理とは、文明の香り。
ダントン以外に人の住める土地はないと聞いたことがある。きっと外には獣人の村があるに違いない。
(何か食べ物を口にしてから、死にたい)
人間の最大の欲求が、フィリアを前へ前へと突き動かしていた。
真っ暗な獣道をしばらく行くと、遠くにぼうっと光が浮かび上がって来る。
がやがや。
何やら大勢の話す声が風に乗ってさざめいて来る。
フィリアはある地点で立ち止まった。
目の前にあったのは、大きなコテージ。多くの馬が乗りつけられ、軽快な音楽が流れている。有り余る食事の香りがし、人間界では見たことのない妖精が、天井から吊り下げられたランタンの中で光り輝いていた。
フィリアはローブをそうっと脱ぎ捨てる。
「……なんて素敵なの」
思わずそう声が漏れ、光に誘われるように歩き出したフィリアだったが──
「おい、嬢ちゃん」
聞き慣れない低い声が飛んで来て、フィリアはびくりと身を震わせる。
顔を上げると、目の前で大きな猪獣人二頭が行く手を阻んでいた。
「おめー、どこの村の獣人だ?」
猪頭に凄まれ、フィリアは途端に青ざめる。
「まさか、人間じゃないよなぁ?」
フィリアはがくがくと足を震わせる。
「人間ならよ、仲間を殺されまくってる恨みがあるからこっちも殺しちまうぞ」
「お、その体は雌か?人間の雌……」
「人間の雌なら高く売れるなぁ。ダントンの結界は獣人には打ち破れねぇから、出入り可能な人間は利用価値が高い」
「おい、こっち来いよ。来ないならどうなるか分かってるよな?」
フィリアはいやいやと首を横に振った。
喉が震えて声が出ない。
そんな時だった。
「そいつは俺の連れだ」
背後から、別の男の声が飛ぶ。
フィリアが振り向けずに固まっていると、声の主がそっと彼女の肩を抱いた。
ちらと隣に目をやる。
半裸の男。
更に、少し斜め上に仰ぎ見る。
そこに立っていたのは、真っ白なふわふわの髪にちょこんと白い耳を出した、若い狼獣人だった。
噂には聞いていたが、狼獣人は、ほぼ人間の男のような外見である。暗闇でも光を帯びる金色の瞳が、優しげに細められこちらに向けられている。彼は腰から下だけ、少しだぶついたズボンを履いていた。
「何だ、リュカじゃねぇか。とすると……こいつは狼獣人の雌か?」
「ああ。よく見てみろよ。人間の雌がこんなに若くて髪真っ白はどう考えてもおかしいだろ」
「そうだな、確かに」
「俺たち待ち合わせてたんだよ。な」
抱き寄せられ、フィリアは顔を真っ赤にする。
猪獣人たちはそれを白けた目で眺め、舌打ちしながら去って行った。
フィリアは先程の名前を反芻する。
(……狼獣人の、リュカ)
フィリアはリュカに肩を抱かれたまま、巨大なコテージ式レストランに足を踏み入れた。