16.目を見られません
部屋に戻ると、ようやくリュカの手が離れた。
それから、フィリアは急に胸が苦しくなり、顔を上げることが出来なくなってしまった。
自室に一直線に戻るや否や、焦る手でがちゃんと内側から鍵をかける。
うつむいたままカチューシャを外し、浴衣を脱ぎ捨てていそいそと畳む。
祭りの後の気分は、こういうものなのだろうか。
楽しいはずなのに、ひどく寂しかった。
フィリアはいつもの服に着替え、ベッドに倒れ込む。
ガチャっ、とドアノブの引っかかる音がした。
聖女は怯えたように布団を被った。そして、そうっと布団の隙間からドアを注視する。
「フィリア……夕飯、どうする?」
いつものリュカの声なのに、フィリアはそれを聞いただけでひどく動揺した。
「……フィリア?」
その声で呼びかけられるだけで、どきどきする。
「ごめん、リュカ。しばらくひとりにして」
そうドアに声を投げ、彼女は布団に潜ってしまった。
ドアの向こうには、少し緊張した気配が漂う。
「……分かった」
去って行く足音を聞き、フィリアはようやくひとつ、息を吐いた。
この気持ちは、何だろう。
暖かいのに、鋭く尖っている。嬉しいのに怖い。胸をえぐられるように苦しいが、高揚している。
(分からない……)
ただ、今はリュカに会いたくなかった。会ったら、恥ずかしさのあまり、何かとんでもないことをしでかしそうな気がする。
フィリアは自分の手を見つめた。
誰かに手を握られたのは、初めてのことだった。
とても暖かかった。温泉よりも。
(この気持ち……何て言い表せばいいのだろう)
聖女は目を閉じると、そのまま溶けて行くように寝落ちしてしまった。
(リュカが好きなのに……目を見るのが恥ずかしいし……なぜだかとても怖い)
朝になった。
一方のリュカは──
朝日に照らされ、自分のふがいない手のひらを眺める。
その手を握りしめると、ゆっくりと額に乗せた。
「……やっちまった」
感情に任せて、フィリアと手を繋いでしまった。
いくら何でもこんな短期間で、身体接触は避けるべきだった。
リュカは再び布団を目深に被る。
空っぽの聖女は何もかも未経験に等しい。それを、あんな風に勝手に引っ張って行っては駄目だったのだ。
(俺のこと好きだって言うから、自惚れてた。まだ表現がつたない聖女の言葉を、自分の都合のいいように捻じ曲げて解釈したら、ダメなんだよ)
もう、いつ逃げられてもおかしくない。
(獣人界はおしまいだ。俺は従者として失格だった……)
と。
コンコン。
扉の向こうから、待ち望んでいた声がする。
「リュカ……」
リュカは多分、人生で一番素早く布団から抜け出した。
すぐさまドアを開ける。
そこにはうつむいたままのフィリアがぼうっと立っていた。
「フィリア……」
「あ、あの、リュカ」
「ごめん、フィリア。俺、勢いに任せてあんなことをして」
フィリアはうつむいたまま、愕然と口を開ける。
「もう二度とあんなことはしない。約束する」
「……!」
「だから、許してほしい。いや、許さなくていいから、その……俺のことを嫌いになっても、獣人たちのことは嫌いにならないでほしい」
フィリアはうつむいたまま、首をぶんぶんと横に振り立てる。
「ち、違うの。聞いてリュカ」
「あ、うん……」
「私、リュカが怖い」
「!」
「でも好き」
「!?」
聖女の言葉は、いちいち端的で心臓に悪い。
リュカは胸を撫で、自分の飛び回る心を落ち着かせた。
「だから、あの……私、リュカの顔、しばらく見られない」
フィリアは一生懸命言葉を絞り出すと、自らの手で真っ赤になった顔を覆う。
その仕草を呆然と眺め、リュカは頷いた。
「見なくても、大丈夫だから」
「うん。ごめんね、リュカ」
「フィリアは何も悪くない。俺があんなことをしなければ……」
「ううん、違う。私は物凄く驚いただけなの。それで、頭が整理つかなくなってるだけ」
「驚かせてしまったのは、こちらに非がある」
「やめてリュカ、自分を責めるのだけは。私、リュカを責めてはいないよ。手を繋いだのだって、私の意志だし、それに……」
聖女は意を決したようにひとつ、深呼吸した。
「リュカの手が嬉しかったのは、確かだから」
それを聞くと、リュカは真っ赤になった。しかし、ようやく肩から力が抜ける。
(よかった。嫌われてなかったんだ……)
目の前には思いを全て吐露し、真っ赤になってうつむく聖女。
(かわいい……)
そう思ったことがあの衝動に繋がってしまったのは、失敗だった。
やはり驚かせるようなことだけは避けて行かなければならない、と今回の件を受けて狼神官は強く思う。
獣人神官の役目は聖女を驚かすことではなく、癒すことなのだから。
フィリアは体を更に小さくして、怯えるように立っている。
「昨日の夜は、お互い何も食べてないよな」
「うん……」
「俺、昨日は何も食べる気にならなかった」
「……私も」
「お互い、同じ気持ちだったのかな」
「そうなの?リュカも?」
「ああ。フィリアが怖い、でも好き」
それでようやく、聖女はそうっと顔を上げてニコリと笑った。
「そっか。私たち、お互いが好きで、怖いんだね」
狼は聖女を抱き締めたいと思ったが、持ち前の自制心を駆使し、その衝動を体の奥底に封印するのだった。
「……フィリア、そろそろヤムナを出よう。次の行き先は、俺の中ではもう決まっているんだが……」
彼の提案に、聖女はこくこくと頷いた。
「リュカが選んだ場所なら、私、どこへでも行くわ。早速、身支度をしなくちゃね」




