長篠・設楽ヶ原の戦い1
♠️天正3年5月初旬 柳田山(式神視点)
俺は堀太郎左衞門に伊賀兵3000人を率いさせて、八束穂にある台地・柳田山(現在の信玄台地)に向かわせた。
そして、徳川家康殿の配下である酒井忠次(通称・小五郎)に4000人の兵を率いさせて松山峠と呼ばれる険しい峠を密かに越えさせて、長篠城を囲む武田軍を背後から急襲させるべく進軍させた。いわゆる、キツツキ戦法である。
♠️
「申し上げます。武田軍15000がこちらに向かって進軍中。かなりの速度でこちらを急襲しようとしております」
忍びが堀太郎左衞門の前に現れて報告した。
「ふむ。我らは攻め急ぐ武田軍を、ゆるりと2刻(4時間)ほどおもてなししないといけないのじゃが…準備はできておるかの?藤兵衛?」
「は。準備万端でございます。生まれ落ちたときから鍛えた我らの技。しかとご覧にいれましょう。くくく」
藤兵衛と呼ばれたのは伊賀の豪族、百田藤兵衛である。簡単に言えば、伊賀忍者の上忍。
「本隊の陣地を構築するのに刻を稼ぐのが我らの役目でしたな。しかしながら…恐ろしく強いと噂の武田軍の猛攻。3千の兵で2刻も稼げましょうか?その上、兵もなるべく消耗させず、矢尽き槍折れた態で派手に逃げろとは…」
最近、稲葉一鉄殿から借り受けた武将・和泉こと那波直治が言った。
「ふむ。我らの殿が申されるには…山中に身を潜め、罠を巡らせて相手を翻弄するのも、敵を恐れて逃げる演技も伊賀者の得意技。伊賀者に任せておけば問題ないとのことじゃ。この役目を見事にこなしたら、褒賞もはずむ…と。全く。山中に罠を巡らせたり、逃げ回る演技をさせたり、武士らしくない戦ばかりさせる殿じゃ。金ヶ崎のような戦は、もうこりごりじゃと仰られていたのに…」
「まぁまぁ。褒賞さえはずんでくださるなら、我らはなんでもやりますぜ?くくく」
藤兵衛は不敵に笑った。
伊賀忍軍は、史実では織田信雄の8000の軍を何度も退けたゲリラ戦の名手である。俺はそれを見込んで、この柳田山で武田を迎撃させて織田・徳川連合軍の本陣を強固な野戦陣地とするための時間稼ぎを頼んだのだった。
♠️武田勝頼視点
「むう…3千ほどの兵に何を手こずっておるのじゃ。もたもたしておっては織田・徳川の本隊が続々とここに集まってくるぞ。そのような報せはないのか?」
戦闘開始から1刻(2時間)が経過した。
武田方の兵達はまだ柳田山に釘付けにされている。
「は。織田・徳川連合軍の後続の部隊は、まだ影も形も見えぬそうでございますな。しかし…なんと厄介な者達じゃ。山中に罠を張り巡らして、木の上から弓や手裏剣で攻撃してきたり、物陰や土の中からいきなりでてきて奇襲をかけたのち、散り散りに逃げ回ったり。追いかけるとまた、こちらが罠にかかる。まともに相手をしていてはわれらは、一向に前に進めませぬ」
三ツ者を率いている甘利信恒が呆れたように言った。
「それはおかしいな。ここで我らを足止めしているのに後の者達がここにこぬとは…奴らめ、どういうつもりだ?…まぁ、まずはこの場をなんとかしないとな。……伊賀の忍び達か。ふーむ…忍びのことは忍びが一番よく知っていよう。三ツ者達に指揮させてみるか…」
武田勝頼はそう甘利に提案する。
「それは妙案。山に火を放つのもよいかと考えていたところですが…。この濃霧の中では火攻めもうまくいきそうにありませんからな」
…
……
………
1刻後。
三ツ者達の指揮のおかげで伊賀忍軍のゲリラ戦にもなんとか対応でき、伊賀衆は矢つき槍も折れた態で逃げていった。
「ふー。大分手こずったの。負傷した兵たちも多いであろう。なんとか奴らを退けることができたが…どうも逃げ方が怪しいの…深追いするのは危険かもしれぬ。一旦、兵を集めて手当てをさせつつ軍議を開くか。この柳田山に本陣を構え、物見の兵をだして周囲を警戒させるとともに重臣達を集めよ。これからどう動くか改めて相談する」
ち。逃げる演技で深追いさせて殲滅するという釣り野伏せ戦術には引っ掛からなかったか。しかし…
「は」
そばに控えていた侍従がそう答えた時、
ドタドタドタ
伝令が武田の本陣に駆け込んでくるのだった。
「申し上げますっ。長篠城を囲んでいた兵達が慌ててこの陣に駆け込んできましたっ。徳川の兵に後ろから急襲されて驚いて逃げてきたとか」
「なんじゃとっつつつ!ぐ。あやつらっ、我らがこちらに気を取られているうちに後ろに周りこんでおったのかっ。何が奇策を用いぬじゃ!これは…川中島の戦いで我らが使ったキツツキ戦法ではないか!!」
ドタドタドタ
また別の伝令が駆け込んでくる。
「織田・徳川連合軍が練吾川沿いに柵や空堀を築いております。特に織田信長と徳川家康が立てこもっている断上山は、城塞のような装いです」
「……後ろから別働隊。前には堅固な城塞の如き野戦陣地。我らはキツツキに追われて食われる青虫か?…否っ!とりあえず早く重臣どもを集めよっ!!!」
「は」
♠️柳田山・武田本陣(式神視点)
「すまぬ。敵は奇策を用いぬと申しながら、我らが川中島でやったキツツキ戦法を使ってきおった。長篠城を囲んていた我らの兵を後ろから急襲しおったのじゃ」
武田勝頼は、先の軍議で強引に決定を下したことと、俺たちの策略にまんまと乗せられたことを素直に詫びた。
「「「なんと」」」
「後ろの長篠城の兵達と前の城塞のような野戦陣地。どちらかとは必ず戦わなくてはなりますまい。そして、一方に我らが襲いかかればもう一方が必ず後ろをついて参りましょう。問題は、どちらを攻めて突破口を開くか…ですな」
甘利信恒がいう。
「ことここに至っては、織田・徳川の本陣を攻めて織田信長と徳川家康の首をあげるしかありますまい。敵がキツツキ戦法ならば、我らは本陣を我らの別働隊より先に猛攻した上杉謙信の戦い方をするまで。ちょうどあの時のような深い霧も出ておりますからな。おあつらいむきでしょう。目指すは織田信長と徳川家康の首二つのみ」
山県昌景がそういった。
「「ふむ」」
その意見に馬場信春、内藤昌豊も賛成する。
「うーむ…」
その意見に難色を示したのは、武田勝頼の叔父である穴山信君である。
「穴山殿は、本陣にて四郎殿を守っていて下され。穴山殿ならば、万が一のことがあっても、四郎殿を引きずってでも甲斐に連れて帰って下さるでしょう!」
こういったのは長坂長閑。
「「「くくく」」」
「儂は、叔父上に引きずって連れて帰られるのか…」
武田勝頼が呆れたようにため息をついた。
「うむ。いざというときは、一門衆である儂が責任を持って四郎殿を連れて帰る。皆、心安く戦われるが良い」
「「「承知」」」
この評定の後、武田方の馬場信春・内藤昌豊・土屋昌次らは、大通寺という寺に集まって別れの水杯を交わしたという。
皆、敵地で挟みうちにあうという危機的な状況に全滅する覚悟をしていたのだろう。
(敵地で挟みうちにあって全滅の覚悟をして戦う前に、さっさと逃げる決断はできないのか?とも思うが…)
まぁ金ヶ崎の戦いに酷似したこの状況で即座に逃げる決断ができるのは、信長様くらいのものだろう。
死を覚悟した東国最強の武田軍団。これほど恐ろしい敵はない。迎えうつ俺たちも、決死の覚悟が必要だ。
信長様と家康殿をおとりに使うとはいえ、信長様と家康殿を討たれるわけには絶対にいかないし。
この戦いが、織田・徳川・武田の命運を左右するものであることは疑いようがない。
決戦場である設楽ヶ原には死戦の気配が膨れ上がっていくのだった。
こうして、史上屈指の銃撃戦。長篠・設楽ヶ原の戦いの火蓋が切られた。