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ルイス・フロイス天道記〜Historia de Japon  作者: アサシン
浅井氏の興亡
35/77

四面近江船歌

♠️天正元年(1573年9月)小谷城・式神視点


「また兵が脱走しましたぞ」


 雨森弥平次清貞が言った。


 浅井の重臣達や一門衆達は、3年前の姉川の合戦から今日に至るまでに討死したり、寝返ったりで、小谷城に残ってきるのは浅井久政・長政親子と長政の妻子、浅井三将と呼ばれる三人の武将のみである。


「ちっ…またか……兵はいかほど残っておる?」


 にがりきった顔で舌打ちしたのは浅井久政。



「は。400ほどかと」



「……な…よ…400じゃ…とっつつつ?その数では、支城はおろか本丸すらまともに守れぬではないか…」



「はぁ。全軍を本丸にあつめ防御をかためさせています。支城はもぬけの空にございますね。旗指物は指しており…空城計とみせかけておりますが……」


 山全体に支城が連なる難攻不落の小谷城もこうなると形なしであろう。本来ならば力攻めなどとても無理で、周囲の田畑を燃やして城から将兵をいぶりだして殲滅するか、何ヶ月も城を取り囲んで中の将兵の心身を衰弱させた後に寝返らせ、城の中から手引きさせて落とすしかないのだが…


 朝倉と浅井の家中に朝輝教が広まったことで状況は一変した。越前では大規模な朝輝一揆がおこり朝倉氏の本拠をおびやかし、2万の兵を連れて小谷に援軍にきていた朝倉義景は焦って越前に引き返す途上で織田軍の追撃を受けて壊滅した。朝倉義景は一門衆にも裏切られて切腹。


 ここ小谷でも朝輝教教主・堯俊の命により、小谷山に建てこもっていた浅井の将兵がほとんど寝返ったのであった。


「新九郎よ。どうするつもりじゃ?」


 久政は息子であり浅井の当主である長政に問う。


「どうすると言われましても……。400人では城は守りきれますまい。となれば…敵本陣につっこみますか?」


 ことここにいたっても新九郎こと浅井長政は昼行灯の如くのほほんとしている。


 のほほんとしてはいるものの、おそらく本気だろう。




「敵の本陣につっこむか…そなたの得意技じゃったな……40000の敵に400でつっこむ。見事、信長の首を取れたら褒めてやろう…」


 野良田の戦い以降の浅井長政の得意戦術だが…姉川の戦いにおいては3倍以上の敵を相手にして、善戦はしたものの数の論理に勝てなかった。

 今回にいたっての兵力差は、100倍。これで信長様の首が取れたら褒めるどころの話ではない。驚天動地の大奇跡であろう。


 この兵力差は、ここ3年の浅井領の領民たちや家臣たちへ朝輝教を布教した成果だ。




「では、父上のお褒めにあずかりに参りましょうか」


 本気か冗談か定かではない様子で長政が立ち上がりかけた、その時…


「「ここは〜どこよ〜と〜」」


 戦場に歌声が響いた。


 浅井長政から寝返った一万人に近い兵士たちの合唱。琵琶湖につたわる舟唄である。中国の故事――四面楚歌になぞらえた俺の策。さしずめ四面近江舟唄といったところか。元の策を考えたのは劉邦の軍師・張良であったか?


 二条城完成の宴会のおり、長政殿が〝史記〟の一節を引用していたことから、〝史記〟にならった作戦を用いてみた。普通に説得しても無駄だろうと思ったのだ。史実では手紙などで降伏をよびかけても、長政殿は最期まで抵抗し、切腹したのだから。


 さて、この状況なら長政殿はどう行動するだろう?最期の突撃をしようにも肝心の他の将兵の士気があがるまい。


 普通に説得しても抵抗感が邪魔をして降伏できないならば、その抵抗感を下げてやればいいのだ。


 降伏しろと真正面から指示されると相手の抵抗感は逆に増すだろう。だが、自分から負けを認める形にすれば抵抗感は少ない。相手の自主性を重んじる、エンパワーメント的な手法というか。


 

「「「船頭さんに問えば〜」」」


 静寂な小谷山に響きわたる一万人からなる地元の舟唄。その歌は、他の兵達――織田の兵や徳川の兵達にも伝わっていき、4万人の大合唱となっていく。


 包囲兵達は楽しそうに合唱しているが……それが、立て篭る400人の将兵にもたらすのは…


「「「ひっ」」」


 恐怖。


 もちろん、ただの歌でこうなる保証はない。


 俺の陰陽術の影響が多大に関与している。


 名付けて陰陽術〝郷愁哀歌(カントリー・ロード)


 歌を聴いた小谷城内の兵に【恐慌】のデバフ(状態異常)を撒いたのである。




 長政の父たる久政だけでなく、長政の側に最後までつき従っている忠実で剛勇無比な三人の武将――雨森(弥平次)清貞・海北(善右衛門)綱親・赤尾(孫三郎)清綱らも顔を引きつらせて硬直している。


「むう……なんじゃ?これは」


 最期の突撃をしようと立ちあがろうとしていた浅井長政もまた、動きを止めた。


「……」


「…こっこれは…もしや四面楚歌ではありますまいか?」


 雨森弥平次がぽつりと呟く



「ほう…四面楚歌…か。剛勇無比な家臣達をこれほど怯えさせるとは…。将兵達がこの調子では、突撃などとても叶わぬ。織田勢は我らに最期の死に花も咲かせぬつもりか?」


 浅井長政は呆れたように呟き…


 (しかしながら…)と首をかしげる。


「性急な義兄上の策ともおもえぬな。この兵力差……力攻めで一揉みにできるであろうに。誰の策?何が目的か…??

…。まぁよい。誰の策であったとしても、その意味は〝お前達の国のものはみんな寝返ったぞ!抵抗しても無駄じゃ。〟そして〝虞や虞や汝をいかにせん?〟であろう」


 …


 ……


 …………



 しばしの沈黙は秦末期の英雄・項羽が遺した辞世の句でもそらんじているのだろうか?



〝力、山を抜き

 気、世を蓋ふ

 時、利あらずして

 騅ゆかず

 騅ゆかざるをいかにせん

 虞や虞や汝をいかにせん〟 


〝俺の力は山をもくだき、俺の気力は世をおおいつくすほどなのに、時が俺の味方をしてくれなかった。(この必死の状況で)愛馬である騅だけでも逃してやろうとしても、騅は逃げない。俺と運命を共にしようとでもしているのか?恋人である虞もどうするべきか?〟




 しばらく逡巡した後、浅井長政は口をひらく。


「ふむ…儂は項羽ではないな。……(いち)と子ども達をつれてきよ。そして……降伏の使者をだせ。無抵抗に降伏し開城するので、将兵や侍女・妻子らにはどうか寛大なご処置を…と」


 城外では、相変わらず陽気な舟唄の大合唱が峻険な小谷の山々に響き渡っているのだった。


四面楚歌は『史記』に記された項羽と劉邦の戦いにまつわる故事ですね。戦国武将が『史記』を読んでいたのか?と突っ込まれそうですが…。織田信長が佐久間信盛にあてた折檻状で史記に書かれている故事を引用し、〝会稽の恥をそそげ〟と書いています。これは、書状を書いた織田信長が読み手である佐久間信盛にもその意味がわかるとふんで書いているはずです。だって、史記を読んでいなかったら会稽の恥をそそげって言われても、(会稽って何?)ってなりますよね?それくらい、史記は当時の武将にとって読んでいて当然の一般的な書物だったのではないでしょうか?

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