続・羅生門
下人の行方は、誰も知らない―――――
羅生門を飛び出し、消えていった下人の微かな気配が黒洞々たる闇の中へとぷんと沈むと、老婆は濃密な闇と死の気配が支配する空間に取り残されていた。
前後もわからぬような闇は存外眩しく、瞳の奥がじんとしびれるような痛みを感じて老婆は目を閉じた。
下人を変えてしまったのは自分だったのだろうか。
羅生門の楼閣の上で死骸の頭から髪を剥ぎ取っていた自分を見定めた下人は、まず激しい憎悪と侮蔑の感情をぶつけてきたはずだ。
「餓死をするじゃて、仕方のないことじゃろ」
自分が放ったこの言葉に、下人は数刻考え込み、顔を上げた時にはあきらかに違う人間に―――もちろん同じ人間なのだが、その本性が全く変わってしまっていた。
「ならば、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ。」
そう言い放ち、老婆の着物を剥ぎ取った下人は、羅生門にたどり着いたときの諦念は消え失せ、生への執着に溢れたギラギラとした光を目に宿し、闇の中へ消えていった。
人が「生き様」より「ただ生きること」に執着し、一線を越える瞬間を目にした老婆は、静かに目を開き、夥しい死骸の中に横たわったまま、ぽつりぽつりと頭に浮かぶ思いに意識を向けた。
私にとって最も大切なことは「生きること」だった。
薄暗く、町外れにある御世辞にも綺麗とは言えない家、私が生を受けた場所。
そこで私は檜皮色の着物を着た、背は低く、しかしどこか優しさを感じさせる表情を持つ母と暮らしていた。父はいなかった。
私が小さいころ、たまに知らない男が通ってくるときだけ母は頬に紅をさし、その時だけ家の中が華やかな空気に包まれていたが、私は別室に閉じ込められていた。
男が帰ると外に出してもらえたが、家の中はまた寂静とした空気に支配されていた。
それも、私が大きくなるにつれ男の通いは遠くなり、家の中は暗く、母は惨として暗くなった表情を隠すこともなくなった。
私が十になろうかという頃、今でも鮮明に浮かぶあの情景。
雨の日。
いつもより長い梅雨で気が滅入りそうなどんよりとした暗い雲から放たれる矢のような雨。
そんな矢に打たれながら、髭面によれた烏帽子をかぶった熊のような男が母を連れて行ってしまった。
母は連れ去られる刹那、私に「生きろ」と言った。
「生きろ。」
母の形見の檜皮色の着物とこの言葉だけを糧に、ただただ懸命に生きてきた。
しかし、十の娘が一人で生きていくのは、想像を絶する困難があった。
人殺し以外はなんでもやった。下人に体を差し出すことでさえ、生きるためには躊躇がなかった。
平安の時代、女たちは現代のように商品として「春」を売るのではなく、生きるため、庇護を受けるために自身の生を丸ごと差し出していたのだ。
歌を詠んだり舞を舞うなど、芸があれば身を立てることもできたろう。
でも、私には何もなかった。母は私に何も教えてはくれなかった。そして私も、それを得ようとはしなかった。
今日に至るまでの長い、長い時間、「生きる」こと以外に目的など何もなかった。
はたと。気づいてしまった。
あの下人を変えてしまったのはやはり私だったのだ。
「生きる」こと以外に何の目的も持たずにきた私が行きついた場所がこの羅生門で、死人の頭の皮を剥いで売り捌くというおよそ人の道を外れた所業に手を染めていた。
あの下人は、私の姿と数刻のやりとりだけで、生きるためなら何をやっても良いという悟り(あるいは啓示)を得てしまったのだ。
それは、人の尊厳を著しく損なう悟り(あるいは啓示)であった。
その一線を越えてしまった人は、人の形をした人でないものと化してしまったのだろう。
私と接することで一線を越えてしまった下人。
では、私は・・・何であるのか。
とうに人ではなかったのか。
母の言葉を胸に、ただただ生きてきただけなのに、すでに私は鬼畜生と化していたのだ。
突然、涙が溢れた。
涙など、記憶に残っていないほど流していなかったが、止めどなく溢れる涙をどうすることもできず、私は目を閉じた。
長い時間が過ぎ、目を開けた時にはもう涙は止まっていた。
いつの間にか朝になっていたようだ。羅生門の屋根の隙間から一筋の光が暗闇を切り裂き、私の一寸先を照らしていた。
その光はとても神々しかった。何十年かぶりに流した涙のせいで、私は人に戻ることができたように感じた。
その光に触れたい。光の中で赦されたい。そう感じた。
しかし、私の中の私が言う。
赦されてどうするのか。
死人を引剥ぐことをしなければ生きていくこともままならないのに、今さら何だと。
周りに転がる引剥がれた死体が言う。
お前は人でない道を自ら選んだんだ。逃げるな。自分だけ赦されようとするな。
濃密な死の気配に支配された羅生門の楼閣で、老婆は生への渇望と諦念との狭間で動けなくなっていた。
生きるために無自覚に犯してきた罪を悔い、償いたいと思ったとて、今更尼にでもなるのか。
下人に母の形見の檜皮色の着物を引剥がれ、裸のまま死骸の中に転がる老婆は、しばらくの間、ぴくりとも動かなかった。一見するとそのまま死人と見紛うばかりに。
不意に、静寂を微かに破る音が聞こえた。それは老婆の腹から発せられる生への執着そのものであった。
むくり、と無言で起き上がった老婆は虚空にある光の筋道を見つめた後、よろよろと立ち上がり、昨晩髪を抜いていた女の死骸に近づき、布きれ同然の着物を引剥いだ。
老婆は着物を小脇に抱え、楼閣のはしごをゆっくり降りて行った。
老婆の行方は誰も知らない。