渾名(あだな)の由来
俺の名前は村田建三郎。近所の者は空手建三郎と呼んでおった。この異名は特定の誰かがつけたというわけではなく、いつの間にかそう呼ばれることになったらしい。福岡県に本部道場を持つ京町流空手に心酔し、一時期明けても暮れてもそれにいそしんだからだ。この流派は町方、つまり与力・同心が使う十手と沖縄に伝わる釵を両手にそれぞれ使いながら、同時に空手の手技・足技をからめるというもので、高段者が演じるその型、つまり剣舞たるや、格闘技のそれと云うよりは洗練された、文字通りなにかの舞いを見るようである。わけあって始めてその流派の川崎支部をたずねた時、ちょうど一人の高弟がその型を演じていた。俺など視野に入らぬかのように優雅に舞うその姿に俺はいっぺんで魅了され、その場で弟子入りを申し込んだものだった。つまり道場生となったわけだ。もっとも釵や十手などを持たされるのははるか先のことで、入門当初からしばらくはもっぱら徒手、文字通りの空の手、すなわち空手の正拳突きや上下段・左右の受けを教わるばかりだった。しかし「強くなりたい」の一心で団地だった我が家の近くにあったガレ場の谷間に棒を立てては正拳突きを繰り返し、果てはまだ教わってもいない廻し蹴りや横蹴りにひたすら勤しんでいた。それゆえの異名であったわけだが、もっともそう呼ばれる以前はまったく逆の、「末成り(うらなり)」とか「ガリ勉村田」とかいう180度ちがう異名をつけられていた。一人の人間で二つも三つも異名をつけられることがあるが、しかしその場合でもそれらは概ね似たり寄ったりのもので、まず俺のような場合は非常にめずらしいのではないか。どうしてそんなことになったのかというと、実はそれを述べ行くことで、この小説のプロローグとしたいのである。では以下に記し行こう。
異名が変わるころ、すなわち俺が十六才のころに俺は急にグレ出した。とは云っても街のチンピラのように髪に剃りを入れたり茶髪にしたりといった類のことではない。いやしくも「ガリ勉村田」と呼ばれた手前グレるにしてもずいぶんと‘学及的’にグレたものである。一応川崎市内の進学校に在籍していた俺はそれまでは以前の異名通りであったのだが、その頃に連続して起こったある二つの出来事を境にしてその異名を変えることとなる。ではいったいなにが起こったのか、逐一記さねばならないがしかしその前に、どうして俺がかくもガリ勉にいそしんだのか、まずそれから云わねばならないだろう。