それは、雲の上で生き抜く者達と知恵の数々。
無言で前を歩くディダールを盗み見ながら、リッカは熱を発するように温かく、握り続けられている手に意識を向ける。
「ディダール?」
「……なんだよ?」
「手、痛いんだけど」
「…………悪い」
バツの悪そうな顔で手を離すディダール。先ほどまでエンジに向けていた無表情とは違う、年相応の感情が見え隠れする顔に、リッカは思わず笑ってしまった。
「ほんっと子供ねディダールは。もう」
「笑う事ないだろーーったく」
そう言いながらもディダールの顔にようやっと笑みが乗る。
「そうそう。あんたは馬鹿みたいに笑ってるほうがマシよ」
にんまり笑って手を口に当てるリッカに、ディダールは「へいへい」とおざなりに返事をして前を歩いていく。
そうこうしている内に家路は終わりを告げ、ディダールやエンジの仮住まいである解体小屋よりふた回りほどは大きい、リッカの家たる丸太小屋が見えてきた。
近づいてみれば何と驚く事に、家の周りには僅かに地上の苔が生い茂っているではないか。
先ほどの解体小屋や街中の建物、橋のかかっていた森であっても見れなかった緑の色彩が、ここでは主張しているのだ。
薄緑色の絨毯の中心、苔生した石台の上には天を衝くほどに大きく立派な雲鹿の角が鎮座している。
今朝狩ったものの有に五倍はある威容でもって、水晶を思わせる光の乱舞を身の内に讃えている。
しかしてリッカやディダールからしたら日常の風景でしかないのか、威容を見ても二人の目は眩しさで眇められただけであった。
苔を少しばかり摘んで家の中へと入ると、リッカは鎧戸を開け陽の光を呼び込み、ミン爺さんの家で交換してきた浄水雲を水瓶の中に落とす。
僅かに残っていた水に反応してぶくぶくと泡を出す水瓶の中に、今度はディダールが川で汲んできていた薄雲を目一杯に詰め込んだ。
と、薄雲はみるみるその身を減んじ、個体のような気体のようなものから液体へと変わっていった。
「雲魚は入れないようにね。生臭くなっちゃうから」
「へーい。あ、リッカ。これ火にかけといてもらえるか?」
リッカは雲上貫頭衣を無造作に脱いでそこら辺に放り、ディダールはしっかり畳んで雲木製の衣装箪笥の上に置く。手渡された水入りの鍋をくぼみのある調理台の上に置くと、雲狼の骨、雲木の木切れ、雲羊の綿毛の順にくぼみに重ねリッカは片手をかざす。
掌が仄かに光を放つ。と、僅かにオレンジがかった火が綿毛に付き、木片や骨へと引火していく。
その上に鍋を移すと程なくして沸騰を始めたので、鍋は少し横にずらす。
「しっかし、ほんと雲廻光って便利だよな~。解体で残った獲物の内臓や血も焼き尽くすし、こうやって竈の火にだって使える。それなのに人体は傷つけられないんだからよ」
「ん~。私達には普通に出来る事だから、便利だなんて思った事ないけどね。使ったらその分疲れるし、なんか昔はこれのせいで争いがあったとか」
「ここの人達は争いとか無縁そうだけどな。やっぱり人の歴史は争いの歴史なんだな。うんうん」
「はいはい。そういうのいいから雲魚は切れたの?」
リッカが手を差し出すと、皿に入れられた雲魚のぶつ切りが渡される。
先ほど採った苔と切っておいた野草、乾燥させた木の実を鍋に投入し雲魚も入れて落とし蓋をする。
次いで壁に埋め込まれた竈から、雲木の燃えカスを火かき棒で掻き出し(燃えカスは灰色がかっていた)、新しく雲木を入れて掌をかざして火を付ける。
横の戸棚から焼いていた雲麦のパンを出すと竈の中に入れて、温まったら雲羊製チーズを乗せて皿に盛った。
小ぶりの水瓶に水を汲んで、皿に雲魚の煮つけを盛ってテーブルに置いて、「よし」とリッカは一息ついた。
「はい、完成っと。雲鹿の肉は臭みを抜かないと駄目だから今日は食べられないけど、雲狼の干し肉ならあるからね」
「別にいらねえよ。リッカの飯は本当に美味しいからな」
「っ……し、しかたない! とっておきの雲桃も今日は付けてあげるわ!」
「まじか! やった!」
にやけそうになる顔を太ももをつねって堪えるリッカ。そうとは知らずディダールは足取り軽く戸棚に近づくと、真っ白な雲桃を二個持ってくる。椅子に座り、二人して食前の祈りを捧げる。
「「太陽神サンサーラ、月神ルナイト。我らに明日を生き抜く恵みをお与えくださり感謝します。明日も良き日となりますよう、感謝と共にいただきます」」
それは工業国家【ドグマ・ナグナ】に住む者なら、いや、大地に住まう殆どの人間が信仰しているサンサーラ教の祈りであった。雲の上にいるリッカや、その他の雲海之街住人には馴染みのない教えであるが、これをしなければディダールが食事を始めないので、リッカもいつの間にかやるようになったといった具合である。
リッカが閉じていた目を開くと、ディダールはさっさと食事を始めていた。パンに齧り付き、垂れるチーズと必死に格闘しながら、片手に握ったスプーンで雲魚のスープを掬う。
「美味い! まじで美味すぎる!」
「落ち着いて食べなさいよね。まったくもう」
苦笑してリッカもパンに噛みつけば、うん。濃厚なチーズの旨味が仄かに甘いパンによく合っている。スープもダシがよく出ているし、苔の緑が良いアクセントとなって見ていて刺激になってくれる。
だが食べられない苔もあるので間違えないようにしなければならない。前に食べてしまって悶絶した苦い思い出があった。
「主とリッカよ、大変美味しゅうございました。ごちそうさま! 薪割りしてくるぜ」
リッカが二口目のスープを食べようとした時、神様とリッカに感謝を送るディダールの声が響き、言うや否や彼は扉から出て行ってしまう。呆気にとられたリッカだが、とりあえずは食事を再開するのであった。
▲▲▲▲▲
「はっ!」
巨大な雲鹿の横にある丸太を使って薪割りをするディダール。街の中やこの雲鹿の角の付近では気温が安定しており、雲上貫頭衣を必要としない。
また薪割りをすると汗をかいてしまうので、ディダールは上半身裸でいるのだが、
「ちょっと! 裸で薪割りしないでって言ってるでしょ!」
「わぷ!」
年頃で、なおかつ幼い頃から一人でいたリッカからしたら男性の裸体など免疫があるはずもなく。
真っ赤な顔でタオルを投げてしまうのは仕方のない事であったりする。
「仕方ねえだろ~。替えの服もそんなに無いんだし、野戦服はもう着たくないしな」
「だから子供なのよもう! わっ、ちょっとこっち来ないでよね!」
「何気に傷つくんだけどそれ」
二人の間に、気心の知れた者同士の弛緩した空気が漂っている。
この空気を、リッカは心の底から嬉しく感じていた。
何物にも代えがたいものであると、何者にも侵し得ないものであると。
心地の良いディダールとの関係を、気を抜いたら泣いてしまうくらいに、リッカは大事に思っていた。
「――お取込み中、失礼」
その声はまるで。
透明な湧き水を凍り付かせる、マブウェルの息吹のようにあたりの空気を委縮させる。
「リッカ。ディダール。街長が呼んでいるので迎えに上がった。大雲海本部への同行を願う」
「アニーヴ叔父さん……」
リッカが名前を呼ぶと、彼は雲上貫頭衣とゴーグル越しに、紺碧色の瞳を細めて笑う。
だが、リッカは知っている。
彼が心の底では笑っていない事を。
そればかりか、ほの暗い感情を持っている事を。
アニーヴ……大雲海・渦雷隊副隊長。リッカの叔父であり、両親が死んだ後の親代わり。
そして。
ディダールとエンジを助けるにあたり、最も強硬に反対した『地上排斥派』のリーダーであった。
▲▲▲▲▲
雲海之街の周りには広大な雲海平野が広がる。
雲上小型車に乗り、時には歩いて雲海平野を進んで雲面のしっかりしている箇所を探し、また新たな動植物の発見等を任務をし、街を守るために様々な特権を有しているのが大雲海という組織である。
大雲海は、更に複数の隊に分かれていた。
流れる雲のように雲海平野を開拓・調査していく流雲隊。
街や周辺の治安維持・警邏を行う積雲隊。
秘密裏に行われている地上の商人との交渉・雲海之街の危機に際して暴力的手段の行使が認められている渦雷隊の三つである。
アニーヴの後ろを歩く雲上貫頭衣を着込んだ二人は、先ほどから一言も話さないでいた。以前はディダールも持ち前の胆力で話しかけていたのだが、肩に触れた瞬間腕をねじられ雲面に組み敷かれてからは、無駄に話しかけないと心に決めていた。
そしてリッカもまた、話しかけづらく思っている者の一人である。
両親が死んでから幼い頃はお世話になったが、それは決して愛情の伴った接し方とは言いづらかった。
齢六歳の幼子に小銃の撃ち方、ナイフの使い方、獲物のさばき方、雲海平野の歩き方等まるで一人で生きていく術だけを叩きこまれたのだ。失敗しても叩かれる事はなかったが、森に一晩置き去りなどは日常茶飯事。
ちなみにディダールのように雲面に組み敷かれた事もある。護身術の練習だと言われ打ち身や擦り傷でボロボロになるまでやらされた。
おかげで雲狼の一匹ならナイフ片手に倒せる自信はあるし、雲鹿狩りは街の男どもより上手いのだが、何か違う気がすると思っている。
そんな二人の気まずい空気を知ってか知らずかアニーヴは無言で歩みを進める。程なくするとさっき通った橋に着き、川べりに降りると小舟が一艘、雲蔓で杭に縛り付けてあった。
「おお、来た来た。お二人共元気そうで何より」
「スンジェさん。お久しぶりです」
「ひっさしぶりだな~……いや助かった、まじで」
小舟の横には、雲パイプを吹かす大柄の青年が立っていた。ディダールより更に頭一つは大きい青年、スンジェはブラウンの瞳を輝かし顔の相好を崩すと、近づいてきたディダールの肩を気軽げに叩く。
お返しとばかりにディダールも叩くのだが、まるで巨木を叩いたような衝撃を受けて逆に手が痛くなった。
しかし、こうやって気軽にやり取りできる相手がいるだけで空気もだいぶ弛緩して、先ほどまでの重い空気が嘘のようである。
「スンジェ。準備はいいか?」
「はい副隊長。今日は風も穏やかですから居眠りしてても大雲海本部に辿り着けますよ」
軽口を言うスンジェにアニーヴは無言で頷き、四人を乗せた小舟は緩やかに出発した。
なるほどスンジェの言う通り、時折突風の吹く川沿いが今日は凪いでいて、雲上貫頭衣越しの日差しは眠気を誘う魔性を秘めている。
さっそくディダールがこくりこくりと船を漕ぎだすが、それをリッカが叩いて起こす。
二人の仲の良いやり取りを、アニーヴは感情の読めないにこやかな顔でじっと見つめている。居心地の悪さを感じたリッカが軽く身じろぎをすると、意を決したようにアニーヴのほうを向いた。
「アニーヴ叔父さん。あの、今日は何で私達、大雲海に呼ばれたんでしょう?」
「それは街長から直に説明がある」
「だけど定期報告だって、先日終わったばかりなのに……」
「いいってリッカ。皆には世話になっている身なんだ。それに急な呼び出しとか、軍にいた頃なんてしょっちゅうだったしな」
にかっと笑うディダールに反して、リッカは納得のいかない顔であった。アニーヴは小さくため息を吐くと、視線をスンジェへ向ける。
気づいたスンジェは苦笑いを浮かべると、船のオールを動かしながら「ああ、その」と声を出す。
「お二人さん、今回の呼び出しは別に悪い事じゃないらしいぞ。ていうかむしろ過保護というか――痛え!」
突然叫んだスンジェに驚くリッカ達。アニーヴだけは目を閉じ、片手に持っていた雲木の棒を素早く腕の間に隠して静かにしている。
「ま、まあとりあえずはそう身構えなくても大丈夫って事さ。あ、それにミン爺さんのところで雲鹿の角を卸しただろ? 一応アレの使い道も説明じゃないかな」
スンジェの言葉に、アニーヴも無言で首肯する。
結局のところ何で呼び出された分からないまま、まだ少し不安な顔をしたリッカを乗せて、小舟は桟橋に辿り着く。
桟橋から雲面に上がると、目の前には何個もの丸太小屋を繋げた巨大な建造物が現れる。
後ろ手には雲木の森を有し、周りや壁面には『緑色の』植物が生い茂り……近くにある台座にはリッカの家と同じ、巨大な雲鹿の角が鎮座している。
森と川に挟まれ、隔絶された場所に建つ建造物。
大雲海本部、その建物であった。
▲▲▲▲▲
スイングドアの入り口を開けると、この雲の上では珍しくない真白い空間が視界に飛び込んでくる。だがここはそれだけに留まらず、色とりどりの差し色が目の端に映り込んでくる。
リッカの家では緑の苔しか見当たらなかったが、どうやらここには様々な種類の花も咲いているようだ。
普段は見かけない色とりどりの花が活けた花瓶を内心楽し気に眺めていると、飾られた花の匂いを熱心に嗅いでいる眼鏡の少女を見つけた。
年齢はリッカと同じほどで、アッシュグレイ色の髪は無造作に肩で切り揃えられている。
少女は眼鏡の奥の瞳を輝かせながら、匂いを嗅いではノートにメモを取り、花弁を触り、ちぎり、口に含もうとして、
「はいそこまで」
「ひああ! り、リッカちゃん?」
花弁を握った手をしっかり握ってリッカがそう声をかけると、女性は飛び上がるほど驚きを見せる。ディダールに向けるような呆れの視線をした後、少女へと笑いかける。
「久しぶりイザベラ。相変わらず奇行が目立ってるわね」
「久しぶりなのに酷いよ~リッカちゃん。あのね、この花は今まで咲いた事のない種類なんだよ。ディダールさんに教えてもらったどんな種類とも違うみたいだし、予報士として知っていたほうが良いと思ったの」
「花の種類と予報士にどんな繋がりがあるの?」
「それを今調べているの」
「いや、イザベラには悪いけどこれ……下だとそこら辺に生えてる野花だと思うぞ?」
両手を握って熱弁するイザベラに、言いにくそうにディダールが声をかける。
ずるっと眼鏡が下がり、肩を落としてイザベラが「うう」と声を漏らした。
「何となくそんな予感はしてたんだよね。花の種類なんかで〝雲震い〟の発生が分かれば、予報士なんて必要ないもんね」
「け、けどイザベラみたいな予報士がいなかったら、雲之割目で狩人はすぐ死ぬ思うし、雲震いが予報できるから毎年事故で無くなる人がいないんだよ」
「……えへへ、そう言ってくれるのはリッカちゃんだけだよ」
照れくさそうに頬をかくイザベラ。
予報士ーー大雲海の中でも、いや、雲海之街でもごく僅かにしかいない希少な存在である。
基本はこの建物から外に出る事はなく、未婚の女性しか予報士には就けない。
どのような事を行っているのか一切謎に包まれているが、彼女らの予報により雲面の切れ間に生じる雲之割目や、雲面が突然震えだして厚みを失い、十メートルを超す大穴を開ける事さえある雲震いなど。
天災の起こる場所を的確に予報する彼女達は、この雲の上での生活において何物にも代えられない存在といえた。
そんな希少な予報士であるイザベラだが、リッカとは幼馴染であったりする。といっても一緒に遊んだ記憶は殆どなく、まだ両親が存命の時に大雲海に来る度話すくらいであったが。
それでもイザベラはリッカを大事な友と呼び、リッカもまた、イザベラを友だと胸を張って言える。
「う、具合悪い……やっぱり緑の草は苦いから、生のまんま食べるのは駄目みたいだね」
気になるものは何でも口に入れる奇行の持ち主ではあるが。
個性の一つでいいはずだ。
多分。きっと……おそらく。
「お二人さんと予報士のお嬢ちゃん。そろそろいいか?」
スンジェの声にそちらを見れば、雲上貫頭衣を脱いだアニーヴが遠くの扉の前で足踏みしていた。頭には不思議な模様の織布を巻いているが、ちらりと覗く前髪は鮮やかなレモンイエローをしている。
母親と同じ髪色を見て、僅かに表情を曇らせるリッカ。と、ディダールが無言で肩をたたき、促すように顎をしゃくった。
「行こうぜリッカ。なあに、どうせ茶飲み相手でもさせられるだけさ。だからほら、気楽に気楽に」
自分の口の端を指で上げて、ディダールはおどけてみせる。
(ああ、まったくもう)
何でこいつはこんなにも、私の心に敏感なのだろう。
こいつと一緒にいたら私は、感傷に浸る暇もないくらい笑っていられるのではないだろうか。
(そうだと、いいな)
顔にはいつもの呆れた表情を浮かべ、心にはディダールへの感謝の笑みを浮かべて。
リッカは息を吐くとディダールを追いかけた。
アニーヴと合流すると彼は一瞬だけ目を細めたが、結局は何も言わず扉をノックする。
「開いていますよ」
若い男の声が中から聞こえ扉を開けると、果たしてそこには一人の男が座っていた。
ここでは着る必要のない雲上貫頭衣をしっかりと着込み、紫外線を防ぐ黒色のゴーグルを付けた、外見のみの情報では怪しいと言わざるを言えない男。
頭を下げるアニーヴとスンジェに手をあげ男はゆっくりと立ち上がる。その背は大柄のスンジェよりもなお高いが、彼と違いひょろ長い印象を受ける。
「お待ちしていました。リッカ、ディダール大尉。アニーヴ副隊長とスンジェもご苦労様」
「先週ぶりですね街長様。しばらく会っていませんでしたが、もしかして少し痩せたんじゃないですか?」
雲上貫頭衣で外見を隠した街長の変化など分かるはずもないのだが。たっぷりと皮肉を混ぜたリッカの言葉に、しかして街長と呼ばれた男は「ははは、分かります?」と大仰に肩を落とす。
「街長の仕事なんて疲れるし嫌われるし、そのくせ待遇が良いわけじゃないから心労が溜まって仕方ありません。あ、アニーヴ副隊長達は下がって大丈夫です。いや……大丈夫ですってば」
にこりとした顔で見つめ続けるアニーヴに何かを察したのか、上ずった声で何度も念押しする街長。
やっとアニーヴとスンジェが退室し、リッカ達に座るよう促すと彼も席に着く。
「さて、今朝は立派な雲鹿の角をありがとうございます。小ぶりだと自己修復能力が低いから、街の〝天膜〟に使っても半年持つかどうかですから。今回のものなら数年は大丈夫でしょう」
雲麦の焼き菓子を齧りながら、訝しげな目線を送るリッカ。まさか本当に茶飲み相手をさせるだけなのかと一瞬だけ思ったが、
「そんな凄腕の狩人のお二人に、街長として報告があります」
ほら。本命が来た。
「先の雲震いで開いた街の西側にある大穴ですが。先日、流雲隊がその近くで雲鹿の群れを発見しました。群れのリーダーと思われる雲鹿は、遠目で見ても通常の五倍は大きくて……片目に、傷を負っていたそうです」
ガタリ。と。
リッカは思わず椅子から立ち上がる。その小さな身体は小刻みに震えている。
「リッカ、どうした?」
ディダールの心配げの声は、だが次の街長の言葉で完全にリッカの意識から追い出された。
「ええ、おそらくそうですよリッカさん。十年以上前の雲震いの時に、多くの狩人を……あなたの家を襲った大雲鹿。それと同一個体でしょう」
『ーー逃げて。逃げてリッカ』
『私達の事はいい。後ろを振り返らず走れリッカ』
両親の声が聞こえる。
苦痛と寂寥とでリッカの胸を締め付ける。
その声は。その悲鳴は。
今だって。
意識の奥底で木霊していた。
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