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地と空と雲の間に間に  作者: フィリップ心太
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それは、仄かに温もりを放っていた日常のひと時。

お待たせいたしました。新作公開となります。

最初から専門用語のオンパレードですので、もう二〜三話更新したら用語集を作りたいと思います。

プライベートのほうが慌ただしく、未だ小説を書く時間が中々確保できませんが、それでも何処かの誰かに楽しんでいただければ幸いです。


次話更新は未定です。すみませんが、また暫くお待ちください。

山々の稜線から僅かに顔を覗かせる太陽光は朧げに、針葉樹の木々に積もった真白い冬の落し物を撫でる優しさでもって降りそそぎ始める。早朝未明。

山間に広がるライ麦の畑は一面の雪化粧を余儀なくされているが、雪の下でじっと寒さに耐え、暖かな春の到来を心待ちにしているようにも思えた。

頬こけたハリネズミにしか見えない山の、頂点よりも高く未だ顔を出し切っていない、太陽も届かぬ『雲の上』。

そこで、広大な雲海とは比べる事さえ馬鹿げている小さな点が、微かに身じろぎをした。


「ディダール、綿雲わたぐもの群右斜め前、距離にして三百メートル弱。見える?」

「了解。スコープで獲物を確認した。陽に当たるとやつら〝溶けて無くなるから〟面倒なんだよなーーっと」


視界を確保できる最低限の光量しかない、深い藍色の濃淡が広がる雲上で、自動小銃の小気味よい音が一発。まるで朝日を告げる雄鶏のように凍てつく空気を震わせた。

それから少しばかり沈黙が続いて、やがて「よし」という若い男の声がイヤーマイクから流れてくる。その声を聞いた少女は覗いていた双眼鏡をゴーグル越しの目から離し、隣ーーといっても百メートルほど離れた声の主ーーディダールへと視線を向けた。

ディダールは少女の視線に気づいたのか雲木うんぼくの幹から身を出し、大仰に両手を振ってきた。イヤーマイクからは「リッカああ」と自分の名前を呼ぶ声も聞こえる。

獲物の角が僅かな光を反射させる、ただそれだけを目印に。また常時風の強い雲上で、一発で獲物を仕留めた腕利きの狙撃手とは思えない行動だ。

まるで突き抜ける真夏の青空のような群青色の瞳をすがめ、まったく子供だなと、口に笑みが乗る。

ディダールは自動小銃を背負ってこちらへと走ってきているので、自分も小型雲上車クラウドモービルに乗り込んで迎えに行かなければならないだろう。

太陽が雲の上まで昇れば、獲物の透き通った角が陽光を極彩色に反射する様はきっと美しい。それこそ太陽を中心に稀に起こる円形の光乃環ハロのように。

ふーーと笑う。

どちらでも良いのだ。二人で見れるものならば、きっと全てが美しく見えるのだから。


▲▲▲▲▲


太陽が雲の地平線を超えて雲上全体を照らす頃、リッカとディダールは小型雲上車クラウドモービル特有の空気の漏れるような音と共に街の門をくぐった。門といっても精緻な意匠が施されているわけでもない、ただのアーチ型の雲だ。

高度四千メートルに広がる高層雲はぷってりとした層状の雲で、乳白色に空一面を染め上げており、ここ数十年は風の影響も受けず一つ所を漂っていた。

高層雲の上、手を伸ばせば届きそうに見える数メートルの位置を隙間雲の群れが飛んでおり、遮る物のない太陽の光を虫食いの葉のように所々遮ってくれる。

常時マイナス十度を下回る雲上では、雲上貫頭衣ガラベーヤを着なければ人は生きる事が出来ない。季節が夏ならもう少し過ごしやすい気温になるのだが、紫外線を防ぐ意味もありやはり雲上貫頭衣ガラベーヤは必須であった。

いや。

元々の話。

雲の上で、人は生活など出来るはずがないのだが。

絵空事や空想の類にしてはやけにしっかりと雲上をひた走る彼らと、仕留めた巨大な動物を包んだ雲羊メルメルの布を乗せて、気の抜ける音を出しながら雲上小型車クラウドモービルの走行ベルトは前進を続ける。

更に幾ばくか時間が過ぎ、視界の先にレンズの形をした雲、名前もそのままレンズ雲が姿を現した。あれが見えれば街まであと少しだとリッカはアクセルを踏む力を緩め、ついでとばかりに隣でいびきをかいていたディダールの頭を叩く。


「あ痛え 、何すんだリッカ!」

「女の子に運転させて自分は居眠りするなんて、えらく大層なご身分になったようね? もうすぐ雲海之街クローラルに入るんだから凝固剤の準備して」

「ったく。そんな勝気だから〝雷雲らいうんリッカ〟なんてアダ名を付けられーー」

「それ以上何か言ったら地上に叩き落とすから」

「よし凝固剤の準備良し! 噴出口の背面確認良し! いつでもいけるぞ!」


ディダールは冷や汗をかきながらロケット弾発射器らしき物を肩に担ぎ、照準器でレンズ雲の手前数メートルの位置に狙いを定める。


「……発射」


呆れたようなリッカの声の直後、それほど大きくない発砲音と発射器後部から大量の雲を吐き出して撃ち出された凝固剤入り弾頭は、緩やかな弧を描いて雲上に落ち、ただの雲を瞬時に踏みしめられる雲へと変質させる。

そうして出来た、十分ほどしか保たない雲の橋を渡って、リッカとディダールは雲海之街クローラルに入っていくのだった。


▲▲▲▲▲


留まり続ける高層雲は実に九百ヘクタール。端から端までの距離は三十五キロメートルに及ぶ広さの化け物雲である。

高層雲の東端に位置する雲海之街クローラルから離れれば離れるだけ雲上は不安定になり、踏める雲なのか分からない外縁部は立ち入り禁止とされていた。

凝固剤で作った橋を渡り終えた二人は街の舗装路の前で雲上小型車クラウドモービルを降り、協力して荷台の獲物を雲面に下ろす。

数百キロはありそうな巨大な雲鹿イデムが今回の獲物だ。

リッカがその立派な角を握ると、さながら宙を舞うタンポポの軽やかさで持ち上げられる。

雲上貫頭衣ガラベーヤで頭の先まで身を包む華奢な少女が、体重の十倍は有りそうな巨体を事もなげに運んでいる。

ディダールから怪力女と揶揄されるのも致し方ないと自身でも思う反面、二日間飯抜きにしたのはリッカの中では比較的新しい記憶であった。

仕留めた獲物は町の外れにある解体小屋まで持っていかなければならない。引きずらないようディダールに獲物の後ろを持ってもらうと、リッカはずんずんと通りを歩いていく。

雲の上に育つ真白な木、雲木うんぼくを使って建てられた丸太小屋ログホームが通りには面し、少女らが歩く雲面うんめんには、うろこ雲を固め細かく砕いて整えた道が続いている。

と、一軒の丸太小屋の扉が開くと洗濯籠を抱えたふくよかな女性が姿を現し、笑顔でもってリッカに声をかけた。


「あらおはようリッカ。今日はまた一段と大きい雲鹿イデムだね。これだけ大きかったら雲上貫頭衣ガラベーヤも三〜四人分は作れるんじゃないかい?」

「おはようございますビビトナさん。最近はあんまり大物仕留められなかったし、これだけ大きいのならそれくらい作れそうですね」


快活そうに笑うビビトナの次にドアから姿を現したのは、瘦せぎすな白髪交じりの男性である。好意的に見れば人の良さそうな、言い方が悪いと気弱そうな笑顔を浮かべて、雲鹿イデムの角をしげしげと眺めている。


「この角はミン爺さんのとこで買い取ってもらうんだろ? その前にウチの雲羊メルメルの毛一キロと交換しないか?」


今彼らが着ている服は、雲上に住む雲羊メルメルの毛を紡いで織った物だ。

街の中に入れば『とある事情』により雲上貫頭衣ガラベーヤが要らなくなり、街に住まう者は各々くつろげる格好をしているのだが、リッカとディダールは面倒なのでいつも解体小屋まで雲上貫頭衣ガラベーヤを着たままである。

さて、雲ほどに軽いと言われる雲羊メルメルの毛が一キロといえば相当な量なのだが、リッカは苦笑を浮かべて「ごめんなさい、アガさん」と首を横に振った。

雲鹿イデムの角は、雲上で採れるどんな物より希少で貴重な、まさに生命に関わる物なのである。

雲羊メルメルの毛は確かに欲しいが、リッカの独断で渡していいものではなかった。


「無茶をお言いでないよ。これだけ立派な雲鹿イデムの角なんて早々手に入らないんだ。雲上小型車クラウドモービルの動力から溜め池の浄水施設、きっと雲海平野うんかいへいやの拡張だって出来るさね。あんたの道楽趣味のガラクタイジリに使われてたまるかってんだい」


ばしんと勢いよく背中を叩かれたアガはたたらを踏み、「痛えよおまえ」とそれでも優しそうに笑う。

そんな夫婦を温かい微笑みでもって見つめていたリッカだが、後ろから「お前らやめろ!」と相方の情け無い声が聞こえ、ふんすと鼻で息を吐いた後、眉根を寄せて振り返った。


「あ、リッカ聞いてくれよ! こいつらが触るなって言ってんのに雲鹿イデムの角に触ろうとするんだぜ!」

「えー、いいじゃんいいじゃーん。 雲鹿イデムの角って触ったらご利益?があるんだよね! もっと触らせてよー」

「バカやろ! お前らの土いじりで汚れ……っていじってるのは雲だから綺麗なもんだけど、それでもダメなもんはダメだ。少しでも欠けて安く買い叩かれたらどうしてくれるんだ」

「けちー」

「しゅせんどー」

「かいしょうなしー」

「待て、甲斐性なしは違うだろ! あーーったくあのクソガキ達め。今度遊ぶときは手加減してやんねえからな」

「…………」

「なんだよさっきから黙って? ていうか見てたんなら助けてくれよ」

「ねえ、あんたって何歳だっけ?」

「は? そりゃお前と同じマブイェルの冬季生まれで、これまた同い年の十七歳だろ」

「同い年、ね」


確かに雲上貫頭衣ガラベーヤを着ていても分かるほどに、ディダールは自分より頭二つ分は身体が大きい。ゴーグル越しに見える目つきの悪い真っ黒 まなこな三白眼だって、子供という印象は与えない。


(けど、内面的には十歳の子供達と遊べるからなあ。〝下の人間〟ってもっと悪辣だって聞いてたのに、これじゃただの子供だよねえ)


「またため息なんか吐いてどうした。 なんだ、腹か、腹減ったのか?」

「……違うし! 太陽の光で雲鹿が痛む前に、とっとと運んじゃうよ!」


そうして二人は獲物運びを再開する。通りにはちらほらと見知った人の姿があるが、挨拶だけして皆そそくさと仕事に戻っていく。朝日の昇った直後は飲み水として使う朝露が一番集まる時間帯であり、傾斜のついた屋根から朝露が下へと集められ、其処彼処の家で溜め池の底の雲を素焼きした真白い瓶へと貯められていく。

雲なのだからどこを向いても水分はあるものだと思われるが、性質の違う雲を体内に入れると最悪ーー死に至る。

一概に雲といっても、飲み水に使えるものは少なく貴重なのがここでは常識である。

街の外周をぐるりと時計回りに歩くと、まるで雲木と家が合体したような建築物が目の前に現れた。窓から伸びる枝や、屋根を突き抜ける幹など明らかに人の住める状態には見えないのだが、ここが目的地であるミン爺さんの物々交換店。

名前もそのまま『ミン爺さんの店』である。


「ミン爺さーん。生きてるかー?」


家の裏手にある解体小屋の前に雲鹿イデムを布ごと下ろすと、そんな失礼な事を言いながらディダールは中へと入っていく。勝手知ったる他人の家とはよく言ったもので、ほとんど毎週尋ねるリッカとディダールは勝手に入る事を家主から黙認されていた。

家の中は予想通り真ん中に巨木の幹が我が物顔で鎮座しており、その周りを別の雲木で作ったテーブル(もちろん真ん中には幹を通すための穴が空けられている)が囲っていた。

椅子はなく、テーブルには小物類が乱雑に置かれている。レンズ雲を極限まで薄くし、半日溜め池に浸ければ出来上がる透明な硝子雲がらすぐもで作られたアクセサリー、眼鏡、コップ、食器。

かと思えば雲木うんぼくを加工して作られた大きな木箱、雲鹿イデムを模した置物、何に使うのかそのまま雲木の丸太も床に転がされている。

誰が見ても散らかっているとしか言えない店内で、奥に続く扉からのそりと誰かが現れた。


「なんじゃこんな朝っぱらから……おお、お前達か。おはようさん」

「おはようミン爺さん。朝早くにごめんなさい。だけどこの時間じゃないとどんどん肉が傷んじゃうから」

「今日はさ、すっげー獲物仕留めたんだ。さっそく見てくれよ!」


上半身は肌着、雲上貫頭衣ガラベーヤは腰でぐるぐると巻いて、伸ばしっぱなしの髭と眉毛で目や口がどこまでが顔か判断しようがないミン爺。

しかし見た目よりも機敏な動きで、転がしている丸太まで歩くとどかりと座る。

テーブルの上に無造作に置かれた雲パイプを手に取り、『指の腹同士を擦って火花を作る』と素早くパイプに火を付けた。


「ふう。確かに雲上の生物は死んだ後太陽の光を浴びると急速に腐り、やがて何も残さず消えてしまうからの。まだ朝日も弱い明け方に持ってこねば、狩場から戻ってくる間に消えてしまうじゃろうて。あと坊主」


ぷかりと煙を吐きながら睨みつけるミン爺に、扉の近くでそわそわと足踏みしていたディダールが、これは毎度のお小言かと後ずさる。


「挨拶もできん奴は、わしゃ雲羊メルメルの吐いた胃液混じりの毛玉より嫌いなんじゃ。買取額は二割減じゃ」

「だあもう悪かったよおはよう! てか二割とか悪徳すぎんだろ!」

「カカカ! それでいいんじゃ。まったく最近の若いもんと来たら、雲上も地上も関係なく礼儀を知らんのじゃからーー」

「はいはい、そのお話はまた今度聞くよミン爺さん。さっそく雲鹿イデムの確認お願いできるかな?」


くどくどとお小言が続きそうだったので、リッカはミン爺の肩を押して外へと連れ出す。ディダールの時と比べて好々爺然の顔になったミン爺は「リッカが言うならの〜」とそれに従い、三人は解体小屋の前に置かれた獲物の前へと来た。


「ほう、確かに立派な雄の雲鹿イデムじゃの。それじゃ解体するから、ほれディダール。さっさと運ばんか!」

「痛! 分かったから叩くなっての!」


そうやって運び入れられた雲鹿イデムをミン爺が解体している間(ちなみにディダールは解体の手伝いをさせられる)、リッカはミン爺の店の掃除を行う。

といっても雲の上であるため埃や砂などの汚れは殆ど無く、作業に使用した雲の切れ端があったとしても、陽光に溶けて無くなってしまうので掃除のし甲斐は無いのだが。

雲上貫頭衣ガラベーヤを脱ぐと、現れたのはまだまだ幼さの残る、花の蕾を思わせる可憐な少女であった。

髪の付け根は濃い藍色をして、毛先にいくほど薄くなるその髪は睡蓮の花を思い出させ、微かに漂う甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

体臭消しに使われる雲蜜の花の香料で、狩猟に出る者は全員付けているのだが、リッカほどの美少女となれば匂いの質が変わるのか。

ディダールのは何か喉に粘つく匂いだけどリッカのはずっと嗅いでいたいーーとは街の子供達の言である。

ゴーグル越しに見えていた群青色の瞳は硝子雲の工芸品が放つ光をその虹彩でもって乱反射し、見る者を感嘆たらしめる宝石のような美しさを称えている。

本人にそのような事を言えば口より先に手か足を出されるので、ピカピカ光って綺麗だけど要注意ーーの意味も込めて雷雲リッカのアダ名であった。

先々週に来た時よりテーブルの物が増えていたりするのでそこを整理していると、きらりと光る物が目の端に映る。

太陽の光を浴びて光るそれは、まるで小さな太陽のようであった。白く、丸く、いやよく見れば多面体にカットされていて小指の先ほどの大きさしかない。

何よりも光を反射する多面体は、硝子雲の指輪に嵌められているのだ。

年頃の女の子であるリッカでなくとも、女性ならば気になるものであろう。


「うわあ……綺麗」


一目で気に入り手に取ろうとするが、これほど綺麗な品である。どこかの誰かが物凄い量の雲羊メルメルの毛か雲木、または飲み水を対価に渡している事だろう。

そんな高価な物、もし触って壊しでもしたら、とてもじゃないが弁償できない!


手に取って付けてみたい衝動と必死に戦い、時折ちらちらと指輪を見ながらもリッカは掃除を再開する。

小一時間ほど経った頃、雲茶葉で淹れたお茶を三人分用意して木箱の上に座っていたリッカは、扉から入ってきたへろへろのディダールを見てお茶を手に取った。

丸太の上にへばりつくように座ったディダールにお茶を手渡す。


「頑張ったみたいね。ほら」

「おう、ありがとよリッカ……あの爺さん、本気で容赦がないよな」


文句を言いながらもどこか楽しそうなディダールに、リッカも僅か笑みが漏れる。しかしそれも一瞬で、眉を釣り上げると手を腰に当て、まるで聞き分けのない子供を叱る母親のような声を出した。


「あんた、自分だけ戻ってきたの? ミン爺さんに後片付け任せてたらいつまで経っても覚えらんないよ」

「いやいや、頑張ったぞ俺! 〝今回は〟後片付けの半分まで参加できたんだからな!」


胸を張りそう言ってのけるディダールに、リッカはわざとらしく大きな溜息を吐いた。

こいつは本当に子供だな、と呆れを含んだ溜息である。

雲上貫頭衣ガラベーヤを脱いだディダールは短く切りそろえたオリーブグリーン色の髪を無造作に乱しながら、細い三白眼を更に細め、ついでも口も尖らせた。

ディダールの隣に座ったリッカは呆れを表情にまで滲ませたが、とりあえずは言い訳を聞いてやる事にする。


「し、仕方ねーだろ? 俺は、ていうか下の人間は〝あの光〟が苦手なんだからよ。こう、ピカッ! バチッ! ぐはあ! って感じになるんだよなあれ」

「〝雲廻光リラライト〟が苦手ってのは、そりゃあ知ってるけどさ。こっちの食べ物とか水で慣れてきてるんだし、そろそろ三ヶ月だっけ? 苦手はそのままにしないでーー」


そこまで言って、ディダールの意識が窓の外に向いている事に気付いた……いや、厳密に言えば意識は雲の下。高層雲の下に広がる肥沃な土の大地。

本来ならば人の住まうそこに。根ざして生きる人々の営みに。

ここから見える雲の上の景色ではなく、その遥か彼方にある自らの故郷に意識は向いているのだろう。


「そっか……もう三ヶ月も経つんだな」


いつも見せるような子供っぽい顔とは違い僅かに覗いた沈鬱の横顔に、ちくりと胸に痛みが走った。

リッカはその痛みに気づかない振りをして、いつもと変わらないよう努力した声色で「そうよ」と言う。


「三ヶ月もあれば雲羊メルメルだって乳離れするし、雲狼ワグーなら独り立ちだからね?」

「おいおい動物と一緒にするなよなあ。これでも凝固弾の作り方や雲上小型車クラウドモービルの運転とか必死に覚えたんだぜ。俺」


そう言って振り向いたディダールの顔には、もういつもの悪ガキの笑みが乗っている。

内心、安堵の息を吐いたリッカは、腕をぐるぐる回すと扉の取っ手に手をかけた。


「はいはい。それじゃあ頑張りついでにもうひと頑張りしないとね。今からミン爺の手伝いに行こっ」


今のは少しだけ、無理に元気を装いすぎたか。なんて、柄にもない不安を抱いてみたが、ディダールはといえば特に何かを気にした風もなく。

ああ、やっぱり子供だ。女の子の気遣いにも気付かない小さなお子さまだとよく分からない憤慨を抱きながらリッカは扉を開けるのだった。


▲▲▲▲▲


うっすらとした朝靄も陽光によって消え、雲鴉ミルスの鳴き声が遠く森から聞こえてくる。

森のそばを流れる幅五メートルほどの川は水面を硝子のごとく輝かせ、時折、雲魚プナプナが存在を主張するように飛び跳ねている。

街の公共物である雲上小型車クラウドモービルを返却し徒歩で家路につく二人は、再び雲上貫頭衣ガラベーヤを着てここ三ヶ月で日課になった、雲木造りの橋の上からの風景を眺めていた。


「本当に毎日楽しそうよね。この風景も三ヶ月見れば飽きるでしょ?」

「飽きるわけないだろ。確かに全部雲だから真っ白ではあるけど、けどこんな自然『俺のところ』じゃ見た事ないんだから」

「まぁ聞いた感じ、【ドグマ・ナグナ】じゃ無理かもね」


後ろを歩いていたリッカがそう言えば、ディダールのいつもの答えが返ってくる。

なんでもディダールの住んでいた工業大国【ドグマ・ナグナ】は機械が人々の生活に浸透していて、その代わり自然というものはほとんど見当たらないそうだ。

天に突き立つ工場の煙突からは黒煙が空を覆い、川に繋がった下水道からは彩り豊かな産業排水が透明な水を侵していく。

機械など雲上小型車クラウドモービルや小銃くらいしか知らないリッカからしても、その行為が自然にとって良くないものだと理解できる。

近隣諸国からは遠回しな非難をされているそうだが、【ドグマ・ナグナ】はどこ吹く風で取り合っていないらしい。

おかげで周辺との関係は悪くなる一方で、噂では戦争の兆候もあるとかないとか。

さて、なぜそんな事をリッカが知っているかといえば、ずばりディダールから聞いたからである。

そして、なぜディダールがそんな戦争の兆候まで知っていたかといえば……。


「まあ、ウチは色々なところに恨み買ってるからな。俺みたいな年齢制限ギリギリのやつまで徴兵するくらいだし、もしかしたらもう戦争は始まってるかもしれないな」


さして気にした風もなく……いや、もしかしたらそう見せているだけかもしれないが。ディダールは【ドグマ・ナグナ】の徴兵制度によって強制的に入隊させられた、元はただの農家の次男坊であった。

農家の次男坊として生まれたディダール。性は先祖が森の近くに住んでいたからか分からないがフォレストである。

貧乏小作人である両親と兄の四人暮らしで、生活はいつもカツカツ。地主から借りている土地は曽祖父の代から借りているらしいが、そんなもの、長男が継ぐに決まっている。

だからと言って実家を出るには何の技能も持っておらず、また農作業には人手が必要だ。

ディダールとしては不本意ながらも、農家のうだつの上がらない次男坊で終わる人生しか選択肢はなかった。

そんな中、まるで青天の霹靂のように告げられた徴兵命令。

家に届けられた華美な装飾の上質な紙には、その実、国の為に命を投げ出せと横暴極まる文章が書き連ねてあった。

家族は大事な働き手を失いたくなかったが国の命令には従わねばならない。惜しまれながらも家を出たディダールはしかし家族の反応とは違い、まるで濃霧と泥に埋もれていた身体が翼を得、飛び上がったような心地であった。

実際、家を出てしばらく歩いた後少しばかり飛び跳ねたりもした。

先の見えていた沈鬱な将来が、今時点で不確かなものへと変じた。確かに命を掛けねばならないのは怖いし、殺し殺されだって嫌だ。

だが、それでも。

道行きを自分で選べる事の何と素晴らしい事なのか!!


「とか思ってた時期もそりゃあったさ。けど実際、辺境都市【シェーゼン】に着いて練兵場に行った瞬間、そんな夢見る少年の心は砕かれちまったんだ」


いつの間にか自分語りに入っていたディダールが、そんな言葉と共に大仰な溜息を吐いた。

上官からの度重なるシゴキ。人体の限界を超えているとしか思えない訓練内容。

極め付けは、男所帯である軍隊での同性愛ホモセクシャルの横行がディダールの幻想を粉微塵に破砕したのである。

幸いな事に所属していた第八歩兵師団・基本軍事訓練兵舎は女性隊員も少なからず在籍していた為か、あまりそういった事には誘われなかったのだが(それでもやはりお声が掛かった時などは仮病、逃走、身内の不幸など使えるものは何でも使った)、朴訥ぼくとつとした農村生活を過ごしていたディダールからすれば衝撃の強すぎるものであった。

だが、そんな衝撃も訓練兵期間を終え配属先が決まり、それでは今から立身出世物語サクセスストーリーが始まると意気込んでいた矢先ーー


ディダールの所属する空挺第十二兵団は、全滅の憂き目と相成ったのである。


「高山演習の最中に【イスラ】の部隊と鉢合わせなんて、どんだけ運が悪ければ遭遇できるんだと思ったけど……まぁ、こうしてリッカに助けられてるんだ。俺の運も捨てたもんじゃなかったってところだよな」

「あの山は雲海乃街クローラルから地上に降りられる唯一の玄関口だし、昔から地上の人間との接触は何度かあったところだからね。軍人を〝二人〟も助けたのは初めてらしいけど……その【イスラ】って国の兵隊が残ってたら危ないから、今は融解剤で周りの雲を溶かしたから出入口を潰してるけど、もう少し様子見するって街長まちおさ達は言ってたよ」

「しっかし、よくあの場で殺したり見捨てたりしなかったよな? その点だけ、リッカは凄えって本気で思ってるんだぜ」

「その点だけって何よ」


頭を軽くと叩いてやると、ディダールはにししと笑いかける。

確かにあの時ーー血塗れの仲間を手に抱き、自身も額から大きく出血していながら、雲から降りてきた正体不明の自分達に「助けてくれ」と叫んだディダールに、自分以外の人達は冷ややかであった。

秘匿され続けた雲海乃街クローラルの存在が危ぶまれる危険性だってあった。口封じのための殺害が最善。そうでなくても助けるなどという選択肢は存在してはいなかった。

……そのはずなのに。

助けてくれと乞う人間を、見捨てる事が自分には出来なかった。

そんな事をすれば、命を賭して幼き自分を救ってくれた父と母に。

その墓前に、どんな顔をして参ればいいというのか。

だからリッカは、全ての責任を負う代わりにディダール達を助けようと思い行動を起こしたのである。

後悔をしていないかと問われれば正直なところ微妙ではあるが、それでも幼い頃より一人きりの家で、常に誰かと一緒にいる生活というのも存外楽しいものであった。


(ぜっったい本人には言わないけどね)


心の中で独りごちるリッカ。また雲魚プナプナが水面を跳ね、穏やかな朝のひと時を二人はしばし無言で過ごした。

どちらからともなく「さて」という言葉が聞こえ、軽やかな足音は家路への帰路を歩み出す。

しばらく歩いていると舗装された道は終わり、剥き出しの雲面うんめんが前方に広がる。左には森、右には遮る物のない遥かなる蒼穹を仰ぎながら、その道はどこまでも続いているような錯覚を覚えさせた。

と、そんな道無き道を歩いていると少し先に粗末な掘っ建て小屋を発見する。リッカの両親がまだ生きていた頃に使っていた解体小屋である。

今は仕留めた獲物はミン爺の店に卸すと決めているので解体小屋も無用の長物となっていたのだが、ディダールと『もう一人の地上の人間』を住まわせるにはちょうど良かった。

少しばかり手入れをすれば寝起きには事足りるようになり、この三ヶ月ほどはディダール達の仮の住まいとなっている。

リッカとディダールが解体小屋に近づくと、小屋の入り口からのそりと背の低い男が現れた。

血色は蝋のように血の気を失っており、満遍なく太陽の光が降り注ぐ雲上にあって、いや、だからこそ男に付けられた陰影は暗く、濃く、陰鬱な気配を滲ませる。

服装は地上の羊毛と合成繊維を合わせたカーキ色の野戦服。詰襟にはいくつもの勲章がピン留されていて、階級を表す肩の等級ワッペンには銀貨二枚(大尉等級)が縫い付けられていた。

笑みにも怒りにも見える形に歪められた口には葉巻き煙草。

煙草も、男の着ている服も、この雲海乃街クローラルには存在しない雲以外で出来た品物だ。


「ひ、ひひ……ずずいぶんここの生活に、な慣れたようだなディダール二等兵?」

「エンジ大尉殿……」


エンジと呼ばれた男は焦点が合っているかも分からない目を向けながら、ずり、ずり、と片足を引きずっている。【イスラ】の部隊との交戦中に負った傷だ。

解体小屋の前の雲面は人の手で均されているが、乱雑に雲木の切れ端や割れた水瓶などが撒かれている。

それは雲の上という本来乗れるはずのない場所に連れてこられ、エンジが発狂寸前になった時に、何か物が乗っていれば多少落ち着くのではと試みた結果であった。

成果としては、エンジは解体小屋の数メートルまでは出てくるようになったが、それ以外は小屋に篭りっきりとなっている。

解体小屋はトイレはあるが風呂はないので数日おきに体拭き用の水を持っていくのだが、というか食事の用意などリッカが世話をしているのだが……。


(やっぱり。ディダールのように適応するやつのほうが変わり者なのよ、きっと)


二人の話し声を意識の外側で聞きながらリッカは物思いに耽る。雲の上に連れてきた当初から目を輝かせ、何にでも興味を持って人当たりの良かったディダールと違い、エンジは最初、血の気の失せた顔を恐怖に歪めて銃剣を振り回していた。

「こんなはずでは」「なぜ俺が」「この化け物どもが」等々、聞くに耐えないとはまさにあの時に用いる言葉である。

遠巻きに見ていた子供は泣き出し、やはり助けるべきではないと大人達は怒鳴りだし、リッカとしてあの時が一番助けた事を後悔した瞬間であった。

とまぁ、そんな経緯もありリッカはエンジの事を苦手としていた。

否。

いくら水や食事を持ってきても、そして助けた事に対して。

未だに感謝の言葉を口にしないエンジの事を、リッカは嫌っているのだった。


「きき、君がそうやって馴れ合っている間、私はなな何をしていると思う? 農民出の、が、学のない頭で、考えた事はあるかな?」

「大尉殿……通信機は【イスラ】の部隊との交戦中に破損しています。また雲の上という未知の空間では妨害源は計り知れず、例え修理が出来たとしても本国との通信はーー」

「上官に向かってええ! く、くち、口答えするんじゃない!!」


ばちん、と小気味の良い音が物思いに耽っていたリッカの耳に届く。慌ててそちらを見れば、青白い顔を怒りに染めたエンジが握り拳を前に伸ばし、ディダールが顔の手前で受け止めていた。

わなわなと震える拳をディダールが離すとエンジはたたらを踏み、雲面に尻餅をつく。直後に「ひいいいい」と引きつった声を上げ小屋の入り口まで這い戻ると、荒い息のままディダールを睨みつける。


「ほ、本国と連絡が取れたらっ、貴様を軍法会議にかけてやる! 上官に対する不遜な態度、そそそれに、ここの〝化け物ども〟に祖国の情報を、な、なが、流すスパイとしてなあ!!」


正気を失っているのではーーと、疑わずにはいられない。

ボサボサの髪や伸ばしっぱなしの髭。何よりも、こちらを見ているようで焦点の定まらない瞳が、今朝狩った雲鹿イデムの死んだ瞳を思わせて、リッカは知らず背筋を震わせる。

ディダールは無表情で黒い瞳を細め、何度か小さく息を吐くと出来るだけ感情を感じさせない声を発する。


「じゃあ俺は、リッカの家で道具の手入れや手伝いをしてきます。夕飯は持ってきますんで、ではこれで失礼いたします」


やや早口で言い終えると軽く敬礼をし、エンジの返事を待たずすたすたと歩き出すディダール。

リッカがその後に続くと、後ろから弱々しい、けれど念の篭った怖気を催す声が追いかけてきた。


「わ、私がこんな場所にいるのは何かの間違いだ……く、くくくくく。きき、きっともう少し。もう少しだ……」


エンジの声は絡みつく泥のようにリッカの足を取り、底の無い悪意の只中へと引きずり込もうとする。

悪意や狂気に晒された事の少ないリッカにとって、エンジの存在はまさしく、その昔両親から聞かされた、地上に住まう人間そのものだった。


「ーーどうした? リッカ?」

(ああ。だけど。だけどもだ)


不安げに眉根を寄せて、こちらへと手を差し出す彼もまた、地上の人間なのである。

リッカは何とも言えない仄かな痛みと温かみを胸に抱き、そっと、その手を掴んだ。

悪意の沼からは、するりと抜け出した気がした。


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