血と金鳳毛
緑龍寺逢生はとりどりに咲く紫陽花を眺めながら、紫の蛇の目傘に歌う雨を聴いていた。名前のように濃緑の着流しに、黒い帯を締めた姿は、傘と相まって周囲からは浮いていたが、それでも彼の風貌が、何とはなしに琥珀に閉じ込められた異物のように、どこかしっくりくるものがある。空が泣いていると思いながら、逢生は従兄弟が住職を務める寺までの帰路を、季節に相応しく紫陽花を象った上生菓子を小脇に抱えて、ゆったりと歩いた。
逢生は寺の離れに寄宿する物書きだった。禅寺に、後に増築されたとされる離れは花頭窓に小さな縁側などがついた、洒落た造りだった。
逢生の左手首から、じわりと血が滲む。
こんな雨の日には、こういうことが起こるのだ。
はっしと手首を掴む青白い手。腕から先はない。
共に逝けなかったことを、まだ未練に思っているのか。手首を深く切り裂いた時、裂いた時、……咲いた血の花を憶えている。女は先に絶えていた。逢生だけが生き延びた。のうのうと生を謳歌している。彼女にはそれが許せないのだ。掴まれた手首からしとどに赤がこぼれ落ちる。畳が汚れるな、と逢生は妙に冷静に思った。
逢生は青白い腕に唇をつけ、吸った。
するとたちまち、腕は桃色に染まり、逢生の手首から離れる。他愛なくて可愛いと思う。引き摺り込むことも、その気になれば恐らく容易であろうに。まだ容赦の念を残す女を、逢生は心で愛おしんだ。想像の中だけで、彼女を抱いた。
生菓子を食べる気は失せた。
別のもので満たされたから。
「初めまして。神崎里美って言います」
栗色の髪が金鳳毛みたいな光を放って見える、生気溢れる女性は、逢生にそう言って明るく笑った。従兄弟の、更に従姉妹だと言う。こうなってくるとどこまでが血縁関係なのか解らない。逢生は会釈するに留めた。彼女とは余りに違うな、と漆黒の髪の女性を思い出し、それから引き合いに出した自分を恥じた。女子大生の里美は、民俗学を研究していて、古風なこの町が気に入り、しばらく寺に滞在するのだと言う。その間、家事も手伝うとのことだった。所詮はお嬢さん育ち、家事と言ってもたかが知れているだろうと甘く見ていた逢生は、里美の思いがけない万能振りに驚かされた。彼女は大学の講義がない時間、くるくると快活に寺の中で立ち働いた。掃除、洗濯、料理。逢生の住まう離れまで、彼女の清掃の手は及んだ。
にこにこと牧歌的に笑いながら家事をこなす里美に、逢生も従兄弟も、それから手伝いに来ていた檀家の女性も、皆、頼り、甘えるようになった。陽性の持つ力の偉大さを、逢生は身を以て知らされた。自分は影に生きる存在だった。彼女もまた。里美とは住む世界が違う。生きる、ということの捉え方が違う。
「はたき、掛けちゃいますね」
里美は逢生が積み上げた蔵書の上を見て、そう言った。逢生は他人に自己の領域を侵されることが嫌いだ。彼女に対してさえそうだった。しかし里美には、無言で頷いてしまう。そうすると里美はふふっと笑った。やはり金鳳毛のような笑顔だった。
白樺の林を歩きながら、逢生は、これは夢だなと思う。いつか彼女と行ってみたい。そう話していた。有名な日本画家の描いた景色に、彼女は憧れていた。夢を語る時の彼女はいつにも増して浮世離れした空気を纏い、綺麗だった。白いワンピースに身を包み、手を組んで憧れを語る彼女が可愛かった。その内、逢生と彼女は本当に白樺の林を歩いていた。見て、と彼女が指差すのを見上げると、人が首を吊っていた。見渡せば首を吊った人が白樺の林に点々と実っていた。綺麗ね、と彼女が言う。白いワンピースの彼女。汚れを知らない彼女。夢と自覚していることもあり、逢生も緩慢に頷いて見せた。ああ、そうだねと。だがそれが惰性と見えたらしい。彼女は機嫌を損ねた様子で、もう、張り合いがないんだから、と言って、逢生を詰った。甘えと媚びを含むそれに、逢生は淡い笑みを返す。
もう辛いの、と彼女が泣いたのはいつだったか。
逢生と一緒にいつまでいられるか解らない。それが怖くて堪らないの。怖くて怖くて、夜も眠れないの、と。
逢生は彼女を宥めた。ずっと一緒にいられるさ。だって僕たちは結婚するんだから。
彼女は涙に濡れた瞳で逢生を見上げた。子供のように純真な瞳だった。汚れを知らない恐ろしさもまた秘めていた。汚れを知らない、即ち狂とも成り得るのだ。
結婚なんて。
彼女がぽつりと呟く。上手く聴き取れず、逢生は聴き返した。
結婚なんて、たかが書類上の手続きじゃない。
逢生の胸の一部に亀裂が走った。いくら彼女でも、それは言い過ぎではないだろうか。
すぐに嘘よ、ごめんなさいと言ってくれればそれで良かった。けれど彼女は沈黙して俯いたまま。漆黒の髪を闇の昏さと感じたのはその時が初めてだった。
彼女は逢生を見上げて、微笑んだ。
蕾が綻び、花が開くような笑み。
貴方とずっと一緒にいたいの。だから。
だから?
お願い、逢生。
私と死んで頂戴。
無邪気で一途で残酷な願いだった。今思えば、彼女は既に壊れていたのかもしれない。逢生はどこか鈍麻した頭で、彼女の願いを叶えてやりたいと思った。
ね。そうだったわよね。
白樺林で彼女が振り返る。
逢生はとても優しいから、私の言うことを聴いてくれたわ。お互い、同時にせーの、で剃刀で手首を切って湯船に浸けましょうと言った私に、賛成してくれたわね。
翻る白いワンピース。
せーので咲いた赤い花。花びらは湯に溶けて水中花みたいになった。
青い靄の中、ふと起きる。手首にじわりと滲む血がある。
ああ、またかと思い、逢生はそれを自分の舌で舐めてみた。絡みつくような青白い腕が、その舌先を掠める。逢生は戯れに、その手の指まで舐ってみた。食するように。青白い手が、引込められようとしても逃がさない。
逃してなどやるものか。
ふふ、と幽かな笑い声。
振り向くと里美が立っていた。寝間着であろう、蝶の柄の浴衣姿の彼女は洋装とはまた異なる風情で、どこか艶めかしくさえあった。金鳳毛の空気が、とろりと沈んだようだった。腕が伸びて、逢生に絡みつく。逢生はまだ青白い腕を逃がしていない。そうすると、里美の腕そのものが青白みを帯びて、逢生が舐めていた筈の腕が消えた。電灯も点かないのに闇夜に浮かび上がる里美からして奇異だった。金鳳毛の裏切りと感じた。
「裏切ったのは、貴方」
不意に里美が低い声で言う。突きつけるように、逢生の首を絞めながら口づけする。
「先に一人だけ逝ってしまって、こんな夢に微睡んで」
里美の言う言葉の意味が、逢生には解らない。文机に置いた紫陽花の青紫が、殊に目に沁みる。そんな場合でもないのに。夢。夢?
どこからが。どこまでが。
どこまでも?
「どこまでも追いかけるわ。今度こそ、一緒に死にましょう」
万力のような力で、里美は逢生の首を絞める。制止の声すら上げられない。しゃにむに、振り回した手の爪が、浅く里美の白い頬を傷つけた。里美は微動だにせず、冷徹な目で逢生を見据え続けている。息が出来ない。苦しい。苦しい。苦しい――――――――。
はっと目覚めると、朝の光が射し込んで逢生の布団を白く染めていた。
「おはようございます。もう、朝食、出来てますよ」
にこやかにそう告げて立ち去る里美の後ろ姿を見て、さては夕べの出来事は夢であったかと逢生は思った。ふと鏡台に目を遣る。
首に残る赤い手形の痣。
里美の頬に走っていた傷。
左手首からまた、じわ、と鮮血が滲み出た。
モデルとなってくださいました緑龍寺逢生さんに御礼申し上げます。