第七話【フラッシュバック】
第七話
【フラッシュバック】暗転して暗転して血の夜に落ちて。
1
玄関先で渡瀬清一郎は狼狽した。
「一体どういうつもりですか。外の騒ぎは――」
「心当たりはあるだろう。まあ心配しなくても、お前を捕まえるための人員ではないはずだ。そうだろう、森田」鞍馬山は森田を見る。「あれは、お前とは関係ないリスクのための保険だ」
森田は肯く。
「そう、ですからお気になさらずに」
「そんな……」
気にするなと言われても無理な話だろう。
「とにかく――ええと、どうすれば」
渡瀬清一郎は焦りながら、どうも廊下の奥を気にしているらしい。
俺は訊いた。
「中に……誰かいるんですか」
「えっ? いや、まあ」
――いるのか。
それは誰かと問う間もなく、その人物は奥から登場した。
「……何かあったんですか……?」
やや化粧の濃い、中年の女性だった。
色っぽい、というのは、こういうことを言うのだろうか。中肉中背で、さして美人というわけでもなく、一見して目立つところはないのだが、単純な可愛さや綺麗さとはまた別の、不思議な魅力を持っている。
渡瀬清一郎同様、やはり困惑した表情である。
多分、この人が――。
鞍馬山が訊く。
「あんたが根岸花織かな」
「え……はい、そうですけれど」
やっぱりそうか。渡瀬清一郎の再婚相手である。
「こんなに都合のいい話はないな、渡瀬清一郎」
清一郎の方は見ず、鞍馬山はそう言った。
彼の顔は青かった。
「外で話すのも何ですし、我々も中へ通してもらいましょうか」
森田は笑いながら、厚かましくもそう言った。
鞍馬山が付け加える。
「ただし応接間じゃなく、あの部屋だ」
そして俺、森田、鞍馬山、清一郎、根岸花織の五人は、渡瀬が死んでいた部屋に入った。
五人も入って窮屈さを感じないのだから、一人の部屋にしては、少々不自然なほど広い。
散乱したものは片づいていたが、床や扉にできた血の染みは、輪郭のみがうっすらと、こびり付いて残っている。
やはりここで渡瀬は死んだのである。あれは現実だった。
「あの」
渡瀬清一郎が口を開く。
「もう、必要なことは全て話したはずですが」
「まだ重要なことは何も話していないだろう」
鞍馬山は一人で、昨日まで渡瀬恵依子が使っていた椅子に腰掛ける。
「私がお前と、そして恵依子に代わって、皆に教えてやる。そうだな――何から話そうか」
異常に静かな部屋である。
閉め切られていた金属製の雨戸は、今は、開いていた。
「まず、一人目の死について話そう。言うまでもなく彼の死と恵依子の死は繋がっている。――そう、神崎和也についてだ」
――神崎。
思えば、あれが全ての始まりだった。
俺と全く関係のない場所で起きた、曖昧で、そして不可解な死亡事故。
あれの真相も、鞍馬山には見えているのか。
森田が訊く。
「神崎少年……あれはやはり……自殺なのですか?」
「そんなわけがない。あれが単なる自殺なら、こんな事にまで発展したわけがないんだ」
「しかし――」
「そう、運転手が見たのは神崎一人だった。だがそれが間違いだ」
「運転手が嘘をついていると?」
「それも違う。いいか、この事件において被害者がいるとすれば、神崎をはねた運転手と、神崎と、そして、そこにいる根岸花織だけだ」
渡瀬の名前が入っていない。
鞍馬山は横目で俺を見た。
「恵依子はそういった言葉ではくくれない」
俺の思考を読んだのか。
鞍馬山は続ける。
「神崎は、自殺をしたわけでも殺されたわけでもない」
「では、どうして」
「だが突き飛ばしたのは恵依子だ」
その言葉に、びく、と渡瀬清一郎が反応する。
――森田は首をかしげる。
「しかし現場に彼女の姿は……それどころか、神崎少年のほかには誰も」
「見えなかったのさ。運転手の証言を思い出してみろ」
「運転手の?」森田は腕組みする。「ええ――暗闇と大雨ではっきりとは見えなかったが、少年は物陰から飛び出したように見えた、とか」
「その後だ」
「はい?」
「運転手はこう続けた。混乱で、目の前が真っ赤になり、逃げた――」
「あっ」
俺は思わず声をあげた。
「傘……」
「そう、傘だ。あの日、恵依子と神崎は、真っ赤な傘をさして帰っていた。――ぶつかった瞬間、飛んできたあれが運転手の視界を遮り、彼を余計に混乱させ、ミラーを見る余裕すら奪い去ったんだ。同時に『ぶつかる前にも赤いものが視界に入っていた』ことすら忘れてしまった。――傘は電柱には隠れないだろうから、一応最初から見えていたはずだ。しかし持ち主は道の端で何かやっているようだから、避ける対象にはならない。無視しても良い。気にもとめない。だからその時点で記憶に焼き付くということはない。けれど突然持ち主は飛び出してきて――その瞬間、目の奥に、衝撃と共に赤い色がインプットされた。あとは絶望による記憶の混乱で、傘に関する記憶が曖昧になったんだ」
そうか。
しかし――
「馬鹿な」
渡瀬清一郎が発声する。
「娘が、そんなことをする理由がない」
「よく言えたものだな」
鞍馬山は冷ややかに言った。
森田が問う。
「しかしその通りですよ。一体どうして」
「多分神崎は恵依子に――そうだな、せいぜい『キスを迫った』というところだろう」
「キス……口づけを?」
森田は唖然としたようだった。
「それ、だけ、ですか?」
「そして恐らくその時点では、恵似子も受け入れるつもりだったと思う。だが唇の触れ合うその瞬間、恵依子の中に潜んでいた、父親への――いや、男への嫌悪感が爆発し、痙攣的に彼を突き飛ばしてしまった。そこへ運悪く車が走ってきて、神崎は死んだ。恵依子の目に彼が神崎本人として映っていたかどうかは定かではないが――」
最後の言葉の意味は分からない。
だが。
「父親への……嫌悪感……?」
俺は言いしれぬ気持ちの悪さを感じながら、渡瀬清一郎の方を見た。
同じように根岸花織も彼を見ていた。
清一郎は――
「お前は、一体、どうしてそれを……」
青ざめていた。
鞍馬山は立ち上がって話を続ける。
「そもそもの間違いだが――この部屋は恵依子の部屋ではない。昨日、悲鳴が聞こえたとき、二階にある全ての部屋を見たが、そのうちの一つに、妙な部屋があった。誰も使っていないようなのに、本棚に参考書や小説があり、さらに、壁には学校の時間割表が貼られていた。私たちのクラスの時間割だ」
ということは、
「そこが本当の、渡瀬の部屋なのか?」
「では、この部屋は一体――」
「やめ……やめろ」
渡瀬清一郎はおびえ、冷や汗を流していた。
「どうして知って……どこで見ていたんだ? どうして……!」
ひどく不気味な呟きだった。
「三年ほど前からこの部屋の雨戸は、いつも閉まっていた。そしてここは――渡瀬清一郎、正確にはお前の部屋だ」
鞍馬山は本棚を見遣る。
そこに視線が集中する。
資格取得マニュアル、古い歴史小説……。どれも女子高生が持つ本には見えない。
ここは父親の部屋だった。
だが渡瀬も使っていたらしい。
つまり――それは――どういうことだ?
鞍馬山は続ける。
「カーテンのような薄い布では、人間の目は避けられても、外の世界から入り込んでくる道徳理念や倫理観の攻撃は防ぎきれない。例えそれが、自我が作り上げているただの幻でも――だから出来るだけ強固な『壁』のイメージが必要だった。それが金属製の雨戸だ。そうだろう」
――倫理? 道徳? それに反すること……?
すなわち、これだけ部屋数が多く、空き部屋まである家で、わざわざ二人が同じ部屋で寝る理由。
「三年前というと、恵依子が十三歳になった頃。そして、お前が離婚してから、少し経った頃か」
もはやこの場にいる全員が、本能的な嫌悪感と共に悟り、そして――戦慄していた。
「毎晩のように」
気持ちが悪い。
もう聞きたくなかった。
鞍馬山は容赦なく続けた。
「毎晩のように、お前は娘に女を求めた。そして恵似子は自分を殺し、それに応じていた」
皆が清一郎を見ていた。
「わ、私は」
清一郎は頭を抱え、
よろけ――
ベッドに腰を乗せた。
ベッドはきしみ、
『ぎしり』と鳴った。
根岸花織は後ずさった。
「そんな……清一郎さん、あなたは」
「ち、違うんだ、私は、……私は……」
呻く清一郎は、顔を上げようとしなかった。
「恵依子にとってはそれが、当然だが精神的苦痛だった。だから神崎をこの場所へ呼び、何かを変えようとしたんだ。日時に特別な意味があったわけではなく、『限界が来たのがあの日』だったんだ。とにかく状況を、この空間を壊したかったんだろう。そこに明確な理屈は働いていない。ただ、どんな形であれ、狂った日常にヒビを入れたかっただけだ」
鞍馬山は部屋を見回した。
「……だがそれは最悪な形で裏目に出た。潜在していた『男への嫌悪感』が恵依子を突き動かし、神崎は死んでしまった。――結果、どうなったか。これが最も重要だ」
「どうなったか……?」
神崎が死んで、渡瀬は――
「それにはやはり、この父親が関わっている」
鞍馬山は、ベッドに座った清一郎を見下ろす。
「あの夜、こいつは確かに恵依子を駅まで迎えに行った。だが改札から出てきたのは娘だけではなく、どうやら交際しているらしい男も一緒だった。それでこいつは」
「……」俺は呟く。「後をつけた――のか?」
「そうだ。こいつはそういうことしかできない人間なんだ。そして娘が男を突き飛ばし、死なせてしまったところを見た。いや二人はそこで出会ったはずだ。親娘は接触している」
森田が口を挟む。
「では、この男が彼女をそそのかし、二人で事実を隠していたという……ことですか」
――違う。
それじゃあ、あの言葉の説明がつかない。
鞍馬山が森田から聞き、俺に教えた言葉である。
渡瀬はこう言っていたのだ。
『父親と帰った』。
『神崎は家までついてきた』。
『二人だけで帰った』。
『一緒に帰ったのは神崎だけ』。
全てが矛盾している言葉たち――これらの答えは?
鞍馬山は言う。
「自分を愛してくれた少年を、男への嫌悪感から反射的に突き飛ばし、あろう事か彼は死んでしまった。……恵依子は混乱した。既に極限まで追いつめられている精神に、決定的なダメージが加えられた。罪の意識と絶望、目の前にある死体。恐怖、父親への嫌悪感、抑圧されていた潜在的な怒り、自覚していなかった『父親への殺意』、『恋人に生き返って欲しいと思う純粋すぎる願い』――鼓膜を突き破るような雨音が全てを壊し、かき乱す。暗闇と大雨で視界は悪く、横たわる死体の顔もはっきりとは見えない。混乱が混乱を生み、爆発し混ざり合った全ての欲求そして願望は、――最も都合の良い形をもって……少女の中で、真実になった」
それが――この事件の核心――。
森田は首を横に振る。
「馬鹿な、まさか」
「……そうか」
俺は車の中で鞍馬山に言われた事を思い出した。
渡瀬が生んだ神崎の亡霊は、生まれると同時に、別の人間に取り憑いて、生き続けた。
そういうことだったのか。
「恵依子は自らの意識の中で、『神崎』と『父親』とを完全に入れ替えた。つまり、自分は父親を殺した。そして神崎と家に帰る。――そう思いこんだんだ。その時点で、恵依子にとって、そこにいる渡瀬清一郎は……恋人の神崎となった」
「そんな」
森田は声をあげる。
「そんなことがあり得るのですか?」
森田だけではない。俺も紐解かれた事実に呆然としていた。
正常じゃない。意識の中で人と人を入れ替えて、完全にそう思いこむ。そんなことはとても信じられない。
だが俺たちの周りに展開された数々の事実は、その答えを手に入れたことで、ひとすじの糸として形を持ってゆく。
「恵依子は自らの記憶を都合良く改竄した。現実逃避から生まれた自己暗示……矛盾した言葉の答えもそこにある。まず、恵依子にとって、駅から自分と歩いてきた人物は神崎ではなく、父親になった」
――父親と帰った。
「しかしその途中、恵依子はその父親を殺した。だから」
――二人だけで帰った。
――一緒に帰ったのは神崎だけ。
「そして二人は、何事もなかったかのようにその場を立ち去る。一緒に帰ったのは父親ではなく、神崎だった。二人は帰宅する」
――神崎は家までついてきた。
――あのひとを、ころしたの。
あれは……父親のことだったのか。
俺はよろけて、壁にもたれた。
鞍馬山の声は無感情に続く。
「そして渡瀬清一郎――お前は娘がそう思いこんでいるのを良いことに、今度は神崎になりきって娘と夜を共にしていたんだ。その時お前は、やっと本当に満たされたのだろう」
清一郎は答えなかった。
俺たちもただ放心していた。
「顔や声、知識、口調、それらの相違は全て、狂気の中にいる恵依子の意識内で修正され、恵依子はそれを飲み込んでいた。本人が本人を騙しているんだから、どんどん都合の良い世界が出来上がってゆく。全てはこいつにとっても都合良く動いていた。――だが目前に迫っていたものがある。根岸花織との再婚だ。この再婚と恵依子との交わりは、他人から見ればジレンマの固まりだが、こいつにとってはどちらも捨てがたいものだった。いや……」
瞬きする。
それから、その矛盾を説明するのは無意味だと思ったのか、鞍馬山は話を戻した。
「……ともかく、そうでなくてもいつか恵依子は我に返るだろうし、そうなればどうなるか分からない。だから死なせることにした。簡単なものだ」
清一郎を目で指す。
「こいつは人殺しだが、法的には殺人犯ではない。つまり包丁を刺したのはこいつではない。現実に刺したのは、恵依子自身だ」
「渡瀬が?」
「恵似子自身の手で命を断たせる方法は簡単だ。刃物か何か道具を渡して、恵似子の極めて不確かな自己暗示を解く。ただ本当のことを教えればいい。――だがそれは危険な行為でもある。小さな可能性だが、もしかしたら途端に復讐されるかもしれない。だからこいつは間接的で安全な方法をとることにした。部屋に刃物を置いて、恵依子がそこに入るのを確認してから、ドアを椅子か何かで固定する。それから内線電話を使い、恵依子に真実を教えるんだ。刃物が目の前にあれば……罪の意識と絶望から、恵依子は間違いなく自らの命を絶つ。それは恵依子を育て、その性格を誰よりも理解していたこいつだけに可能な判断だった。計画はそれなりに良く出来ていた」
鞍馬山は机の上にある電話の子機を見ていた。
「しかしそこでイレギュラーが発生する。私たちが家に来てしまったんだ。すでに刃物はセットした後で、もう、取り返しはつかない。だから恵依子がここに来ようとしたとき、こいつは慌てた。私たちが一緒にいたら電話がかけられないからな」
あの時に見せた表情の意味は、そういうことだったのか。
「だが恵依子は、包丁を見てパニックを起こした。当然といえば当然だ。作り上げた仮想世界が悪意に触れて揺らぎ、揺らぎは歪みとなり、そして本来ならば有るまじき、世界の外側が破砕した。悪意は実にシンプルなものだった。即ち――『死ね』。至極明瞭な、刃物という形を持って恵似子の前にそれはあった。恵似子は溢れ出したおびただしい感情と共に悲鳴を放った」
それが、あのときの悲鳴。
「それはこいつにとっては好機といえた。私たちが階段を上ったり、二階を探したりして時間を食っている間に、こいつは恵依子の部屋に内線電話をかけた。真実を伝えたのはその時だ。恵依子は甘い幻から完全に解き放たれてしまった」
その時、俺の眼前に、見たこともないはずの光景が、鮮烈に……そしてゆっくりと、再生された。
包丁を自らの手に取り、その揺れ動く切っ先を見つめる渡瀬。
罪悪感、怒り、絶望、それらが止めどない涙に変わる。
せき止められていた感情が一度に流れ出す。
ドアに寄りかかり、渡瀬は狂気の叫びを上げる。
「父親は憎い。しかし、恵依子が抱く精神的苦痛は――いや、そんな言葉で形容しきれるものではないが……ともかくその感情は強すぎて、恵依子はもう耐えきれなかった。一秒でも早く消えてしまいたかった。――だがそれでは、父親はどうなるか。何もかも忘れ、新しい妻と幸福を手に入れる。そんなことが許されるはずはない」
何もかも忘れて幸せに生きるなんて、許さない。絶対に――。
呪いの言葉を吐きながら、渡瀬は、自らのやわらかな腹部に深々と包丁を突き刺す。
「だから刺したのは腹部なんだ。不自然な死であることを、ほんの少しでも、生きた人間に主張することが、恵依子に出来る唯一の抵抗だった」
「……。それが、抵抗……?」
なんて、なんて儚い抵抗なんだろう。
「私たちはその直後に扉を開け、死体を見た」
床をちらりと見て、
「事件はそれで終了する」
鞍馬山はそう締めくくった。
――終わった。
全ては繋がり、空白は埋まった。
根岸花織は絶句し、茫然と、夫になるはずだった男を見つめている。
鞍馬山は、まだベッドに座ってうなだれている渡瀬清一郎に言う。
「どうだ――何か一つでも間違っているか?」
「私は……私は」
渡瀬清一郎は不気味に呟きながらも微動だにしない。
「私が……悪いのか……?」
ほんの数秒沈黙した後、鞍馬山は問いかける。
「どうして――殺せた? ――教えてくれ。罪は感じないのか? 人を死なせて、幸せを手に入れる事なんて、出来るはずもないのに。一体何を望んでいるんだ……?」
横顔を見ながら、俺は、それが清一郎に対する問いではないらしいということに気付く。
鞍馬山の視線は空をとらえている。
本当は――誰に。
鞍馬山は、今度は真っ直ぐ渡瀬清一郎を見た。
「そんなことは決して許されないんだ。それに隠せない。必ず何かを失う。もう無理だ」
「……るさ、い」
清一郎は突然その顔を上げる。
「うるさい! うるさい、うるさい、うるさいいっ!」
丸く見開き、血走った目。逆上している。
口元から唾が飛び散る。
「お、お前なんかに何が分かる? お前なんかにッ!」
立ち上がりながら、鞍馬山の首に手をかける。
――絞め殺すつもりだ。
「……や……」
鞍馬山はなぜか、怯えたように動かなかった。
「やめて……」
2
苦しい。息が出来ない。血走った目がそこにある。殺される。あの時と――同じように――……あの時?
それはいつだったっけ。
3
「どんなに辛かったか分かるか! 俺はあいつを愛していた! なのに、あいつは、あんな、くだらないクズ男なんかと……どうしてだ? 最初は、あんなに俺のことを愛してるって、あんなに言ってたのに!」
力任せに締め付ける。
4
麻痺する。
熱い。
頭が、――起きてしまう。眼が熱い。
まただ、また、……どうして、こんな、
「やめて」
5
「やめて……お父、さ……やめ……」
鞍馬山は両手で首を絞められ、苦しそうに呻く。
「殺……さない……で……」
「おい、やめろ!」
止めようとする俺を森田が制止する。
「待ちなさい」
「なんでだよ、鞍馬山が殺されちまう!」
「危険だ」
「え――?」
見ると森田の顔は強張っていた。
それだけではない。ぶるぶると震えている。
何かが起ころうとしている。
――みるみるうちに、鞍馬山の瞳が、猫のそれのように縮まった。
「やめ……お父……」
同時に黒目全体が透明な赤に染まってゆく。
赤い猫の目――ネクストの――まさか。
森田は呟く。
「万が一と思っていたが……」
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ごめんなさい。もうしません。いい子にします。
だからお母さんと私を殺さないで。
殺したら――殺したら、私は狂ってしまう。狂ったら――私――ああ、ここはどこだろう。
血の臭い、殺意、獣のような声、ここは――
7
手を放し、ひっ、と清一郎は後退する。
「な、何だその眼、お前は?」
「……私……は……」
目が光る。赤く、暗く、歪みながら。
――清一郎は、
「ばっ、化け物」
――叫んだ。
「あ、た、たすけてくれ! 化け物だ!」
その瞬間、俺の目の前で、鞍馬山の中にある何かが切れたのが分かった。
「違……嫌あ……あああああああああああああ!」
8
――ここは――
ここは、暗い車庫の中だった。
9
鞍馬山は頭を抱え、天井に向かって絶叫した。
聞いたこともないような咆哮だった。
悲鳴にも聞こえた。
そして、頭を掻き毟りながらもがくように動き、辺りの物に手を叩き付ける。
凄まじい打撃音と共に、壁や机が窪み、砕ける。
夢のような光景だ。
力が――あまりにも強すぎる。
「まずい……!」
森田の手が背広の内ポケットに入る。
鞍馬山は動作も確認できないほど速く振り返り、森田の胸を、右手ごと拳で叩く。とんでもない音がした。
「が」
森田は口から血の霧を吹いた。
手と肋骨を潰されたのだろうか。ごとりと拳銃が落ち、鞍馬山が振り下ろした踵でそれを踏みつぶす。拳銃は床にめり込んだ。
「はあ……あ……」
鞍馬山は、また頭を抱えて仰け反った。
苦しんでいるのか、怒っているのか分からない。
赤い眼がぎらぎらと光っている。
根岸花織が近寄ろうとする。
「どうしたの、しっかりして!」
「よすんだ!」
倒れている森田が止める。
そして無事な方の胸から無線機を取り出し、荒い息で下に指示を送る。
「全班、行動開始……建物の周囲に展開せよ」
「た、たすけてくれ!」
四つんばいで逃げようとする清一郎。
それを睨み付け、鞍馬山は、テーブルの上にぶちまけられた物の一つを取り、逆手に握った。
長さ二十センチほどの、西洋の剣をかたどったペーパーナイフだった。
「……にしてるのに」
何か言っている。
「私はいつも、いい子にしてるのに……」
「たすけてくれ、誰か――化け物だ、殺される、たすけて、こ、殺されるっ!」
「うあ……んっ」
鞍馬山の顔が歪む。
「あああっ!」
左手を窓枠に叩き付ける。
大きな窓はその枠ごと歪んで外れ、外へ吹っ飛んで落ちた。
下でごしゃりと音がする。
夜の空が見えていた。
「私……私……は」
夜空をバックに、震えながらペーパーナイフを振りかざす。
――いけない。
「よせ、鞍馬山!」
俺は反射的に飛び出していた。
鞍馬山の細い身体に組み付き、そのまま――足が壁にぶつかり――視界は反転した。
『窓から転落した』のだと認識できたのは、重力が無くなってからだった。
俺たちは宙に浮いていた。
鞍馬山が空中で俺を突き飛ばし、どこかへ消える。
次の瞬間、凄まじい勢いで、背中から叩き付けられた。
二階の出窓か何か――ベランダの――どこか一部、か?
痛みと勢いで認識できない。
俺の身体は弾み、再び落ちる。
途中、またどこかに足がぶつかった。
そして二度目の衝撃。また背中だ。何かが潰れる音がした。
「――っ!」
息が止まった。
ずんと頭の中が揺れた気がする。
「……はぁっ……あ」
背中も腹も痛い。内蔵が口から出そうだ。
だが夜空が見えるから、どうやら生きているらしいということは分かる。
俺が落ちたのは黒い車……多分、窓の下に配置された覆面パトカーの上だった。車が潰れてクッションになってくれたようだ。
とはいえ、俺が体重の軽いチビでなかったら――死んでいたかもしれない。
呼吸を整え、俺はひしゃげた車の上で体を起こす。
ガラス片だらけだ。さっき落ちた窓ガラスと、車のガラス……俺の手や足にも、小さい欠片がいくつか刺さっている。
痛覚が麻痺しているうちに、それらをつまんで抜き、捨てた。破れた皮膚から血が出ていた。
車内には誰もいないようだ。
ふらふらとアスファルトに降り立つ。
多分どこも骨折はしていないと思うが、左の手首をひどく打ち付けていて、そこは少なくとも、捻挫にはなっている。なにせ感覚が無い。
三階から落ちたのだ、これで済んだのは幸運と言えるだろう。
鞍馬山は――
「……どこだ……?」
――銀色のペーパーナイフを持って、道の真ん中に立っていた。
向こうからライトに照らされ、シルエットしか見えない。
「鞍馬山……」
「脚を狙え! 動きを止めろ!」
男の鋭い声と共に、火薬の破裂する音が立て続けに木霊した。
鞍馬山は地面を蹴る。数メートルの跳躍。瞬時に姿は消えた。
俺はとっさに顔を守った。
俺の傍らにある潰れた車のドアが、バカン、ベコン、と鳴る。流れ弾が当たっている。
何かが激しく繰り広げられているのだ。
弾は――幸い、俺には当たらない。
ライトが眩しく、しかも腕で顔を守っているからほとんど何も見えないが、なおも銃声は続き、それに混じってあちこちで悲鳴が上がる。
男たちの悲鳴だ――動き回る複数の影と、地面を滑り、闇の中を跳ね回り、それらを薙ぎ倒す影――。
すぐに何も聞こえなくなった。
射撃していた者たちを全員打ち倒し、鞍馬山は、今度はゆっくりと、こちらへ歩いてきた。
彼らは死んだのだろうか。
俺も……殺されるのか。
近づいてくる。どうすればいい?
縛り付けられるような緊張で、体中から冷たい汗が流れ出る。
――鞍馬山は俺の数歩手前で立ち止まった。
俺は唾を飲み込んだ。
……何を言おう。
下手に刺激すれば一巻の終わりだ。だが、何もしなければ逃れられない。
どうすればいいのか?
曖昧模糊とした意識の中で、ただ一つはっきりと形を持っているのは、目の前に迫った死に対する恐怖だった。
怖い。
死ぬのが怖い。動くのが怖い。……鞍馬山が怖い。
座り込んでしまいたい。
俺は赤い眼を見つめて、そこにある死の重圧に怯える。
鞍馬山も俺の目を見据えている。
夜が止まっていた。
しかし、
沈黙はそう長く続かなかった。
「あ――」
10
やっぱり同じだ。
彼も同じ目で自分を見る。結局同じなのだ。
……それでも。
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不意に鞍馬山は、何かを感じ取ったように声を上げ、顔を歪ませる。
そして目をそらし、苦しそうに両手で髪を掻きむしった。
「……うして……なた、まで……」
震える声。
「なぜ――」
突然、かっ、と目を見開いて、何かを爆発させるように、物凄い早口で吠える。
「なぜ……どうしてなの! 私が私だから?」
うめきとも咆哮とも違う、別人の、
いや、まるで――
「分かってるのよ、産まれたときから知ってたわ。何かが違うってことくらい!」
子供のような声だった。
赤い猫の目に涙が溢れている。
「一生懸命いい子にしてたのよ。そうすれば嫌われない。褒めてもらえる。かわいがってもらえる、って、そう思ったから!」
しゃくり上げ、髪を振り乱して首を横に振る。
「あの時だって、私はちゃんと隠蔽を手伝うつもりだった! だって、お父さんは私のことを好きだって、愛してくれているって思ったから……でも本当は違った! お父さんは心の中では、私のことなんかずっと嫌いだったの! 大嫌いだったの! 気持ち悪いと思ってたの! 優しくしてくれたのも、頭をなでてくれた手もみんな嘘だった! だから、だから今度は……自分ごと造り替えてしまおうと……ちゃんと、好きになってもらえるように……」
自らの前髪をぐしゃりと掴み、喉をくくっ、と鳴らす。
「……だけどそれも無駄……。どう足掻いたって過去も自分も変わらない。あなたも結局、本当のことを知って私を嫌いになってしまったわ」
「鞍馬山」
「やめて、言わなくても分かる! だって私、あなたなんかよりずっと頭が良いんだもの。今みたいに体の中が燃えているときは特に調子がいいの……。ほら、あなたの全身から本当の気持ちが滲み出ているわよ。今あなたがどう思っているか当ててあげましょうか? ――化け物、こんな奴人間じゃない、殺される、来ないでくれ、気味が悪い、傍にいるだけで気分が悪い、触るな、こっちを見るな、消えろ、早くどこかへ行ってくれ!」
悲痛な声でまくし立て、はあはあと獣のように呼吸する。
「……どう……当たりでしょ……?」
まるで、言葉で自分を切り裂こうとしているようだった。
涙がまるで血のように見える。
だから。
腕を下ろし、茫然と俺は立っていた。
緊張が嘘のように解けてゆく。
今――やっと分かった気がした。
鞍馬山はナイフを持った拳で涙を拭う。
「こうなることなんか最初から分かりきってた。叶わない夢を見るからいつも胸が苦しくなる……。本当は私なんて産まれてこなければ良かったのに、死のうとすると僅かな望みが邪魔をする!」
鞍馬山は目を剥き、嗄れた声で絶叫した。
「どうせ逃げてゆく幸せなら、最初から私の前に現れるな!」
――その白い手がナイフを振りかざしても、俺は逃げずに立っていた。
もう全て分かっていたからだ。怖がる意味など無い。六年前――そして今も、みんなが間違っていた。
「逃げねえぞ……お前なんか別に怖かねえんだよ」
そうだ、怖くない。何を怖がっていたんだ。考えてみれば、ずいぶん滑稽な話じゃないか。
「他がどうだろうと俺は違うんだよ。そうだろ? くだらねえ。……俺は違う……俺は違う、俺は違う、俺は違う、俺は全っ然、違うからよォ!」
鞍馬山が地面を蹴って飛び込んでくる。
風のように。
両腕を広げた。
「――来いよ、このバカ女!」
俺は笑っていた。
12
もう一度……
……もう一度、優しい手で触れてほしくて。
13
ナイフは振り下ろされた。
左肩に、どすりと火のような痛みがはしった。
全身に伝わり、響く。
思わず顔が歪んだ。
熱い血が溢れてシャツを濡らす。
だが――
俺の肩に刺さった刃は、そこで止まっていた。
景色の全てが静止していた。
次の瞬間、鞍馬山は我に返ったようにびくりと震え、息をのんだ。
そしていつもと同じ表情を持った、赤い瞳で俺を見る。
「……礼……司」
「おう」
ペーパーナイフを握った手に、俺はそっと、自分の右手を乗せた。
「落ち着いたか?」
「礼司あたし――あ、あたし」
「こんなん気にすんなって」
ペーパーナイフは、数センチ刺さったところで止まっていた。
俺はその刃を持って引き抜く。
激痛が走り、ぱっと血が散ったが、一瞬だった。
「俺は大丈夫だからよ……。気に――す……な……って、おお?」
終わったと思った途端に、俺の意識は急激に遠のいた。
脳から血が抜けてゆくようだ。
全身が痛く、車に酔ったような気分だ。三階から落ちた衝撃が今頃来たのか。
膝が勝手に曲がり、俺は前のめりに倒れた。麻痺していたが、脚も本当はだめになっていたらしい。
「礼司――? 礼司!」
眠る前に見えた鞍馬山の瞳は黒く、俺を抱き上げようとする腕は温かかった。
俺を呼ぶ声は、だんだん遠ざかっていった。
14
狗子は夢中で、胸に抱いた少年の名を呼んだ。
「礼司、礼司……しっかりしてくれよ」
殿山礼司は目を開けない。
「起きろ……死んじゃ嫌だ、……礼司……」
ぎゅっと抱きしめる。
その時、靴下のまま玄関から出てきて歩み寄り、静かに二人の横に立った者がいた。
――根岸花織だった。
彼女は膝をつき、しばらく少年の手首の脈などを診ていたが、すぐに立ち上がって優しく微笑んだ。
「大丈夫、ひどい怪我をして気を失ってるけど、死んじゃうような心配は無いわ」
「本当――?」
狗子は顔を上げる。
その頬を濡らす涙をハンカチで拭ってやりながら、根岸花織りは自慢げに言う。
「本当ですとも。私はこれでも、大きな病院の婦長をやってるのよ。嘘は言いません」
「あ――でも――あたし」
「あらあら、そんな顔したらいけないわ」
またうつむいてしまった狗子の頭に手を乗せる。
「何が起きたのかは、ちょっと、っていうより全然分からないけれど――あなた今、見ているこっちが泣きたくなっちゃうような顔してるわ」
「……だって、取り返しのつかないこと……あたし、したんだ。今も……だから」
「何があったか知らないけど、私の目には、あなたはもう十分苦しんだように見えるわよ?」
「苦しんだ……」
見上げる。
「あたしが……?」
花織は
「まあ――」
と眉をひそめた。
「自分でも気付かないくらい、ずっと、自分を責め続けていたのね」
狗子の頭を、優しく撫でる。
「あなた――さっきだって上で、あんなに泣いてたじゃない。大声出して、もがいて。……何も知らないくせに無責任なことを言うようだけど、絶対に取り返しのつかないことをしてしまったなら、もう、いくら苦しんだって変わらないでしょう? 開き直るのも一つの方法よ」
「根岸……さん……」
狗子はきつく目を閉じた。
ぽろぽろと零れた涙が、礼司の頬に落ちた。
「ありがとう……。嬉しい、……です」
「どういたしまして」と花織は微笑む。
根岸花織は何も知らない。
だから、こんな優しい言葉をかけてくれる。狗子はそれを知っている。
だから今の会話に意味など無いのかも知れない。
それでも狗子は純粋に、嬉しかった。
ときどき目の前をよぎっては、狗子を繋ぎとめる僅かな真実が、またひとつ。
こうして狗子は生きていた。
それから十数分が過ぎて、狗子に攻撃された男たちが全員、防弾スーツにたすけられて無事に生きていることを花織が確認した頃。
一台の黄色い車が到着した。
運転席から出てきたのは黒場勝美であった。
「……これは……」
勝美はその光景に絶句する。
気を失い、道路に並べられた、大勢の男。
見事に壊れた車。
アスファルトの上に砕け散った窓。
散乱したガラス片。
家々の窓から、何事があったのかと道路を見下ろす人たち。
玄関から出て、遠巻きに見ている者もいる。
そして口から血を流して塀に寄りかかっている森田。
殿山礼司は気を失い、狗子に抱かれている。
「狗子――?」
呼ぶと狗子は勝美の方を向いた。
「……あれ。……来るなって言ったはずじゃあ……」
「何言ってんの、心配して来たのに! ああ――もう、ええと」
勝美は混乱していた。
車のボンネットに手をつき、うつむいて考え込む。
そこに花織が歩み寄る。
「あなた――勝美さん、ですか?」
「はい?」
我に返って振り向く。
根岸花織は、遠慮がちに言った。
「あの、さっき……狗子ちゃんに、大体の話は伺いました。小さな頃から色々あったそうで」
「――はあ」
間抜けな返事をしながら、勝美は驚いていた。
狗子が、自分の過去を、自ら他人に話したというのか?
根岸花織は続けた。
「それで――ですね、あの……狗子ちゃんを、怒らないであげてください。話を聞いていて気付いたんですが、この子、とても自分を責める癖があるようなので」
「そう、ですか……」
勝美は頭をかく。さっきは血の気が引いたが、どうやら六年前のような惨事にはならなかったらしい、と分かった。
「ええと、ところで――」
花織の目を見る。
「どちら様ですか?」
「あら、嫌だ」
花織は照れ笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、名乗りもせずに。私は根岸花織と申します。ちょっと縁があってここに居合わせましたの」
「はあ……そうなんですか」
勝美は口を開けて、納得とも独り言ともつかぬような調子で返事を返す。
花織はもう一度「ええ、そうなんですの」と言って肯く。
――二人はお互い、相手に対して同じ感想を抱いていた。
何だかとぼけた人ねえ、と。
森田がこちらに歩いてくる。
「さっき救護班を呼びました。もうすぐ到着すると思いますが、どうします、彼」
左手であばらを押さえ、あごで殿山礼司を指す。
狗子は地面に座り込み、胸に礼司の上半身を抱いたまま、首をこっくりと縦に動かす。
勝美が代わりに答えた。
「結構よ、と言いたいところだけど、お願いするわ。しっかり頼むわよ」
「分かりました。責任を持ってお預かりします」
「あんたもすごい怪我ね」
「ええ。もう今日は疲れました……いてて」
本当は、いてて、どころの傷ではないのだろう。右手をだらりと下げ、口の周りには血がべっとりと付いている。
「諦めるわけではないですがね、今回はちょっと、リスクが大きすぎたようです」
「懲りないわね……。その怪我、狗子にやられたんでしょ?」
「ネクストに――ですよ。右手とあばらを叩き折られました。痛いです。治療費を払ってもらいたいくらいです」
「そのくらいの金、落ちないの?」
「いや、落ちますが、もとは国民が出した税ですからね、出来ることなら出費は小さく……あいたた」
「変なところで真面目なのねぇ」
勝美は肩をすくめた。
同時に――渡瀬家の玄関が内側からゆっくりと開いた。
皆、無言で注目する。
玄関から顔を出したのは渡瀬清一郎だった。
こちらの姿を見ると引っ込もうとしたが、それを根岸花織が呼び止める。
「待って」
そして自身も玄関の方へ歩いてゆく。
「ここへいらっしゃって、清一郎さん」
清一郎は、婚約者の優しい顔につられたのか、おそるおそる歩道まで出てきた。
森田と勝美と狗子は黙って見ていた。
「清一郎さん……」
向かい合う。
花織の笑顔はそこまでだった。
くわ、と憤怒の形相を顕わにし、
「馬鹿男、お前が一番」
振るった平手が空を切り――
「悪い!」
ずばん。
頬ではなく顎に直撃――少々鈍い音が響いた。
「あなたとはお別れです!」
倒れた清一郎の顔を踵で踏みつけ、根岸花織は、広がる夜空にそう宣言したのだった。