第六話【人殺しの慟哭】
第六話
【人殺しの慟哭】どうしてそっとしておいてくれなかったのですか。
ここはあの暗い車庫ではないはずだ。
なのに、どうして、あの時と同じ臭いがするんだろう……。
1
俺は自分でも感心してしまうほど冷静だった。
ともかく、出来るだけ死体やその場にあった物を動かさないように注意して、気を失った鞍馬山を一階の居間まで抱きかかえて運び、混乱状態の父親を一応落ち着かせてから、警察と、それから黒場さんに電話をかけた。
黒場さんは駅ビルの食料品売り場にいたらしい。本人の声の他に、足音や大勢の話し声が賑やかに聞こえていた。
俺は黒場さんに状況を説明し、ここまでの道順を教えながら、『殺人現場に居合わせる』ということに言いしれぬ奇妙さを感じた。
俺は全くの別世界にいるわけではない。渡瀬が腹を刺され、その死体を目の当たりにしても、俺のいる場所は確かに現実の一部である。
なのに、世界から切り離されているような気がした。
殺人事件が起きたという情報は、この家の中だけに充満していて、玄関から一歩外に出れば、そこには何気ない日常の世界が広がっているのだ。げんに黒場さんなどは、電話をかけるまで何も知らずに買い物をしていたではないか。
本当に奇妙な気持ちになった。知らないということが何を意味するのか、ほんの少しだが理解したような気がして、怖くなった。……そう、事件よりも、その微かな実感の方が、俺にとってはよほど怖かったかも知れない。
警察は少ししてから到着した。
俺は顔を上げる。
「自殺――?」
「そうです。常識的に考えますとね」
夢うつつの状態だったので大体の人数すら分からなかったが、とにかくこの家には大勢の人がやってきた。外に立つ者や、近所に何かを訊きに行った者。刑事らしくない、帽子付きの作業着のようなものを着た一団もいたが、それがよく聞く『鑑識』というやつらしい。彼らは三階で何やら作業をしている。
そして今、リビングの小テーブルを挟んで俺と向かい合っているのが、どうやら一番偉い人のようだ。
若くて、やけに物腰の柔らかい銀縁眼鏡の男は、森田と名乗った。
――森田警部補は言う。
「君は高校生としてはかなり冷静だが、さすがに少しショックが残っているようですね……いいですか? あなた方三名は悲鳴を聞き、ドアの前に駆けつけた。その時、悲鳴は――」
「まだ聞こえてました」
答えるのは俺しかいない。
鞍馬山は、この部屋の隅にあるソファに横になっている。まだ目は覚めない。
渡瀬清一郎は気分が悪いと言って、何人かの刑事に付き添われ、二階の部屋で休んでいる。
「そうですね、つまりその時点では、ドア一枚を隔てた向こう側で、渡瀬恵依子さんはまだ生きていた。それから二秒ほどの間隔を開けてドアを開くと――彼女は死亡していた、と。そしてあの部屋には他に誰もいなかった」
「……はい」
「もう言わなくても分かりますね」
「……はい……」
あの時、ドアの向こう側で、渡瀬は絶命したのだ。
だからドアを開けたとき、そこには絶対に『刺した人物』がいなくてはいけない。
だがそこには誰もおらず、また、誰の出入りも不可能だった。
殺人であるはずがない。
大体、渡瀬には自殺の動機まであるのだ。
だが。
「森田さん――」
「ええ、君が言いたいことは良く分かりますよ。自殺にしてはあまりにも妙なことが多すぎる」
森田は俺の台詞を奪ってから、自然な仕草で腕組みをした。
「まず悲鳴……自殺ならば悲鳴を上げる理由はありませんね。それと刺した箇所ですが、腹部。これは珍しい。内臓を傷つけてのショック死が死因となる自殺など、普通ならば有り得ません。大昔の侍や駐屯地で死んだ作家ではないんですからね、普通は手首などを切る。」
そう言って手首を切るふりをする。
「それから使った包丁です。これは君の話を聞くかぎり、外出する前から用意していたとしか考えられない。つまり自殺の意志は最初からあった。突発的な自殺ではない、ということになります。だがそれでは説明がつかないことがある。死亡する直前の行動や言動です。彼女は今日も、父親と自分、きちんと二人分の夕食の材料を購入し、しかも明日は学校へ行くつもりだと言っていた。そして精神状態は非常に安定していた。そうですね」
「……はい」
むしろ不審だったのは父親の方だ。
森田は肯いて「それで自殺するつもりだったなんて、実に不自然でしょう」――と天井を見上げる。三階を見ているつもりなのだろう。
「加えて、あの部屋の状態はどうでしょうか。まるで、ほら密室ですよ、誰も入れませんよと、これ見よがしに主張しているようだ。わざとらしいにも程がある」
俺は黙った。
実際――そうなのだ。あれは本当に、わざとらしい程の『密室』なのである。
なにせ昼間だというのに、きっちりと金属製の雨戸が閉まっていて、ご丁寧に鍵までかかっていた。二つある窓の両方ともだ。通常ならば有り得ない話である。
しかもあの部屋は三階ときている。――つまり外部からの侵入は完全に不可能だ。そして出入り口はたった一つ、俺たちが入った扉のみ。鍵はかかっていなかったが、代わりに俺たち自身が、あの部屋が密室であることの証人となってしまった。
俺は小さく口を開く。
「森田さんはどう思ってるんですか?」
「刑事の見解を聞いてどうするつもりです」
「……いや……」
俺は言葉に詰まる。何となく訊いてしまっただけなのである。
森田は「そうですね」と瞬きをした。「殺人だとしても――自殺だとしても――腑に落ちない。そんなところですかね」
「……?」
「ただ漠然と、こんな予感はしますよ」
森田は微かに身震いしたようだった。
「この事件は一般的な犯罪の定義から大きく外れている。紐解けるのは一般的でない存在だけかもしれない」
「――警部補」
居間に、体格の良い、ごつい面構えをした中年の刑事が入ってきた。
「何だか妙なことが分かりましたよ。あの雨戸ですがねえ、隣家の住人に話を聞いたところ、どうも常に閉まっていたそうで」
「……常に、ですか?」
「いっつもですよ。一年三百六十五日、閏年なら六十六日、ずうっと閉め切ってたみたいで。――で、二階にいる親父にどうしてかと訊いたら、何でも殺された娘は暗闇が好きだったそうなんですよ」
「暗闇――ですか?」
「はあ、暗闇つうよりは、光も入らないような密室……ですな。親父さん、まだ混乱しているようで細かいところについてはさっぱり要領を得ないんだが、話を繋ぎ合わせるとそうなる。被害者は『隙間から漏れる光』が極端に苦手で、いつも、月明かりすら入らないように閉め切った部屋じゃないと眠れなかったと言うんですわ」
「……。それはまた、変わった子だったんですね」
森田は俺の方を見る。
俺は首を横に振る。渡瀬にそんな性質があったなんて、聞いたこともない。
武骨なほうの刑事に訊いてみた。
「その……雨戸が閉まったきりになったのは、どのくらい前からなんですか」
「ん? はっきりとは分からんが、大体三年ほど前からだそうだよ」
「そんなに……」
前から。
森田は肩をすくめた。
「また謎が増えてしまいましたね」
「――あの、森田さん」
次に入ってきたのは、武骨ではないが、やはり森田よりも大分年配の刑事だった。
「どうしました」
「外に第一発見者の保護者が……女性です」
「黒場勝美さんですか」
「ええ、そう名乗ってました」
「通してあげて下さい」
「分かりました。――おい、通してやって!」
玄関の方から、はい、と何人かの男の返事が聞こえる。
俺が、どうして森田が黒場さんの名前を知っているのかと考えている間に、この場には不似合いな買い物袋をさげた黒場さんが静かに入室してきた。
森田は座ったまま頭を下げる。
「どうも、警部補の森田です」
「よく言うわ」
見下ろす黒場さんの言葉には、警戒するような敵意が込められていた。
どうやら二人は知り合いで、しかも険悪な仲であるらしい。一体いつ、どこで知り合ったのだろう。
俺の知らない世界が目まぐるしく展開されている。
俺と、向こうで眠る鞍馬山をちらと見てから、黒場さんはソファの一つに腰を下ろす。
緊張感が漂っていた。
「ええと――説明、必要ですか?」
「あんたとは長く喋っていたくないわ。何なの? ただの公務員みたいな顔して、こんな所まで出てきて」
「お分かりでしょう、私たちはただ、狗子さんに目を覚ましていただきたいのです」
――鞍馬山とも面識があるのか。
そういえば、あいつは以前「知り合いに警察関係者がいる」と言っていた。あれはここにいる森田のことだったのだろうか。
「うちの子や礼ちゃんに何かしてないでしょうね」
「人聞きの悪い」
「もう話は終わったんでしょう? 二人を連れて帰るわ」
「残念ですがそれは出来ません」
「何ですって?」
「気を失った狗子さんは、あなたが早く連れ帰って介抱してあげればいいでしょう。しかし殿山くんにはまだ訊きたいことが残っています。話したいこともね」
「……あんた……まさか」
黒場さんの顔が青ざめる。
横から武骨な刑事が森田に言う。
「警部補、その処置は少し――一応その子はうちの方で、気が付くまで手当を」
「全権は僕にあると説明を受けているはずですが」
その一言で刑事は黙った。
森田は黒場さんのほうへ向き直る。
「では黒場さん、狗子さんを連れてお帰り下さい。くれぐれも事故には気を付けて」
「やめて――」黒場さんの声がわずかに震える。「あの子から、これ以上何を取り上げるつもりなの? あの子はやっと――」
「何も取り上げるつもりはありません。失ったものを取り戻させてあげるのですよ。大体ですねぇ、黒場さん」森田は横目で俺の方を見た。「この少年を騙し続けて、罪の意識はないのですか? 僕は真実を伝えることこそ本当の優しさだと思うのですが」
「……あんた、人でなしだわ」
「人間でないのは、僕の方じゃない」
森田は冷たくそう言った。
結局、鞍馬山は数人の刑事に抱えられ、玄関の方へ運ばれていった。
黒場さんは――俺に何か言いたそうだったが、刑事たちに歩けと促され、どこか悲痛な余韻を残して、この部屋を出て行った。
さらに森田は、ここにいる数人の刑事たちも排除する。
「君たちも少しの間、ここから出て行きたまえ。大事な話をするのでね」
刑事たちは困惑しながらも、逆らわずに、どやどやと二階へ移動した。
――そして居間は静かになった。
「これで一対一ですね」
「何のつもりだよ」
俺はもう、この男がどんな人間か悟っていた。
こいつは『いやな野郎』だ。それ以上でもそれ以下でもない。
森田は笑った。
「態度が変わりましたね。いいですよ賢くて。そんな君だからこそ、任せたい仕事がある」
「仕事……?」
「そう。眠っている『ネクスト』を覚醒させていただきたい。全てを踏まえた上でね」
わけのわからないことを言って森田は俺の顔をのぞき込む。
「始めに訊いておきますが……あなたは、狗子さんが、常人の二倍以上の知能指数を誇る天才だということを知っていますね」
「ああ」
「では――そうですね、眼のことは?」
「!」
「驚きました、それすら知っているのですか」
俺が眉を動かしたのを、森田は見逃さなかったようだ。
「本人から聞いたのですか? 例えば六年前のこととか」
「……いや」
「では、どうして知っているのです、まさか――」
「見たんだよ。夏休み前と、ついさっき。二度とも、倒れたときに赤くなってた」
「それは――そう――ですか」
森田は少し動揺したようだった。
「まあいいでしょう。まさかそこまで揺らぐとは思わなかったが――もしかしてこの事件は、思った以上に危険なものかも知れませんね。一部が重なり合っているのかも知れないな。まあ、それならそれでやり方はある」
「何のことだよ」
問いには答えず、森田はずいと身を乗り出した。
「さっきも少し言いましたが、君には把握しておいてほしい事があります。とても大事なことです。少しショックは強いかも知れませんがね」
眼鏡の奥からじっと俺の目を見据える。まともな感情があるのかどうか疑いたくなるような目つきだ。
「君は恐らく、狗子さんがどうして両親と暮らしていないのか、知らないでしょう」
「ああ……」
「やはりそうですか。では、例の事件についても全くご存じでない」
「知らねえよ。……回りくどい話し方しやがって」
森田は脚を組み、その上で自らの指を組み合わせた。
「そうですね、何から話しましょうか」
天井を見る。
「やはり事の発端から説明するのが一番ですね。六年前に起きた、あの密室殺人事件のことからお話ししましょう」
「――密室――殺人?」
「そう、大概ドラマの中でしか聞かないような言葉ですが、実際に起きたのですよ。この日本でね」
奇術師のように胡散臭い仕草で眼鏡を直す。
「細かいトリックなどは面倒ですので省きます。まあ、ある程度賢い人間が数日じっくり考えれば解ける程度のもの――くらいの認識をしていただければ」
「その事件と鞍馬山の眼と、何か関係あるのか」
「無いと言えば無いんですが、有ると言えば有ります。たまたまその事件が発端となっただけなんです」
「……?」
「まず、その事件における犯人の名前を教えておきましょう。犯人の名は鞍馬山健三。狗子さんの父親でした」
「親父……鞍馬山の? 鞍馬山の父親が人を殺したのか?」
「そう。そして被害者はその妻である鞍馬山広美でした」
「親父がお袋を殺したのかよ!」
「ええ、そうですよ」
「嘘だろ――」
全く初耳である。まさかそんな……。
森田は軽い口調で続ける。
「後から調べたところ、鞍馬山健三には、事件の一年ほど前から付き合っていた女がいたそうです。同じ歯科医の仲間だったらしいですが。まあ後はどうとでも想像できますね。そして今そんなことは重要ではない」
「そんな――」
父親が、その妻を――つまり鞍馬山の母親を殺した?
そんな過去を、あいつはずっと胸の中にしまっていたのか。
俺は何ともいえない感情に包まれ、内心激しく動揺しながらも、今森田に訊くべきことを探した。
「それで――今、親父は?」
「いません」
「そんなことは分かってるよ。どこに行ってるんだって聞いたんだ。まだ刑務所か? それとも捕まってないとか」
「違いますよ、この世にいないんです」
「死んだ……死刑になったのか」
「知識が乏しいんですね。今度僕の家に来なさい。一般常識程度の法律に関する知識を叩き込んであげます」
「違うならどうして死んだんだよ」
「彼もまた別の者に殺されてしまったんですよ」
「殺された?」
よく分からないが……とにかく、鞍馬山の親は二人とも既に他界しているわけだ。あまりに唐突な話で、それを可哀想だなどとも思えなかったが、やはり複雑な気持ちになった。
俺は森田の目を見て訊いた。
「それで……その、鞍馬山の親父は誰に殺されたんだ?」
母方の家族に復讐されたか、はたまた全く関係ないところで死んだのか。
森田は答える。
「その事件のパズルを解いた者に――です」
「警察官か」
「いえ、当時十歳だった少女です」
「……。え?」
ちょっと待て。
森田は微かに笑っていた。
「事件現場に居合わせた少女は、その場で、父親の作り出した絡繰りを解いてしまった。まだ十歳だったとはいえ超人的頭脳の持ち主ですからね。簡単だったでしょう。しかしそのせいで鞍馬山健三は逆上し、彼女にまで襲い掛かった。だから返り討ちにされたのです。――彼は、手を出しては行けないものに触れてしまった」
「何つまんねえ冗談言ってるんだよ」
「冗談に聞こえましたか」
「当たり前だ。いくら鞍馬山がバカみたいに強くたって、十歳の子供が大の男に敵うわけないだろ。ましてや殺すなんて」
「ええ、彼女がただの人間ならね」
「どういう意味だ、それ」
「それを説明するのが難しいんです」
森田は腕組みをする。
「ええと――そうですね、君はダーウィンの進化論を知っていますか」
「……ああ?」
突然話が飛んだ。向こうの考えが全く読めない。
森田は自分の指をいじりながら話す。
「現在でもなお最も有名な考え方ですね。しかしあれは一つの仮説であって完全に証明されたわけではない。最近になって、一部専門家の間で新たな説が有力視され始めています。『次世代的変異遺伝子論』……我々の間では『ネクスト進化論』と呼ばれています」
「……何だよそれ」
「ダーウィンの進化論には大きな欠陥がある。ただ環境に馴染むように、無駄が無くなるように、一定速度でその形状を変えてきたにしては、人類の進化があまりにも急激すぎるのです。ある時を境にして革新的な進化を遂げる――それを繰り返してきたように見える。……要するにですね、偶然か必然かは別問題として、時たま、進化の道のりに大きな『転機』が訪れることがあったのではないか……そういう考え方なんです」
「転機って――どんな」
「それがつまり狗子さんのような『変異体』なのですよ。ある時期に優れた突然変異体が現れ始め、増殖し、やがて全世代に代わって次の時代を支配していったと考えれば、全て納得できる。そう――新世代は過去からの緩やかな延長線上にあるわけではなく、ある意味では完全に別のものだとしたら」
「変異体……」
俺はその言い慣れない言葉をリピートした。
別のもの。
人間ではないもの。
森田はまた眼鏡を直した。
「もちろん交配を繰り返せばその遺伝子は段々と元の形を失ってゆく。要素はそのまま継続するとしても、血が薄まってゆくわけですね。全ての進化が原始よりプログラムされているものだとすれば、それも予定されていることでしょう。だから発生時の新種は最も優れた――いや、『濃い』力を持っていると考えられる。そう、生物としての安定性を欠いてしまうほどの、恐ろしく強い力を」
「……赤い眼が、それの印ってわけか?」
「ええ。進化の度、知能の発達に比例して弱体化してしまった身体能力を補うための、一種の自動的な自己防衛システムなのか……それともまだ不安定でコントロールしきれない未知の力なのか。今はまだ、光の吸収率が高くなりすぎてしまうため虹彩が縮まるということくらいしか分かりませんが、何にしろあの猫の目が現れたとき、彼らの――他にも世界で数人だけその存在が確認されています――身体機能は人間のレベルを大きく超え、肉食獣以上の運動能力が発揮されるのです」
「親父に首を絞められて、自分の身を守るために、鞍馬山もそうなったのか」
「実に話の飲み込みが早い。狗子さんが好意を持つ理由も分かりますよ。落ち着いているし、何より包容力がありそうだ。しかし今はとても動揺しているでしょう? 否定しても分かりますよ。親しい友人が――あ、まだ友人の関係ですか?」
「関係ねえだろ」
「失礼しました。とにかく彼女が我々とは違う存在で、しかも実の父親を殺めたなんて、すぐには信じられないでしょうからね」
確かに信じられない。森田の話からは完全にリアリティが欠如している。
だが俺は必至にそれらの事実を、信じようとした。いや、把握しようとしていた。ぎりぎりのところで理解の範疇に納めようと必死だった。
鞍馬山を。あいつの存在を。心を。そうしないと――。
俺は言い返した。
「だから何なんだよ。あいつが突然変異だろうが何だろうが、殺されそうになって暴れたなら、正当防衛ってやつだろ。別に悪いことじゃねえよ」
それは表向き、鞍馬山をかばうための理屈であったが、俺が発言した目的は違っていた。
父親を殺めた動機を明確なものにし、行動理念を理解したかったのだ。そうならば、そうならば俺はまだ、人間としてあいつを位置づけることが出来る。突然変異や進化云々なんて関係ない。そんなのは、変な話だが、漫画や映画で慣れっこだ。どんな過去や事実があっても、把握ができていれば、俺のあいつに対する認識は変わらない。
そう思った。
だが森田は言った。
「ついでに、その場にいた従兄弟の二人も同時に殺したんですが、それでも正当防衛ですかね」
「え……」
「彼らは必死に狗子さんをかばっていたらしいですよ。彼らは自分を助けようとしてくれた――そう狗子さんもはっきり言っていました。意識ははっきりしていたわけです。ちゃんとした、というのは語弊がありますが、少なくとも目的意識を持って、従妹を含めた三人を殺したのですよ。パニックになって殺してしまったわけではなく、記憶もあるわけですし、冷静にそれを話すことも……」
「……」
――だめだ。
だめだ、越える。俺のちっぽけな許容範囲を。
俺は焦って森田の言葉を強引に切る。
「待てよ、どういうことだよ。……どうして」
「さあ。我々にも理解しがたいところなんですが、彼女が言うには『私はお化けじゃないのに』とか何とか。我々のような並の人間には理解不能です。一応こちらの方で、妻を殺した現場を目撃された父親が、二人を殺して焼身自殺した――あ、実際は狗子さんが三つの死体に火をつけて、その場に立ちつくしていたわけですが――まあ、そういうことにしておきました。隠蔽というやつです」
「……、何だよ、それ……」
俺は頭を抱えた。
もう分からなくなった。
向こう側からぎりぎりと引っ張られても必死に握りしめていた縄の先を、ふとした拍子に放してしまったような感覚だった。
縄の先は闇の中へと吸い込まれてゆく。
森田は俺の表情を観察しながら言った。
「話を取り敢えずの必要事項だけにまとめましょう。語ることがあまりにも多すぎる。……まず第一に、我々は狗子さんを強く欲しています。未知の身体能力ではなく、単純にその高い知能を必要としているんです。当然あの知能も、人とゲノムを異にする新種『ネクストタイプ』特有のものですが――。彼女がいれば、きっと法治国家としての日本を完全な形へと導くことができる。そういう意味では、あの事件が起きたことは幸運でしたね。彼女が三人を殺したことで、我々は他の何者をも介さず、いち早く彼女の存在を認識し、分析することができた」
「……それで?」
「しかし彼女は我々の所へ来ることを拒みます。何故か? 君がいるからです、殿山礼司君。もちろん他にも様々な要素があるんでしょうが、僕の見たところ、一番のネックは間違いなく君だ。君が彼女を俗世に縛り付けている」
「……」
「大人でもぞっとするような容姿ですからね、君も憎からず思っていたはずです。そして何より、親しみやすいあの人格。……しかし、ここまで真実を知った今も、まだあの性格が本当のものだと思いますか? 全て演技だとは思いませんか。何人ものヒトをいとも簡単に殺してしまう自分を恐れるが故、彼女自身が作り出した、順応のための……現実逃避のための、仮面だとは思いませんか」
「……でも」
「でも、何です?」
「……」
何も――
言えなかった。
認めたくはないが、俺の中にいる鞍馬山は、完全に形を失っていた。
怖くなった。
それだけではない。信じられなくなった。
もう、あいつが誰なのかすら、分からなくなっていた。
俺は小さく訊いた。
「……どうしろってんだよ、俺に」
「簡単です」
森田はわずかに笑う。
「これだけの状況がそろっているのですよ。近しい者たちが変死を遂げ、その周りには、これでもかというほど多くの謎が散らばっている。完結しているようで完結していない。そして彼女には恐らく全ての答えが見えている。――踏ん切りを付けてもらうには絶好の機会だ。ちょうど君の幻も解けてしまったことですし、ここらで学校ごっこもやめ、黒場さんの所からも出て、偽りの環境から足を洗ってもらえれば、我々にとってそれほど嬉しいことはない。やろうとしているのは、言ってみれば儀式のようなものです」
「あいつにこの事件を解決させて、そのままお前の良いように引っ張り込むんだな」
「君に僕のやり方を咎める権利がありますか? ほんの数分で、彼女を信じることすら出来なくなった君などに」
「……」
また何も言えなかった。
森田は立ち上がる。
「君にはこれから、狗子さんを説得してもらいます。どうか君の手でお別れの握手をしてあげて下さい。でなければ、僕が残酷な言葉を口にしなければいけなくなりますから」
2
「――ああそう」
無感動にそれだけ言い、狗子は受話器を置いた。
森田からの電話であった。
気絶してから分かった事件の詳細を事細かに伝え、最後に一言、嬉しそうな声で『彼に色々と伝えておきましたから』――。
特に腹は立たなかった。
森田は何も間違ったことなどしていない。
振り返ると勝美が泣きそうな顔をして狗子を見ていた。
狗子はくすりと笑うふりをした。
「どうしたんだい、変な顔して」
「……狗子……」
狗子は顔を背けて玄関の方を見た。
「多分もうすぐ礼司が来る――。少しの間、奥の部屋にいてくれないか」
「……あんた」
「頼むよ」
そう言って片目を閉じる。
勝美は何も言わず、うつむいたまま、自分の部屋へ入って扉を閉めた。
――狗子は息をつく。
ピンポンと呼び鈴が鳴った。
「おや、以外と早かったなあ」
3
インターホンが、いつもと同じ鞍馬山の声で喋る。
『礼司?』
「……ああ」
『入りなよ。鍵開いてるから』
「……分かった」
玄関を開けて入った俺は、ゆっくりと靴を脱いで上がり、廊下の終わりで立ち止まった。
鞍馬山は冷蔵庫からアイスコーヒーの紙パックを取り出しつつ笑う。
「どうしたんだい、そんなところに突っ立って。座ったら?」
そう言われて俺はいつもの椅子に腰掛けた。
「――」ぽつりと。「何しに来たか訊かないのか」
「どうせ森田から説得を頼まれてきたんだろ。いいよ、もう決めたから」
「決めたって……?」
鞍馬山は俺の向かいに座った。
「あたし、これからは森田の言うとおりにする。と言うより、あいつの言うような道を選択することにした。いつまでも今の状態に固執してたって何の得もないしね。学校も辞めることにしたよ。ここも出る」
「お前」
「ちょうどいい機会だからさ。お前らと会えなくなるのは正直少し寂しいけど。――そうだ、お腹すかないか? 晩ご飯食べてないだろ」
「……?」
よいしょ、と鞍馬山は立ち上がる。
「ご飯余ってるから、おにぎり作ったげるよ。中身は鮭でいい?」
「ん……ああ」
何を考えているのだろう。
鞍馬山は対面式キッチンの向こう側に回り、手を水で流して塩を付け、電子ジャーからすくい取った白米を握り始めた。
「あちち――もう大分前にお釜の電源切ったんだけどなぁ。あんまり冷めてないや」
「……大丈夫か?」
「ん、平気。ねえ礼司、初めて会ったときのこと、憶えてるかい?」
「……何となく。中等部の合格発表ん時だろ」
「そうだよ。正門の前で会ったんだ。付き添いのお母さんに向かって『受かった』、『やったよ』とか口で言ってる割に、なんだかつまらなそうな顔したチビと目が合ってさあ」
――よく憶えている。
大した目的意識もなく、親に勧められるがまま勉強をして合格したもので、あまり成功の実感がなかったのだ。
今でこそ、高校受験を経験せずに、楽に中学生活を送れたことに感謝しているが、あの時の俺には大した喜びもなかった。
「どうだった、あたしの第一印象は」
「きつそうな女だと思ったよ」
それに色々な意味で魅力的で、同時に残酷そうだとも思った。本能的に、リーダーシップを利用して人を傷つけるタイプの人間であるようにも感じ、少なからず警戒したものだ。
だからその後同じクラスになったとき、意外な温かみに驚いた記憶がある。
だが俺はそれを口に出さなかった。
「そうかい。きつい女、か」薄く笑う。「あの時ね――あたしは始めから試験も何もなくて、あの日も校長に挨拶だけして帰るところだったんだよ」
「そうだったのか」
「うん。知能検査なんかはもう、森田に連れて行かれた施設で一通り受けてたからね。普通は中学に入学した時点で受けるわけなんだけど、あたしは一足早く国定特別奨学生のレッテル付きになっていたわけさ」
「施設?」
「ああ、変な場所だったよ。一年以上そこにいたんだけど、もう毎日モルモット扱いでねえ。いや、一方ではやたらと大事にされる分、不自然でもっと不快だったね。――完璧に命の安全を保証されている環境で、変な実験にウンザリするようなテストの繰り返しだ。過去に起きたありとあらゆる……もちろん未解決のものも含めた事件のファイルを山ほど見せられて解かされたり、それから……そうだ、裸にされて調べられたこともあるよ」
「そんなことされたのかよ」
「あの時はさすがに何とも言えない気分になったね。あと、赤い眼の状態になるようにわざと痛めつけられた事もある。結局一度もならなかったけど。――よし一丁上がり」
白い皿に小さめの握り飯が三つ乗せられている。
「どうだい、ちゃんと三角のやつだぞ。すごいだろ」
「女がそれくらいで自慢すんな」
「豪勢に海苔まで付けたんだ、ありがたく思え」
皿をテーブルに置き、鞍馬山はまた俺の向かいに座る。
「手、洗ってきたら?」
「別にいいよ。なあ……ホントに食っていいのか、これ」
「変な遠慮をする男だな。お前のために作ったんだから食べても良いに決まってるじゃないか。そんなことよりお前の気持ちの方が問題だろうに」
「俺の気持ち?」
「三人も手にかけた人殺しが作ったおにぎりだぞ。気持ち悪くないのか?」
「え――」
「ほらね、躊躇した」
鞍馬山はテーブルに頬杖をつく。
――忘れていた。
そうだ、あまりにもこいつのテンポが普段通りだったから、さっき聞いた話も、渡瀬の死も。
術中にはまっていた。そんな感覚だ。
鞍馬山の瞳の奥から、何か別の物がこちらを覗いていた。
「言っておくけど、あたしはお父さんを素手で殺したよ。まずは左の眼球を狙った。まだ小さかった手を眼窩に押し込んで中身を潰し、かき回した。それによるショック死が目的だったんだけど、意外にしぶとく暴れ続けたから、今度は首の付け根あたりに人差し指で穴を開けて、うずくまったところで、後頭部を思い切り殴って殺した」
「鞍馬山……」
「従兄弟の二人はもっと簡単だった。お兄ちゃんは、つかまえて喉笛を掴んで、そのまま思い切り引っ張ったら簡単に気管と肉が千切れて死んだし、お姉ちゃんは正面から顔を殴ったらへこんで、仰向けに倒れて死んだ。あたしの全身はどろどろで真っ赤になった。全部この手がやったんだ。物凄く力が強くなってたから簡単だったよ」
そう言って俺に手のひらを見せる。
俺は改めて皿の上に乗った握り飯を見た。
何の変哲もない米の固まりが、急に血生臭いものに見えてきた。
自分の顔が青くなってゆくのが分かった。
鞍馬山はあっけらかんとした口調で言った。
「ほら、よく考えてみると気持ち悪いだろ。だからこんなもの食べなくていいんだ。『気持ち悪いからいらない』とはっきり言ってくれ。その言葉であたしは気持ちの整理をつける。そのために握ったんだよ、これは」
――焦った。
「く……食うよ」口をついて出ていた。「腹減ってるから。それに、そんなこと関係ないし」
俺は握り飯の一つを掴んで口に運び、一度に半分ほど囓って頬張った。
鞍馬山は頬杖をついたまま呟く。
「無理しちゃって」
その言葉も無視して食べ続けた。
一つを腹におさめ、二つ目に手を伸ばす。
が――
「……んっ……え」
不意に気持ちが悪くなった。
胸に何かが詰まったわけではない。
何かが拒絶している。初めての感覚に戸惑った。
異の中に入ったばかりの米が逆流してくる。
在り得ない血の味と共に――。
「……っ!」
手で口を押さえ、俺はトイレへと走った。
明かりも付けずにドアを開け、洋式便器の前に跪く。
そのまま嘔吐した。
吐瀉物と水面がぶつかって、どぼどぼと鳴る。
頭上で鞍馬山の声がした。
「本当に優しいよなあ、礼司は。呆れちゃうくらいだよ。でもねえ――気持ちは嬉しいけど、無理はしない方がいいよ」
俺の肩に手が触れる。
「もう平気かい?」
ぞくりとして、俺は反射的にその手を払いのけていた。
「な――ん、なんだよ!」咳き込みながら俺はまくし立てた。「わかんねぇよ……お前、どうしてそんなに平気な顔してるんだよ! ずっと……っ!」
止まらなかった。
「なんで……分かんねぇ……お前のこと全部! 何も」
「分かるわけがないんだ」
「え……?」
見上げても、暗くて鞍馬山の表情は見えない。
鞍馬山は背を向けた。
「何でもない。ごめんな、変なもの食べさせて」
「……く……」
「あたし平気だから、もう友達やめていいよ。お前は優しいし、これから先も、あたしと一緒にいようと思えばいられるだろうけど――それはもう『本当』じゃない、不自然な形だから。嫌なのに無理矢理一緒にいたって苦しいだけだろ」
「違――俺は……」
「今までありがと。騙してたみたいで悪いね」
穏やかな声でゆっくり言って歩き出した。
一歩ずつ、向こうの方へ。
――行ってしまう。
何か、何か言わなければ。今までの全てを修復できる言葉を探さなければ。
「で……でも」
歩いてゆく鞍馬山の背中に。
「でも俺、好きなんだ」
それが俺の口から反射的に出てきた言葉だった。なぜそんな、場違いで突拍子もない言葉が出てきたのかは分からない。とにかく必死だった。
――滑稽なくらいに。
「俺、お前のことが……本当は」
空気が重くなり、俺は胃液混じりの唾を、ごくりと飲み込む。
続く言葉は見つからず、外に出てしまった声は、どこへも逃げて行けずに空中を漂っている。
指先が痺れていた。
鞍馬山はこちらを向かず、立ち止まって舌打ちした。
「……。馬鹿じゃないの、お前?」
感情のない声だった。
これが地声なのかもしれない。
「せっかくだけどお断りしとく。正直言って、もう、そんな言葉は嬉しくないから」
鞍馬山は続けてそう言い、また歩き出した。
そのまま居間に入り、内側から、ゆっくりとドアを閉める。
その後、きし、と、椅子に腰掛ける音がした。
あとは沈黙があった。
沈黙は長く続いた。
息を吸い――俺はドア越しに問いかける。残ったのはもう、背中を掴もうとする言葉ではなく、単純な質問だった。
「……。……一つだけ訊かせてくれるか……?」
ひどく小さな声しか出なかった。
もう全てに現実味がない。
鞍馬山は一呼吸後、面倒くさそうな声を返してきた。
「何?」
「どうして関係のない人たちまで……」
殺したんだ?
その手で。俺と腕相撲をしたり、後ろから不意打ちでヘッドロックを決めてきたり、繋いだまま眠りもした、俺にとって多分、一番身近だった――その温かい手で。
「そうだね」
声が笑っている。
「あたしが『お化けだから』、かな」
「……そんな……」
やっぱり分からない。理解できない。
結局そうなのか。
今までずっと――こいつは――。
声はまた、冷たく変わった。
「おままごとは終わりだ。お互い大人しくお家へ帰るとしよう、礼司」
今度こそ本当に会話の終わりだった。
「ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました。ごめんなさい。……サヨウナラ」
4
礼司が廊下を歩き、靴を履き、玄関から出て行く音を、狗子は脚を組んで椅子に腰掛けたまま、目を閉じて聞いていた。
立ち上がり、狗子は一人で皿を片付ける。
皿には食べかけの握り飯が乗っている。
奥の部屋の扉が開き、勝美が顔を出す。
「――狗子」
「ん」
「礼ちゃん帰ったの?」
「全部聞こえてただろ。帰った」
答えながら皿をキッチンに運ぶ。
勝美は、涙ぐんだ目を強くこすったらしく、微かに赤くはらしていた。
「狗子……」
「何だよ」
「あんた、本当に出て行くつもり?」
三角コーナーの生ゴミに、握り飯がどさどさと加えられる。
「いつかこうなるって分かってただろ……思っていたより少し早かっただけさ。今まで世話になったね。飯、けっこう美味かった」
「……そんなこと」
勝美は鼻をすする。
「そんなこと、言わないでよ」
狗子はキッチンから出て再び椅子に座る。
「やっぱり――あたしにハッピーエンドなんて有り得ないんだよ」
勝美は狗子に歩み寄る。
「そんなの自分で思いこんでるだけでしょ? 礼ちゃんなら、話せばきっと……」
「無理だよ。それをさっき確かめたんじゃないか」
「だから、」
「それにね。分かるとか分からないとか、そんな問題じゃないんだ。あれは絶対に正当化できないし、するつもりもない。どう足掻いたって無駄だ。大体、本当のあたしを知って一緒にいてくれる人間なんて、どこにもいない」
「そんなことないわよ。礼ちゃんとあんた、ずっと一緒にいたじゃない。ちゃんと説明すれば――」
「全て許し、分かってくれるって?」
「そうよ。私だって」
「お前も理解してるって言うのかよ!」
拳をテーブルに叩き付ける。
勝美は、ひい、と鳴いて尻餅をついた。
空気が重く固まった。
――取り返しのつかない沈黙だった。
床に転がった勝美の姿を見下ろし、狗子は笑った。
「はは」
ゆらりと席を立つ。
「何だよ、そんなに驚くことないじゃないか」
勝美は急いで立ち上がる。
「い、狗子――ごめんなさい、私――」
「何謝ってるんだよ、変な奴だなあ」
狗子は笑いながら自室のドアを開けた。
「あたしもう寝るよ。色々あって疲れちゃった。あ――そうだ、礼司に言いそびれた事があるから、電話で伝えておいてくれないか」
「……何?」
「明日の夜、恵依子の家で一連の出来事を全て片付ける。関わったお前には知る権利があるから、来たければ来い、って」
「片付けるって……」
「吐き気がするような内容の、しかも長たらしい演説が必要になりそうで気が進まないけど、それが恵依子の遺志でもあるからね。――あ、そうだ、恵依子を殺した奴の名前も分かってるから教えておくよ。これも礼司に伝えてくれ」
暗い部屋に一人、入ってゆく。
「渡瀬清一郎……あいつがやったんだ。ひどい方法でさ」
「それって――」
「父親だよ」
狗子は面倒くさそうに答える。
「実の父親だ」
ぱたん、と扉は閉まった。
勝美はただ一人放心していた。
5
渡瀬恵依子死亡から一日が経過した。
現在、七時三十二分。
ここは渡瀬宅前である。
これより行われるのは、重要な実験だ。……そう森田は考えている。
ネクストが暴走する可能性もゼロではなく、やはりリスクは伴うが、それで鞍馬山狗子の本来の自我が覚醒するならば、安いものだ。
ゼロではない可能性のために十分な準備もした。周囲に覆面パトカーを七台、分散させて配置。車内にはそれぞれ四人ずつ、計二十八の駒が詰め込まれている。彼らにはマニュアルのみが手渡されており、余分な情報は一切与えられていない。
これらは万が一のためだが、決して大げさな用意ではない。
――そろそろ来るか。
森田はアスファルトに煙草を放り、踏みにじった。
背をもたれているのは、渡瀬家の塀である。
中にいる渡瀬清一郎は、もちろん、外の状況に気付いていない。音をたてずに全てを行ったからだ。今日用意したのは、『そういうこと』の出来る人員たちである。
こちらへ歩いてきた少年に気付き、森田は例の笑顔を見せる。
「来ましたか、殿山君」
殿山礼司は森田の前で立ち止まる。
そして殴った。
森田は特によろけもせず、やはり笑いながら頬をさする。
「八つ当たりとはね」
「余計なことを教えやがって」
「私が何も教えなければ、狗子さんと仲良くしていられた……ですか? 彼女は加害者だが、ある意味では被害者なんですよ。心は傷だらけだ」
「何が言いたいんだよ」
「あなたが本当に彼女のことを思うならば、僕の言葉などに惑わされず、彼女の全てを受け止めてあげれば良かったのではないですか。――君は真実の重みに押し潰されただけだ」
森田はくくっと笑った。可笑しくてたまらないのだ。
唇を噛み、少年は森田を睨み付けていた。
胸に付けた小型無線が鳴る。
「……何ですか。ああ……そうですか。では予定通りの準備をお願いします。あなた方の出番がないことを願っていますがね。……いや何、こっちの話ですよ――、おっと」
壁から背を離す。
「主役の到着だ」
ぷつ、と無線を切る。
ゆっくりと歩いてきたのは、鞍馬山狗子だった。
闇の色に染まった空気の中を、一歩一歩、こちらへと、真っ直ぐに。
そして光の中に足を踏み入れ、全身に照明を浴びる。
その姿が明らかになった。
――美しい。
森田は見とれた。六年前の顔だ。無駄な揺らぎのない、完全な表情だ。
いつも首の後ろで結ばれていた長く茶色い髪は、今、解かれていた。
森田は頭を下げる。
「お待ちしていました。渡瀬清一郎はこの中にいます。まだ我々が来たことに気付いていません」
「……」立ち止まる。「……そうか」
特に感想はないようだった。
そして横目で殿山礼司を見る。
「来たんだな、殿山君」
「……あ、ああ」
殿山君と呼ばれたことに、少年は戸惑った様子だった。
――森田は不快だった。
狗子が殿山礼司に対する呼び方を変えたのは、自分の気持ちを誤魔化すためだ。そこにはまだつまらない未練が残っている。
まあ、それもいずれ消えて無くなるだろうが。
狗子は家を見上げた。
「仕方がないな。この事件はいずれにせよ、私が解くほかにない」
「どういう事です?」
森田が問うと、狗子は、はっきりと言った。
「この事件は正常じゃない」
声は夜に響いた。
森田は興味ありげに聞く。
「それは一体どういう意味での言葉ですか」
「あの施設でお前らに見せられた数多の事件ファイルの中にも、こんなケースは一つとして存在しなかった。これは……この世に起きるべき事件じゃなかった」
冷ややかな目で森田を見る。
「待っていろ。これから全てを説明してやる」
「そうですか」
森田は露骨に、期待にあふれた顔をしていた。
玄関のドアは内側から開いた。
明かりに気付いて出てきたのだろう、渡瀬清一郎が、顔を覗かせる。
こちらを見たその表情は慄いていた。
狗子は彼を見据えて言った。
「――出てきたか……」




