第五話【あの娘に逢いにゆくよ】
第五話
【あの娘に逢いにゆくよ】向こう側から導く手。
夏は瞬く間に過ぎた。……といえば言葉としての格好は良いのだが、長期休みと言うくらいだから、夏はやっぱり長かった。
俺の生活リズムは錆び付いたメトロノームみたいに狂ったし、夏ばてで、ただでさえ少ない体重も何キロか落ちた。きつい日差しが苦手なせいで、例年通り家の中にいることが多くなり、少々運動不足にもなった。我ながら不健全で不健康な高校生だ。父はそんな俺を「青春の無駄遣いをしている」と言って嘆いていた。
しかし、そんなに退屈だったわけでもない。鞍馬山にはちょくちょく遊びに誘われたし、クラスメートの集まりにも、呼ばれたら一応顔を出した。
それと約束通り、黒場さんに連れられて海へも行った――のだが、もちろんあの二人は、浜辺でも構わず大喧嘩をして、他の海水浴客たちを驚かせていた。
他にも色々とあったけれど、それらはまた、別の機会があれば語ることにしよう。
ともかく、夏休みは終わり、長い夢もまた、終わるのだ。
まるで息切れでもしたように、苦しげに、そして当たり前に。
1
「始業式まで、まだ三十分あるからな。出欠を取るぞ」
相変わらずひょろ長い担任が出席簿を開く。
久々の教室は騒がしい。どいつもこいつも――当然俺も含めてだが――まだ全く、夏休み気分でいる。黒く焼けた肌の色が元に戻るまで、その気分は抜けないだろう。それでも授業は始まるのだから困る。
出欠は女子から順に確認される。
「――七番、飯島」
「はい」
「八番、岡田」
「はーい」
「九番、蒲田。……返事がないな。いるか?」
「あ、はいはい、いるいる」
「話してないで聞いてろよ。次に返事がなかったら欠席にするぞ」
「ごめんなさーい」
皆、五十日ぶりに会った友人らと好き勝手に喋り合い、担任の声などほとんど聞いていない。むしろ聞こえていない、というのが正しい。これが通常授業なら学級崩壊の様相だ。それでも自分の名前が聞こえれば、大方の奴がぴくっと反応するのだから、人間とは上手くできている。
「次、十番……」
担任の声が気怠くなる。
「鞍馬山狗子」
なぜかフルネームだった。しかし「はい」という声は聞こえない。
――代わりに教壇側の扉が音を立てて開いた。
全員の視線が集中する。
快活な声が響く。
「やあ諸君、お早う!」
入ってきたのは鞍馬山だった。
それだけでわっと歓声が起こる。
「鞍馬山ー、久しぶりー」
「元気だった?」
「お前全然日焼けしてないなぁ」
めいめい勝手に声をかける。
鞍馬山はそんな言葉の一つ一つに笑顔と冗談で応えてから、担任の前に立った。
教壇に片手を乗せて寄りかかる。
「先生も久しぶりだね」
「そうだな。出来れば二度と会いたくなかった」
担任の顔は本気である。
「またまたぁ」
と鞍馬山は笑った。
そして手に持った缶コーラをごくりと飲む。
「ふう。……しかしアレだね。教室の中は冷房が効いてて涼しいけど、外は相当な暑さだね。だからクーラーってありがたいなぁ、なんて思うけどさ、クーラーが温暖化の一因になってることもまた」
「とっとと席につけ! 誰がお前とエコ話などするか!」
「つまらないなぁ」
口をとがらせ、鞍馬山はやっと教壇から離れる。
席と席の間をするする通り抜け――
こん、とコーラを置いた机は、窓際の後ろから三番目。つまり、俺の隣の席だ。
鞍馬山は椅子を引きながらこちらを見た。
「おはよ、礼司」
「おう」
「元気だったかい」
「普通」
「……何だいそのテンポは」鞍馬山はむっとした顔をする。「つれないんだな――何日かぶりに会ったってのにさ」
「今日からまた面倒な学校が始まるのかと思うと調子も下がるんだよ。大体客商売でもあるまいし、いつも明るく受け答えをする義務なんて俺にはないぞ」
「何だかあたしみたいな口をきくじゃないか」
「そりゃ、休み中にまで何度も会ってりゃ、喋り口調もうつるだろ」
「やっぱりお前ら、休みの間も一緒にいたんだな」
そう割り込んだのは、後ろの席からずいとその巨体を乗り出してきた稲森である。
「どうだ――何か進展はあったか?」
俺は純粋に感心し、また呆れた。
「お前ホント相変わらずだな」
ワイドショー顔負けの冷やかし根性である。
そろそろ飽きてほしいものだが、その話が、あながち根拠のないものでもなくなってきた感があるので、こちらとしても笑いにくい。
と思っている俺の横で、鞍馬山は既にげらげらと笑っていた。
「当然だろ稲森。何せ情熱の夏だからな。もうこれモンだ、これモン」
人差し指と中指の間に親指を突っ込み、ひこひこと動かす。
俺はその頭をひっぱたいた。
「やめろバカ! お前は本当に十六の女か?」
「ポンポン叩くなよサディスト! それに女が下ネタを言って何が悪いんだ? 男女差別も甚だしい!」
稲森は横で他人事のように――いや他人事なのだが、笑っている。
「ははは、夫婦漫才」
その豊満すぎる笑顔が気にくわなくて俺は怒鳴った。
「暑苦しいからデブは黙ってろ!」
「こら、俺のことは『太目の子』と呼べ。やんわりとな」
「何が――お前、やんわりとって……なんだよそれ……ああもう」
バカばっかりだ。俺は軽い目眩すら感じた。
新学期早々こんなに疲れるとは。まだ数分しか経っていないのが嘘のようである。
担任はもはやこの程度の騒ぎでは動じず、出欠をとり続けていた。
「矢島」
「はーい」
「雪村」
「あ、はい」
「渡瀬」
応える者はいない。
担任はもう一度その名を読む。
「渡瀬――渡瀬恵依子」
応える者は、来ていない。
担任は渡瀬の席を確認して、欠席か、と呟き、出席簿に赤ペンで書き込む。
渡瀬の名が呼ばれた途端、何人かの女子達がこそこそと話し出した。
俺は耳をそばだてるが、あまり渡瀬に対して好意的な単語は聞こえてこない。
多分、大なり小なり、神崎に気があった奴らだろう。
鞍馬山が、ふんと鼻を鳴らす。
2
音のない部屋に、一人。
暗闇の中。
神崎は包丁を手に取った――一応、手袋はつけている。
震える切っ先を見つめる。
これが彼女の腹に突き立てられれば、全ては終わる。
ただの不幸な少女として、渡瀬恵依子は死ぬだろう。
それでいいのだ。
彼女の役割は既に終わっていた。
同時に神崎の役目も終わっている。
全てを終わらせてから、神崎は消えるつもりでいた。
もう準備は出来ている。
あとは――
彼女がこの部屋に入ってくるのを待つだけだ。
3
食べ終えても、鞍馬山は煙草を取り出さなかった。
代わりに虚ろな目で窓の外を見る。
車道を楽しげに歩きすぎてゆく三人――家族だ。若い父親に、もっと若い母。真ん中に娘。まだ四歳かそこらだろう。
手をつなぎ、笑っている。
ガラス一枚隔てた向こう側を、一つの日常が過ぎてゆく。
俺たちがいるのは、学校近くのファミリーレストランだった。
窓際の席に向かい合って掛け、昼食をとったところである。
テーブルには空になった食器がそのまま置かれている。残っているのは俺のコーラと、鞍馬山のアイスコーヒーだけだった。
「こちら、お下げしますか?」
ウェイトレスが立っていた。
鞍馬山は我に返った様子で顔を上げる。
「あたしはもういいけど……礼司、お皿は食べないのかい? フォークとか」
「食うか、バカ」
「じゃあ二人分下げちゃって」
「はい」
ウェイトレスはくすくすと笑いながら食器を運んでいった。
鞍馬山はまた窓を見る。
さっきから、あまり会話がない――食事中は無論のことであるが。
そういえば、いつも俺は制服、鞍馬山は私服で一緒にいるが、傍から見たら一体どういう関係に見えるのだろう。
暇になって俺は声をかけた。
「お前、やけに静かだな」
「そうかい」
「煙草吸わないのか」
「うん」肯く。「あまり吸いすぎると、元気な赤ちゃん産めなくなるしね」
真顔だとどんな内容でも冗談か本気か分かりにくい。
俺は訊いた。
「やっぱり気になってるのか、渡瀬のこと」
「……」
窓を見たまま。
ぽつりと答えた。
「うん。そうだよ」
やっとこちらの方を向いた。
今さらその美貌にどきりとしながら、俺は肯いた。
「まあ――俺も一応気にしちゃいるけどな。このままいくと、あいつ、ずっと来ないかも知れないし。まだ渡瀬のせいで神崎が死んだと思いこんでる奴もたくさんいるから」
「うん。それもあるけど――」
「他に何か問題でもあるのかよ」
「何となく……。でも、はっきり言葉には出来ない」
鞍馬山にしては曖昧な物言いだ。
不意に席を立つ。
俺はそれを呼び止めた。
「おい、どこ行くんだ?」
「電話……店の中にあるかな」
鞍馬山は極端に携帯電話を嫌う。
その影響か知らないが、俺も何となく購入していない。
「入り口の所にあっただろ? 誰にかけるんだ」
「うちの飯炊き係県運転手にね。確か、今日は部屋にいるはずなんだけど――寝てるかもなあ、ぐうたらだから」
電話をかける理由を俺が訊く前に、鞍馬山は答えた。
「これから恵依子のところへ行こうと思うんだ。一緒に来てくれないか」
「は? 行くって……自宅に直接か?」
「そうでなくちゃ意味がないらしい」
「どうしてだよ」
「さあ……」
出入り口の方へ歩き出す。
「まだ分からない。何が分かってるのか……」
すたすたと歩いてゆく。
「――?」
別人のような声で不可解なことを言われ、俺は唖然としていた。
黒場さんは二十分もしないうちに到着した。
昼寝をしようと思っていたそうで、少し不満な様子だったが、わけを聞くと「そういうことならね」と肯いてくれた。
出発前に黒場さんも、昼食がまだだからとサンドイッチセットを注文し、俺たちもデザートを追加注文。
どさくさに紛れて昼食の分までおごってもらった。
結局、店を出たのは三十分ほど経ってからだった。
「それにしたって――」
俺と鞍馬山が後部座席に乗り込むと、車はゆっくり動き出す。
「――どうして電車で行こうとしないのよ?」
駐車場から出るところの段差で、車体は、ごとん、ごとんと縦に揺れた。
鞍馬山は「はっ!」と煙を吐く。「運転手がぶつくさ文句言うな。あたしはバスや電車が嫌いなんだ」
「誰が運転手ですって!」
「大馬鹿者、貴様に決まってるだろ!」
「バカはあんたよ! ああもう、煙草吸うなら窓を開けなさい! 煙たいじゃないの!」
このままだと確実に事故が起きる。
代わりに謝ったのは俺だった。
「すみません黒場さん」
「礼ちゃんは謝らないでいいのよ。全部うちの子が悪いんだから――そうよねバカイヌ!」
「狗子様だ!」
喧嘩は止まらない。
「大体あんた、道はちゃんと分かるんでしょうね?」
「ずっと前に渡瀬が風邪で学校を休んだとき、プリントを届けるために玄関先まで行ったことがあるから多分平気だ。たしか駅に近いところだったような気がする」
鞍馬山は、運転席の裏に取り付けられた灰皿に、吸いかけのセブンスターを押し込む。さすがに車内の煙たさを気にしたようだ。
「とにかく百楽駅の近くまで行け」
「いいかげんだな……」
「この子はいつもいい加減よ」
黒場さんは半ば諦め気味にそう言った。
――俺はふと、最前から気にしていた、ある事柄について思い出した。
「なあ鞍馬山」
「ん」
「憶えてるか?」
「忘れた」
「まだ言ってないだろ……終業式の後、渡瀬の様子が変だったよな」
「ああ――」
鞍馬山は二本目を取り出して口にくわえる。火はつけない。ただ口寂しいだけのようだ。
俺は質問を続ける。
「あの時言ってたこと、あれ、どういう意味だと思う? いつも神崎と一緒にいる、って」
「そんなこと言ってたねえ」
「彼氏が死んでまいってるだけにしちゃ、変だったよな」
「礼司はどう思ってるんだい」
「俺?」
「礼司なりに何か想像してるから、その話を持ち出したんだろ」
俺は何か試されているような気になった。
それから、何だか恥ずかしいような感想を言葉にする。
「俺は……別に本気で思ってるわけじゃないけどよ……なんか」
「恵依子が神崎の幽霊か何かに取り憑かれてるみたいだって?」
鞍馬山はぴたりと言い当てた。
戸惑った。
「どうして分かったんだよ」
「誰でも考えそうなもんさ。特にあたしら日本人はそういうのが好きだからね。死人が取り憑いたり祟ったり、ってやつ。血に染みこんでるんだねえ、オカルトを好む気質が」口から煙草を離し、タクトのように振る。「でもダメだよ、その考え、今は捨てときな」
「……下らないもんな」
「違うよ。それだと一応の格好は付くけど、他のところが見えてこない。間違っているかどうかはともかく不完全だ。本当の答えっていうものは、当てはめれば、周囲にある全ての空白も自然と埋まってゆくものなんだ。ちょうどクロスワード・パズルみたいに」
「パズル?」
「そう。だから本当の答えを見つければ、全てが見える。過去のストーリー、つまり神崎の死やそれ以外の不可解な言葉……それだけじゃない、その気になれば、起こり得る様々な――」
そこまで言って鞍馬山は、圧倒されている俺に気付き、ふいと目を伏せた。
「……まあ、そんな感じさ」
どんな感じだというのか。
こいつはもしかして躁鬱病にでもかかっているのでは無かろうか。
「ああ、これだけは言っておくけど」鞍馬山はドアに寄りかかりながら付け加える。「恵依子には何も取り憑いちゃいないよ。――いや――うん、もし亡霊が動いているとすれば、恵依子が生んだ幽霊が、恵依子の中から抜け出したんだ。だから取り憑かれているわけじゃない。それならあるかもね。でも、だとすれば……」
「渡瀬が――霊を、生んだ?」
「そう。幽霊は死人から勝手に出来るものじゃないから。肉体を失った魂は、誰かに認識された時点でこの世のものとなってしまう。そうなれば、本来なら有り得ないことだけど……ある角度から見れば、生命が終わらないってこともあるだろう」
「どういう意味だよ」
「ねむい」
「は?」
「最近、頭が疲れるんだ……」
「おい、ちょっと待てよ」
「寝る……」
そう言って鞍馬山は、ドアに寄りかかったまま、ぐうぐう眠ってしまった。
満腹になり眠くなったのか。
火のついていない煙草が、口からぽろりと落ちる。
「うわ、こいつホントに寝ちまった」
「動物は本能のままよ」
黒場さんの言葉に俺は苦笑する。
――しかし――どういう意味だ?
渡瀬が幽霊を生んだ?
分からない。
ただ、とても嫌な予感がした。
予感とは何だろう。
俺たちを乗せて車は走る。
4
狗子はドアにもたれて寝たふりをしていた。
これ以上何も語りたくないからだ。ボーダーラインを越えてしまうような錯覚にとらわれ、躊躇した。
だが頭が疲れているというのも本当である。
どうも最近、何も考えていないはずなのに脳が疲れる。
何かが――中で、勝手に動いているようだ。
正体も知れている。
『狗子』だ。
他の誰でもない、自分自身である。
あれは果たして何を割り出しかけているのか。
知りたくない。混ざりたくない。
狗子はぎゅっと目を閉じ、やがて本当に眠った。
5
案外道が混んでいたので少し遅くなり、百楽駅に着いたのは、ファミレスを出て約一時間後だった。
俺たち二人はジャスコの駐車場を出て、駅ビルの前あたりまで歩いてきた。
黒場さんは駅周辺で買い物をするつもりらしく、俺たちとは別行動である。携帯の番号は俺が記憶しているから、後で落ち合えばいいだろう。
しかしここは、俺の地元の駅に比べて、人通りがかなり多く、建物も乱立している。ぐるりと見回しただけでも、西友、駅ビル、ジャスコ、トポス――少し遠くにダイクマの看板も見える。買い物にはまず不自由しないだろう。
ところで、案内役の鞍馬山はさっきから、全く迷うことなく、ずんずん歩みを進めている。ずいぶんはっきり道のりを憶えているものだ。
「なあ鞍馬山、本当にこっちでいいんだろうな」
俺が確認するためにそう訊くと、鞍馬山は振り向きもせずに答えた。
「知るか。あたしの足に訊け」
「えっ」
「冗談だよ」
「……」
本気に聞こえた。
渡瀬の家は、商店街を通り抜けた先の、なだらかな坂を上ったところにあった。
距離的には駅からかなり近いのだが、その辺りは駅周辺とは全く違う落ち着いた空気と、澄んだ生活の匂いが漂う住宅地だった。人通りはとても少ない。
渡瀬の住む家は三階建てで、屋根は青かった。
「閑かなところだな」
俺は周囲を見回して、ぽつりと言った。
並んでいるどの建物もさほど高級住宅らしい外観ではないのだが、なぜか不用意に大きな声を出すことすら憚られるような空気を感じる。渡瀬はこんなところに住んでいるのか。
鞍馬山はそれには答えず、正面ではない妙な角度から家を見上げて、
「相変わらずあれは閉まってるのか」
と呟いた。
「何のことだよ?」
俺は鞍馬山の視線のさきを辿ろうとしたが、同時に向こうから聞こえてきた耳慣れた声に、完全に注意を奪われた。
「狗子と殿山君じゃない?」
俺はぴくりと、鞍馬山はゆっくりと声の方を見る。
さっき俺たちがきたのと同じ道を、早歩きでこちらへ歩み寄ってくるのは、買い物袋をさげた渡瀬であった。制服ではないから一瞬分からなかった。
鞍馬山が軽く右手をあげる。
「よう恵依子、買い物帰りかい」
「わあ、何だか久しぶりねえ」
駆け寄ってくる渡瀬の表情に、終業式の日に見せたような、異常な色は見て取れない。あの頃より大分落ち着いたということだろう。俺は少しだが安心した。
渡瀬は俺たちのところまで来て立ち止まる。
「二人とも、私に会いにきてくれたの?」
「まあね。無断欠席だったから、もしかしたら一人で倒れてるんじゃないかと心配になってさ」
鞍馬山が珍しく、穏やかな嘘をつく。
渡瀬は、どう思ったのか知らないが、ふ、と微笑んだ。
「そう――ありがとう。でも平気よ、今日はちょっと、気分じゃなかっただけだから。明日からは登校するつもりでいるわ」
口調から判断するに、それはどうやら本当のようだった。もう心配はないらしい。
しかし鞍馬山が「せっかくここまで来たんだから何か冷たい飲み物でも出してもらわないと割に合わない」と主張し、結局俺たちは渡瀬家に上がり込むことになった。
俺はもちろん、鞍馬山も中に入るのは初めてである。
「二人とも、驚くわよ」
玄関のドアを開けるとき、渡瀬はこちらを見て、微かな笑みを浮かべながら、そう言った。意味は分からなかった。
鞍馬山はまた家を見上げながら「二人暮らしで三階建てってのは何か裕福な感じがするなあ」と地味な感想を述べていたから、聞いていなかったようだ。
玄関に入ると、薄暗い、真っ直ぐな廊下があった。暗いのは単に明かりがついていなかったからだ。右側には、二階より上へ上るための階段がある。
俺たちは靴を脱いで、渡瀬の後ろに続いて廊下を歩き、奥の居間に足を踏み入れた。
「ただいま」と渡瀬は言った。
一人テーブルにつき、新聞を読んでいた男がこちらを向く。
「……ああ、お帰り」
渡瀬の父親か。
仕事は休みなのだろうか。
俺は目の前の男を観察する。
痩せぎすで背は高く、血行が悪いのか、肌は全体的に黒っぽい。
どこか暗い男――本能的にそう思った。
渡瀬の父親は俺たちを見て渡瀬に問う。
「彼らは……?」
「私を心配して来てくれたんですって。ほら、学校に連絡するのを忘れていたでしょう?」
渡瀬は答えながら、笑顔で俺たちを見る。
何か奇妙だ。
「そうか――」
父親は、どこかそわそわしている。
「ええと、どうしようかな、まずこれを台所に置いて……あ、ちょっと三人で話していてね。ついでに飲み物用意してくるわ」
渡瀬は買い物袋を手に部屋を出て行った。
俺と、父親と、鞍馬山の三人だけになった。
「――恵依子の親父だね」
鞍馬山は分かり切ったことを確認する。まあ親子にしては全然似ていないし、確認したくなる気持ちも分からないではないが。
不作法な言葉遣いに父親は少し動揺したようだったが、こくりと肯いた。
「ああ……。君らは恵依子の友達かな」
「鞍馬山狗子だ。横にいるのはペットのハムスターで名前は礼司。あんたの名は?」
「……。渡瀬清一郎だ」
「再婚するんだってね」
「ああ」
「おめでとう」
「……ありがとう」
礼を言いながらも、清一郎は、かなり怪訝そうな顔をしていた。
変な子だと思っているのだろう。当たっている。
渡瀬が戻ってきた。
「お待たせ――何がいいか分からないから、冷蔵庫の中にあった飲み物、全部持ってきたわ」
盆の上にスプライトや麦茶などのペットボトルとガラスコップを乗せている。
「サンキュー恵依子」
「重くないのか?」
勝手に来たんだから俺も手伝えばよかった。
「あら私、案外力は強いのよ」
言いながらも、テーブルに置くときには、ほとんど筋力のなさそうな腕が少し震えていた。
それから渡瀬は父親に問う。
「ねえ――流しにあったはずの包丁が無くなってるんだけど……使った?」
「包丁? 使った憶えはないな」
「おかしいわねえ、別の所にしまったのかしら――あっ、そうだわ忘れてた」
「思い出したのかい?」
鞍馬山は立ったままコップに麦茶を注いでいる。
「あ、ううん、それとは関係ないんだけど……狗子に借りてたCDがあったでしょう? 録音終わってるから返すわ。夏休みの間中借りちゃった」
「ああ、そういえば貸してたかな。ディスチャージだったっけ」
「イーグルスよ。ちょうどいいわ。ちょっと待ってて、今持ってくる」
「恵依子」
いきなり清一郎が立ち上がった。
「自分の部屋に行くのか?」
「そうだけど……変な言い方するのね」
何が変なのだろう。
清一郎は首を横に振る。
「後にしなさい」
「どうして今はだめなの?」
「……それは」
「――変なの。取ってくるわよ」
「恵依……」
父親の顔は明らかに青ざめていたが、渡瀬は少し訝しみながらも、再び居間を出て行った。
とんとんとん……と、階段を上る音が聞こえる。
その間、清一郎は椅子に座り、額には汗すら滲ませて、きょろきょろと部屋の中を見回していた。
それが俺たちのことを気にしているのだと気付くまで、一秒はかからなかった。
そんな清一郎を、鞍馬山は、眉をひそめて見つめている。
ここがどこか、全く別次元なのではないかと錯覚するほど、それは異常な緊張感を持った時間だった。現実には約三十秒ほどだったのだと思うが、少なくとも俺には五、六分に――またほんの一瞬にも感じられた。
時間すら歪んでいるようだった。
なぜか吐き気がした。
――そして沈黙は破壊された。
「いや、あ、あ――ああああ――っ!」
遠かったが、それは確かに渡瀬の声だった。正確には悲鳴である。転んだり、積んであった何かが崩れたにしては大げさすぎる悲鳴だ。
「何だ? ――おい礼司、様子を見に行こう」
鞍馬山はそう言いながら、もう廊下へ出るドアを開けていた。
「お、おう」
鞍馬山に続いて歩き出し、そして居間の方へ振り返ったほんの一瞬。
俺は、ひどく不審で、その場に似つかわしくなく、そして恐ろしいまでに不気味なものを目にした。
それは安堵の笑みであった。
渡瀬清一郎は、椅子から立ち上がりながら、うっすらと笑っていたのだ。
ぞくりと背が震えた。
何だこの感じは。
そもそも、なぜ、この父親は立ち上がらない?
――詮索している暇はなかった。
俺は鞍馬山の背を追いかけて廊下を歩き、突き当りの階段で二階へ上る。
悲鳴はやんでいた。
鞍馬山は一つ一つのドアを開け、それら全ての部屋をのぞき、どこにも渡瀬がいないことを確認してから舌打ちする。
「三階か?」
俺たちはまた階段のところへと戻る。
さっき聞こえた渡瀬の声は、明らかに尋常ではなかった。
父親はまだ上ってこない――今、あの男は何をしているのだろう。娘の部屋がどこにあるのかも教えようとしなかったが……。
三階まで上り、二つ目のドアを開けたとき、そして渡瀬清一郎がようやく階段を上ってきたとき、再び悲鳴が響き渡った。
6
「そん、な……ああ、嫌、あああっ」
首を左右に振り、恵依子は呻く。
「か――神ざ――う、嘘でしょう。そんな――まさか」
よろける。
背中が、どん、とドアにぶつかる。
「嫌よ、ああ、嫌、いやああぁっ!」
恐怖と絶望が、悲鳴と共に、異常な量の涙を噴き出させた。
信じられなかった。
現実。
眼前には、握られた凶器の切っ先があり、それはゆらゆらと揺れている。
何だ、この状況は。
ただ一つ明らかなこと。
あってはならないのに、分かりすぎるほど分かる現実が一つ。
彼は恵依子を殺そうとしている。
「――お前が何もかも忘れて幸せに生きるなんて、許せない。絶対に……」
低くくぐもった呪いの言葉と共に、凶器は少しの躊躇いもなく、少女のやわらかな腹部に、ずぶりと突き立てられた。
7
ぶぐっ――。
背筋が寒くなるような、短い呻きが聞こえた。
「恵依子!」
鞍馬山がドアを引き開けるのと、それはほとんど同時だった。
ドアには何かがもたれかかっていた。
――ずずっ――どさり。
それは俺たちの足下に、いかにも無機物らしく倒れた。
ガラス玉のような眼球は、まっすぐに俺の顔を見ていた。
頬は涙で濡れている。口元は引きつり、不自然な微笑を浮かべているようだったが、それは紛うこと無く極限の恐怖に歪められた形相だった。
それはどう見ても渡瀬恵依子だったが、ひとつ、おかしな点があった。
腹部に何かがくっ付いているのだ。――それは包丁であった。しかも、よく見れば、それはくっ付いているのではなく、深々と突き刺さっている。
俺がそれを見下ろしてぼんやりしている間にも、渡瀬が倒れた周囲の床には、赤い液体がみるみる広がり、芸術的な輪郭の水溜まりをつくってゆく。
渡瀬は、鮮血を流す瀬戸物の人形になっていた。
隣で清一郎が娘の名を絶叫するのが聞こえた。
恵依子、と言っていた。
そして唸った。
なぜ、どうしてこんなことに――と。
鞍馬山はぐらりと倒れた。
気を失ったのか……ぱしゃっと小さく聞こえた音は、鞍馬山の頬が、もう大分広がった赤い水溜まりに落ちた音だった。
俺は半開きになった鞍馬山の眼が赤く染まっているのを何となくながめながら、自分の靴下にぬるい血液がじわじわと染みこんでゆくのを感じていた。
ふと見た部屋の中には、誰もいなかった。