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第四話【Can't get no sleep tonight...】



第四話

【Can't get no sleep tonight...】時にそれは、恐怖の集合体。



 1


 狗子は黒く生温い闇の中を逃げていた。

 誰から逃げているのか、なぜ逃げているのか。

答えは出ているのに分からなかった。認めるのが怖かった。

だから無我夢中で走る。

 遠く、ゆらゆらと漂う赤黒い靄の中に、クラスメート達の後ろ姿が見える。

「……みんな!」

狗子は叫んだ。

 彼らは同時に振り向き、そして恐れと嫌悪の表情を作った。

全員が全く同じモーションで腕を動かし、一斉に狗子を指さす。

「――?」

狗子は立ち止まり、自らの身体に目を落とす。

「あ」

 全身が血にまみれていた。

だが狗子の身体には傷一つない。

この血は――

「ち……」狗子は首を振る。「違うんだ、これは……」

「何が違うのよ!」

一人が叫んだ。

誰なのかは分からない。もしかしたら全員かも知れない。

そうだ全員だ。

 皆が叫ぶ。

「来るなよ!」

「こ……来ないでくれよ!」

「来るな!」

「嫌ァ、怖い! 誰かたすけて!」

 狗子は頭を抱えた。

「みんな、違うんだ……あたし……そんなつもり……」

――嘘よ。

幼い声が聞こえる。

「本当だ……あれはあたしの意志じゃ……」

――馬鹿みたい。全部憶えているくせに。

「あたしは」

――私。

「違うよ……違う、もうやめてくれ! 誰か――たすけて――」

叫び、狗子は一歩、前に踏み出した。

 クラスメートたちの顔が断末魔に歪んだ。

「いや、いやああっ!」

「来ないで!」

「殺さないでくれ!」

「い、い、あ、あ、うあああ――あ!」

 絶叫の大合唱と共に、全員の首が弾けた。

スローモーションだった。

数十の頭が、簾花火のような血しぶきの中、狗子を睨みながら同時に宙を舞い、血を吐きながら――また弾けた。闇を背景に。沢山の西瓜が砕けるように。

首を失った身体はばたばたと倒れた。

 狗子は返り血を浴びながら呆然としていた。

「みんな?」

欠陥品の人形たちを見つめる。

「あ――あたしが――?」

粘液で濡れた髪を掻きむしる。

「あたしがやったのか……あたしが! みんな! 殺したのか!」

――誰もあなたのことなんか受け入れられないもの。

「でも! あたしはみんなと……一緒に」

――産まれたときからヒトに触れる資格を持っていないの。

――分かるでしょう?

――ヒトは弱いのよ。触れれば壊れてしまうもの。

――みんな怖がるわ。

――誰だって壊されるのは怖いから。

――皆と一緒にいようなんて厚かましいのよ。

――あんたなんて……私なんて……あたしなんて、

――人殺しのくせに。

「嫌だ……」

狗子はまた走り出した。

「礼司! どこにいるんだ礼司! たすけてよ! あたしを一人にしないでくれ!」

――まだ分からないの?

「分かってる! でも――」

礼司だけは。彼だけには。

「どこにいるんだよ!」

 背を向けて遠くに立っている、小さな姿を見つける。

「――礼司?」

そうだ、確かにそうだ。きっとたすけてくれる。

 蠢く闇の地面につまづき、よろけながら、すがるように駆け寄る。

 だが、前に立ちはだかる者がいた。

「待ちなさい狗子!」

「勝美――」

 黒場勝美は低い声で言った。

「もうだめよ。終わったの」

「どいてくれよ」

「行かせない。これ以上何をするつもりなの」

「頼む……から」

「自分が『何』なのか思い出したでしょう? だったら身の程をわきまえなさい。あんたなんか最初から」

「頼むからどいてくれ!」

 勝美の体を片手で横へ押しのける。

「ぎゃ」

鈍い音と、獣が唸るような声。

「あ……ごめ……」

もう遅い。

回転しながら裂ける勝美の上半身。飛び散る鮮やかな赤。

そしてまた、血にまみれてゆく自分。

 どちゃり。

足下で、重い音。

「あ……勝……あ」

狗子は、原型を失ったその亡骸から必死に目を背け、叫ぶ。

「……礼――司――!」

声にならない。

 礼司はまだ後ろ向きに立っていた。

狗子はもつれる足で駆け寄り、その手を掴む。

 ――礼司は振り向いた。

嫌悪もあらわに。

「汚い手で触るんじゃねえよ」

「礼司……わ、分かってくれ……」

「やめろ、放せよ。気持ち悪い」

「お願いだから嫌わないでくれ、何でも――お、お前が望むなら、あたし何だってするよ。だから」

「気持ち悪いって言ってんだろ!」

礼司は手を振り払った。

「あっ!」

ぶきっ、と、何かが切れる音が響いた。

狗子の右腕は根本から外れて宙を舞い、落ちた。

「……うぅっ」

身をよじりながら左手で肩を押さえる。

石榴のような傷口から流れ出る液体は、なぜか毒々しい緑色だった。

緑色が闇の地面に斑点をつける。

 声が響いた。

――あら、破損したわよ。

「う……五月蠅い……」

――確か最初の発動は、呼吸困難による生命維持機能の……。

「やめろ、もうやめろ!」

――何を言ってるの。私はあなた。忘れたの?

――分離していないから境界も存在しない。

――所詮あなたは、私の延長線上にいるのよ。

――新たに別人格を作ったつもり?

――馬鹿ね、何も変わっちゃいないわ。

――あなたは所詮――

「――私だもの」

 小さな手が、礼司の胸部に突き刺さった。

ぬらぬらと赤く濡れた少女の指先は、彼の背中からのぞいていた。腕は礼司の中を貫通している。

 赤い目の少女は、愕然とする狗子を見据えながら、動きを失った少年の体を軽く投げ放った。

 亡骸は空中に飛沫の軌跡を描きながら舞い飛び、遠くの闇へ、音もなく落ちた。

「礼司……?」

向こうに落ちている礼司は、そのまま動かない。

 狗子は、見開いた黒い眼で少女を睨み付けて叫んだ。

「……お前ェッ!」

「何を怒っているの? 私が……自分がしたことなのに」

少女はくすくすと笑いながら闇に溶けて消える。

 狗子は投げ捨てられた礼司に駆け寄る。

傍らに膝をつき、亡骸を抱き寄せる。

「あ……あ」

死んでいる。冷たくなっている。

 ぽろぽろと涙が落ちる。

泣く権利など無いというのに。

「ごめんなさい……」

狗子は自らの、唇の端を噛み切った。

「ごめんなさい、ゆるしてください、……もう……しないから、ごめ……ゆるして、くださ……」

「――だからよぉ」

礼司は目を開け、吐き捨てるように言う。

「触るなって言ってんだろ、化け物のくせに」

その顔が曖昧になり、少女と重なる。

「分かっているんでしょう?」

少女の瞳は黒い。

「触れる権利も、一緒にいる権利もないのよ。分かっているのにどうしてわがままを言うの?」

「あたしは――私は――」

少女の、礼司の瞳を見つめる。

 自分の顔が映っている。

血にまみれた醜い顔。

そして――眼窩に宿る赤い光――糸のように細い瞳。

「あああ」

狗子は立ち上がり、存在しない天を仰ぎ、そして、

「うああっ!」

左手の指で、自らの眼球をえぐり取った。

続けてもう片方――。ぶつぶつと音を立てて眼窩から引き抜かれる。

ネクストの。

忌まわしいネクストの。


 狗子ちゃんは

 お父さんのお仕事の都合で

 遠くへ引っ越すことになりました――


 視界はフェードアウトした。


 狗子の体は仰け反り、びくんと跳ねた。

 同時に目を覚ます。

 闇ではなく、白い天井があった。

「――っ、はあっ!」

がばりとタオルケットを払いのけ、体を起こす。

部屋の明かりはついている。

 コンポから、小さな音量でジョニー・ロットンの声が流れている。

‘tell me why,tell me why,why d'you have to lie'

‘should've realized that you'

‘should've told the truth'

‘should've realized you know what I'll do...'

 CDをかけながら寝てしまったらしい。

 ゆるゆると立ち上がってそれを止め、部屋を出る。

 ――寝汗がひどい。

 薄暗い廊下を歩き、勝美の部屋のドアを、少しだけ開ける。

「おーい、飯炊き女ぁ」

部屋の中は暗い。――中から寝息が聞こえる。

狗子は黙って扉を閉めた。

 廊下に掛けられた丸い時計を見上げる。

二十三時三十分。

まだ何分も寝ていなかったのか。

 ――このタイミングならば、冗談めかして誤魔化せるだろう。迷惑がられるかも知れないが……一人でいると、あまりにも不安が押し寄せてくる。

 狗子はリビングへ行き、受話器を取った。


 2


 夏休みに入って二週間ほど経ったある日。

 ゆっくり玄関のドアを開けると、ジョギングでもしているような姿で、両手にコンビニの袋をさげた鞍馬山が立っていた。

「やあ、おはよう礼司くん!」

爽やかな笑顔である。

「……貴様」

俺はげんなりして、玄関に座り込んだ。

 鞍馬山は下駄箱の横にどさりと袋を置き、俺の顔をのぞき込む。

「おや? どうしたんだい、元気が無いなあ。ほら、おはようと言ってごらん」

「ふざけんな、何がオハヨウだ!」

俺は近所迷惑を顧みず、立ち上がって怒鳴った。

「そりゃ早いよな! 一時だぞ、まだ午前一時! 今日が始まってから一時間しか経ってないじゃねえか!」

 黒い空。黄色い月。

――完璧な真夜中である。

 鞍馬山はふんぞり返った。

「そうとも、朝の一時さ」

「ああ……」

軽い目眩が俺をおそう。

さっき『明日遊びに行くからね』と電話があった時から、薄々嫌な予感はしていたのだが。

「……まさか一泊するつもりか?」

「何言ってるんだい、午前一時に到着して夕方までには帰るつもりなんだから、立派な日帰りだ」

「分かった。お前に常識は通用しない。また改めて思い知らされた」

「別にいいだろ、どうせ親御さんは旅行に行ってるらしいし」

「そういう隙を見て襲撃か!」

「人聞きの悪い……。まあいいや、お邪魔します」

靴を脱ぎ、鞍馬山はとうとう上がり込んだ。

 その時に気付いたのだが、こいつは古いデザインのナップザックを背負っていた。鞍馬山にファッションセンスは無い。あるのかも知れないが使うことはない。憎たらしいことに、何を身に付けてもサマになるからである。

 俺はそれを指さした。

「おい、それ何だ」

「中身かい? 着替えとか色々だよ」

「シャワー使うつもりか」

「自転車をこいで来たからね、汗かいちゃったんだ。バスルームくらいあるだろ」

「……」

今更何も言うまい。

そもそも、何を言う権利も、しょっちゅう黒場さんの部屋へお邪魔している俺にはないのだ。

 再びコンビニの袋を手にした鞍馬山は、廊下をずかずか突き進んで、誰もいない食卓の扉をがちゃりと開けた。

 明かりはついていた。さっき俺がつけたのである。

 我が家の小さなリビングキッチンを眺め回し、鞍馬山は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「うわあ、普通だなあ」

「悪いかよ……」

「誰も悪いなんて言ってないだろ――よいしょと」

 テーブルに二つの袋をのせる。

透けて見える中身は、ビールの缶やつまみ、それにスナック菓子などだった。

他にも色々と入っている。

 鞍馬山はぱんぱんと手を叩く。

「さて。あたしはシャワーを浴びるから、礼司くん、タオルを用意しておきたまえ」

「……もう好きにしろ」

早くも疲れてきた。

 真夜中に、目もさめるような美少女が一人で訪ねてきて、これからシャワーを浴びるという。しかも両親は旅行中だ。普通なら大なり小なり胸を高鳴らせるシチュエーションだと思う。

しかし惜しむらくは、その美少女が鞍馬山であるという一点……。

健全かつ不純な一般的男子高校生が期待するような甘い展開など、相手が鞍馬山では、全く、夢のまた夢である。世の中、上手いようには出来ていないと見える。

「それじゃ――、っと?」

鞍馬山が居間を出ようとドアノブに手をかけると、扉は突然、勝手に開いた。

 明るみに出てきた小さな影は、鞍馬山の細長い脚にぶつかって、止まった。

「……ん、……兄ちゃん……?」

二階で寝ていた、俺の弟であった。物音に気付いて起きてきたのだ。

 パジャマを着た弟は、眩しそうに目をこすり、ぶつかった相手を見上げる。

それが俺でないことに気付くと、寝惚けているなりに怪訝な顔をする。

「……お姉ちゃん……誰?」

 鞍馬山は、弟と目線が合うように腰を下ろした。

「これはもしや、礼司の弟かい? ――ぼく、名前は?」

「……殿山正二、です」

眠たそうにしながらも丁寧に自己紹介した弟の頭を、鞍馬山はよしよしと撫でた。

「ショージかあ。もっと小さい礼司って感じだねえ。いくつだい」

「六才です」

「まだむっつか。――聞いたか礼司、六歳だってさ」

「知ってるよ」

肉親を見られるのは何となく気恥ずかしいものだ。

 鞍馬山は感心したようにため息をつく。

「弟かあ。可愛いねえ……兄貴に似てずいぶんちっこいけど」

余計なことを言いながらしばらく正二の頭を撫でていたが、何を思ったか、突然がばりと抱きついた。

「持って帰ってしまいたい!」

「……うぅ!」

正二はわけも解らず、苦しそうにもがく。

 俺は慌てて弟を救出した。

「ば、バカ女、自分の腕力を考えろ! 正二が窒息死するだろうが!」

「なあ正二くん、お姉ちゃんとお風呂入ろうか?」

「聞け!」

今更ながら、非常識な奴が来てしまった。


 3


 脱衣所で、狗子は礼司からバスタオルを受け取る。

狗子が着替えしか持ってこなかったからである。

 礼司はバスルームを指す。

「一応言っとくけど、まだ湯は抜いてないから、軽く湧かせば入れるぞ」

「残り湯か……。ちっ……お前みたいなチビの残り湯……屈辱的だ……本来なら」

「贅沢言える立場じゃねえだろ! つーか、普通は『シャワーだけでいいよ』って言うところじゃないのか? どうして入る気満々なんだ!」

「やかましいな――あ、ボディシャンプーも借りていいかい? 使い捨てしか無くてさ、足りなくなるかも知れないから。それと」

「もう何だって勝手に使え」

「サンキュー。そうだ、見ていく?」

「何を」

「脱ぐところ」

「見るかっ!」

礼司は小動物のようにけたたましく吠え、脱衣所から出ていった。

 狗子はくすくすと笑ってから――

 まるで伸びたバネがゆっくりと元に戻るように、再び無表情になる。

「ふう……」

一息ついて、上半身を隠すものを、思い切りよく脱ぎ捨てた。

 脱衣所と廊下を隔てるドアは、開けたままである。こうしておいて、何かの拍子に裸を見られるハプニングがあっても、コメディードラマみたいで面白い、と狗子は思っていた。別に、タダで見られて損をするほど大したものは隠していない。

 脱いだ下着を手に、ふと、横にある鏡を見る。


 返り血で真っ赤に濡れた裸身が映っている。


「……!」

――急に体を見られるのが怖くなり、急いで脱衣所の扉を閉めた。

力が入りすぎて、ばたん、と大きな音が響く。

 居間から礼司の声がする。

「何かあったのか?」

「な、何でもない!」

「そうか? あんまり強く開け閉めするなよ、お前ただでさえ馬鹿力なんだから」

「ああ……。分かった……」

 狗子は再び鏡を睨み付けた。

 相変わらず、血で汚れた体がそこにある。

 ――洗い流さなくては。

このままでは、礼司の近くにいる資格すら無い。

洗わなくては。洗わなくては。洗わなくては。生きているかぎり落ちることのない、この罪深い穢れを、少しでも。


 4


 鞍馬山がシャワーを浴びている間、目が冴えてしまったらしい正二は、俺と一緒にテーブルにつき、単調な深夜音楽番組を観ていた。目の前には鞍馬山が持ってきた柿ピーやら馬肉の缶詰やらが積まれているが、正二は歯を磨いた後だから、それらはお預けだ。

最近は六歳児でも邦楽のトップテンくらいは聴くようで、テレビから知っているグループの曲が流れると、つたないながらも、時々、小さな声で口ずさんだりしている。

 しかしバラードはお気に召さないのか、その手の歌手が歌い出すと、ふと、思い出したように訊いてきた。

「ねえ兄ちゃん」

「何だよ」

「あのお姉ちゃん、兄ちゃんの彼女?」

「違うよ」

「違うの? でもさあ、すっごい美人だねえ。背も兄ちゃんより高いねえ」

身長については余計なお世話だ。

 シャワーの音がここまで聞こえてくる。

 正二は確認するように再び呟いた。

「ね、すごい美人だよねえ」

「そうだな」

俺は適当に答えた。余計なことは教えなくて良いだろう。

 だが、正二は珍客に興味津々な様子だ。

「同じ学校の人?」

「ああ」

「なんていう名前なの?」

「鞍馬山だよ」

「彼女じゃないの?」

「違うって言ってるだろ」

「……なんだあ……」

正二は分かりやすく落胆する。

 俺はバターピーナッツを口に放り込む。

「どうしてお前がガッカリするんだ」

「だってさ、友達に見せられないから」

「はあ?」

ピーナッツを噛み砕く。

 正二は彼なりの言葉で語り始めた。

「あのね――おんなじクラスにね、浜口くんってひとがいるんだけどね、この前浜口くんちに遊びに行ったら、浜口くんのお兄さんがいてね、お兄さんには彼女がいてね、それで、そのお姉さんがさ、すごい優しくてね、それで、きれいでね、あ、お兄さんも優しいんだけど、そのお兄さんと、彼女のお姉さんと、僕と、それから小松くんとね、それから浜口くんでね、サッカーしてね」

 要約すると、浜口くんという友達には兄貴がいて、その彼女が優しくて美人だったと、そういうことらしい。

「で?」

「うん。だからさ、あのお姉ちゃんなら、浜口くんのお兄さんの彼女より、もっとずっと美人だからさ、今度みんなに見せてあげようと思ったの。あ、浜口くんのお兄さんの彼女も、すごくいい人だから、僕やっぱり好きだけど――」

「……。へえ」

子供が考えることはよく分からない。

 正二はため息をつく。

「でも、彼女じゃないならダメだね」

「そうだな。残念だったな」

俺はまたピーナッツを囓る。少し塩辛い。

 なおも正二は質問を続けてくる。

「ねえ……兄ちゃんはさ、あのお姉ちゃんのこと、好きなの? 彼女にしたい?」

「どうしてそうなるんだ」

「だってさ……あんなにきれいだから」

「まあ、顔はな」

「じゃあイヤな人なの? セーカクが嫌いなの?」

「――別に」

「ふうん……なんか変なんだね」

正二は不満そうに、またテレビに目を移した。

 流れる音楽以外に音は無くなった。

 テーブルに肘をつき、今度は俺がため息をつく。

「はあ」

終業式の日の記憶が、やたら鮮明に蘇る。

今となっては全て夢のようである。切なそうに俺を見つめる瞳も、生々しく伝わってきた胸の鼓動も。

直後に有耶無耶になってしまったし、鞍馬山本人もあれ以来、その話はしようとしない。俺もそういうことに慣れていないから、どうすればいいのか分からない。

そんなこんなで全然何も実感がわかないのだ。

もしかしたら、鞍馬山にからかわれたのかも知れない――そんな事まで考えてしまう。

 そうだ……終業式といえば、渡瀬はどうしているだろう。

 結局あの日は、あれ以上何も言わず、去って行ってしまったが。

 俺に引き止める勇気は無かった。

 鞍馬山は黙って見送っていた。

 果たして鞍馬山は理解していたのだろうか。

 分からない。分からないことだらけだ。

 何だか――気が滅入る。

 シャワーの音はいつの間にか止んでいた。

 ドアが開き、俺が用意したタオルで髪を乱暴に拭きながら、鞍馬山が入ってくる。

「ああ、さっぱりした」

小さめの黒いタンクトップに、下はジャージ。来たときとそう変わらない服装だ。水気を帯びた、何となくいい匂いがする。

「風呂上がりにはビールビール――と」

並べられた缶の一つを手にとって、ぷしゅ、と開け、天井を仰ぐように流し込む。

俺はその仕草を、ぼんやりと見ていた。

「――ぷはっ。少しぬるいかな?」唇を舌先で舐める。「ほら、礼司も飲みなよ、ビールもつまみも沢山あるんだから。あと酎ハイも」

「俺はいいよ。また酔っぱらうから」

「ジュースも買ってきたからさ。ほれ、烏龍茶もあるよ。これなら飲めるだろう?」

「……ん」

俺はテーブルに肘をついたまま、出された烏龍茶を受け取った。

 鞍馬山は肩をすくめる。

「どうしたんだい、ノリ悪いぞー。うりゃうりゃ」

俺の頬にビールの缶が押しつけられる。

 そうしながら鞍馬山は「あれ」と傍らを見る。

「正二くんは寝ちゃったんだ」

 見ると、正二はテーブルによだれをたらして、すやすやと眠ってしまっていた。

「仕方ねえな。そこのソファに寝かすか」

「あたし運ぶよ」

言うが早いか、鞍馬山は椅子に腰掛けていた正二の体を楽々持ち上げ、部屋の隅にあるソファまで運んで、そこへ優しく寝かせた。

「礼司、タオルケットか何か持ってきてあげて」

「お、おう」

 俺が奥の部屋から正二専用のタオルケットを持ってくると、鞍馬山がそれを、ふわりと正二にかけた。

「うん、これで良し」

 そして、二人とも黙って数秒間、正二のあどけない寝顔を見下ろしていた。

 しんとして、俺はふと、今が夜であることを思い出した。

「さてと」

鞍馬山は柏手を打つようなふりをする。

「また起こしちゃったら可哀想だから、二階で飲もうか。あたしは机のよだれを拭いて明かりを消すから、ビールなんかは礼司が先に運んでくれ」

「俺が運ぶのかよ」

「あ、そこにある缶は開いてるから、あたしが持ってくよ」

小声で言いながら、鞍馬山はリモコンを手にとって、テレビを消した。


 ――結局、飲まされた。

 鞍馬山は結構酒に強い。飲むと、ややぼんやりとした面持ちにはなるが、泥酔したり、いつもと別人になったりしたのは見たことがない。

 比べて俺はかなり弱い方だ。

ビール一口で顔が真っ赤になり、一缶も飲めばもう頭がクラクラしてくる。

小さい頃――今も体は小さいが――は、酒の匂いを嗅ぐだけで酔っぱらっていた。

 それが今夜は二本も飲まされたので、既に意識は朦朧とし始めていた。

「おい礼司、しっかりしろ。夜はまだ始まったばかりだぞ」

俺の部屋のベッドに腰掛け、鞍馬山は新たにスクリュードライバーの瓶を開ける。コーラ瓶くらいのやつだ。最近よくコンビニで売られている。

「もっと色々話そうぜ、何でもいいから」

言いながらまた、ぐい、と飲む。果たして味は分かっているのだろうか。

 俺は床に座り込み、別に食いたくもないスルメをがじがじと囓る。

「……別に面白い話題なんか無いだろ……。それに……会話って、無理してするもんじゃないと思うぞ」

「じゃあ起きてるだけでいいよ。一緒に起きていようよ」

「何だそれ……」

 鞍馬山はスクリュードライバーをもう空にした。

さすがに、ひくっ、と横隔膜を痙攣させる。無理もない。もう数えるのが面倒なほどの缶や瓶を空にしているのだ。

今日は少し異常である。目つきもかなり変わってきている。

「そういえばさあ」

空けたそばから、また開ける。今度は酎ハイだ。

「礼司――おい、聞いてるか、ちんちくりん」

「ちんちくりんとか言うな……。聞いてるよ」

「お前さあ、あれだよ。今がチャンスだ、とか思わないのか? ――なあ起きろってば未熟児」

「未熟児って言うな。起きてるって。なに……チャンスが何だって……?」

本格的に眠くなってきた。

 鞍馬山は酎ハイで濡れた口元を弛緩した左手で拭い、「あーその、要するにあれだ。つまり普通は、だな」人差し指をタクトのように動かす。「こうやって真夜中に、仮にも女が一人で家に来て、しかも湯上がりであまつさえ酔っぱらっていれば、思春期の童貞少年たるもの、こう、むらむらっとくるのが……なあ、どうなのさ」

「一応言いたいことは分かるけどな」

俺はスルメを飲み込み、ごろりと床に寝転がった。

「相手がお前じゃそんな気起きねえよ。……別に、何も感じないって言ってるわけじゃねえけどな。仮にムラッときて強引にいっても、そのパワーで抵抗されたら自分の人生が終わっちまうだろ」

どうでもいい話だ。

――何か、自分が、間違った返答をしたような気もするが――ああ、まぶたが重い――。

「限界だ、もう寝る」

「礼司……」

 ――鞍馬山が何か言ったような気がしたが、眠気はそれをかき消した。

 俺は泥のような眠りについた。


 5


「おい……本当に寝ちゃったのか?」

狗子は礼司の顔を覗き込む。

本当に寝ているようだ。

「何だよ……バカ野郎、このっ」

ぴしっ、と頭を叩くが、軽く唸っただけで目は覚まさない。

「ふん」

狗子は立ち上がり、ぐったりした礼司の体を抱きかかえる。

正二とそんなに変わらない重さだ。

そう思うと、思わず笑みがこぼれる。

 礼司をベッドに寝かせ、自分は床に座り込む。

 ――と、そのベッドの下に何かが見えた。

「何だいこれは……」

まあ大体想像はつくが。

 ベッドの下に手を突っ込み、勝手に引っぱり出してみると、それはやはり、そういう写真誌だった。

 今までこういった物を実際に手にする機会はなかったので非常に興味がわいたが、さすがに無断で中身まで見るのは気が引ける。

 狗子は寝ている礼司の体を揺さぶる。

「おい礼司、スケベな本見ていいか?」

「……ん」

「これ借りるぞ」

「……ん……」

 許可が下りた。

 見る前に取り敢えず、部屋の冷房を消す。どうせ今夜は涼しい方だ。

立って窓を網戸にし、煙草を取り出して一本抜き、口にくわえる。

 それからまた座り込む。

煙草に火をつけ、床に置いた本の一ページめをめくる。

最初はカラーページだった。

「おお」

めくる。

「お?」

めくる。

「うわっ。――ち、乳? びっくりした、乳か。いや、何にしてもびっくりだ。大したもんだなこりゃあ」

一人でぶつぶつと呟きながら、手を止めてしげしげとながめる。

 なかなか勉強になった。

 あまり熱心になるのも馬鹿馬鹿しいので、狗子は本を閉じ、丁寧に元へ戻す。

 それから相変わらず寝ている礼司を見る。

「おーい、マスかき小僧」

からかおうと声をかけるが、返事は無い。

まるで死んだように眠っている。

寝息も、いびきも聞こえてこない。

「……礼司?」

また急に不安になる。

 さっき見た怖い夢が――そう、まさにあれは狗子にとっての恐怖、その全てだった――押し寄せるように、胸の中に蘇った。

 煙草を空き缶に押し込み、両腕を乗せてベッドに寄りかかる。

 そして礼司の口に耳を近づける。

 かすかな寝息が聞こえる。

 安心しつつ狗子は呆れた。

自分に、だ。

これくらいで不安になるなんてどうかしている。

 狗子はベッドにしがみつくようにしながら、寝ている礼司の手を、少し躊躇ってから、軽く握った。

 温かい。

 夢の中で、この少年の胸を突き貫いた自分。

 何も言えない後ろめたさが、狗子の目をきつく閉ざした。

「……ごめん。……ごめんなさい」

謝らずにはいられなかった。


 6


 吹き込んだ風が頬に当たって、俺は目を覚ました。

 部屋の中は明るいまま。窓の外はまだ暗いが――横目で枕元の目覚まし時計を見ると、午前四時過ぎだった。もうすぐ朝になる。

気のせいか鳥の声も聞こえてきた。

 窓からの風は涼しいが、右手だけが妙に生暖かい。

 首を動かして横を見る。

 ――作り物のように綺麗な白い顔があった。

「……起きたんだ」

人形はかすれた声で言った。

 鞍馬山は床に座ったまま、まるでベッドにしがみ付くように、曲げた両腕を乗せて寄りかかっていた。

 俺はまだゆらゆらと動いている意識の中で、鞍馬山の両手が俺の右手を握っていることを認識しながら、ぼそりと訊いた。

「ずっと起きてたのか?」

「ああ」

「どうして――」

俺の手なんか握ってるんだ?

「何だい?」

鞍馬山はなぜか疲れたような顔をしていた。

白い十本の指は弱々しく俺の手に絡まっている。

 俺は訊くのをやめた。

「いや、……。眠れねえのか」

「うん」

小さな顔を傾けてシーツに乗せる。

 目と目が――近い。

 鞍馬山は言った。

「夢を見るのが怖いんだ」

 俺の鼻に息がかかったが、最初から意識が朦朧としているせいか、この前のように困惑はしなかった。

「怖い夢見るのか」

「……ああ」

「どんな」

 そう訊くと鞍馬山は黙った。

 ――長い沈黙の後、鞍馬山は、絡めていた細長い指を解き、ゆらりと立ち上がって言った。

「悪いね、勝手に触って」

「は?」

「手――怒らないでくれよ」

「そんくらいで怒るか、バカ」

「ありがと」

そう言いながらベッドに腰掛ける。

 俺も体を起こし、床に足を下ろして座った。

 そういえば俺はいつの間にかベッドの上にいる。こいつが乗せてくれたのだろうか。

 礼を言う前に鞍馬山が口を開く。

「さすがに、この時間になると目が疲れてきたよ」

ゆっくりとした動作で目をこする。

「夢にビビって寝られないなんてお前っぽくないな。怖いんならまた膝枕でもしてやろうか?」

 俺はふざけて言ったのだが、鞍馬山は肯いた。

「うん、頼むよ」

言うなり体を倒し、俺の膝に頭を乗せる。

厚かましい奴だ。

 鞍馬山は膝の上で言う。

「酒をいっぱい飲めば、潰れて寝られると思ったんだけどな。……あ、やっぱりこれ気持ちいいや。ちょっと眠りたい気分になってきたぞ」

「そりゃどうも」

「お前、人として生きるよりも枕の方が向いてるんだな、きっと。将来いい枕になれるよ。あたしが保証する」

「……そりゃどうも」

厚かましい上に失礼な女だ。前から分かっていることだが。

 ――ちろ、と鞍馬山の目が、警戒するように俺を見上げる。

「念のため言っておくけど……あたしが寝てる間に下着とか脱がすんじゃないぞ」

「しねえよ」

「おっぱい揉むなよ。変なところいじるなよ。縄で縛るなんて以ての外だぞ」

「全部しねえって。大体何だよ縄ってのは。俺にそんな趣味なんか無いぞ」

「でも、さっき借りた雑誌にそういう写真が載ってたじゃないか」

「雑誌?」

もしや。

俺の意識はベッドの下に移動する。

 鞍馬山は目を閉じる。

「まあいいか、礼司を信用しよう」

「俺はお前を少し信用できなくなったぞ」

うなだれて、恥ずかしさと情けなさの入り混じったため息をつく。

どうも最近ため息が多い。

いや、別に最近の話ではないか。思えば鞍馬山と知り合ってからずっとこうだ。

 俺は何となく鞍馬山の髪に触れながら――こういうことを自然に出来てしまうから俺達の関係は特殊なのだろう――愚痴ってみる。

「膝枕って普通、女が男にしてくれるもんだよな」

「礼司が自分でいいって言ったのに」

「うーん」

まあ、そうだ。

一体俺は何を言いたかったのか。

 鞍馬山は薄目を開けて、また俺の顔を見る。

「第一お前の方は、あたしの膝で眠りたいなんて、別に思ってくれちゃいないだろうし」

「何だって?」

「つまり、ね――」

鞍馬山はもぞもぞと体を動かし、真上を向く。

虚ろに開かれた目は俺の顔を映していた。

「あたしが普段から礼司に触れたい、触れられたいと思っている気持ちほど、礼司があたしに対して抱いている感情は強くない。――お前はあたしを、変わり者の友人くらいにしか思っていないだろう。それなりに気に入ってくれているのは分かるよ。一応女として認識しているのも分かる。でも、まあ、それだけだ」

「鞍馬山……?」

 気怠そうに続ける。

「だからといって文句はないんだ。あたしは現状に満足してる。これはプレッシャーをかけようと思って言うわけじゃないけれど、お前はいつだって優しいし、今みたいに、甘えたいときは甘えさせてくれるから。――ただ皮肉は感じるよ。雑誌の写真なんかであたしの顔を知っているだけの奴らが、わざわざ校門まで出向いてきて、手を変え品を変え何十人と言い寄ってくるのに」

――はあ、と息をつく。

「お前だけは、あたしのことをバカ女と言ったり怒鳴りつけたりするんだ。それが心地よくてたまらない。変な意味じゃなくてね……。結局その無関心さが必要なんだな」

淡々と綴られた言葉はそれで終わった。

 俺は戸惑いながらも、案外落ち着いていた。

「それ――どういう意味だ?」

「ふん」鞍馬山はふてくされるように寝返りをうつ。「分かってるくせに訊くんだな。遠回しな告白だよ。がらにもない事をしたって、もう後悔してる。ああ気持ち悪い」

「俺は――」

「気にしないでいい。どうせ、大して動揺もしてないだろう」

 実はその通りだった。

 俺は何だか申し訳なくて謝った。

「……悪い」

 鞍馬山は顔をこちらに向けない。

「大いに謝れと言いたいところだけど、礼司は悪くないから謝る義務もないんだ。ただ――そうだね、一つだけわがままを言わせてもらえば……うん……」言い淀む。「……、……」

声が小さすぎてよく聞こえない。

 俺は背を曲げて顔を少し近づけた。

「聞こえねえよ。何だって?」

「ん。なんでもない。やっぱりいいよ」

「何だよ」

「なんでもないったら」

鞍馬山は少し体を丸める。

 俺はいつかのように、その耳を引っ張った。

「遠慮なく言ってみろって。俺に出来ることなら何でもするぞ」

「い、痛い痛い痛ぁーいっ! 口調とやってることが全然違うじゃないか、この暴力チビ! バカっ! 短足っ! もうバレンタインデーにチョコやらないぞ!」

「お前がくれるのなんて、いつも食いかけのチョコバーとか十円チョコだろうが」

耳を引っ張る手を離す。

 鞍馬山は片手で耳をおさえながら、口を尖らせて毒づく。

「それでもあたしと恵依子くらいにしかもらえないくせに」

「うるせえな、それで何だよ」

「なにさ」

「さっきの話。俺に何しろって?」

 鞍馬山はうっと詰まる。

「だからそれは……本当にくだらないことだから。……絶対笑うぞ、お前」

またごにょごにょと言い淀む。

「いいから言ってみろよ」

ベッドの上に丸まった細身の体を、俺は片手で揺する。

 鞍馬山は、やはりごにょごにょと言う。

「まあ、その、要するに……簡単に言うと、つまり……」横目で俺を見る。「頭を、だな……」

「頭を?」

 声はだんだん小さくなる。

「だから……こう、撫でてくれ、って……言おうとしたんだけどさ」


 沈黙。


 ……頭を……撫でる?


「――ぶはっ!」思わず俺は吹き出した。「は、はははは!」

爆笑すべきところである。似合わなさが過ぎて冗談にしか聞こえない。

「す、すげぇー面白ぇ! 何言ってんだお前? アタマ撫でろって……デカいナリして本気か? つーかもう犬と一緒じゃねえか! はは、名前もピッタリ」

「か、帰る」

言い捨てて起きあがろうとした鞍馬山の小さな頭を、俺はまた膝の上に押さえつけた。

 鞍馬山はもがく。

「放せ、バカ礼司!」

「暴れるなよ、頭撫でてやるから。おーよしよし」わしゃわしゃと頭を撫で回す。「うん、こりゃ良い犬だ。デカくて凶暴だけど」

「やめろ、あたしは犬じゃない! お前みたいな寸足らずに可愛がられる筋合いなんて無いぞ!」

「よく吠えるなあ。元気があってい――、っつ! うわ、咬むか普通!」

「ふうぅうぅうっ!」

「痛てて、ちょ、やめろバカ女!」

 朝っぱらからよくやると、自分でも思う。

しかし普段と立場が逆転したのが面白くて、俺は必要以上にはしゃいでいた。

 鞍馬山はしばらくジタバタしていたが、やがてだんだんと大人しくなり、くわえていた俺の指も放した。

 更に数分後――俺の膝に横顔を乗っけたまま、しょぼくれたように言う。

「……屈辱的……」

「何が」

「……別に」

 俺は頭を撫で続ける。

「どうだワン公、こうしてると落ち着いて眠れるか」

「……。うん……」

鞍馬山は素直に答え、再び目を閉じた。

 その整いすぎた顔を眺めながら俺は考える。

 果たして――こいつが見た、眠れなくなるほど怖い夢とは、一体どんな夢なのだろう。

 それを訊こうとした時にはもう、膝の上ですうすうと細い寝息がたち始めていた。

 これで当分便所にも行けなくなった。

俺は息をついて、人差し指で軽く鞍馬山の額をつつく。

 鞍馬山は眠ったまま、小さく「う」と唸った。


 7


 五歳の時――。

 父の書斎に狗子は入り浸っていた。

「見て、お父さん。出来たわ」

 狗子が差し出すと、父はコンピュータに向かったままその紙を受け取って、驚いた顔をした。

「速いな」

 ルーズリーフには、因数定理の問題が数題と、その解答が、活字のように冷たい筆跡で書かれていた。

狗子は、父に買ってもらった大学受験用の問題集で遊んでいたのだ。

 狗子は言う。

「今回は一分半。反射的に回答できるようになったから合計思考時間は一秒未満。――数学って案外飽きるのね。面白い捉え方だとは感じたけど……そこに書いてあるのなんて、どれも少し考えれば分かることばかりだもの。この前、もっと専門的なものも立ち読みしたのよ。でもがっかりしちゃった。発想のレベルは上がってたけど、閃きが用意されているの。思考パターンを同調させると意図や概念が全部見えてきちゃう。遊びとしては退屈よね」

アームチェアーに腰掛けた父の膝に、ちょこんと座る。

「私ね、今度は絵を描いてみようかと思うのよ――それ合ってた?」

「ん? ああ」

「嬉しいわ。前は時々ミスしてたものね。少しずつ経験情報の結晶化もスピードアップしているみたい。順調に成長しているのが分かるわ」

「ああ……そうだね」

六歳になったばかりの娘を見る父の顔は、浮かない。

 父の表情には、明らかに『ある感情』があらわれていたのだが、狗子はそれに気付かなかった。

 人間は、他動物であるキツツキが木に穴を開ける理由を明確に理解することは出来ても、その本能的衝動を共有することはできない。

 狗子もまた、生物が持つ恐怖心が、自己防衛のために組み込まれたプログラムの名称であるということは知っていたが、他者が抱く恐怖を感じ取ることは出来なかった。

 何も知らず、何も分からず、狗子は父の顔を見上げて、いつものように言った。

「ねえ、お父さん、私偉いでしょう?」

「……。そうだね。狗子は賢い子だ……偉いぞ」

父は狗子の頭にその大きな手を乗せて、優しく撫でた。

「狗子は可愛くて賢い子だ」

未知への恐怖に顔を引きつらせながら。

 頭を撫でられながら、狗子は喜んでいた。いつも表情は大して変わらなかったが――こうして父に誉めてもらうため、狗子は家庭教師に教わる赤ん坊地味た勉強も、つまらない柔道スクールも、およそ無意味なピアノのレッスンも、退屈を我慢して全て完璧以上にこなしてきた。

部屋に並んだトロフィー。賞状、楯、認定証、全て――誉めてもらうため。

 幸福の中で狗子は言った。

「私、もっと出来る子になる。どんな問題でも、目の前にあるものは全部、ちゃんと解くわ。私にはそれが出来るんだもの」

そうすれば父はきっと――誉めてくれる。

優しく頭を撫でてくれる。

 狗子は透明すぎる心で、疑う余地もなく、そう信じていた。


 愛されていると思っていたのだ。









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