第三話【レッドアイズ・ブルーハーツ】
第三話
【レッドアイズ・ブルーハーツ】青春と狂気が同時進行する夏は暑くて。
1
それを俺が知ったのは日曜日だった。つまり黒場さんの家へ行った翌日、終業式前日である。
日曜だから授業はない。
徹夜でゲームをしたせいで夜明けと共に寝た俺は、のんびりと正午に目を覚まして、一階に下り、テーブルの上にあったカップ麺にお湯を注いで、立ったまま新聞をながめていた。
電話がかかってきたのは、その時である。
両親は書き置きを残して買い物に出かけている。しかも弟まで遊びに行ったらしくいないから、嫌でも俺が出なくてはいけなかった。
――三分以内に切り上げねばなるまい。
俺は湯を注いだばかりのカップ麺をちらりと見て、そんなくだらないことを思いながら電話を取った。
電話の向こうから聞こえてきたのは、大して聞きたくもない声だった。
《あ、日野台高校の稲森っすけど、今、礼司君、御在宅っすか?》
同じクラスで後ろの席に座っている陽気なデブ、稲森である。
九分九厘――暇つぶしのためにかけてきたのだろう。そういう奴である。
クラスの中で俺だけが休日もずっと家にいることを、こいつはちゃんと知っているのだ。
稲森自身も昨日、明日は何もすることが無い、暇だなあどうしよう、などと言っていたから多分間違い有るまい。
悪い奴ではないのだが今は面倒である。特に下世話な話題を好むこいつと寝起きに話をするなんて、前菜も食わずに厚切りのステーキを腹に押し込むようなものだ。
「俺だよ。切るぞ」
《はい……え? ちょっ、なんで切るんだよ!》
「カップ麺がのびる」
稲森は電話の向こうで舌打ちする。
《そんな理由で切るなよな。結構大事なことなんだから》
「何だよ早く言え」
《うん――》
少し声の調子を下げた。肉厚な割に軽薄な稲森にしては、かなり珍しい。
《B組にさ――神崎っていただろ。あの何となく嫌味っぽい顔した奴。頭良さそうな……あ、成績は本当に良いんだっけか?》
「神崎……?」
《そう神崎。お前知らないのか?》
「いや、――知ってるよ。神崎がどうかしたのか」
俺はまた昨日の光景を思い出していた。
稲森は少し勿体ぶってから、簡潔に告げた。
《あいつ、死んだぜ》
よく分からない。
「――死んだ?」
寝起きに近い俺は、ただ、その言葉を馬鹿みたいにリピートした。
《おう、自殺だってよ。なんか知らんが、車の前にいきなり飛び出したんだと》
「自殺……って、どうして……」
神崎が死んだ。
しかも自殺? 今――渡瀬は?
稲森は、おいおい、と少し笑ったようだった。
《俺に理由訊かれたってな、んなこと知るかよ。詳しいことは神崎本人に訊いたらどうだ? ――なんてな、ははは》
全然笑えない。
「自殺っていうと……何だ」
俺はどもりながら質問を選んでいた。
「――どこで?」
《場所か? 死んだ場所はヒャクラクだって。ほら、日野台駅から四つ行ったとこだよ》
ヒャクラク……百楽町……か。待てよ。そこは確か――
《あ、そうだ、何か良く分かんねーんだけどよ――渡瀬っているだろ? つーか、お前らとよく一緒にいる、あの渡瀬恵依子だよ。うちの学校じゃ鞍馬山の次くらいにカワイイ子。優等生》
「……ああ……」
《神崎が死んだのって、渡瀬ん家のすぐ近くだったらしいぜ。あいつん家って百楽にあるだろ。――俺もさっきB組のダチから聞いたんだけどな》
渡瀬の家の近く――。
「稲森」
《あん、何だよ》
「神崎の家がどこか知ってるか?」
《は? 神崎の? んなこと知らねえ――、いや待てよ。ええと……。ああ、やっぱり良く知らねえや。でも百楽の近くじゃねえぞ》
「そうか……」
何だろう。
何か、嫌な感じがする。
稲森はしかし軽い調子で続ける。
《そうそう、だから、どうして神崎がそんなところで死んだのかが謎なんだと。自殺したのは四時過ぎだったらしいけど、んな時間に神崎がそこにいる理由が無いんだってさ。それと自殺の動機とかも分かんねえらしいぞ》
神崎がそこにいた理由?
二人は多分付き合っている――と鞍馬山は言っていた。
だったら渡瀬を家まで送った帰り、か?
いや、神崎が渡瀬を送る理由はない。雨が降っていて空が暗かったとはいえ、まだ四時かそこらだったのなら、それは少々不自然だ。
第一、傘は一本しか無かったはずだ。その傘にわざわざ入れてもらって、彼女の家へついて行くまでは良い。
しかしその帰りはどうする。
傘を借りるか? ――やはり、そこまでする意味はない。
ならば……その日、雨が降っていようが何だろうが、どうしても渡瀬の家へ行かなくてはならない理由があったのか。それで、その帰りに――死んだ?
上手く脳味噌が働かない。
俺は頭を掻いて訊いた。
「ところで稲森、お前どうしてそんなに詳しいんだ?」
「テレビでやってるぞ。今」
「早く言え」
がちゃり、と俺は受話器を置いて、テーブルにつき、リモコンを手に取った。
テレビの電源を入れると……本当だ。ちょうど神崎の顔写真が映っている。
カップ麺は程良く出来上がっていた。しかしこの時刻では、昼食なのか朝食なのか分からない。
ともかくそれを食いながら俺は画面を見る。
画像が切り替わり、はねられた現場らしい場所が映る。
普通の、比較的静かそうな住宅街である。
アスファルトが映される。血痕などはないようだ。あっても雨で流れてしまったのだろう。
画面の端には『事故か自殺か?』と思わせぶりな文句が表示されていたが、その時は気にならなかった。
仰々しい音楽と共にナレーションが入る。
『この少年と、現場近くに住む同学年の生徒が、秘かに交際していたという……』
いきなりである。
――何だ、と思った。三年間付き合ってきた友達よりも、テレビ局の方がよく知っているじゃないか。
『遺書などはなく、……』
俺は少し落胆した。一日調べれば分かるような友人の秘密を、俺は今までずっと知らないでいたのだ。
友達とは他人なのだなぁ、と、初めて感じた。
なぜか鞍馬山の顔も目に浮かび、にわかに寂しくなってしまった。
ナレーションは続いている。
『運転手は、「大雨で視界が悪かったから断言は出来ないが、少年は電柱の影から飛び出したように見えた」、また、「はねた瞬間、混乱で目の前が真っ赤になり、混乱して逃げてしまった」、と』
電柱の影から――飛び出した?
『他に人影は見えなかったと証言して』
神崎は一人でそこにいたのか。
『和也君は成績も良く』
知っている。
――もうナレーションは耳に入らない。五月蠅いだけだ。
苛々して俺はテレビを消した。
熱い麺をずるりと吸い、あまり噛まずに腹におさめる。
食いながら、ふと考える。
渡瀬は今、どうしているだろう。
「ただいま」と、玄関の方から弟の声が聞こえた。
2
その日、日野台住宅公園は静かだった。
といっても、ここはいつも静かなのだ。密集したマンションたちの隙間に、ぽつりと存在している、小さな小さな公園である。
遊具はやはり小さな滑り台と、古びたブランコ。砂場だけがやや広い。
そこにいるのは数羽の鳩と、五歳くらいだろうか……今時活発そうな子供が二人。両方とも男の子だ。
それと、それぞれの親らしい、若い主婦二人だけである。
主婦たちは公園入り口付近にある青いベンチに座り、何かぺちゃくちゃと話している様子だ。どんな話題かは知れないが、時々明るく笑ったりしているから、それなりに内容は充実はしているらしい。
子供たちは、その周りをぐるぐると走り回っている。鬼ごっこのつもりらしいが、はっきりとしたルールが定められていないため、実際は単なるエンドレスの追いかけっこである。まあこれもやはり、本人たちが満足していれば遊びの目的は達成されるのだから、それで良いのだろう。
――そして一方、砂場の隣にある寂れたベンチには、背の高い、綺麗な少女が腰掛けていた。
黒いタンクトップに、下はスリムなジーンズのパンツ。細長く白い両腕を広げて、だらしなく背もたれに乗せ、長い足をでんと前に投げ出している。
気怠そうに半開きになった口には、大分短くなった煙草。
寝癖だらけの茶色い髪は、首の後ろでいい加減に束ねられ、時々吹く風に揺れる。
「ふあーあ」と無防備な大あくびをする。不思議と煙草は落ちない。
ゆっくりと眠たそうな顔を上げ、ぼりぼりと頭をかく――。
少女は鞍馬山狗子であった。
一体何を考えているものか、彼女がぼんやりと見つめる先には、木にとまった二羽の鳩がいる。
ぽつりと呟く。
「庭には二羽、ニワトリが……」
ハトとニワトリの区別もつかないらしい。しかもここは庭ではなく住宅公園だ。何一つとして正しくない。
「ふむ」
なぜか納得したように頷き、傍らに置かれたコーヒーの空き缶に煙草を押し込んでから、ごろりとベンチの上に横になる。百七十センチ強と女性にしては結構な長身であるため、脚は曲げないと乗り切らない。
狗子はそのまま目を閉じた。
――そこへ、追いかけっこをしている男の子たちが、てけてけと接近してきた。だんだん遊びに夢中になって、走り回る範囲が広くなってきたらしい。周りも見えていないようである。
「待てよ、おれ、ちゃんとタッチしただろ!」
「とどいてなかったよーだ。ケイちゃん足おそいな!」
「ずるいぞ! 止まれよシンゴ!」
「やだよーだ!」
「待てってば、――あっ! シンゴあぶない!」
「え?」
案の定、追い掛けられている子――シンゴがつまずき、
「うわあっ!」
「シンゴ――!」
あろう事か、そのままバランスを崩し、寝ている狗子の胸に顔を埋めてしまった。
公園内の時が止まった。
――事実、鳩や、風に揺れる木々までもが、ぴたりと止まってしまったのは偶然だろうか。
「……ガキども……」
狗子はすぐに目を開け、倒れかかってきたシンゴの腕を、がしりと掴んだ。
幼いシンゴ少年は、文字通り蛇に睨まれた蛙の如く硬直した。同時に、追い掛けていたケイちゃんも言葉を失って立ちつくす。
同じく入り口の近くでは、母親たちが、我が子らの引き起こした大変な事件に気付いて思わず立ち上がっていた。
しかしどうしたら良いか分からない。何せ相手は、吸っていた物から判断するに、きっと非行少女である。警察を呼びに行くのが良いか、それとも今すぐに謝った方が良いのか――。
狗子はシンゴを睨み付ける。
「知らないお姉ちゃんのお乳に、不意を突いて顔を埋めるとは……ガキの分際で随分と大胆だな。その年で痴漢行為か。幼稚園でもそういう事してるのか? あん?」
シンゴの腕を掴んだまま、ゆらりと体を起こす。
シンゴは既に半泣きである。――いや完全に泣いている。それほどに、目の前のお姉ちゃんの形相は威圧的だった。
「ご……」
「謝って済むかァ!」
喋る隙すら与えられない。
怒鳴られ、びくんと痙攣した少年に、閻魔の如く座した狗子は機関銃のように言葉を浴びせる。
「お前がもし四十を過ぎた会社勤めしているオジさんで、あたしがその部下である若いOLとかだったら、お前、下手すりゃ会社追われるかも知れんのだぞ! そしたら家族はどうなっちまうんだ!」
「ご……ごめっ……ごめんな……さぁい……」
シンゴは涙と鼻水をだらだらと流して、必死に謝る。
「ええーい、やかましい!」
「う、うわぁっ!」
襟首を掴まれたシンゴは片手で軽々と持ち上げられ、
――とすん、と、狗子の右膝に乗せられた。太腿にまたがって向かい合う形である。
狗子は指をぽきぽきと鳴らす。
「ふふん、目には目をだ、あたしもお前に淫行してやろう。ほらパンツ脱げパンツ!」
「や、やめてよぉっ!」
「こら暴れるな、せっかく気持ちよくしてやろうというのに」
「い、いいよ! はなして――たすけてママぁ!」
「この不良、シンゴをはなせぇっ!」
横から、勇気を振り絞ったケイちゃんが加勢する。
悪い不良はにんまりと笑う。
「何だい、友達を返して欲しいのか?」
「し、シンゴかえせよお!」
「駄目だ」狗子は首を横に振る。「これからあたしは、シンゴを連れて帰って、色々エッチなことしてから焼いて食べちゃうんだ」
「ええっ!」
「や、やだーっ! やめろーっ!」
ケイちゃんは驚きのあまり絶句し、抱えられたシンゴは悲鳴を上げる。
無理もあるまい。なにせ生命の危機である。
「そして残った骨は、飼ってる人面犬にあげちゃうのさ……へへへ、怖いだろう」
「こわいいいぃっ! ママ、ママあーっ!」
「オニババ不良、シンゴをかえせ!」
「放さないもーん。食べちゃうもーん。それ――あむっ」
ぱくり。
「うわーん! やだーっ!」
耳たぶを唇で軽くはさまれ、シンゴは泣き叫ぶ。
母親たちは、しばらく呆然とその光景を見ていたが、やがて、二人同時に吹き出した。
シンゴを小脇に抱えて逃げ回る狗子を、必死になって追い掛けるケイちゃん。
繰り広げられる光景に悪意の色は無かった。
それどころか、遠目に見ればまるで人形劇のようで、そこまでの経過がどうでも良くなるほど滑稽なシーンだったのだ。
鬼婆と少年たちの壮絶な戦いは数十分も続き、いつしかそれは、二対一の、終わらないプロレスになっていた。
「……ふう……お前らタフだねえ」
額に少し汗をうかべた狗子は、元々座っていたベンチに、再びどっかりと腰を下ろす。プロレスは狗子のギブアップ負けだった。
「お姉ちゃん疲れちゃったよ。ちょっと一本吸わせておくれ」
スリムなジーンズなのに、後ろのポケットから、すんなりと、セブンスターが出てきた。どこまで無駄のない体型なのか。
「オニババ不良、タバコすうの?」とシンゴ。
「――ああ」
「不良だから?」
「ん……。そうなのかな」
しゅぼ、と火をつける。煙草をくわえた口元が、一瞬だけ笑った。
「でも、おれのお母さんが、タバコすうと、バカになるっていってた」
ケイちゃんが言うと、シンゴも肯く。
「おれもしってる。バカになるんだよ」
「へえ」
ゆったりと、実にゆったりと白煙を吐く。今度は少し美味そうである。
ケイちゃんは心配そうに、狗子の綺麗な顔を見上げる。
「オニババ不良、いまよりバカになっちゃうよ?」
狗子はそれを聞いて、少し「えっ?」という顔をした後――すぐに笑った。
「何だ、心配してくれるのかい? 優しいねえケイちゃんは。でも良いんだよ、人間は馬鹿な方がいいんだから」
「バカな方がいいの? なんで?」
ケイちゃんは意外そうな顔をする。
狗子は言った。
「利口より響きが良いじゃないか」
バカの方がファンキーだろ。言いやすいし愛がある。
ほとんど独り言のように呟きながら、狗子は空に向けて煙を吐き出した。
理解できず二人は顔を見合わせる。
狗子は付け加える。
「お前ら、今のを理解したら人としてお終いだから、気を付けろよ」
「うん、わかった」
「おれもわかった」
シンゴとケイちゃんは取り敢えず肯いた。
同時に向こうで、ベンチから立ち上がった母親たちが、二人の名を呼んで手招きした。
狗子はにこりともせず、いい加減に顎で指図する。
「ほらママたちが呼んでるぞ。調度良い。早く帰れジャリども、しっ、しっ」
「ちぇ、行こうぜケイちゃん」
「う、うん……」
しかしケイちゃんはなぜか、帰るのを躊躇っていた。友人の姿はもう大分遠ざかったというのに、まだ何か物言いたげに、ちらちらと狗子を見ている。
それに気付き、狗子は、くすりと微笑んだ。
そして「おいで――」とケイちゃんをベンチまで招き寄せ、彼の頬にそっと口付けした。一瞬のことで、出入り口にいる三人のうち誰も、それを見ていなかった。
呆然と赤面するケイちゃんに、狗子は「二人だけの秘密だぞ」と耳打ちしてから、その頭をぐりぐりと撫でた。
「じゃあな」
「じゃ……」我に返ったケイちゃんは、顔を赤くしたまま、後ろ向きに走りだした。「じゃあね! またねオニババ不良!」
「おう」
「またね! また来てね!」
「はいはい、またね」
苦笑しながら手を振り、狗子は少年を見送る。
子供たちは帰っていった。
暇になった狗子は暫し放心していたが、やがて煙を吐くとともに、乾いた前髪をかき上げた。
――そして、公園内に足を踏み入れた一人の男に、冷ややかな眼差しを向ける。先ほど子供たちを見ていた目とは明らかに違う、敵意のこもった視線である。鞍馬山狗子のこんな目を、日野台高等学校に通う生徒は、一度として、一人として見たことはあるまい。
鳩たちが頸を絞められたような鳴き声を上げて、一羽残らず飛び立つと、灰色の羽がひとひら、くるくると舞い――地面に落ちた。
視線を受けながら、男はまっすぐに、狗子の座るベンチへと近づいてくる。
狗子は男が立ち止まる前に、唸るように呟いた。
「……何をしに来た……森田?」
男は、四メートルほど離れたところで、歩みを止める。羽が爪先で踏みにじられた。男はそれを意識しない。
「これは凄まじい敵意だ。肌が痛いほどですよ」
口に手を当てて笑う。
「本当に相変わらずですね、狗子さん。六年前――僕が何をしたわけでもないというのに」
若い男である。見た目から判断するに、年は三十になるかならないか、といったところだ。不健康そうに痩せていて、熱いのに、くそ真面目にネクタイをしめている。
しかしそれとはやや対照的に、表情は良い意味でルーズで、そこに思考の柔軟性が滲み出ているようだ。
銀縁の眼鏡を中指で、す、と上げる。
「貴女は相変わらず、本性を知る人間に対して見境無く牙を剥く。もっとも保護者の黒場さんは例外ですか?」
「挑発しに来たのか」
「とんでもない。ああ勿論スカウトでもありませんよ。いずれ正式に伺うつもりではありますがね」
「今更あたしみたいなものをどう使うつもりだ? あの時は結局持て余したくせに」
「持て余したわけではありません。当時は上があなたを危険物としか認識していなかっただけです。ただ、最近では少し事情が変わってきましてね。あなたを現実的に欲している部署もあるんですよ」
「もういい、さっさと要件を言え」
狗子は手刀をつくり、切っ先を森田に向ける。
「お前の御託を聞いているとそれだけで頭が熱くなってきそうだ」
再び、沈黙。
――森田はゆっくりと頷く。
「分かりました」
ハンカチを取り出して額の汗を拭く。
「今日は、お知らせを持ってきました。少しでも刺激になればと思いまして」
「報せ?」
狗子は手を下ろす。
森田は頷く。
「そうです、規模を見れば大した事件では無さそうなんですが、少々奇妙な点があるのと、何より貴女と近しい人間の死なので、詳しく調べさせてもらいました」
「能書きはいい。誰が死んだ」
「神崎和也くんをご存じですか」
「どこで」
「渡瀬恵依子宅――付近です」
「どうして」
「漠然とした問いですね。僕は生憎、貴女ほどは賢くない。したがって察しも悪いわけで」
「何が原因で死んだ?」
「交通……事故死。即死でした」
森田は嫌味っぽく笑う。
「興味がわきましたか」
狗子は「ふん」と鼻をならす。
「ただの事故なら貴様らが勝手に片づけろ。いや……出るまでもない、か」
「言ったでしょう。貴女と近しいところでの事件だから、そして奇妙な点があるから調べたと……狗子さん、また回転が遅くなっていますよ。必要な情報確認が済んでいないのに言動を決定するなど、まるで並の人間です。見るにたえません」
「一々五月蠅いな。今のあたしはこれでいい」
「奇妙な点というのは」森田は勝手に続ける。「事故発生時の状況です。彼が渡瀬恵依子宅の付近にいた理由はいくらか想像が付きますし、一般生徒から確認も取りました」
「二人は秘かに交際していた。……仕事が早いな」
「そして、そこにいた細かい理由は、この際重要ではありません」
「早く言え。重複が多い」
「彼をはねた男ですが、ええ――」
森田はまた眼鏡をなおす。
「二十六歳自営業、今までにスピード違反が一回と駐車違反が一回、しかし元暴走族で運転技術はまあまあです。アルコールも入っていませんでした。彼は神崎少年をはねてから怖くなり、小一時間ほど車を走らせていたそうですが、良心からでしょうか、すぐに出頭してくれました」
「それで」
「彼の証言が妙なんです。曰く『大雨で視界が悪かったから断言は出来ないが、少年は電柱の影から飛び出したように見えた』んだそうです。そして自分は『はねた瞬間、混乱して目の前が真っ赤になり、怖くなって』……『逃げた』と」
「自殺――」
「そうですね、他の人影は確認されなかったようですから。現場にいたのは彼一人です」
「何か理由でも?」
「同じ学校に通っている貴女の方が詳しいのでは?」
「人間は見るだけだ。一々調べない」
「無意味な発言ですね。人間的で嘆かわしい――」
「あたしは人間だ!」
狗子は突然、泣くように怒鳴った。
その反応を見て森田は笑う。
「本当に感情的だ。よくそこまでリアルな人格を造り上げることが出来たものです。六年前、初めて会ったときの貴女からは想像も出来ない。しかしそうまでする理由は何です? 親しみやすい人間になって――殿山礼司くんでしたか、あのクラスメートに好かれようとでも? まさかね、貴女と彼では、生まれながらにして持っている価値が違いすぎる。それくらい貴女にも分かっているはずです。彼と親しくすることなど……貴女にとって、所詮、人でいることを確認するための手段でしかない。まさか本気で恋愛感情などを抱いているわけではないでしょう?」
狗子は唇を噛んで答えない。
なおも森田は続ける。
「知り合ってからよく彼を部屋へ呼んでいるようですが、黒場勝美さんも、貴女が本来の人格を抹殺し、仮初の人生を送ることを応援しているのですか? 僕には理解できませんね」
森田はベンチに座って俯く狗子を見下ろす。
「それにしても、彼が貴女の本質を知ったとき、それでもまだ、まともに口をきいてくれるでしょうか? ……彼と本当に親しくなりたいのなら、試しに全て話してみたらどうです。そういうのが本当の繋がりなのでしょう? 包み隠さず彼に教えて上げればいいじゃないですか。貴女が本当はどんな人なのか。どんなことをする人なのか。いずれ分かってしまう事ですしね、ならば早い方が良い。何なら僕から伝えてあげますよ」
狗子は両手で頭を抱えた。
綺麗な顔が、恐れに歪む。
「やめてくれ……」
髪を掻きむしる。
「どうしてそんなに追いつめるんだよ……っ!」
「刺激しているだけですよ」
涼やかに答える。
風が吹いた。
森田は続ける。
「話を戻しましょう。彼が自殺したとすれば、その理由が存在する可能性は高い。それについて、一応、渡瀬恵依子に話を聞きました」
狗子は顔を上げる。
「恵依子に――?」
「そうです。意外に精神状態は安定していまして、口数は少ないものの、ちゃんと受け答えをしてくれました。表面的にはね」
「……何か」
「はい。内容がかなり奇妙でした」
森田は少し間をおいてから、言った。
「彼女は昨日、『父親と帰った』というのです」
「父親と帰った、って……?」狗子は眉をひそめる。「そこで父親が出てくるのか? ……つまり……彼氏と自分と、三人で帰った……」
「そうなります。鵜呑みにすればそうなるはずなんです。――雨が降り出したので、父親は駅まで歩いて行き、二人分の傘を持って娘の帰りを待っていた。そこで親子は合流し、一緒に帰宅したという話です」
「神崎はどうなる。駅で彼女の父親と鉢合わせして――死んだときは一人だったんだろう。途中まで三人で歩いて、中途半端なところで別れ、それから神崎は、死んだ……。それは……」まつ毛の長い両目が瞬く。「つまり三人は仲良く帰っていたが、途中、父親と神崎は口論をして別れた……そして口論の内容に自殺の原因がある……?」
「それが一番簡単なんですが、困ったことに、渡瀬恵依子はさらに、こう証言したんです」
森田は人差し指の先を泳がせる。
「……『神崎くんは家までついてきた』と」
「死んだのはその帰りか」
「そういうわけでも無いらしいのですよ。まあ聞いて下さい。続けて彼女はこう言っています。『私たちは二人だけで帰った』――」
「何だそれは……いや――そうか、『ついてきた』んだから、神崎は、二人で帰る親子の後を、勝手につけてきたのか」
「そう思いますよね。まるで謎かけのようだが、辻褄はそれで合う。だからそうなのかと訊いたんですよ」
「違う、のか?」
「違うらしいんです。極めつけに彼女はこう答えました。『一緒に帰ったのは神崎くんだけ』『それ以上は言えない』……。分かりますか?」
「それは……」
狗子は深く俯き、しかしすぐに顔を上げて、答える。
「矛盾……だ」
「矛盾です。父親と帰り、しかし父親と帰っていないというわけですから、見事な矛盾です」
――父親と帰った。
――神崎は家までついてきた。
――二人だけで帰った。
――一緒に帰ったのは神崎だけ。
――……それ以上は言えない。
狗子は声にせず、唇でそれらの言葉を復唱した。
「これらが何を意味しているのかは分かりませんが」森田は笑みを浮かべる。「参考のために、その他の情報を伝えておきましょうか。――渡瀬恵依子の父親、渡瀬清一郎が駅で待っていたという証言ですが、九分九厘事実だと思われます。近所では、娘思いなことで有名な父親でして、少し過保護すぎるのではないかと噂する主婦なども多いようですね……雨が降ったり帰りが遅くなる度に、しょっちゅう駅で娘を待っている姿を、何人もの知り合いが見ているそうですよ。勿論、娘が折り畳み傘を持っていても同じでしょう」
「父親が過保護――」
「彼は妻と離婚しています。それはご存じですか」
「知ってる」
「そのため唯一の家族となった娘を必要以上に大切にしていることは、そう不自然でもないでしょうね」
「……分かってる」
やや唐突に、狗子の口調に苛立ちが混じり始めた。――会話の脈絡とは無関係に、それは、眼前にいる男と多くの言葉を交わして、自我が少しずつ過去に立ち戻ってしまうことを恐れているからなのかも知れない。
森田は不敵に微笑み、きびすを返して、「また来ます」と言い残し、その場を立ち去った。
狗子は舌打ちする。知人の死を知らされても全く動揺しなかった自分に気付いたからだった。
確かに、刺激には――なったようだ。
3
月曜日、終業式の中で、全校生徒は神崎のために黙祷した。
生徒で埋め尽くされているにも関わらず、これ以上ないほど、しんと静まり返った校庭である。
列の一番後ろに立つ俺は、六十秒間続く沈黙の間も目を開けており、皆の表情を秘かに観察していた。……傍目から見れば罰当たりな感じがするだろうが、俺は元々仏壇のロウソクを鼻息で消すほど信仰心のない人間だから、どうしてもこういう瞬間、真面目な気持ちになれないのだ。どこか滑稽だと思ってしまう。
まあどうせ皆その程度の気持ちでいるだろう、と、そう思っていた。
しかし意外なことに、俺みたいに不謹慎な奴はごく少数だった――というより、目を開けているのは俺くらいで、いつも騒がしい友人らも、冗談ばかり言う先生も、皆目を閉じ、下を向いていた。
肩を震わせている女子がいる。彼女は、もしかしたら神崎のことを好きだったのかも知れない。尋常な悲しみ方ではないのが、後ろ向きにもよく分かる。
見回すと、そういう子は、中、高等部問わず大勢いる。
なるほど、渡瀬と付き合っていることが分かれば、かなり大勢の女生徒がショックを受けたかも知れないわけで、そうなれば、鞍馬山が言うように面倒なイザコザも起きたろう。俺は何だか変に納得した。
後ろで声がする。
振り返ると、鞍馬山の場違いなヘラヘラ笑いが目に入った。
鞍馬山は当たり前のように私服だった。右手に煙草、左手に烏龍茶の缶を持ち、気弱そうな若い女の先生に絡んでいる。
「ねえ、先生いつも地味な服着てるよね。あたしも人のこと言えないけど」
「く……鞍馬山さん、今は黙祷中ですから」
「化粧も地味だしね。――やっぱり教師って派手な格好すると、色々五月蠅いこと言われるの? うちの三十路も言ってたよ。あいつも私立中の講師やっててさ」
「鞍馬山さん……ほ、ほんとに……」
今は黙祷中だというのに何という――いや、そもそも、どうしてあいつは、生徒の列からあんなに外れているのだろう。
――目を開けて下さい――と校長が言う。
少しずつ、この場に『音』が戻ってきた。
朝礼台に生活指導主任が上り、悔やみを一言述べてから、夏休みの生活態度について説教を始めた。神崎の話は終わりである。
そうなると切換はスピーディで、どいつもこいつも一度に騒ぎ出した。皆、明日から夏休みであることを思い出したらしい。説教の声はここまで聞こえてこない。
「礼司」
気付くと鞍馬山は右隣にいた。
「……何だよ」
「やっぱり二人、付き合ってたみたいだね」
神崎と渡瀬のことだ。
それなら俺もテレビで確認した。
そう言うと、鞍馬山は感心したような顔をした。
「テレビで。へえ、気付いてる奴も中にはいたんだ」
――? ああそうか。報道されるということは、テレビ局の人間が、おそらく日野台高校の生徒に、電話か何かで話を聞いたからだ。つまり校内の誰か――多分複数人数が――神崎と渡瀬の関係に、以前から気付いていたということである。鞍馬山はそのことを言ったのだ。
鞍馬山の言葉は時々、今みたいに飛躍する。
ふと思いつき、俺は声をひそめた。
「こう言っちゃ何だけどよ……テレビ番組ってのは、たかだか自殺くらいで、そいつの交友関係まで突っ込んで調べるもんなのか? 秘密で付き合ってた相手とか、そんなことが分かるくらい」
鞍馬山は煙を吐きながら、軽く肩をすくめる。
「どうだろ。このケースは少し特殊だからね」
「特殊?」
「事故にしても自殺にしても不自然だから、番組を面白おかしくできる。題材としちゃあそこそこだ」
「ああ――」
なるほど。昨日から続く、どこかふわふわとした現実味の無さがあったが、正体はその曖昧か。
神崎に自殺する理由はない。かといって事故にしては不自然な状況――だが現場に神崎以外の姿は無かったという。物理的に有り得ない現象が起きたわけではないのに、どこか腑に落ちない。変な話、俺は今、神崎が死んだ場面も想像できないのである。
それから鞍馬山は妙なことを言った。
渡瀬が昨日警察に話したという、矛盾した言葉の群であった。
父親と帰った。神崎は家まで付いてきた。二人だけで帰った。一緒に帰ったのは神崎だけ。
どういうことなのか俺には皆目分からない。
「多分、彼氏が死んで、精神的に参ってるんだろうな」
俺は何も考えずにそう言った。
それより、どうして鞍馬山がそんな話を知っているのかが不思議である。
訊くと鞍馬山は嫌な顔をして、
「知り合いに警察関係の人間がいるんだ」
と答えた。
そして、煙草を、持っていた缶にぽいと入れる。缶はほとんど空っぽだったようだ。
少し首を傾げて、親指で下唇を撫でる。
いつも観察しているわけではないが、初めて見る仕草である。考え事でもしているのだろうか――。
俺は、いつの間にか鞍馬山の横顔を見つめていたことに気付き、なんとなく目をそらした。
「渡瀬はやっぱり休んだな」
学校には体調が悪いと電話したらしいが、本当のところは、恐らく彼氏が死んでショックを受けたか、逆恨みを恐れたかのどちらかだろう。俺は泣いている女子たちの後頭部を見ながら考える。
鞍馬山の返事は曖昧なものだった。
「うん――」
まだ何か考えているようだ。小さな声で呟いているようにも見える。
じっと地面を睨み――
不意に、こめかみを押さえる。
「――っ!」
前触れもなく、ぐらりと揺れる。
「お、おい、平気か?」
俺はバランスを崩した鞍馬山の体を受け止め、顔をのぞき込んだ。
どきりとした。別に、思わず抱いた肩が、手のひらに収まるほど華奢だったからではない。綺麗な顔も少しは見慣れている。
ただ――ただ、眼が。
「お前、それ?」
俺は、寄りかかる鞍馬山の肩を抱えたまま硬直した。
我に返り、鞍馬山はその眼を見開いた。
「え? ――あっ、やだっ!」
どん、と俺は突き飛ばされた。
空き缶が土に落ちて転がる。
鞍馬山は顔の上半分を手で掴むように押さえ、また少し、よろけた。
「――見ない――で――」
二歩ほど後退し、その場にへたりとしゃがみ込む。
「お、おい」
俺は周囲を見回す。
何人かが、何があったのかと振り返り、こちらを見ている。
恥ずかしいのと心配なのとで、俺はともかく、頭を抱えてうずくまる鞍馬山の肩を揺すった。
「頭が痛いのか? ……なあ、何とか言えよ」
唐突な出来事に戸惑う俺の混乱した頭の中を、疑問がぐるぐると回る。
今見えた、眼は?
黒いはずの瞳が、透き通った赤い色に変わっていた。
充血していたのか。
いや、それなら白目が赤くなるだろうし、何より――充血していただけならば、あんなに瞳は縮まるまい。しかも、ただ瞳孔が収縮したのではない。中心部分が、ひとすじの細い糸のように……あれはまるで猫だ。
そう、透明で赤い、猫の瞳である。
――返事は蚊の鳴くような声だった。
「何でもない……」
顔を上げようともしない。
周囲がざわめく。ごつい体育科の教員も、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
俺は本当に心配になってきた。
「どうしたんだよ、そんな、女みたいな声だして」
返答はない。いつもならば、あたしはれっきとした女だぞ、と間髪入れずやり返してくるのに。
熱中症というやつだろうか。あれは時として死にも至ると聞いた。今日はそんなに暑くないのだが、どうなのだろう。
「何だ一体」
体育科の斉藤が、うずくまる鞍馬山の横に立つ。
「おい鞍馬山、気分が悪いのか? ちょっと――田辺先生」
呼ばれて、ひょろ長い体格の担任も駆け寄る。
「何かありましたか……あれぇ」
気の抜けたような声で、鞍馬山を見て驚く。
思っていることは分かる。鬼の霍乱だと言いたいのだろう。
斉藤は俺に訊いた。
「いきなりこうなったのか」
「ああ、いえ、まあ――」
何と説明したものか。
担任が唸る。
「ともかく保健室だな。殿山、連れていってやりなさい」
「俺が? いや――別にいいですけど」
保険委員でも何でもないが、親友と思われているから仕方あるまい。
しゃがんで鞍馬山に声をかける。
「立てるか」
「……いい……」
「いい、って言われてもな」俺は頭をかく。「取り敢えず、日の当たらない所に行こうぜ、な?」
腕を掴むと、振り払われた。
「あのな――」
「見ないで」
――眼のことか。
あれは見てはいけないものだったのか。
俺の見間違いでは。
「別に――」
わけが分からないが、ともかく。
「別に俺、何も見てないから。とにかく立てよ」
また細い腕に手をかけ、やや強引に引き上げた。
すると、驚くほど簡単に、鞍馬山狗子の体は持ち上がった。
同時に両目が見えた。
生気を失った瞳は、元通り、黒かった。
「あれ」
やはり見間違いか。
鞍馬山はよろけながらも一人の足で立った。
先生たちやクラスメートが注目している。
「あ、歩けるのか?」
俺はなぜか怯えながら声をかける。
返答はなかった。
代わりに「……一人で行く……」と言い残し、俺には一瞥もくれずに、鞍馬山はとぼとぼと新校舎の方へ歩いていった。
呆然と見送る俺の肩を、デブの稲森――昨日電話をかけてきた奴である――が、つつく。
「なあ、付き添わねーのかよ?」
「ああ」放心していたとは言えない。「一人で行くって言ってたし」
「なんだ、夫婦喧嘩か」
「あのな」
こういった冷やかしは不滅のものか。
――しかし。
冷静に考えれば、鞍馬山が眼を気にしていた以上、気のせいではあるまい。あの眼球は明らかに普段と違っていた。何か特殊な眼病だろうか。
だが、ただの病気ならば、どうしてあんなに見られるのを拒んだのか? それに頭を押さえていたのは。
――このケースは少し特殊だからね――。
唐突に、さっき鞍馬山が発した言葉が、よみがえる。
聞き流していたが、今回のケース、というのは妙な言い方だ。まるでいくつもの事件に触れてきたような口調ではないか。
渡瀬と同じだ。
結局俺は、あいつのことを何も知らないのかもしれない。
そう思った瞬間、友人が一人もいなくなったような錯覚に陥り、また、ひどい寂しさを感じた。
4
保健室へ行く気はなかった。
中庭の、日陰に位置しているベンチに体を横たえ、狗子は目を閉じた。
やかましい蝉の声は耳に届いていない。
とても不安である。
やはり礼司は変に思っただろうか、と考える。
当然だ。あの時、多分、狗子の瞳は赤く染まり、中心部分は猫科動物のそれと同じく、異常に収縮していたに違いない。六年前と同じである。……もっとも、森田たちから話を聞いただけで、鏡に映して見たことがあるわけではないが。
直後に礼司が見せた反応から察するに、もう元に戻っているのだろうが、そういう状態になったのは、実に六年ぶりである。そして六年前が初めてだった。
しかし、なぜだろう。
今回は前触れがなかった。ショックを受けたわけでも、思考が極限まで加速したわけでもない。突然、頭が割れるように痛くなり――そして、記憶は途切れた。
ほんの一瞬だった。
揺らいだ、という感じであった。
もしかして前触れはあったのかも知れない。
表面に出ている自我が認めようとしない――もしくは拒絶している隠された事実を、おそらく狗子は、自分でも気付かぬ深いところで突き止めたのだろう。与えられている、ごくわずかな情報の中から。
そして、はっきりと認識してしまう前に、反射的に押さえ込んだ。
その事実が危険なものだからだ。多分、過去に立ち戻る、強烈なきっかけになってしまう。押さえ込んだのは表面にいる自分か。
狗子は目を開け、自らの細い首に、そっと触れる。
――消えてはいない。封じ込めた自分は、まだここに息づいている。
血も涙もない、ただ完璧なまでに精密な機械人形。
そして、その奥には――
狗子は震えた。
仰向けのまま、自分の両手を空にかざす。
べっとりと……血にまみれた両手だ。周囲に炎が広がる。車庫に響く悲鳴。赤い飛沫。生温い感触。絶叫。断末魔。哀願。
かすかに残る感触は、本当に自分の記憶なのだろうか。
認めたくない。強く唇を噛む。
狗子は出来る限り他のことは考えず、ただ、数分前に聞いた殿山礼司の声だけを、繰り返し思い出していた。
「礼司」
小さく名を呼んだ。
5
終業式に続いてロングホームルームも終わった。
俺のクラスは他より少し解散が遅くなったが、それでも十分以上は遅れず、俺達はそれぞれロッカーの中にあった物をカバンに詰め込んで、少し周りの奴らと喋ってから教室を出た。
稲森と俺は購買部に寄って課題用のレポート用紙を購入し、さらにパンを買い、それを食いながらダラダラしていたせいで、さらに二十分ほど遅くなった。
いよいよ帰ろうとすると、鞍馬山が、誰もいない昇降口で、ぽつんと一人、待っていた。
そして俺を見て、なぜか安心したような顔をした。
「――礼司……」
寄りかかっていた壁から背中を離す。
「何お前、もう平気なの」
と、一緒に階段を下りてきた稲森が俺の代わりに訊いた。
鞍馬山は、まあね、と疲れた顔で笑った。
それから俺の方に向き直った。
「ねえ礼司――今、ちょっと時間あるかな」
「どうしてだよ」
「二人だけでさ、話したいことが……あるんだけど」
珍しく真剣な顔だった。
稲森はにんまりと笑い、黙ってその場から消えた。何か勘違いをしたようだ。そのうち、きっとまことしやかな噂が流れ、また俺を苦しめることだろう。
俺は憂鬱になったが取り敢えず肯いた。
「分かったけど、何の用だ?」
その気はなかったのだが、やや口調が邪険になったかも知れない。
鞍馬山は物言いたげに俯き、そのまま黙ってしまった。
――教室に残っていた奴らが五人ほど、わらわらと階段を下りてきた。全員男子だから、廊下でラインサッカーでもしていたのだろうと想像できる。
そいつらが鞍馬山の姿を見つけて声をかける。
「あ、鞍馬山じゃねーか? どうしてさっきいなくなったんだ?」
「病気か?」
「みんな結構心配してたぞ」
鞍馬山は、
「――へへ」
と笑顔になった。
「平気平気、ただの頭痛だから」
「本当か?」
「体は大事にしろよ」
言いながらクラスメート達はさっさと靴を履き替え、俺達に「また休み明けにな」と別れを告げて、昇降口を出ていった。
二人だけになると、鞍馬山はまた口をつぐんでしまった。
――ともかく場所を変えることにした。中庭ならば静かだし、仮に誰かいたとしても、キャッチボールをしている中学生くらいだろう。
そう考えて中庭へ行くと、都合良く誰もいなかった。
鞍馬山は黙って、いつものベンチに腰を下ろした。
俺は少し迷ってから、隣に腰掛ける。
遠くから野球部員らしい怒鳴り声が聞こえてくる。練習開始はまだだから、あれは上級生が下級生を叱っている声だろう。何かヘマでもした奴がいるのだろうか。
中庭の中心にあるイチョウをぼんやりと見つめながら、鞍馬山はようやく口を開いた。
「さっきは……悪かったね。せっかく心配してくれたのに……」
校庭でのことだ。
「別にどうでもいいよ」
それより、そんなことを一々気にする鞍馬山が問題だ。普段の傍若無人な立ち振る舞いに比べると、これは明らかに異常である。調子が狂って、どう会話すればいいのか分からない。
こんな風になった理由は、やはり――
鞍馬山は言った。
「礼司、さっき見たんだろう? あたしの『眼』……」
赤い、猫の眼――か。
俺は肯いた。
「まあ……ちらっとな」
「――もう誰かに言ったかい?」
「いいや、誰にも」
俺はわざと明るく言った。そうした方が良いと思ったからだ。
鞍馬山は少し間をおいてから、
「あれが何なのか、知りたいだろ?」
と訊いてきた。
――教えたくはないのだろう。それくらい、俺にも分かる。
だが多分、俺が訊けば、こいつは答える気でいる。
俺はかなり長い間考えて、やっと返す言葉を探し当てた。
「お前、それ教えたくてウズウズしてるのか」
鞍馬山は首を横に振った。
俺は肯く。
「そっか。じゃあ訊きたくねえや」
正直、何が何だか全然分からないが、所詮、俺が「知りたい」と思う気持ちは好奇心でしかない。それに違いはないのだ。そんなもののせいで鞍馬山が苦痛を感じるなら、好奇心など押し込めてしまう方がいいだろう。
言い訳をするように鞍馬山は言う。
「礼司にはいつか……いつか教えるから、だから」
「あー、分かった分かった」ぱんぱんと手を叩く。「分かったから、もうこの話は終わり、な」
俺は最後まで脳天気な調子を崩さなかった。
鞍馬山は――やっと、微笑んだ。
「ありがとう礼司」
こいつにちゃんと礼など言われるのは初めてである。恥ずかしいような気分になったが、何にせよ普段の調子は戻ったようなので、俺は取り敢えず安心した。
沈黙があった。
俺はイチョウの木をながめながら、かゆくもない頭をぼりぼりとかく。
「じゃあ――帰るか。どっかで飯食って……」
横目で隣を見る。
目が合った。
「……へへ」
鞍馬山は照れた顔で笑う。
俺は仰け反る。
「気持ち悪いな、何だよ」
「――良かった」
「は?」
「あの時――」
ゆっくりとこちらに腰をずらし、
「隣にいたのが礼司で、本当に良かった……」
鞍馬山は、俺の左肩にしなだれた。
俺は、どきり、と硬直した。
触れあっているところから体温が染み込むように伝わり、シャンプーと、かすかな汗の匂いが鼻腔に入り込んでくる。
一体どういうつもりだろう。いつもじゃれついてくるのとは雰囲気が違う。
本当に――何のつもりか――。
鞍馬山はぽつりと呟く。
「礼司」
「な、何? うわ」
鞍馬山は俺の左腕に自分の両腕を絡ませ、強引に引いた。
そして俺の手を、黒いハーフパンツをはいた太ももが、ぐいと挟み込む。俺はやわらかく肉感的な感触に卒倒しそうになった。
恐る恐る顔を左に向けると、鞍馬山は、潤んだ目で俺を見ていた。
「礼司、お願いがあるんだけどさ」
「え」
これはまさか――
続きは小さな声だった。
「キス……一度だけ、いいだろ?」
「え、」
「唇と唇、軽く触れるだけでいいよ。誰も見てないから」
「え、えと」
俺が戸惑っていると、鞍馬山は目を背け、無表情で訊いてきた。
「嫌かい」
「そ、そうじゃねえけど」
そうじゃないが――どうなのだろう。……確かにただの友達とは思っていない。何だかんだで俺はこいつを女として見ているし、正直……今更な話だが、すごく可愛いと思う。性格だって、問題だらけだが、決して嫌いではない。むしろ好きだと言える。そうでなければ三年間も仲良くは出来ない。だが、何と言うべきか、簡単に手を出してはいけないような、そんな気がするのだ。それはなぜなのかと考えると――ああ、手を挟んでいる太ももの感触が、俺の思考を揺るがしている。
俺が情けなく困惑していると、鞍馬山は寂しそうに言った。
「……なんか、ごめんよ……調子に乗りすぎた。悪かったね、困らせて」
絡んでいた腕がほどける。
「今のは忘れていいよ。じゃあ」
「ちょ、ちょっと待った!」
俺は思わず、ベンチから立ち上がろうとした鞍馬山の腕を掴んだ。
だが鞍馬山の力はやはり俺よりも強く、俺は逆に引っ張られる形になって、バランスを崩し、鞍馬山の上に倒れ込んでしまった。
「わっ――と」
ぎりぎり、下になった鞍馬山の、顔の横に手をつく。
顔と顔は二十センチまで近づいていた。
鞍馬山は驚いた目で、じっと俺を見つめる。
「礼司?」
「め、目ェ閉じろ」
口が勝手に動いていた。
鞍馬山は黙って目を閉じた。
選択肢が一つしかなくなってしまった。
こうなればどうにでもなれだ。
俺は覚悟を決め、その無防備な唇を――
「せ、先輩たち何をしてるんですか!」
寸止め。――ベンチから転げ落ちた。
後頭部を軽く打ち付けて視界が揺らぐ。
我に返り、青空の次に見たのは、ぽかんとした顔でベンチに倒れた鞍馬山と、そのベンチの前に立つ、見たこともない女子中学生の姿だった。
俺より小柄なその中学生は、地べたに転がった俺を、震える指でさしていた。
「い、狗子先輩、この冴えない男は誰ですか? もしかして彼氏? こんな人が――ううん、そんなはずは無いわ。だってこんなに地味なんですもの。天才で美人でスタイル抜群でスポーツ万能でとにかく格好いい狗子先輩には、全然釣り合わない! 触れる資格もないわ」
俺のことか? ひどい言われようだ。
「きっとこの男、無理矢理先輩を押し倒そうとしたのね、そうに決まってる。モテないからって、よりにもよって私たちの狗子先輩を犯そうとするなんて――先輩、怖かったでしょう? 私が来て良かったわ。早くシャワーを浴びて体を洗い流さないと――」
誰が武道有段者で国定特別奨学生の女を襲うものか。そう思ったが、何だか反論する気も起きない。俺はとにかく体を起こす。
鞍馬山は、珍しく、やや赤面して「はは……」とぎこちなく笑っている。「えー……と、君は、中等部二年の――」
「米倉紀子です、先輩」
「うん、そうだった、紀子ちゃんだ。前に何度か、一緒に写真を撮ったっけね」
「憶えていてくださったんですか? 嬉しい! 写真なら、ほら、今もここに」
「いやあ、出さなくていいよ。嬉しいけど」
「そうですか……。そんなことより先輩! 先生に――いえ警察です! これは婦女暴行ですよ! 早く突き出さないと!」
いつの間にか完全な変態にされてしまった。
俺は小さく横から口を出す。
「あのな」
「痴漢は黙ってなさい!」
「はい」
問答無用である。
鞍馬山はぽりぽりと耳の後ろをかく。
「……ううむ……」
ちら、と俺を見て、そんなに地味かなあ、まあ格好良くはないわなあ――とぼやく。
そう二人がかりで重ね重ね地味と言われては、今更とはいえさすがに傷つくが、かといって何か言い返せるわけでもなく……俺は、しょげた。
鞍馬山は「さっきのが双方合意の上だったと言っても信じないだろうけど……一応、この地味な男はあたしの親しい知り合いで、強姦魔ではないよ。だから皆には内緒にしておいてくれるかい」と、よく考えれば不条理なことを、さも道理らしい口調で米倉紀子に説いた。
それで相手が「はい」と肯くのだから大したものである。
その時、ふと――鞍馬山は米倉紀子のスカートに目を落とした。
「ねえ紀子ちゃん……もしや、何か大切なことを忘れてやしないかい?」
「はい?」
「自転車置き場で何かあったようだけど」
「え――」
「ほら、」米倉紀子のスカートを指さす。「そこに小さな葉っぱが付いてる。あたしはあまりそういう分野に明るくないから何て植物だか知らないけれど、学校の敷地内でそれが植えられているのは自転車置き場の入り口だけだ、ってことは知ってる。それに、さっきここへ来たときから息が切れてた。急ぎの用事じゃあないの?」
「そ、そうでした!」
米倉紀子はいきなり、我に返ったように慌てだした。
「渡瀬先輩が」
「……何?」
鞍馬山は生まれつき綺麗に整っている眉をひそめる。
紀子は足踏みをした。
「ですから普通科一年の渡瀬恵依子先輩が、二年の先輩達に」
俺は立ち上がる。
「渡瀬が、学校に、来たのか?」
「そうよ――そうです。それで怖そうな女の先輩達に連れてかれて……私、後をつけて行ったんですけど、どうすることも出来ないから、人を捜してたんです!」
神崎ファンの逆恨みだ。
俺は狼狽した。
「どうしてそれを早く……」
「礼司、行こう。――紀子ちゃん、ありがとう」
鞍馬山は俺の言葉を遮り、立ち上がって走り出した。
6
体育館の裏にある、細長い自転車置き場である。
もう、クラブに所属していない生徒達はほぼ全員帰宅しているし、所属している生徒はまだ当分活動中なので、今はちょうど、四人の他には誰もいなかった。
「………! ……?」
「………? ――……! ……」
「……! ……――……!」
――どうして三人の上級生が自分を囲んで怒っているのか、恵依子には全く理解できていなかった。
神崎のことで怒っていることは分かる。しかし何も聞こえない。
声が……聞こえないのだ。
誰かの手が耳を塞いでいるらしい。
多分、これは――この手は――そう、神崎の手なのだろう。
ならば彼女たちは『まやかし』だ。そうに違いない。
全ての言葉は嘘。
恵依子を騙そうとしているのだ。
神崎も――彼も、きっとそう言うだろう。
納得して恵依子は笑った。
「――そう……貴女たちは羨んでいるのね。私が今、神崎君といつも一緒にいるから。そうなったから」
そうだと神崎も言う。
ならばそれが真実ではないか。
二年生たちが青ざめるのを見て、恵依子はまた、笑う。
7
「信じらんない! どうして平気な顔して学校にいるわけ?」
「神崎君、あんたの家に行ったせいで死んだんでしょ? ――彼に何言ったのよ! どうして……神崎君が自殺なんて……」
「……絶対許せない! 絶対――この人殺し!」
――いた。
三人で一人を囲んで、口々に、ヒステリックな声で怒鳴っている。
囲まれているのは確かに渡瀬だ。
渡瀬が穏やかに口を開く。
「――そう……貴女たちは羨んでいるのね。私が今、神崎君といつも一緒にいるから。そうなったから」
何を言っているんだ?
とにかく自転車置き場に駆け込もうとした俺を、鞍馬山は無言で制した。
二年生達は青ざめている。
「ちょ……ちょっと、おかしいんじゃない?」
「いつも一緒って――?」
「ねえ、やばいよ、この子……。逃げよう、私達まで殺されるよ!」
悲鳴のように口走り、一人がこちら――出入り口に向かって走り出した。
続いて二人も、わめきながらばたばたと走る。
俺達は知らぬふりをして彼女らを見送り、渡瀬のいる自転車置き場に足を踏み入れた。
「……あら、狗子? 殿山君も」
こちらに気付いた渡瀬は、明るく微笑んだ。
俺は――何を言ったらいいのか分からず、間抜けに視線を泳がせた。
だって渡瀬は笑っているのだ。
何か言わなくては。
「――あのさ……お前、神崎と付き合ってたって……」
「本当よ」
異常な速答だった。
「そして今は一緒にいるの」
渡瀬は胸に手を当てる。
「……一緒に?」
おかしい。どう考えてもおかしい。これは明らかに、彼氏が死んだショックで、どうかしている。
鞍馬山は腕組みをして何も言わない。
何も訊いていないのに、渡瀬は勝手にぺらぺらと続ける。
「ごめんなさい、彼と付き合ってたこと、あなた達二人にまで秘密にしてて。でも神崎君のことを好きな子って多いでしょう? だから怖くて、誰にも言いたくなかったのよ。神崎君にも迷惑かけたくなかったし。もう何もかも、いいんだけど」
「渡瀬」
「あ、二人とも、あのことを言っているのね?」
俺達は――何も言っていない。
「いいわ。教えてあげる。確かに私よ」
わけが分からない。
分かるのは、渡瀬の精神状態が極端に不安定だということだけだ。
鞍馬山は――?
鞍馬山は、ここで初めて口を開いた。
「何がだ、恵依子」
抑揚のない声で言う。
「お前は何をした」
「殺したの」
――『殺した』?
聞き慣れない単語に俺は動揺した。
鞍馬山は動じていない。
渡瀬はどこか満足そうに、空を見る。
「私ね……」
嫌だ、聞きたくない。
そう思った瞬間、俺の耳は機能しなくなった。誰かに耳を塞がれているようだ。
それでも言葉は流れ込んでくる。
渡瀬の唇が動く。
目はそらせなかった。
渡瀬は言った。
――かれを ころしたの。
そう。
渡瀬は確かに、そう言った。