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第二話【少女の詩】



第二話

【少女の詩】少し昔の物語。




 1


 これは……六年前の夢だ。

 またなのか。狗子は意識の中で苦悶する。

 抵抗しても無駄だった。

 もう夢は始まり、いつの間にか狗子は六年前の自宅にいる。

 今はもうどこにもない、あの、大きな家に。


 ――始まりは夜の十時だった。

 たった一人、一階のリビングで本を読んでいると、不意に音楽が聞こえてきた。

知らない洋楽だ。ガチャガチャブンブンと五月蠅い、狗子の嫌いなジャンルの音楽である。最大音量かそれに近い状態らしく、音は大分割れている。静かな夜にはあまり似つかわしくない。

 何だろう――と、幼い狗子は思った。音が聞こえたのが突然だったからだ。

 家にあるオーディオ類は皆、急速なヴォリュームアップが出来ないタイプの機器である。すべてリモコンまたは本体のボタンを押し続けて調節するタイプであるため、音量を上げようとすれば、どうしても段々と大きくなってゆく。前触れ無く最大音量を出したければ、意図的に消音状態にして音量を上げ、それから消音を解除するしかない。

つまり、操作ミスで突然大きな音が出ることは有り得ない。

だから誰かがわざとやったはずなのだ。

 しかしこの家に、そんな悪ふざけをする者は、いない。

 今いるのは、狗子自身と――父と――母。

 それから、四泊の予定で遊びに来ている、従兄弟のお兄ちゃんとお姉ちゃん。

 父と従兄弟たちは、何をしているかは知らないが二階にいる。恐らく全員別々の部屋で、テレビでも見ているのだろう。

 母は狗子と同じく一階にいて、ドア一枚隔てた隣の部屋で、明日出かけるための準備をしている。

 何にしても、皆、そんなに突飛な悪戯で受けを狙うほど陽気でも、低レベルでもない。そもそも機械音痴がいないから、操作ミスだって有り得ない。

 気になり、本を置いて立ち上がった。

 音は、隣――母がいる部屋から聞こえてくるようだ。母が何かしているのだろうか。

 その部屋のドアを開ける。

「――お母さん?」

 母はいなかった。

そこにさっきまでいたはずの母親の姿は、消えていたのだ。誰もいない。

 狗子はその部屋の中を見回した。

 床のあちこちに、畳みかけのセーターや靴下が散らばっている。

 相変わらず音楽は流れ続けているが、オーディオの類は見あたらない。

 音は、もっと奥から聞こえているらしい。

 狗子は空っぽの部屋を通り過ぎて、慎重に廊下を歩いた。

 廊下の途中に扉はない。父親の知り合いから送られた民芸品の彫刻やら、誰が書いたのか知らない絵などが、いくつか飾られているくらいである。

ただ、普通に比べてかなり大きな家であるため、幅は広い。

 突き当たりに、灰色に塗られた、金属製の扉がある。

 狗子はそこで立ち止まった。

 この向こうは、もう使っていない車庫だ。父がゴルフに飽きた今、かつてそこにあった車は、乗る者を失って親戚の所有物になったし、何より半年ほど前から、外からの出入り口であるシャッターが壊れて、開かなくなっている。

つまり、この扉からしか、車庫への出入りは出来ない。

 この車庫も、普通よりはかなり広く天井もやたらと高いのだが、中には穴の開いたビニルホース、錆びた工具、予備のタイヤや灯油――つまりガラクタだらけで、役に立つ物はほとんど何もないはずだ。家族の誰も、もう二ヶ月は足を踏み入れていない。

 しかし今、母はここにいる事になる。

 狗子がいたリビングと、母のいた部屋、そしてこの扉は、一本道で繋がっている。分岐はない。母が狗子の目に触れずリビングを通過することは有り得ないから、つまり母はここ、車庫の中にいるのだ。

今までの母の行動パターンや動機を考察すると信じられないことだが、物理的に、その可能性が百パーセントということになる。

狗子は動揺しながらもその事実を確認する。

 二階から下りてきたらしい従兄弟の晴彦が、あとから廊下を歩いてきた。

「どうしたんだい、狗子ちゃん? この音楽は?」

 後ろにその妹である冬子がついている。

「何これ。この部屋から聞こえてるの? ……広美さん……かしら」

広美とは母の名だ。冬子も『一階にいる狗子以外の人間』が母一人であることを判断したらしい。

「――とにかく開けよう」

晴彦がずいと前に出て、ドアノブを握り、そのまま回した。鍵はかかっていない。

 すう、とドアを押し開ける。


 車庫の中は暗い。

 ほこりの臭いと共に、闇から音楽が一気に溢れ出した。やはり音楽はここからだ。コンクリの壁に反響して、吐き気がするような巨大音になっている。

 暗いので、何かにぶつからないよう気を付けながら、三人は、ゆっくりとその中へ足を踏み入れた。ここの蛍光灯は大分前から切れている。

廊下から射し込む光は、ほとんど内部を照らさない。

 しかしシャッターに近い床の一部だけは、角度の関係で、目を凝らせばわずかに見える。

 奥の方にラジカセが見えた。誰も使わなくなり、いつからかここに置かれていた物だ。ほこりを被ってはいるが、まだ動くらしい。……その証拠に、騒音は、そこから生まれている。

「誰がつけたのかしら」と冬子。

 母に決まっている、と狗子は判断する。あのラジカセにタイマー機能はついていないから、テープを再生するには直接スイッチを押すしかないのだ。つまり車庫の中にいる唯一の人物、鞍馬山広美がスイッチを入れるしか――……母が?

 そうだ、母は、この暗闇の中にいるはずなのだ。

なのにどうして声を出さない? どうして人間の気配が感じられない?

 狗子は疑問を感じた。

 が、ともかく晴彦と冬子に続き、一歩二歩と、ラジカセの方に歩み寄る。このやかましい音楽は思考能力を麻痺させるから嫌いだ。早く止めたかった。

 しかし、ほんの五メートルを歩く途中、晴彦は立ち止まってしまった。

「……あれ?」

「どうしたのよ兄さん」

つられて二人も立ち止まる。

 晴彦は戸惑っているようだ。

「いや――ここに何か、あるんだ。ぶら下がってる」

音楽は流れ続けている。

 遅れて廊下の方から父が入ってきた。眠っていたらしく、体格のいいシルエットが目をこすっている。

父は優秀で名高い歯科医であると同時に柔道の有段者だが、その動きは実に緩慢である。

「どうしたんだ、五月蠅いな……誰の悪戯だ? こんな大きな音を出して。……何だ、みんないるじゃないか」

「お母さんはいないみたいだわ」

狗子は呟いたが、その声は誰にも聞こえなかった。

「暗いな。ちょっと待ちなさい、今明かりを……」

父――鞍馬山健三は、ライターを取り出しているらしい。

 やがて、ぼっ、という音と共に、空間がオレンジ色になった。

四方を囲むコンクリートの壁が姿を現す。


 全てが明らかになった。


「あ――っ」冬子が指さした。

そして首を横に振る。

「い、いや……」


 ぶらり、ぶらり。


「叔母さ……嫌よ……いやあぁぁ!」

 晴彦は顔を上げ、今まで手で探っていた『それ』の正体を認識した。

「……え? あ……うわあっ!」

飛び退いて尻餅をつく。

 そして狗子は――見上げた。

「お母さん」

それしか言えなかった。


 そこに『あった』のは、母だった。

 しっかりと首に食い込んだ縄は、天井の金属パイプに括り付けられている。

膨れた顔。

不自然に折れ曲がった首。

ぶらぶらと小柄な体が揺れる。


 母は首を吊って死んでいる。


 ――狗子は混乱していた。

 ゆっくりと歩き、ラジカセの電源を切る。

「お母さん……」

もう一度首吊り死体を見る。

 小柄な死体の足下には、錆びた金属の椅子が転がっている。

 これが自殺であることは明らかである――。ぼんやりした脳が、それなりに思考を始める。取り乱すことは何の特にもならない。それを知っている狗子は、少なくとも、並の人間よりは冷静だった。

 リビングを通り過ぎた者はいなかった。

 シャッターは故障している。

 つまり狗子の目に触れずここに入れたのは母だけだし、実際、ここには母しかいなかった。

殺せた者がいない。すなわち殺人の可能性はない。

 ――思考は静かに加速する。

 もし、万一。常識的に考えれば有り得ないことだが、ここに長時間潜んでいた外部の人間がいたとしても、出ていくことが無理だ。つまり他殺の可能性はゼロである。

思考は走り続ける。

「……広美……」

父は口を開けて絶句していた。

「首、吊ったの? 広美さん……」

冬子が座り込む。

「どうしよう、とにかく警察に」

晴彦が部屋を出ようとした、その時。

 ――ゼロではない、百だ。

「待って」

狗子は反射的にそう言っていた。

 瞬間――ずん。――遅れてやってきた感覚。後頭部が燃えるように熱い。

思わず仰け反る。

それが、ただの前兆に過ぎぬとは――知らずに。

 より鮮明なビジョン。

目の前に広がる光景。

それに潜む違和感……その正体は? ……ああ椅子だ。

「貸して頂戴」

狗子は父の手からオイルライターをもぎ取った。

 そして、残った左手で椅子を立てる。

 足りない。

爪先は椅子の二十センチほど上で揺れている。

「母さんの身長じゃ、背伸びしても届かないわ。この低い椅子では首を吊れない」

 しかし他に、台になるような物は無い。

母より身長の高い誰かが、椅子に乗り、母を吊したのだ。

誰が? どういう方法で?


 密室殺人が発生した。


 ――三人は狗子の冷静さに圧倒されているようだった。

 だが狗子は決して、完全に冷静などではなかったのだ。未発達な脳細胞を瞬時に限界まで覚醒させた分、人間的な感情と呼ばれるものが、ほとんど機能しなくなっていたのである。特殊な状態であった。

 狗子はそれ以上屍に目もくれず、シャッターの方へ歩いた。

ほこりだらけのシャッターに手を掛け、ガチャガチャと揺する。……上がらない。動かない。やはり半年前から壊れているのだ。

ライターで一番上の巻き取り部分を照らすと、その辺りの金属板は、明らかに歪んでいた。これでは開くはずがない。

 背後で父の声が聞こえる。

「おい狗子、やめなさい……」

娘がショックで狂ったとでも思っているのだろうか。

狗子の耳には入らない。

 ――不自然な歪み。意図的に壊された跡だ。

半年前、このシャッターは何者かに壊された……?

違う、先入観を捨てなくては。

 シャッターが開かなくなっていたのは半年前。だから計画は半年前からだ。そして状況から見ても、外部犯行はまず有り得ない。恐らくこれは、家の構造を知っている者の仕業だ。それについて間違いはない。

 だがどうして半年もの空白を作る必要があったのか。

理由があるはずだ。経緯があるはずなのだ。理由。理由。理由がある。つまりあの音楽にも? 意味が? どんな?

 狗子の足下に、細い金属の棒が転がっている。

シャッターを開閉するための道具だ。先が鉤状になっている。

 『シャッター』を……『先入観』……そして『暗闇』からの『音楽』――なるほど、そうか。


「狗子!」

とうとう父が怒鳴る。

 しかし怒鳴る理由を狗子は知っていた、いや……解明していた。

「――解ったわ」

くるりと三人の方へ振り返る。

 冬子は息をのんでいた。晴彦は尻餅を付いたまま、言葉を失っていた。

 狗子は言った。

「お母さんを殺したのはこの中にいる人よ」

「何……?」

父親は一歩下がる。

 狗子は続けた。

「これは自殺なんかじゃない。それはあなたたちにも分かったはずね。――でも、だとすると犯人がいることになる。つまり密室殺人。何故なら二つ条件があるからよ」

シャッターを指さす。

「まずはこのシャッター。半年前からずっと動かないわ。外からも中からも通れない……壁と一緒ね」

続けてドアの方を見る。

「そして私の存在。二階にいたあなたたちのうち、誰かが――そう、いくら母さんの体が小柄で軽いとはいえ、私の身長と力では引き上げられないから、私は犯人候補から除外されるわ。ともかく、あなたたちの誰かが母さんのいる部屋、そしてこの車庫に辿り着くためには、リビングを通過しなければいけないはず。けれど私の目に触れずにそれを遂げるのは不可能……。だからこれは密室殺人というものに当てはまる」

口が驚くほどなめらかに動いた。

「でもね、密室殺人なんて絶対に存在しないのよ。密室ではなかったから殺人が起きたんだもの」

「な、何を言っているんだい狗子ちゃん」

立ち上がった晴彦が口走る。

 狗子はそれを認識し、発言の意味を分析。何を言っているんだい――この状況においては完全に無意味。展開された事実を把握できずに混乱し、反射的に組み上げた質問だと理解。

反応する価値は無し、と判断。

「……一番重要な要素は先入観だったわ。シャッターが『動かなくなった』という事実を即『故障』と結びつけてしまう人間の常識よ」

足下にあった鉄棒を、空いた手で拾い上げる。

「犯人は半年前、この棒をシャッターの巻き取り部分に、見えないよう食い込ませた。シャッターが動かなくなるようにね。……私と母さんはそれを素直に故障と思いこんだ――全然気付かなかったわ。そういえば半年くらい前からこの棒、どこかへ消えてしまっていたわね」

つまりシャッターは壊れていなかったことになる。

「一ヶ月の空白は、シャッターに対する私たちの、いえ私の認識を『壊れた物』から『壊れている物』へと変化させるための時間。解いてみればちゃちな心理トリックだわ」

 既に狗子が見ているのはただ一人。

 自らの父親――鞍馬山健三である。

 彼はだらだらと冷や汗を流していた。

「い……狗子、お前」

「今日の昼間――もしかしたらもっと前かも知れないけど、この鉄棒は外された。誰にも気付かれないよう、あなたが外した」

止まった時の中、狗子の声だけが響く。

「何十分か前、あなたはまず自分の部屋から出て、音を立てないように階段を下り、玄関から外に出た」

玄関はリビングより手前にある。こっそりと動けば物音は聞こえない。

従兄弟の二人は黙って聞いている。

「そして、誰も知らなかったけれど『動く』状態になっていたシャッターを外から開け、車庫に入り、廊下を通り、母さんのいる部屋に忍び込んだ。隙を見て背後から紐で首を絞めれば、ほとんど声は出ない。男の力なら殺害は簡単よ。ましてや、あなたは柔道有段者だもの」

この時点で母は死体となる。。

「そして死体を車庫まで運び、天井に吊した」

首吊り死体の完成。

「仕上げに椅子を転がし、鉄棒で『てこ』を作って内側からシャッターを歪ませた。この時初めて、シャッターは本当に壊れたのね。あとは自分が部屋から出るだけ……」

「ど――どうやって出たと言うんだ!」思い出したように父親は怒鳴った。「子供のくせに! 黙っていなさい!」

 まともに反応する価値は無し、と判断。

「推理小説の犯人みたい、間抜けね」

狗子はそれだけ言った。特にそう思ったわけではないが、黙らせるために。

 効果はあった。

 代わりに口を開いたのは冬子だった。

「狗子ちゃん、本当に――どうやって出たというの?」

 狗子は頷きもしない。

「あの下品な音楽にも意味があったのよ。まずあれは、私たちをこの車庫まで引き付けた。そして扉を開けさせ、死体の近くまで歩かせた」

母の死体を指す。

「この暗闇にも意味があったわ。自分は隠れやすくなり、死体も見えにくくなる。これは大事な事よ。私たち三人がすぐに『これは死体だ』と認識したら、そこで立ち止まってしまう危険性もあるから。私たちが出入り口付近で立ち止まったら、出るに出られないわ」

「じゃあ、もしかして」

冬子はドアの方を見た。

 狗子は頷く。

「そう、あまりにも単純な方法よ。私たち全員がシャッターの方へ注目している間に、ドアの裏から抜け出し、私たちの背後を歩いて廊下へ出ていったの。それを実行できたのは、一番後から車庫に入ってきたお父さんだけよ」

 単純だが虚を突いた方法といえる。もっとも――。

「この方法は、どちらにしろ、警察が到着すれば全て分かったと思うけれど。絞殺死体と首吊り死体とでは、似ているようで、全然状態が違うもの。もしかして、リビングの隣室のどこか、散らかった服の下にでも、失禁した跡があるんじゃないかしら。全て終ってから片づけるつもりだったの? 無理だわ。計画そのものに欠陥がありすぎるのよ」

 冷たい解明は終わった。

 しかし狗子の脳は過剰覚醒状態を保ち続けていた。

 動機のことを考える。

夜、両親が言い争っていたのを思い出す。

恐らく父の浮気が原因だ。

そして実行日に晴彦たちが来ている今日を選んだのは、母の死が『自殺』であることを証言する人数を、出来るだけ増やすため――

 冬子が泣きそうな声で言う。

「健三おじさん……本当にあなたが……」

「う、うううううあ! あああ!」

鞍馬山健三は突然に腕を振るった。

がつんと音がして、

「あっ!」

横にいた冬子の表情が瞬間、歪んだ。

口の端から散ったのか――赤い滴が散る。

よろけて壁にぶつかり、崩れる。

「冬子!」

晴彦は駆け寄る。

 健三はその晴彦をも殴り倒した。

 顔と腹を殴られて晴彦はバランスを崩し、床に転倒する。

「う――あっ、」唸りながらも顔を上げる。「い……いけない、逃げろ……狗子ちゃん……」

「ああああああ!」

父の声がそれをかき消した。

 父は見たこともない恐ろしい形相をしていた。

 狗子はその顔を表情無く見上げ、微動だにしなかった。

 父は、抵抗しない狗子の首に手を伸ばす。

荒い声が響き渡る。

「前から――ずっと前からおかしいと思ってたんだ! お……お、お、お前は普通じゃないと、お、おお思っていた!」唾が飛び散る。「この――」

 狗子は読み取った。

今、父を動かしているのは、混乱でも怒りでも屈辱でもない。

防衛本能だ。

すなわち――必死で練り上げたカラクリを難なく解き明かした少女に対する恐怖。はかり知れない能力を持つ子供の不気味さ、それが自らの娘だということを認識した上で全身に感じるおぞましさ、ずっと胸に抱いていた感情。

手に取るように伝わってきた。

「――この、化け物!」

父はそう吠え、狗子の細い首に手をかけた。

 父の声が反響する。

 それに混じって、誰かの声も聞こえる。

この、化け物! ……違うわ。

この、化け物! ……どうしてそんな事言うの?

この、化け物! ……私を嫌いになったの?

この、化け物! ……嫌よ、きらわないで!

父に殺されて母が死んだ。父は母を殺そうと思ったから殺した。それは……嫌いだったから?

今、狗子も殺されようとしている――。

 ごめんなさい。もうしません。いい子にします。

だからお母さんと私を殺さないで。

殺したら――殺したら、私は狂ってしまう。

狂ったら――私――


 ほんとうの、おばけになってしまう。


「この化け物め!」

だから、お願いだから、そんなことを言わないで!

 ぎりぎりと首が締まる。

 足元で秋彦の声が聞こえる。

「や、やめて下さ……叔父さ……」

だんだんと、声が遠くなる。

 ああ、いよいよ意識が遠のいてゆく。

 父がまた口を開いた。

「この――」

「……嫌……」

言わないで。

そんなこと言ったら、私、ほんとうのおばけに……だから、

「嫌……嫌……嫌……あ」

眼が――眼が――熱――


「化け物め!」


「いいい――いぃ嫌ああああああああああっ!」


 2


 夏にしては涼しい土曜日。

 一学期終業式の二日前である。

全校生徒は成績表等を渡され、ホームルームを終え、各の部活なり帰路なりに散っていた。

つまり今は放課後だ――とはいっても午前中であるが。

 俺は中庭のベンチに座り、浅い眠りについていた。

ここは三つの校舎に囲まれたところにあり、あまり陽はあたらないが、それなりに心地の良い場所だ。三角形の空間を囲うように、幾種類もの木々が植えられ、真ん中には銀杏の大木がどっしりと根付いて周囲を見下ろしている。

 近くで、暇を持て余した中等部の生徒たちがキャッチボールをする声が聞こえている。彼らはまだ帰らないのだろうか。

 不思議なことだが、中途半端な眠りについているとき、自分が寝ていることを認識していても、夢というのは非常な現実味を帯びて目の前に広がるものだ。

 それはカラスの夢だった。

 俺はなぜか山中にいて、大きな切り株の上にあぐらをかいている。

 そして膝の上には、カラスが横たわって寝ているのである。

何の警戒もせず、すやすやと寝息を立てる。どうも俺とカラスは親しいようだ。

 しかし、そいつの姿たるや尋常のものではない。

身の丈は俺よりも大きく、くちばしは鉄のよう。巨大な羽根は全体に黒い炎のようなものを纏い、ゆらゆらと揺れ動く――おぞましく、しかしどこか美しい。まさしく怪鳥だ。

それが切り株の上に横たわり、俺の膝に頭を乗せている。

 なぜか俺はそのことに少しの優越感を持っているようである。だが心のどこかでは、カラスにいつ喰われるものかと怯え続けている。

 カラスは、そんな俺の心など、全て見通しているようだ。心地よさそうにすやすやと眠っている。

 どんな夢を見ているのだろう。


 やがて――俺は目を開けた。

 寝ぼけ眼で見回すと、うとうとし始めてからあまり時間は経過していないらしく、周囲にはまだ中学生たちがボールを持って立っていた。

 しかしどうにも彼らの様子がおかしい。皆、好奇の面もちで俺の方を見ている。

 不信に思った瞬間、俺は、目を覚ましてもまだ膝の上に存在している重みに気付いた。

 まさかと思いながら視線を落とし、その正体を確認して、うなだれる。

 そこにはカラスではなく、人間が寝ていたのだ。

 なるほど、背は俺よりも高い。美しいというのも、まあ当たっている。

「おい……おい、こら」

俺はそいつの頬をぴしゃぴしゃと叩いた。

「起きろ鞍馬山」

「ん……礼司……?」

鞍馬山は眩しそうに目を開け――

「……お休み……」

また、寝た。

 俺は思いきりその耳を引っ張った。

「起きろって言ってんだよ!」

「いたた、痛い痛い痛い痛ぁい!」

 これで寝起きの悪い馬鹿女も、ようやく目を覚ました。

 鞍馬山はむっくりと体を起こし、ああ痛い、と言いながら耳をおさえる。

「おお痛い……全く、せめて耳にキスとか、気のきいたことは出来ないかね」

「アホか。何やってんだ、お前」

「うん、ちょっと嫌な夢を見たよ。毎度のことだけど」

意味不明である。まだ寝惚けているらしい。

 俺は頭をかいた。

「お前の夢なんてどうでもいいんだよ。俺が訊きたいのはな、どうして気持ち良くうたた寝をしていて目を覚ましたら、いつの間にかお前が膝の上に寝てるのかってことだ」

「喜ばせようとしたんじゃないか。モテナイくんに女の子との甘い目覚めを提供してやったんだ。有り難く思え馬鹿」

「馬鹿はお前だ! 相手がイカレ女じゃ嬉しくも何ともないんだよ!」

 舌打ちしてまた周囲を見ると、五、六人の男子中学生の他に、女子たちもこちらを見つめている。

耳を澄ませば、その一人が「誰あれ……狗子先輩の彼氏? やだ全然格好良くないじゃん」と呟くのが聞こえた。

 俺は赤面した。思わず小声になる。

「お前、本当……勘弁してくれよ、そういうノリだけは……。お前は知らないかもしれないけどな、最近校内に、お前のファンクラブなんかも出来たんだぞ」

「えっ、そんな時代を間違えたものがあるんだ」

「俺も信じられないけどな。顔だけに憧れる奴らだっているんだろ」

実際、黙っていれば本当に、一日中眺め続けても飽きないほどの容姿なのだ。普段のだらしない振る舞いを『気取らない』と解釈する奴も意外に――いや信じられないほど多い。

皆こいつの馬鹿さ加減を知らないのだ。知らないということは恐ろしい、と、本気で思う。

「ふうん……。ファンクラブか。……なんか有名人みたいだ」

鞍馬山はしばらく他人事のように感心していたが、不意に前方を指さした。

「あっ、恵依子だ。おーい恵依子」

人を呼ぶ声まで脳天気である。

 昇降口から出てきた渡瀬はこちらに気付き、小走りに近づいてきた。

「あら――二人仲良く何してるの?」

「ひなたぼっこ」

と鞍馬山。

 俺も肯く。

「仲良くはないけどな」

「恵依子こそ何してるんだい? とっくに帰ったと思ってたのに」

「私は図書委員だから、図書室の整理よ。これから夏休みに入るでしょう? 長期貸し出しの用意をしておかないと、後で混乱するの。それにしても……二人とも傘は持ってないのね」

「傘?」俺は問い返す。「何だ、もしかして今日、雨降るのか」

俺は傘など持っていない。隣にいる鞍馬山は、カバンすら無いから問題外である。

 渡瀬は肯く。手には赤い折り畳み傘を持っている。

「そうよ。天気予報見なかったの? 午後から降るって言っていたじゃない」

「見ない」と鞍馬山。

見ていない、ではなく、いつも見ないのである。普段からのいい加減さがよく分かる。

 しかし俺も、昨日と今日は天気予報をチェックしなかった。最近快晴が続いていたので油断したのだ。

「参ったな」俺は言った。「うたた寝なんてしてるんじゃなかった」

「うん。あたしも今日は学校を休めば良かった」

鞍馬山はいつも、雨が降ると学校を休む。

 空を見ると、なるほど、寝ているうちに天候が変わったらしい。濃密な灰色に染まっている。周りにいた中学生たちも、それに気付いたのか、ぱらぱらと散ってゆく。

「何にしても早く帰った方がいいわよ。――じゃあ、私は人を待たせているから」

渡瀬はそう言い残して去っていった。

 後ろ姿を見送りながら、鞍馬山は呟く。

「ねえ、恵依子っていつも、どんな友達と帰ってるんだろうね」

「――さあな」

 そう言われてみれば俺たちは、学校内で渡瀬と親しくしている割に、一緒に帰ったりすることはあまり無い。

 じゃあ俺たちはどんなメンバーと帰るのかというと、鞍馬山は基本的に広く浅い人付き合いをする性格だから特定の親しい友人はあまりいないし、俺もそこまで人と馴れ合う方ではないから、必然的に、俺たちは二人だけで帰ることが多くなっている。色々と誤解される理由の一つがそれである。

 俺は立ち上がる。

「……それどころじゃないだろ。雨が降る前に、とっとと帰ろうぜ」

 鞍馬山も、そうだね、と立ち上がった。


 3


 結局雨は降り出してしまい、俺と鞍馬山は、駅へと続く長ったらしい上り坂を、手を傘代わりにして走っていた。

 思っていたより大雨である。

 桁外れの運動能力を持つ鞍馬山は、文字通り、飛ぶように坂道を駆け上ってゆくが、俺の方はそうもいかない。はあはあと息を切らせながら必死に後を追う形になる。

 雨宿りが出来そうな場所もない。

 鞍馬山は傘をさした用意の良い人々の合間を、するすると器用に走り抜けてゆく。

 そして時々振り返る。

「早くしろ礼司、急いで避難しないと溺死するぞ!」

「こ、こんな雨で溺死なんてするわけないだろ、だから、ちょっと――スピード、落とせってば――」

俺の方は息も絶え絶えである。もう、いっそ置いていって欲しい。第一こっちはカバンを持っているのだ。

「全く、普段から運動をしないからだよ。不健康な男だなあ」

自分はセブンスターをすぱすぱ吸うくせにそんなことを言う。

 だが現実、俺の体力は限界に差し掛かっていた。言い訳のようだが無理もない。短距離走並みのペースで、学校からずっと走りっぱなしなのである。

 ついに鞍馬山も、そんな俺を見かねたのか立ち止まった。

「ああもう――本当に遅いね、そんなに雨が好きかい」

「う、五月蠅いな……」俺は喘ぎながら前髪を撫で上げる。

 もう全身びしょ濡れだ。雨は容赦なく降り続いているが、これ以上濡れようがないから、だんだん気にならなくなってきた。

 鞍馬山もそうらしい。

「あーあ。びしょびしょだ。――おい、あんまりこっちを見るなよ礼司、シャツが色っぽく透けてるんだから」

「何が色っぽくだ。大体、見えても別に嬉しかねえよ」

さすがにこれは嘘であるが、俺はわざと目を背けた。

 鞍馬山は口を尖らせる。

「見たければ見ていいのに」

「どっちだよ。ああ――くそ、疲れた!」

雨の中では、いつものような馬鹿馬鹿しい会話すら面倒だ。歩くことさえ嫌になった。

 横の車道を、車が連なって走り過ぎてゆく。

 車に乗っている奴らが羨ましい。連中はこの雨の中、傘もささずにいる人間をどんな目で見ていることだろう。

 畜生、と言おうとした瞬間――

 ――クラクションが鳴った。

 振り返ると、一台の黄色い小型車が止まっていた。

俺は車に詳しくないから車名は知らないが、知った人の車である。

 思わず俺は目を輝かせた。

「黒場さん!」

 俺は車の傍へ駆け寄り、鞍馬山は、……舌打ちをして、後へ続く。

 車の窓からその人は顔を出した。

 下手なタレントよりも綺麗だが、どこか女を捨てた感じのする、薄い化粧と蓮っ葉な笑顔。短く全体的にシャギーのかかった髪。

 その人――黒場勝美さんは言う。

「二人とも、ぼーっとしてないで乗りなさい。溺死しちゃうわよ。――それともそんなに雨が好き?」

 ……俺たちは顔を見合わせた。

 黒場さんは怪訝な顔をした。

「どうしたのよ」

「いや――さすが鞍馬山の保護者であるだけあって、言うことも似通っているなあ、と」

感心したのである。

「はん! あたしをこんな売れ残りの三十路女と一緒にしないでくれ! あたしまで売れ残る!」

鞍馬山は突然、もの凄い勢いでそう口走った。

「何ですって、でかい口たたくと乗せないわよ!」

黒場さんも間髪入れず言い返す。

 とんでもない大声だ。通りすがる人たちが皆見ている。

 俺は慌てた。

「く、黒場さん」

「……あ、ごめんごめん。どうぞ乗って頂戴、礼ちゃん」

「あたしも乗ってやるからな」

「やかましいわね、勝手に乗りなさい!」

どうしてこんなに仲が悪いのか。とても同じ屋根の下に住んでいる二人とは思えない。

「さあ礼ちゃん助手席にどうぞ。ああ、イヌコロは後部座席にでも寝そべってなさい。シートベルトなんてもったいないから使わなくて良いわよ。何ならボンネットにでも座る?」

「ふん、お前の下手な運転じゃ、車内もボンネットも安全性には大差ないからな」

「憎たらしい! あんたなんか車の横を走って付いてくればいいのよ!」

「望むところだ、追い抜いてやる!」

「……お邪魔します」

もう俺は二人に構わず、勝手に助手席に乗り込み、中から扉を閉めた。

 すると運転席の黒場さんはころりと表情を変え、俺の姿を見て言った。

「まあ礼ちゃん、びしょ濡れだわ――ねえ、うちに寄らない? シャワー浴びていきなさいよ」

「そんな事言って襲う気だな。男なら高校生でも良いのか、破廉恥三十路女!」いつの間にやら後部座席に座っている鞍馬山が怒鳴る。「礼司はあたしのだぞ!」

「分かってるわよ、ホント五月蠅いわね!」

「おい鞍馬山……俺は別にお前の物じゃないぞ……」

俺の声は無視された。よくあることである。

「ほら乗ったぞ、さっさと出せ! あたしは腹が減っている!」

鞍馬山は偉そうに腕組みをして運転席を後ろからドカドカと蹴る。

黒場さんは「分かってるわよ!」と怒鳴り、勢い良く車を出す。

 俺は毎度の事ながら呆れ返り、鞍馬山の横顔と黒場さんの後ろ姿を、交互に見比べた。

 ――黒場勝美さん。

 今年で今年で三十歳の独身、もちろん女性。職業は私立中学校の講師で、教えている科目は化学、だったと思う。

 ともかく彼女こそ、鞍馬山の正式な飼い主である。

 どういう事情だか知らないが幼い頃に両親と別れた鞍馬山を、まだ二十代だった彼女が進んで引き取ったのだという。

 それだけ掻い摘んで聞けば、何となく良い話かな、で済むのだが、二人のやり取りを近くで目の当たりしている俺は、とてもそんな感想を抱けない。

 黒場さんと鞍馬山は遠い親戚で、血の繋がりも少しはあるというのに、それを全く感じさせないほど二人の仲は悪いのだ。犬猿の仲などという言葉があるが、この二人のために用意されていたような言葉である。

 それほど二人の口喧嘩は、毎回毎回、壮絶を極める。驚いたもので、知り合ってからの三年間、俺は彼女らが普通に話しているところをほとんど見たことがない。比較的穏やかな時でも嫌味の言い合いである。

 だが決して洒落にならないような争いには発展せず、今日のように、雨が降ると黒場さんが迎えに来るところなどを見ると、本質的にはそんなに仲が悪いわけでもないらしい。

 ならばどうして理由もなく罵り合うのか。全く他人には理解しがたい所だ。俺は小さくため息をついた。

 車が赤信号の前で止まると同時に、後ろで鞍馬山が頓狂な声をあげた。

「――おや? おい、ちょっと見なよ礼司」

歩道に何か見つけたらしい。

「何だよ」

俺もつられて窓の外を見る。

 すると、確かにそこには、奇妙な光景があった。

 雨の中、見覚えのある赤い傘。

 それをさしているのはB組の神崎という奴だった。

鼻筋の通った端整な顔立ちに、鞍馬山ほどではないが、モデルのようにすらりとしたスタイル。理知的な雰囲気はガラス越しにでも伝わってくる。

成績優秀、容姿端麗……要するに、男バージョンの渡瀬みたいな奴だ。

しかし渡瀬との決定的な違いは、やや気障で、ほとんど異性にしか好かれないことである。

その神崎が横断歩道の前に立って、信号が青になるのを待っている。

 そして――彼の横に寄り添っているのは――

「あれって恵依子じゃないか?」

 そう、渡瀬本人だった。

 二人とも、こんなに近くなのに、車の中にいる俺たちの存在には、全く気付いていない。

 相合い傘に肩を寄せ合い、何を話しているのか、くすくすと楽しげに笑い合っている。

 ――信号は青になり、車は動き出した。

二人の姿は後方へ過ぎてゆく。

「今の子って確か、あんた達の友達でしょ? 横にいたのは彼氏かしら。なかなか格好良かったじゃない」

黒場さんはしかし、そんなに興味は無さそうに言う。

 俺たちは黙っていた。

 ……。今のは一体どういうことだろう。渡瀬と神崎は確かに親しいが、付き合っているなんて聞いたことがない。

「寄ってくでしょ礼ちゃん。昼ご飯、まだ食べてないわよね?」

黒場さんはハンドルを握りながら訊いてきた。

「あ、はい」と俺。

 もやもやと詮索していた思考はすぐ断ち切られた。


 4


 横を通り過ぎた車に誰が乗っていたのかなど全く知る由もなく、渡瀬恵依子と神崎和也は、赤い傘に身を寄せ合い、他愛もないことを話しては笑い合って歩いていた。

 神崎の傘がないのは、誰かが間違って持っていったか、さもなければ盗んだかして、とにかく紛失したからである。そうでなければ人目をはばかって付き合っている相手と相合い傘で帰るなど、危険すぎて出来たものではない。――そう。

 渡瀬恵依子と神崎和也。

この二人は以前から、恋人として付き合っている。

 しかし互いに他よりも目立ち、鞍馬山狗子ほどではないにせよ、何かと異性から言い寄られることが多い身である。妙なイザコザなどが起こらぬよう、交際は出来る限り秘密に……と、始めからそういう約束であった。まるで自惚れているようだが、現実問題、そういう状況なのだから仕方ない。彼らはやはり賢かった。

 だが、傘など途中のコンビニででも買えばいいものを、それをせず相合い傘で帰っていることからも分かる通り、二人は決して割り切れているわけではなく、可能な限り一緒の時間を過ごしたいという思いは、他の平凡なカップルたちと寸分の違いも無かった。

 横断歩道を渡り終えたと同時に、神崎は少しだけ真面目な顔をした。

「――ねえ、渡瀬さん」

「何かしら?」

並の高校生なら二言聞いただけで感心してしまうような、玲瓏な口調で言葉が交わされる。

「どうしても今日でなければいけないのかい? その……お父さんに会うのは」

「緊張しているの?」

「――ああ。当然だよ。だって君のお父さんは、僕らが交際していることさえ、まだご存じではないんだろう?」

「……大丈夫よ」

渡瀬恵依子はそれだけ言った。

問答無用の雰囲気を帯びた口調であった。


 5


 黒場さんの部屋である。

日野台駅から徒歩十五分の所にある、茶色いマンションの四階。

二人で暮らすのにちょうど良いくらいの部屋だ。

 俺がここに来るのは何度目だろう。妙に気に入られているらしく、最近は焼き肉や鍋物をするたびに呼ばれるから……やはり多少遠慮はあるものの、緊張は全く無い。

一昨年の今頃だったか、二人に無理矢理酒を飲まされた時などは、酔っぱらって寝込み、そのまま一泊したこともある。

 気安く泊まったり、一緒に食事をしたり――昔馴染みや親戚でもないのにそんなことが出来てしまうのは、彼女らがどこか男性的な親しみやすさを持っているからなのだろうか。

 今も俺は、厚かましくシャワーを借りた上、黒場さん特製の炒飯を御馳走になっている。

 スプーンの先で俺を指して黒場さんは言った。

「狗子の服が合ってよかったわね。それ貸すから、濡れた制服はビニール袋にでも包んで持って帰んなさい」

「どうも、ありがとございます」

 シャワーを浴びた俺は、何と、鞍馬山の服を借りていた。――といっても決してスカートなどではない。鞍馬山は死んだってそんな代物を見に付けはしないのだ。

 だから俺が借りたのも、大きいサイズの、黒いTシャツとジーンズである。鞍馬山は俺より背が高いし、いつもダブダブの男物を着ているから、俺が着ても、まあ小さくはない。もっともズボンの裾を折らなければならないのは、男としていささか屈辱的であるが。

 それに、やはり、そのシャツには何となく甘ったるいような匂いが染みついていて――俺はさっきからそればかり気にしていた。

 そんな俺の様子を見て勘違いしたらしく、黒場さんは笑う。

「何モジモジしてんの。そんなに遠慮しなくてもいいのよ、厚かましくしても許されるのは若い子の特権なんだから」

「はあ……、はい」

俺は横目で、左隣の椅子に座っている鞍馬山を見る。

 鞍馬山は何も聞いていないのか、ただ黙々と、炒飯を口に運んでいる。――全くの無言。食に没頭しているといった感じだ。

 それを見て黒場さんはため息をつく。

「どうしてこの子、餌を与えられた時だけ静かになるのかしらねえ。普段はぎゃーぎゃー騒がしいくせに、ホント動物だわ」

 それでも鞍馬山は飯に夢中である。

 黒場さんは話を変えた。

「もうすぐ夏休みになるけど、礼ちゃん、この夏はどうするの? 去年みたいに時々遊びに来る?」

「あ、はい」

俺は反射的に肯く。

 黒場さんは微笑んだ。

「良かった。私たち、長期休みの度に暇を持て余すのよ。ほら……私は中学の講師だから、進学塾で夏期講習のバイトする以外は仕事もないし、狗子は――こんなだしね」

 鞍馬山は左手で皿を持ち上げ、炒飯を口に流し込んでいた。やはり何も聞こえていないようだ。これでは彼氏など到底出来まい。

「今年は泊まりがけで海にでも行こうかと思ってるんだけど、礼ちゃんのご両親は許してくれるかしらね」

「え――俺もですか?」

「あら、嫌?」

「いや別に、全然嫌じゃないですけど」

俺がそう言うと、黒場さんはなぜか、安心したような顔をした。

「そう。じゃあ夏休み中、車で迎えに行くわね」

「はあ」

「――ご馳走様!」

鞍馬山は全ての炒飯を腹に収め、乱暴に皿を置いた。

そして嫌味っぽく舌打ちする。

「ああ不味かった」

「何ですって!」黒場さんがテーブルを叩く。「このメスイヌ、生意気言うとご飯食べさせないわよ!」

「不味い物は不味いんだよ。飯炊き係なんだから少しは料理の修業くらいしたらどうなんだ、この大ブス!」

「誰が飯炊き係でブスで行き遅れの三十路女よ! あんた、ちょっと若くて顔が可愛いからってね、油断してたらすぐにオバサンなんですからね!」

「行き遅れとはまだ言ってないぞ! まあ言い忘れたからだけどな。ふん、本気で焦って被害妄想状態に陥っている負け犬女の遠吠えはもう沢山だ!」

「誰が本気で焦っているというの!」

誰が見ても本気で焦っているだろう。黒場さんは一見して結婚願望が無さそうで、実は人一倍それを持っている人だ。……ただし、努力はしていない。今時三十で独身なんてざらですよ、と言っても聞かない。難儀な性格である。

「何よ、何よ何よ何よ何よ! 色気の欠片もないから、十六になる今まで、一度ったりとも男っ気が無かったくせに! あんたもしかしてまだ処女でしょ? そのスレた顔でバージンって何だか不気味だわ!」

「不気味で結構! 人のこと構ってる暇があったら早く男見つけろ!」

「きいーっ、誰が薄汚れてるっていうの!」

また段々とエスカレートしてきた。

 皿が飛んだりする前に止める必要がありそうだが、どう止めて良いものか分からず、俺は取り敢えず炒飯を食べ続けた。――別に炒飯は美味いし、黒場さんも不美人ではないと思ったのだが、それを口に出したら鞍馬山の怒りの矛先がこちらへ向きそうだったので、やはり言うのはやめておいた。

 本当に皿が飛んだのは五分後のことである。


 6


 雨の音が恵依子たちを包んでいる。

 空はとても暗い。……もう真夜中のようだ。

 雨音に混じり、時々、頭の中で、


 ぎしり、ぎしりと音がする。


 真夜中? では、これは誰なのだろう。

 ――恵依子はそっと目を開ける。

眼前に迫る顔は、

「ひ」

 後ずさる。

 違う、この人は違うはずなのに。

「神崎君、たすけ……て」

それでも――それでも――

 嫌なのだ。

 恵依子は、……ぎしり。耳の奥で鳴った。


 7


 派手な喧嘩が一段落する頃には、もう時刻は四時をまわっていた。

半端ではない長期戦であったため、最終的には、双方とも体力を消耗しすぎてイヤになったようだ。

 おれはその間、別室で、黒場さんが借りたらしいホラー映画のビデオを勝手に見て時間をつぶしていた。ここに来ればよくあることである。

 結局、黒場さんは「ばかっ!」と簡潔な捨て台詞を残し、車に乗って、日野台高校の近くにあるスーパーへ夕飯の買い出しに出かけた。

 その数分後。

「全く――どうしてあの女は、ああも血の気が多いんだろうね」

俺の向かいの椅子に座り、膝から下をぶらぶらさせながら、鞍馬山はトランプのカードを切る。

その口には煙草。横に灰皿。テーブルの隅にはコーラのペットボトルが置かれ、脇に凍り入りのガラスコップが二つ。

 始まるのはポーカーだが、金は賭けない。

鞍馬山が意外にも賭事を好まないからである。

 一応ここにはTVゲームなどもあるらしいのだが、どこかで埃を被っているようで、俺は見たことがない。やるのはいつもカードゲームだ。

「たまにはババ抜きでもするかい」

鞍馬山は切り終えたカードをとんと置いて言う。

 俺が肯くと、鞍馬山は、ジョーカーを一枚抜き取り、手際よくカードを二山に分ける。

「まず、どうするんだっけ? 重複した数字を抜くんだったね」

 気怠い時間である。平和を感じてしまう。

 自分のカードを見ていた俺は、ふと思い出して顔を上げた。

「――、なあ」

 鞍馬山はもう持ち札を整理し終えたようだ。

「何だい」

「いや、さっきのさ……渡瀬と神崎のこと、どう思う?」

学校帰りの光景である。

雨の中、相合い傘で帰っていた二人のことだ。

「ああ……。そういえばあいつら、一緒にいたねえ」

鞍馬山はあまり興味を持っていないようだ。

 しかし俺は身を乗り出した。

「付き合ってるのかな」

「――うん、――」

鞍馬山は白い天井を見て少し考え、

「……多分ね」と答えた。

 俺は目を丸くした。

「お前――何か知ってたのかよ」

「興奮するなよ、あたしは何も知らないさ。ただ、あの雰囲気はどう見たって、友達同士って感じじゃなかっただろう。もう高校生なんだし、別にそういうことがあってもおかしくないんじゃないのかい」

どことなく年寄り臭い物言いだ。

 俺は首を振る。

「そういうことじゃなくて――俺、何も知らなかったぞ?」

「ん……。付き合ってるとしたら、誰に対しても秘密にしてるんだろうね。神崎も恵依子もモテるからなあ」自分がモテることは棚上げだ。「ひがむ奴が出てきて、妙なイザコザが起きないとも限らない。賢いあいつらなら間違いなくそうするよ」

「そんな……もんか?」

俺は何となくショックを受けた。

 人間というのは、例え秘密にしていることでも、仲の良い友人にだけはそっとうち明けるものだ――と、勝手に思いこんでいた。

違ったのか。そういうものではないのか。いや、もしかしたら渡瀬は、俺など大して大事な友人と思っていないのかも知れない。

 ゆったりと煙を吐き、鞍馬山は続ける。

「案外みんな友達のことなんて知らないもんだよ。特にあたし達と恵依子なんか、いつも一緒にいるみたいだけど、実のところ学校内でしか会ってないじゃないか。あいつの父親が再婚する話だって、部分的に聞いただけで、別に相談されたわけじゃない」

「そうか」

俺は二度、肯く。

「そうだったな」

「そうさ」

鞍馬山は、やけにはっきりと言う。そして、

「あたしだって、誰にも知られたくない秘密の一つや二つ、持ってるかも知れないよ?」

などと呟いた。

「馬鹿言え」

と俺は笑った。

 ――鞍馬山も笑う。

「なんちゃってね。そうだ礼司、夕飯もうちで食べて行くかい」

「夕飯か? まあ黒場さんの料理美味いし、御馳走になれるんなら嬉しいけどよ」

「じゃあ食べて行くんだね」

「いや」俺は頭をかく。「今更だけどさ……別に親戚とかでもないのに、こう、しょっちゅう甘えるのもな。さすがに昼も夜もってのは。帰るのも遅くなるし――そしたら、やっぱり車で送ってもらうわけだろ」

何よりここは、忘れがちだが、女だけの家である。

 しかし鞍馬山はやけに引き止める。

「遠慮しないでも良いんだ。いつもこっちが呼んでるんだし――もしかして迷惑かい? そういうのは」

「いや別に、全然そういうんじゃないんだけどよ」

少し迷った挙句、俺は頷いた。

「――まあ、いいか。食わせてくれるなら食ってくよ。始めようぜ、ババ抜き」

「ああ」

鞍馬山はこくり、と肯いた。

 結局、俺が七連敗した頃に黒場さんは帰ってきて、彼女の持つ買い物袋には、はじめから俺の分も含めた三人分の材料が入っていた。

 俺は自宅に「遅くなるから」と電話を入れて、豚肉の生姜焼きなどを御馳走になった。

やっぱり黒場さんの料理はとても美味かった。

 だから、俺は少しだけ鞍馬山を羨むと共に――

 ふと、なぜ鞍馬山が両親と一緒に暮らしていないのか、初めて疑問に思ったのである。


 黒場さんの部屋を出たのは八時過ぎになったが、その時になっても、まだ雨の勢いは衰えていなかった。テレビの中で気象予報士が言うには、朝まで止むことはないそうだ。

 俺は傘だけ貸してもらえれば良かったのだが、黒場さんが車で送ってくれると言うので、結局、それに甘えることにした。

 部屋を出る頃には、鞍馬山はもう満腹になって寝てしまっていたため、見送りはなかった。もっとも起きていたところで、まともな見送りなど無いだろうが。

 ――黒場さんが運転する車の助手席で、俺は不意に、思ったことを口にした。

「黒場さん、俺、前から思ってたんですけど」

外は暗く、まるで車を潰そうとするかのように、物凄い勢いで雨が降っている。

「何かしら?」

黒場さんは前方から目を離さない。

 俺は問う。

「今更こんなこと訊くの、変な感じですけど――どうしてこんなに……何て言うか、俺に親切なんですか? 考えてみりゃ、知り合ったのはたった三年前なのに」

「三年も経ってるじゃない」

「そう……ですけど」

 黒場さんはくすりと笑った。

「狗子があなたに懐いてるから――それに、私もあなたを気に入ってるから。それだけよ」

「はあ?」

誤魔化されたような、答えになっているような。

 首を傾げた俺に、黒場さんは、「ずっと狗子と仲良くしてあげてね」と呟くように付け加えた。


 8


 土砂降りの雨は、暗い光景の中にある境界という境界を、上から塗りつぶしたように曖昧にしている。

電柱も、ブロック塀も――本当にそこにあるのか、分からない。

 渡瀬恵依子は混乱していた。

「神崎君……私……私……」

頭を抱え、電柱に寄りかかる。


 神崎は静かに、拾い上げた傘を畳んだ。

 そして恵依子の肩を優しく抱く。

「大丈夫だよ。気に病まなくて良い」

雨音はその穏やかな声すら曖昧にしている。

 恵依子は震えていた。

「わ、私……ああ、あ……」

「さあ、君の家に行こう。まずは落ち着くんだ。大丈夫。君はずっと――こうなることを望んでいたんだろう?」

「そんな……私は、違う……だって、あの人は、とても可哀想な人だったのよ!」

「分かってる」

「お――お母さんは、勝手に男を作って出ていったの! お父さんは、私たちのために、一生懸命」

「分かってる」神崎は恵依子を抱き締めた。「僕はみんな知ってる。だから大丈夫。もう、君を縛り付けていたものは全て無くなった」

神崎は笑った。

「君は開放されたんだよ。大丈夫、大丈夫だ」

「神崎君」

「僕はここにいる。ほら、平気だ。ずっとここにいる」

熱っぽい声で神崎は囁く。

「君の傍にいるよ」

「神崎君」嗚咽。「か、神崎君、神崎君、神崎君、神崎君、神崎君」

恵依子は狂ったように彼の名を連呼した。

 神崎は――やはり何度も肯いた。

 死体の上に雨は降り注ぐ。


 雨音に混じって何かが聞こえる。


 ぎしり、ぎしり、ぎしり、ぎしり、ぎしり。


 それはまるで、耳鳴りのように。







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