第一話【プロローグのかわりに】
ぎしり、ぎしりと音がする。
そして愛に包まれている。
私は私ではない。
この暗闇の中では
私は私の名前を持たない。
光はここまで届かない。
愛を求め、光を恐れる。
そして人を恐れ
孤独を恐れ
何よりも
自分の物を失うことを恐れる。
私は愛されている。
私は――
愛さなくてはいけない。
頭が痛い。
揺れている。
彼は何も知らないのだ。
彼をここに呼ぼう
何が終わるか
そして何が始まるのか――分からないけれど。
私はここから出たい。
――暗い空間――
ぎしり、ぎしりと音がする。
第一話
【プロローグのかわりに】
事件について語り始める前に、取り敢えず、俺自身のことを少し教えておこうと思う。
まず性別は男。学校での成績は中の下で、背は極端に低い。顔は……少なくとも、あなたよりは地味だろう。優越感を抱いてもらってかまわない。
家族は両親と俺、それに弟が一人の、合計四人。核家族というやつである。
名前は殿山礼司という。
これからちょくちょく登場する『俺』とは、つまり俺のことだ。
チビで、名前は殿山礼司。
それだけ憶えてくれれば問題はない。
さて、まずは、この物語において最も重要な登場人物であり、また俺にとっても特殊な存在である、あいつの紹介から始めようか。
1
広い講堂はその瞬間、完全な静寂に包まれた。
ステージ上で、頭の禿げ上がった、赤ら顔をした小さな中年男はマイクを持って絶句する。
彼は日野台大学理工学部の教授であり、今日は進学説明、というより理工学部の宣伝のために、わざわざ時間を割いて、ここ、日野台高等学校まで演説をしに来たのである。
本来ならば彼が駆り出されるはずではなかった。しかし高校側校長と旧知の間柄であることが、黙っていたはずなのに大学に知れてしまい、ならば、と急遽このステージに立たされることとなったのだ。
そもそも、それ自体が、彼、品川栄介教授にはひどく面倒な仕事なのである。
一つに、品川は高校生という連中が全く好きではない。わけは簡単で、言うことを聞かないからである。
彼らには品川の言葉に従う理由がないのだ。逆らって単位を落とす危険もなければ、大学教授という高い社会的地位に対する尊敬の念も一切ない。
それに、高校生は時に、意志すら統合される集団である。皆同じ制服を着ているから視覚的威圧感も増す。集団心理で強気になって暴言も吐く。全くたちが悪い。
大体ここにいる生徒たちの大半は、どうせ消去法的思考で文系に進むつもりでいるのだ。それは大学教授が今更別の道を進めたところで、そうそう揺らぐ決定ではない。根拠は薄弱なくせに決定はやたらと強固なのだ。
つまりこれは徒労、無駄な仕事なのである。
そう考えただけでやる気の失せる仕事を、ざわざわとした雰囲気の中で、どうして最後までやり遂げる事が出来ようか。
野次こそ無いものの、階段状の固定席を埋め尽くす数の生徒たちが、めいめい勝手に繰り広げる雑談は、元来短気な性分である品川の神経を逆撫でするには十分すぎるほど、耳障りであったのだ。
はじめのうちは我慢していたが、やがてそれが大きくなるにつれて苛々とし始め、何だかその話し声が全て品川に対する悪口であるような錯覚を憶えた。
それでも品川は限界まで堪えて、冷静に、台本通りの話をしていたのだ。
だが、嵐のようなざわざわ声の中から、ほとんど偶然に「ハゲ」という言葉を聞き取ってしまった瞬間、品川は反射的に怒鳴っていた。「やかましい、バカどもめ」……と。
ハゲというのが、果たして品川のことを指していたのかは分からない。もしかしたら聞き違いかもしれないし、そんな単語を吐くような生徒は、全校でも一人か二人だけなのかも知れない。
だが、コンプレックスの爆発を止めることは不可能であった。
その怒鳴り声で、講堂内は一気に静かになった。
もちろん動揺からくる多少のひそひそ話は聞こえたものの、それは、きいいん、というハウリングの余韻よりもずっと小さかった。
本当の沈黙が襲来したのは数秒後である。
「うるさいなあ、起きちゃったじゃないか!」
――恐ろしく、良く通る声であった。
怒鳴り声であるというのに誰もが聞き惚れるほどの美声。冷たい風のようであり、また力強い雷鳴の轟きにも似た。しかし、内容はあまりにも常軌を逸脱していた。
ステージ上でマイクを持ったまま絶句する品川の視線の先に、その姿はあった。
生徒、教員。全員がそこに注目していた。
美声の主は一人の生徒だった。
生徒は、す、と立ち上がる。
放送委員の条件反射であろうか、悠然とした立ち姿を照らす、ひとすじのスポットライト。
――長身の少女。
あまり光沢のない、どちらかといえばバサバサした質感をした茶色く長い髪は、白く細い首の後ろで一つに束ねられている。なぜ制服を着用していないのだろう。白い半袖のシャツに、下は黒いジャージ。いずれもぶかぶかだ。
手に何か持っている。どうやらそれは、閉じた扇子のようである。自前だろうか。あまり正常な神経ではない。
少なくとも女子高生としては。
あらゆる意味で何と意表を突いた格好であろう。しかしそれを異常と感じさせない、いや――その異常さすら霞んでしまうほどの美貌を、彼女は持ち合わせていた。同時に、とても日本人とは思えないようなスタイルも。
長い手足、細身の体。やや撫で肩であることを除けば、それはまさに人間として完璧なシルエットであった。
彼女は言う。マイクも無いというのに、どうしてこんなによく響き渡るのか。
「もうちょっと小さな声で怒鳴れないのかい!」
――次の瞬間、絶句していた生徒たちがどっと騒ぎ出した。
それはまるで、ロック・バンドのライブにおいて、最も人気の高い曲目が演奏される寸前のようだった。絶対的人気を伴った、期待の波である。
拍手喝采とコールが巻き起こる。
くらまやま、くらまやま――生徒たちはその名を、声を揃えて連呼する。
鞍馬山という奇妙な名は、疑う必要はあるまい、立ち上がった美少女の名字である。
少女は観客さえも怒鳴りつける。
「お前らも五月蠅いぞ、今はあたしが喋ってるんだから黙りな!」
すると、いっそう会場は盛り上がる。
鞍馬山は席を離れ、中央の通路に出て、つかつかと品川の方へ下りてくる。
品川は当たり前だが当惑した。こんな、いち生徒の暴挙を、教員たちが口を開けて観ている道理はない。
しかし講堂の脇に並んで立つ教員たちは皆、やるせない顔をして少女の方を見ているだけなのだ。
品川には聞こえなかったが、彼らは呟いていた。
「ああ、もうお終いだ」――と。
もう鞍馬山はステージ脇にある階段のところまで来ていた。
壇上に上がりながら彼女は言う。いつの間にか――ああ、司会の教頭から取り上げたのだ――マイクも手にしていた。
「やあ教授、あんたの腕前は素晴らしいね。一体どこで練習したんだい」
それが向かい合っての第一声。
「何だと?」
品川には意味が理解できない。
少しも表情を動かさず、それでいて実につまらなそうに頭をかきながら、舞台に上がった鞍馬山は言う。
「人を退屈させる練習だよ。そこまで上手いからには相当訓練したんだろ?」
会場に笑いが起きる。
鞍馬山は続ける。
「冗談はここまでとして――問題はあんたの物言いだ。何も『バカども』はないだろう。騒がしくたって、あんたの話が聞こえないほどじゃないんだから、無視して進めれば良かったじゃないか。少なくとも理系志望の生徒は真面目に聞いているんだろうし――それに、あまりにも五月蠅かったら、そこにいる教頭が注意するはずだろ」
生徒にマイクを奪われでもしない限りはそうだろうが。
「いきなり怒鳴ったりするのは、もしかして、あんたが最初から高校生ってものを毛嫌いしてるからじゃないのかい? そういうのは案外伝わるもんだよ」
「む」
さり気なく核心を突かれ、品川は少し動揺した。
とにかく辺りを見回す。
「い、一体なんだ君は! おい、誰かこいつを」
「無駄だよ」
鞍馬山は冷然としている。
「何?」
「力に訴えれば自分が怪我をすることは、皆よく分かってるから。誰だって痛い目は見たくないだろ?」
両手をひらひらと動かしてみせる。
「……」
――滅茶苦茶強いということか。
品川は少女の姿をまじまじと見た。
とてもそんな風には見えない。
黒目が大きい割に威圧的な目つきと、唇の端から時折のぞく犬歯が極端に鋭いことさえ気にしなければ、むしろその容貌は可憐に見える。――いや、これは矛盾した形容表現ではない。本当にそうなのだ。本来なら同居するはずがない二つの雰囲気を、眼前の少女は併せ持っているのである。身に纏った数々の美的要素は複雑に絡み合い、一種独特な、迫力に似たものを生み出している。
品川は、生粋の理系人間が持つ少々偏ったボキャブラリーの中から、必死に言葉を探した。その場に合うものなら何でも良かった。
「君は――君は一体、何だ。私を誰だと」
「なんとか学部のイナガワ教授だろ?」
少女はさらりと名前を間違えてみせる。しかも、なんとか学部ときたものだ。
生徒たちは歓声を上げた。
彼らにとって内容はどうでもいいのだろう。
今、この場で、この少女が発言する事自体が重要――つまり面白いのだ。
品川は理屈抜きで激昂した。
「君は、いや貴様、失礼だとは思わないのか!」
「尊敬する理由のない相手への礼儀は、生憎と持ち合わせてない。って言うか、あんた変な風に禿げてるし、なんか面と向かうと笑っちゃうんだよね」
その言葉が、品川の理性を一瞬で、完全に粉砕した。
「ハゲ。ハゲだと! くそっ……こ、この小娘め!」
マイクをステージに叩き付ける。
そのマイクと共に、品川も――
壊れていた。
「私はこれでも、成績に関しちゃ神奈川の神童で通ってたんだ! 高校時代などは一部から『理科の栄ちゃん』と呼ばれたこともあるほどなんだぞ! この禿げた頭は――ハゲは教養の証だ!」
支離滅裂な絶叫と共に教授は、ばっ、と上着を脱ぎ捨てた。
「お前みたいな小娘にハゲの何が分かるというんだ!」
すると鞍馬山は扇子をはたはたと動かし、スペインの闘牛士を思わせるようなポーズで、いきり立った大学教授を挑発する。
「よぉし、かかって来いイナガワ!」
「私は、」
品川は突撃した。
「品川だあッ!」
鞍馬山は、掴みかかった品川をひらりと避ける。余裕を持った動き――並の運動神経ではない。
「いい動きだよイナガワ、これなら尊敬に値する!」
「うおお!」
品川は、軽やかにステージ上を逃げ回る鞍馬山を、猛牛の如く追いかけ回す。
会場は既に完全な狂乱状態だった。全員総立ちである。
鞍馬山の暴挙を助長しようとする者、品川を応援しようとする者、とにかく爆笑する者、あまりの事態に悲鳴を上げる者。
その時教師たちは、講堂の片隅に集まって沈黙していた。
――どうすればいいのか分からないのだ。
騒ぐのが生徒だけならば教師として注意もできるが、なぜか教授まで暴れてしまっている。
もう収集の付けようがない。
会場のボルテージは上がりっぱなしである。
「行くぞクソッタレども! 高等部一年A組女子十番、鞍馬山狗子の空飛ぶ姿をしかと網膜に焼き付けろ!」
もう少女としての丸みを少しも残さぬ口調で、鞍馬山は叫ぶ。スピーカーから響くその声は、狂乱の中においても、皆の耳にはっきりと届いた。
会場はさらに沸き立つ。
「しゃあ――だらあっ!」
右手にマイク、左手に扇子を持ち、鞍馬山は大の字になってステージから跳んだ。
うおお、と着地点に人が集まる。ステージ前に並べられていたパイプ椅子はもう、倒れたり吹っ飛んだり、滅茶苦茶である。
固定席からも男子たちが、雄叫びを挙げながら、土砂崩れのように駆け下りてきた。
その中心に、錯乱した品川まで飛び込んでしまったから最悪だ。
制服の中で揉みくちゃになりながら、椅子を振り回して大学教授は絶叫する。
「小娘はどこだ!」
それを無視してどこかで鞍馬山が怒鳴る。
「よっしゃ皆、胴上げだあ! あたしとイナガワに優勝球団監督の気分を味わわせてくれ!」
これ以上無いほどの歓声で生徒たちは応え、抵抗する品川と笑顔の鞍馬山は、彼らによって天高く投げ上げられた。
理由もなく胴上げが始まったのである。
「なはは、気持ちいいな、最高の気分だ!」
鞍馬山は自分の体が飛び上がるたび、扇子片手に高らかに笑った。
それとは対照的に品川は激怒しっぱなしである。
「は、はなせッ、くそっ! お前らを優勝に導いた憶えはないぞ!」
しかし天井まで届きそうな勢いの胴上げは全く終わる気配を見せない。
やがて鞍馬山が空中から教授コールをあおった。
「いーな、がわ! それ、いーな、がわ!」
その瞬間、ついに会場のボルテージは最高潮に達した。
全員がその名を連呼していた。
――いーな、がわ! いーな、がわ!
いーな、がわ! いーな、がわ!
「……わ……私は……」
胴上げされながら、教授はなぜか笑っていた。
なぜ楽しい。分からない。なぜこんなことになった。分からない。
もう何が何だか分からない。とにかく笑っておけ!
「私は――私は『品川』だあああっ!」
うおおおお、と、生徒たちの歓声は、講堂を破砕せんばかりに轟いた。
2
狂乱が終わって数十分が過ぎた頃。
俺が保健室のドアを開けようとすると、中から鞍馬山の他に、渡瀬恵依子の穏やかな声も聞こえてきた。
閑かな空気。声は、ドア越しにも明瞭に聞こえていた。
「じゃあ薬塗るから、ちょっとだけ、じっとしててね」
「ちょっと待った、痛くするなよ恵依子、痛く――あんっ! ばかぁ、何でそんなに乱暴にするんだい……」
ここから声だけ聞くと、なぜか、やけに色っぽい。
「大げさなんだから。――ほら我慢して」
渡瀬は手当をしているようだ。
ドアを開けると、二人はやっと、こちらに気づいて顔を上げた。
保険の先生はいない。苦手な薬の臭いが俺の鼻をつく。
鞍馬山は椅子に腰掛け、擦りむいた右膝を渡瀬に診せているところだった。
「なんだい礼司じゃないか。もしや負傷したあたしの身を心配して」
「先生に様子を見てこいって言われただけだよ」
俺はひとつ余っている丸椅子に腰掛けた。
鞍馬山は、ちぇっ、とまた下を向く。
「冷たいなあ」
「いつになったら直してくれるのかしらね。隙があればすぐ大騒ぎする悪い癖……」
渡瀬は静かに愚痴を言いながら、悪友の膝に、脱脂綿に染み込ませた薬を塗る。慣れた手つきである。
「狗子だからこれだけで済んだけど、胴上げの失敗って、打ち所が悪くて死んじゃう人もいるのよ。今度からは気を付けてね」
「分かったよ。毎度悪いね、恵依子」
鞍馬山は胴上げの最中、運悪く床に落下してしまったのだ。
しかしあの狂乱の中、たったこれだけの傷で人混みから脱出した運動神経はさすがである。たしかスポーツテストの結果は全国一位だったか。柔道や空手なども段を持っていたはずだ。
「さっきからみんなが校庭で説教受けてるってのに、中心人物はこんなところで一休みか」
俺は、ベッドに置かれている煙草の箱を横目で見ながら、そう言った。
――一応説明しておく必要がありそうだ。
才色兼備で大人しく、世話焼きで、ご多分に漏れず男子からの人気も高い渡瀬恵依子。
とにかく目立つ鞍馬山。
そして、何をやっても地味な俺。
この三人は、中等部入学当時からの友人で、どういうわけだか高等部一年になる今まで、ずっと同じクラスである。
そんなだから必然的に親しくもなる。気が付けば、俺と渡瀬はどの学年でも、鞍馬山の監視役であった。監視役というより飼育係だろうか。とにかく、その役回りは半端な大変さではない。もう校内での喫煙などに関しては、いちいち注意するのが面倒だから目を瞑るようになったほどである。
鞍馬山はそれほどの問題児なのだ。
――そんな奴と周囲から完全に親友扱いされ、時々クラスメートなどから『殿山、お前もしかして鞍馬山とデキてねー?』などと本気で訊かれる俺の苦労が、果たして他人に分かるだろうか。
しかもそういった類の質問には必ず、ある程度の羨望が含まれているのだ。それが俺には理解できない。
たしかに鞍馬山狗子は、絶世の、などという馬鹿げた言い回しも大げさでないほどの美形だ。それは俺も認める。
深く考えない連中が、
『あいつ本当可愛いよな。細いし、脚長いし、意外と胸もでかいし』
『一緒に歩いたら、男全員振り返るだろうな』
などと話しているのもよく聞く。ああ確かにそうかも知れない。
しかしそれが何だというのだ。
美少女なら、校内を部屋着みたいな服装で闊歩し、それを注意した教師の襟首をつかんで、逆に怒鳴り倒しても許されるのか。スタイルが良ければ、校内至るところにマイ・灰皿を置いていても黙認されるのか。
毎回代わりに小言を頂戴する俺たちの身にもなって欲しいものである。
まあ、そうした自由奔放ぶりが許されているのは、他に、もっと大きな理由があるからなのだが。
鞍馬山はターボライターを取り出し、くわえた煙草に火をつけて訊く。
「そういや恵依子、親父さんの再婚話――あれ、どうなったんだい?」
手当が終わり、もうすることもなくなったので、俺たちは自然と、いつも話しているようなことを喋り始めていた。
渡瀬は頷く。
「うん……今年中には入籍するみたい」
「式なんかは挙げないのか」と俺。
渡瀬は首を傾げる。
「さあ――? そういう話が出ないところを見ると、挙げないんじゃないかしら。二人とも、もう二度目だし」
鞍馬山は煙を吐く。
「相手の人はなんて言うんだっけか」
「根岸香織さんよ。大きな病院の婦長さんで、四十歳……もう、何度教えたら憶えてくれるの?」
「あたしの記憶力はシロアリ並だからねえ」
自慢できることではない。
――そう、渡瀬には母親がいない。
両親は何年前だか知らないが、離婚してしまったらしい。
離婚の理由も俺は知らない。
今は父親と二人暮らしだそうだ。
やがて鞍馬山は立ち上がり、煙草をくわえたまま言った。いつも下唇にくっ付けたまま器用に喋るのである。
「さて、と。校長に呼び出される前に、ずらかるかな」
「お前なあ……そういう生活、改めたらどうだ? そろそろ退学になってもおかしくないぞ。成績もダントツの学年最下位なんだし」
俺は呆れて言った。
渡瀬も心配そうに肯く。
「そうよ狗子、いくら国定特別奨学生だからって、何でも許されるわけじゃないんだから。真面目になれなんて言わないけど、せめて、もう少しだけ常識的に出来ない?」
母親のような口調である。本気で心配しているのだ。
しかし鞍馬山は無責任に笑った。
「常識的に……か。はは」
瞬間、窓から射し込んだ陽射しが、鞍馬山の白くきめ細かな肌に反射して、俺の目を眩ませた。
黙っている俺と渡瀬に「じゃ、ばっははーい」と軽く手を振り、鞍馬山は閉じた扇子と煙草を手に保健室を出ていった。
国定特別奨学生――通称、IQ推薦。
生まれついての超人的知能指数を評価され、未来的文明進化の重要因子として、国内在学中はあらゆる入学テスト、進級判定等の無条件通過を約束されている者。
その称号を与えられた者は、過去三十人にも満たないという。
当然学費なども免除で、高校などは、三年間自宅で寝ていても卒業できる。
彼らは通常の場合、大学院もしくは特殊な施設で必要な教育課程を拾得し終えた後は、いずれも国家運営の中枢を担う役割や、最先端化学のさらに先端をリードするような役に付き、ほとんど生涯にわたって天文学的な額の税金を個人で吸収し続ける。国は彼らを『我々の尊い共有財産であり最高に価値ある人間』と言い切っている。平等という言葉は忘れてしまったらしい。
噂によれば、彼らに対して犯罪行為を働いた者は、無条件に極刑を言い渡されるという。
まさに選ばれた特別な人間。人を越えた人。その国定特別奨学生に、あろう事か、
鞍馬山が指定されているのだ。
――どんな顔をして受け止めたらいいのか知れない事実である。
選ばれし者の称号とは、あんな人格破綻者にも、ちゃんと与えられるものなのだろうか。
いや。それ以前にあいつは、本当に天才なのか。
確かに鞍馬山は、今日もひと騒ぎやらかした事から分かるように、集団に対しても個人に対しても異常なほどの影響力を持っているカリスマ的問題児である。その上、浮世離れした容姿と人見知りしない性格のせいで、男にも女にも非常にモテる。よく写真が雑誌に載ったりするからか、他校にも、あいつのファンはわんさかといるようだ。
まあ、モテるモテないは別問題としても、鞍馬山の絶大な人気が、果たして超天才的頭脳とやらの為せる業なのかは、どうも分からない。あいつが才能を活用していないからなのかもしれないが、俺の目にはどう見ても、ただの、存在感のある馬鹿者にしか映らないのだ。
扉を見つめながら、同じ事を考えていたらしく渡瀬は呟く。
「恵まれた才能を悪用しないところは偉いんだけどね」
この場合の悪用とは、頭脳を犯罪に使うことである。学年を巻き込んだ乱闘騒ぎなど、鞍馬山にとってはせいぜい悪戯に過ぎないから、悪事には入らない。
「あいつの場合は善用もしてないけどな」
俺は渡瀬の言葉にそう付け加えた。
3
日野台高等学校の裏門――。
出てきた少女は鞍馬山狗子である。ここからなら校庭の横も通らずに済むから、逃げおおせるには都合がいいのであろう。
しかし逃げるにしてはやけに堂々とした足取りだ。飄々としているというか、隙だらけというか。これが彼女の、普段からの態度らしい。
だが門から出てすぐの瞬間、狗子は立ち止まり、
「おや? これはこれは」
と所得顔で笑う。
待っていた男は、ぺこりと頭を下げた。
「先ほどは失礼した」
男はあの品川栄介教授であった。幸いと、見えるところに怪我はないようだが、服はしわくちゃになっている。
狗子は肩をすくめる。
「おいおいイナガワ、どうしてあんたが謝るんだい」
品川は首を横に振り、答える代わりに、独り言のように呟く。
「聞けば……君は国定特別奨学生だそうだね……。この学校に一人入学しているという噂は聞いていたが……まさか君だとは」
「それが?」
狗子のきょとんとした顔。
「う、む」
品川は口ごもる。質問や疑問が多すぎて、うまく纏まらないのである。
考え考えの様子で、中年男は少女に問う。
「君は、どうして……こんな平凡な学校に? 余計なお世話かも知れないが、君の頭脳ならば、国立の授業も児戯のようなものだろう。……現に君は、わざと力を出し惜しみしているようだ。ここの先生方に聞いたが、テスト用紙はいつも白紙で出すのだろう? 君がその気になれば――」
狗子はふむと唸った。
「ハサミがあるんだよ」
「何だって?」
「ハサミさ。こう、ちょきちょきするやつ。みんな一つずつ持ってるんだけど、あたしのは特に切れ味がいいらしい。その気になりゃ何だって切れそうなんだ。ちょきちょき」手で何かを切る仕草を真似る。「……でもね、人間って、ハサミがあるから何かを切るわけじゃない。何かを切る必要がある時だけ、ハサミを持ち出して使う――本来そういうものだろ?」
品川は答えない。
狗子は続ける。
「切れ味のいいハサミを持ってるからって、面白がって片っ端から物を切ってたら、いつか怪我しちまうと思うんだ。周りの物もぼろぼろになる。『使わなくちゃもったいない』なんて焦るのも馬鹿馬鹿しいしさ」
「それが理由なのか?」
品川は真剣な面もちで、鞍馬山狗子の美しい顔をのぞき込む。
すぐ、根負けしたように狗子は笑った。
「いや。本当は単純に……ここの平凡な校風が気に入ったんだよ。家から近いしね」
「簡単なものだな」
「まあ、高校生なんてその程度さ」狗子は扇子をタクトのように振る。「しかし、なかなか捨てたもんじゃなかっただろ?」
「……ああ」
品川は肯く。
「さっきは……面白かった、本当に――実に貴重な……楽しい経験だったよ。……感謝している」
噛みしめるようにそう伝え、そして苦笑する。
ほとんど二人にしか分からぬ会話である。
しかし確かに通じている。通じていれば問題はない。
やっと彼には、狗子の意図が理解できたのだ。
狗子は満足そうに言った。
「面白かった、か。……そう――対等になって楽しめる関係こそ最高なんですよ、品川教授」