想い届けて
本を手にした少女は……
その本には題がなかった。抗えない声が、読め、と囁いている気さえする。内容のうかがえないその本は、意志を持っているかのように少女の手へと滑り落ちた。
偶然か、必然か。少女の手の中で本は開かれた。白く、文字も書かれていなかった頁に、初めからそこに文字が書いてあったかのように褪せた黒で、文字が紡ぎだされる。
「…こ、れは―――」
本は歓喜した。新たなる愚かで愚鈍な贄を手に入れたとばかりに。黒く憎悪に満ちた文字で、少女へ本は問いかける。
―――汝、我に何を願う。我はあらゆる願いを満たすモノ也…
少女は、その低く暗い声に驚く。開かれた本には黒い炎が渦巻いた。そして、少女は願う。美しく純粋であるがゆえに、歪になってしまった願いを、万感を込めて
「…あの人に、会いたいの。私たちが人目を憚ることなく再び共に過ごせるように」
切なる願いを、囁くように祈る。本はそれ応じる。この世すべてに害をなし、この館へと封じられていた本を人は‘悪夢の書’と呼んでいた。そんなことなどつゆ知らず、少女は本と契約を結ぶ。
―――了承した、新たなる我が主よ……想いをもって我を行使せよ。
本の上で渦巻いていた黒炎が蛇のように上り、空中に焼き付けるように文字を描く。本は黒い霧となって少女の影へと吸い込まれ、その白く美しい腕に蛇のような呪紋が浮かび上がった。決意を込めた少女の澄み切った瞳に、影がよぎる。
―――後に‘月影の災厄’と呼ばれるようになる魔女が、この日、誕生した。
謂われなく魔女と迫害された少女は、最愛の人を失い、信じていた村の人々に裏切られたことにより、皮肉にも本物になってしまった。腕に刻まれた呪紋を見る少女の唇はその覚悟を示すようにぐっと結ばれていた。
「これで、あの人に会いに行くことができるの?」
少女は、今しがた起こった出来事も、これからの未来への不安感も感じないような恍惚とした瞳で、美しく微笑んだ。
満月に照らされ、銀砂をちりばめたような星々は瞬く。その美しい夜、玲瓏な美貌の魔女は目を開く。彼女が視線を巡らせ一望する町は、煤と灰に塗れていた。炭化した人々や家が月光に反射し、冷たく凍り付いたかのような冷気を放っていた。
「…あの人を、貴方たちが焼いてしまったから、こうなったのよ?」
魔女の何の感情も込められていない底冷えする瞳に、生き残り身を寄せ合う人々は慄く。町で一番高い塔から、それを睥睨する魔女―――いや、少女は
「Ah――――—―――――――」
何処からともなく聞こえるピアノの旋律に乗せ、うたう。その、常人には理解することのできない言語で歌われる死者の霊を誘うような、それでいて悲しみ、憐れむような旋律に人々は、かつて自身らが不安感と優越感を満たすためだけに辱め、苦しめた少女の末路を見た。
人の為だけを願って人に尽くしてきた彼女の純粋さは、人々の歪んだ悪意と血に染まり、愛しい人を取り戻すために狂い、無意識に人々を苛む。うたう少女の横顔はあまりに穏やかで、人々に仇なすように思えなかった。人々の贄にされ、狂い、本物の魔女になってしまった少女はそれでいてなお、穢れず、かつての美しさを保っていることは、人々の想像にも及ばなかった。ゆえに、人々は怯え恐怖した。
差す月光に影の蛇を纏わせ、魔女は悠然と構える。子供がされた悪戯に仕返しをするような無邪気さで人々を蛇に屠らせてゆく。
蝶の翅を奪うように人々の手足が千切れ飲み込まれる。噴出した血潮は悪趣味な絵画のように地面を濡らした。蟻を潰すかのように人がひしゃげて血だまりになる。むせかえるような匂いと朱に、人々は泣いた。啼いて哭いて鳴く声に、少女は耳を貸さない。
「なぜ、何もしていないあの人が苦しめられなくてはならなかったの?」
どうして……と、呟きながら駄々をこねた子供のように自身にまとわりついている影を人々へ向かわせる。
―――この惨劇は後に‘魔女の反逆’と言われ、魔女狩りに反発した魔女の反乱として人々にしめやかに伝わった。
“誰にも理解されなくなった魔女は、影とともに彷徨する……”
幾年が過ぎても、人々はその存在を恐れた。故に、城の奥底へ眠らせて楔を打ち、そこへ王都を立て封印した。
たった一人の温もりを求め、少女は魔女になった。その末に得られたものは、孤独と影の冷たさだけであった。
魔女は城の奥底で嘆く。あの人は何処、と。
引き続きよろしくお願いいたします。