第一章 信仰深い少女
貧しい庶民たちの日課は、町外れの教会に祈りに来ることだった。
「今日も神の祝福があらんことを」
清らかな声で祈る金髪碧眼の少女はこの教会に務める修道女であった。
「アーメン」
心から信仰者の幸せを祈る彼女はまだ十代の少女である。名をコーデリアといった。彼女の祈りの後に「アーメン」と続けるのは今日教会に集まった町人達だ。若い男女、子連れの母親、仕事を中断してきた 父親、中年の男から老婆までいる。その中でコーデリアより幼い少女が声をかける。
「コーデリア、神様はいるの?」
「もちろんいますよ。ナンシ―」
ナンシ―という少女の疑問に即答するコーデリア。
「じゃあ私の病気も治る?」
恐る恐る尋ねるナンシ―。彼女は病に冒されていた。当時の医学の知識では原因が分からないものである。当時は医療が幅広く行われておらず、祈祷が主流であった。庶民ともなれば尚更である。
コーデリアはナンシーの目線に合わせて優しげに告げる。
「はい。こうして祈りをささげれば神様が直して下さるでしょう」
朗らかな笑みを浮かべ答える少女に後ろから声がかかる。
「コーデリア、今日も信心深くてなによりだね」
コーデリアに声を掛けたのはこの教会の神父であるエスモンド・デリンジャーだった。「はい!」元気よく返答するコーデリア。
神父は身寄りのないコーデリアを引き取り育ててくれた恩人であった。二人は信仰者に改めて祈りを捧げる。沈黙が十分ほど続いた。デリンジャー神父が顔をあげ、「このあたりで良いでしょう」と発言したことにより、皆顔をあげる。彼がコーデリアに聖書を読むように指示を出す。コーデリアは神父の指示がなくとも聖書を読もうとしていたらしい。その手には既に件の本が抱えられていた。一通り聖書を読み終えると、静聴者に向き直るコーデリア。
「イエス様は皆様を見ていらっしゃいます。皆さまが信仰を続けている限り、助けてくださいます。ですから、もうしばらく辛抱して下さい。必ず幸せになる時がやってきますから……」
十字をきり、再び祈りながら話す少女。
彼女の言葉に感激する信仰者たち。涙を流す老婆までいる。人々は席から立ち上がるとそれぞれ持参した食料を彼女に手渡し出した。
この教会では祈りを捧げ、人々に聖書を読み聞かせる事と引き換えに僅かばかりの食料をもらうことになっていた。協会側が求めたのではなく信心深い人が自ら差し出しているのだ。俗に言うお布施である。
「皆さま、今日もありがとうございます」
コーデリアは深々と頭を下げた。そんな彼女を見て笑顔で答える信仰者。
「ごめんね。コーデリアちゃん、今はこんなモンしかなくて……なにぶん家族を食わしてるだけで精一杯でね」
自嘲気味に答える男性。そんな彼に対しコーデリアは首を振る。
「これだけいただけただけで充分です。ご家族の方によろしくお伝えください」
そうと答えるコーデリアは本当に彼らの好意に感謝していた。他の信仰者たちも各々お礼を言う。
「コーデリアちゃんの笑顔に私達は救われてるのよ」
婦人もそのように答えた。「ありがとう」と口々にお礼を言いながら、信仰者たちは去って行った。彼らの背中が見えなくなるまで手を振っていた修道女だったが、「そろそろ入ろう」とエスモンドに促されて協会内に入って行った。
食卓には僅かなパンと一切れの肉、ボロボロの野菜があるだけだった。僅かばかりの食料を二人でつつく。とても寂しい食卓であった。それでも笑顔を絶やさない少女は神父に話しかける。
「神父様、ご飯を食べられるだけ神様に感謝ですね」
少女の言葉に頷く神父。
「そうだな。これも神様のご加護があるからかもしれんな」
神父の微妙な発言に少女は噛みついた。
「神父様! 神様はいらっしゃいます! 聖職者の私達が僅かでも疑っては誰が神を信じると言うのですか!」
いきなり大声を出した少女に驚く神父。「すまんかったな」と謝り、食卓を後にする。その姿を見て少し言い過ぎたと感じた少女は神父に声を掛けた。しかし、神父は「私は他に食べ物があるから」と言って出て行ってしまった。
一人食卓でパンを齧る少女。
(私に気を使って、食べ物を残して行ったんですね)
神父の気遣いを察して感謝する少女。
(思えば、神父様は昔から優しかった。戦争で父を、病で母を亡くした自分を迎え入れてくれたのは神父様だった。それからも私にたくさんのことを教えて下さった。私をよく褒めて頭を撫でてくれた。私が病の時は背中をさすってくれた。私が寂しい時は抱きしめてくれた。それにこの服も神父様が作って下さったものですし……)
コーデリアは父の形見の指輪を撫でた。家族の遺品はこれくらいしかなかった。幼いころから自分を世話してくれた神父の優しさを思い出し、改めて彼に感謝した。
神父はたまに奥の部屋に行く。「一人で集中したいから部屋には近づかないでくれ」と言いつけられていた。おそらく迷える子羊達を救う方法を考えるために一人耽っているのだと確信していた少女は神父の言いつけを守っていた。食事を終えた彼女はバケツで食器を洗い、布でふいて棚にしまった。空を見上げると、今日は月が出ていなかった。新月のようだった。
「月が見えない夜は不安ですね」
蝋に火をつけて、しばらくは聖書を読んでいた少女だったが、することがなくなった彼女は眠りに就いた。
翌日、少女は朝から祈りを捧げていた。
「一刻も早く、平和で皆が笑って暮らせる日が来ますように」
一通りの祈りを済ませると次は聖書を読む。
「コーデリア、もうご飯の時間だよ」
神父に言われ、はっとする少女。聖書を熱心に読んでいて時間を忘れてしまっていたらしい。昼食を終わらせると、今度は賛美歌を歌う。彼女は自分の歌声が神に届けば、神が人々を幸せにしてくれると本気で信じていた。長く歌って喉が渇いた少女は川で水を飲む。後ろに気配を感じた彼女は振り向いたが誰もいなかった。
「気のせいですよね。早く教会に帰らなければ」
教会に帰って行く彼女を黙って見つめる少女がいた。
教会に帰ると、神父が演説を行っていた。どうやら昨日の参加者達がまた今日も来てくれたらしい。神父と一緒になって信仰者達に教義を話す。教義が終われば、話し合いが始まった。この話し合いは、村民がコミュニケーションを取る場としても、情報交換をする場としても活用されていた。現代で言うところの町の寄り合い、座談会のようなものである。メディア媒体がない時代では、口伝こそが最大の情報収集の場であった。
「聞きました?」
いつも来ている他の信者達に婦人が問いかける。
「何がですか?」
と皆が興味を示したようだった。
「最近ヴァンパイアが出没するそうですよ?」
恐ろしいと言わんばかりに大げさなジェスチャーと共に話す婦人。何でも、彼女の話では家畜や人がヴァンパイアに襲われるそうだ。家畜は骨だけになって翌日に帰ってきたこともあるらしい。また、殺害された人間は首筋に血を吸った後のような傷が二つ出来ていたそうだ。
「まぁ恐ろしい!」
女性の聴衆達が次々に声をあげた。子供等は親にまとわりつき。震えている。そんな中、コーデリアが質問した。
「ヴァンパイアなんて実在するのですか?」
彼女の疑問に一人の男が答えた。
「……ああ。少なくとも、私はそう思っている」
一拍置いて男は答えた。
発言した男はかなり年老いた人物だった。コーデリアは彼を覚えていた。自分が幼児だった頃にこの村に根を下ろした、旅人だった。小さい頃に、旅の話を聞かせてもらったことをよく覚えている。
「コーデリアちゃんにも昔話したと思うが、忘れてしまったのかい?」
男のセリフにコーデリアは追憶する。そういえば、自分は男が教会に来ると男のそばに行き、旅の話をして欲しいとせがんでいた。しかし、ヴァンパイア等の恐ろしい話を聞くと眼を閉じ、耳をふさいでいた。男もそれを思い出したのか、「ハハハハ」と笑いだした。
「では、改めて話をするよ。―――あれは私がとある町に着いたときだった……」
男の話では、町に着くと不穏な空気が立ち込めていた。そして、町では次々に殺人事件が起こった。おかしなことに犠牲者の周りには血が一滴も残っていなかった。また、犠牲者が出ない日は決まって太陽の明るい時と朔の日だった。最終的に怖くなって自分が逃げ出したと言う締めくくりで話は終わった。
「では、ヴァンパイアは退治されなかったのですか?」
コーデリアが問う。
「ああ。私がいた時は殺人事件がなくならなかったからね。私が町を去ってから、その町の出身者と話をする時があったが、結局、町は廃れてしまったらしい」
「恐ろしい話ですね」
コーデリアは恐怖した。彼の話が本当ならば、そんな恐怖がこの村に起こっているということである。
「それで、ヴァンパイアはどんな奴だったの?」
幼い男の子が興味半分、恐怖半分といった様子で元旅人に尋ねる。
「それがな、正確に姿を見た者はほとんどいなかったみたいなんだ」
男の話に「な~んだ」といった様子の男の子。しかし、男の言葉は終わらなかった。
「だが……私は……実はヴァンパイアを見たことがある」
男は顔を伏せて話し出した。
「え!?」
驚く聴衆達。無論、神父やコーデリアも例外ではなかった。
「はっきりと見た訳ではないが……」
男の話に皆、沈黙し耳を傾ける。唾を飲む音まで聞こえた。
「後ろ姿を見た。―――何というか、全身黒ずくめで帽子をかぶっていたんだ。その気配から一目で人間ではないと分かったよ。急いで教会まで逃げたが、あの振り向いた時に僅かに見えた赤い瞳は忘れられない」
男は急に震えだした。それ以上は話が出来ないようなのでヴァンパイアの話はこれで終わりとなった。
彼の話が終わると話のネタがなくなったのか、信者達は帰って行った。彼らを見送ると、コーデリアは散歩に出かけた。
この地域大きな町があり、町には貴族達が住んでいる。そして、町を出た所に村があり、村はずれにコーデリアと神父が住む教会があった。
コーデリアは「今日は村を見て回ろうと思い、村の中心部の牧場の方へ出向いた。
村の牧場に人だかりが出来ていた。牧場で、家畜が骨と顔の一部だけを残して放置されていたらしい。
「またか……」
牧場主は頭を押さえていた。野次馬達の話に聞き耳を立てると、おおよその内容がつかめた。
ここ最近、家畜が襲われているそうだ。牧場主にとって家畜は財産なので、自分のお金を奪われるに等しい。彼が唸っているのも頷ける。とそこでコーデリアは今朝の話を思い出した。
(そういえば、ヴァンパイアによる人や家畜の被害が出ているという話でしたが――)
考えていると、野次馬の一人が叫んだ。
「ヴァンパイアだ!! ヴァンパイアに違いない!」
叫んだ男は両手で頭を押さえて、不安がる。
一人の男の叫び声が不安を煽ったのか、一気に人々の恐怖心を刺激した。
「ヴァンパイア!? どうしましょう!」「俺達は殺されるんだ!」
野次馬達はパニックになっていた。このままではいけない。そう思ったコーデリアは人々の前に出た。
「落ち着いてください。私は神に仕えるものです。私がこの場を清めます」
名乗り出たのが修道服からシスターだと分かると人々は少しばかり落ち着いたようだ。
コーデリアは家畜の死骸に聖水を掛けると、十字を切り、祈りをささげた。シスターの行動でヤジ馬達は完全に落ち着きを取り戻した。コーデリアの手を取って感謝する人もいた。
その場で聖書を読み、教えを説くと聴衆達はそれぞれ帰って行った。
「ありがとう。何とかなりそうだよ」
牧場主もコーデリアに感謝した。しかし、この幼いシスターは牧場主の言葉を遮った。
「今のは気休めにすぎません。私自身、ヴァンパイアと出会ったことがないのです。ですから、警備の人を雇ってください。もし、それでも、被害が収まらないのでしたら、また呼んでください」
そう言って、コーデリアは牧場主に十字架を渡した。
「ああ。何とかしてみるよ」
牧場主もコーデリアに頭を下げてミルクと干し肉を渡すと、持ち場に戻って行った。
一通り、村を見て周るとコーデリアは教会に帰った。
出迎えた神父に牧場でもらった食料を渡し、部屋に戻った。
「今日はヴァンパイアの話が怖かったです。でも、明日も頑張りましょう」
夜空を見上げて独り言を呟くコーデリア。ちょうど雲から細い月が顔を出していた。
翌日も早く起きると神に祈りをささげる。この日は早くから教会に人が来ていた。
「熱心な人がいるな」と思っていたが、どうやら祈りに来たわけではなさそうだ。
「すみません。食べ物をください」
その人達は食べ物を恵んでもらいに来たようだった。教会は神の教えを説く以外にエクソシストとしての役割と恵まれない人々を助ける役目もある。それは身寄りのない子供を引き取ったり、貧乏な人に食べ物を施したりといったものだ。しかし、今は教会が食べる者にも困る時代。流石の神父も少し渋っていたようだが、コーデリアに見つめられて、僅かずつ食料を与えた。
その後、彼らに神の教えを説いたが、彼らは神の教えよりも食べ物の方に興味があったようで、あまりまじめには聞いてもらえなかった。施しを与えた貧民が皆帰ろうとするのでコーデリアがついて見送った。
彼らの背中を見送ると、その近くの物陰に銀色の何かが横切った気がした。
「?」
コーデリアは首をかしげたが、猫か何かだろうと思い直した。彼女はそのまま、町に出かけた。
町はきらびやかだった。町行く人は、皆疲れた顔をしているようだ。無理もない。ここ最近は不景気ばかりで、国も安定していない。
しばらく歩いていると、警備の者と思える人達が集まっていた。そしてその中心には死体があった。辺りが血飛沫で赤色に染まっている。今ちょうど、布を被せている最中だった。
「あの、何かあったのですか?」
コーデリアが問いかけた。すると、見物人の一人が答えた。
「実は、ここ最近惨殺事件が増えていてね。この死体もその犠牲者ということさ。キミも気を付けるんだよ」
彼は、この近くで子供達に学を教えているアルフという名の教師だった。彼はコーデリアとも面識はあった。生徒達に人気の教師で、お金のある家は彼に子供達の教師をお願いしているという話だ。彼は忠告を終えると、踵を返して学校の中に入っていった。
コーデリアは犠牲者に祈りをささげながら、またヴァンパイアの話を思い出した。ヴァンパイアは血を吸うために人を襲うらしい。では、この死体はヴァンパイアに襲われたのか?しかし、コーデリアは前に元旅人の男から聞いた話と違うような気がした。その違和感を抱えたまま、彼女は村に戻って行った。
教会に戻って来ると、食事を終えると、礼拝堂に祈りを捧げに行った。都市部の教会ほどではないにしろ、この教会も礼拝堂だけは広く、立派だった。中心に存在するマリア像やイエスのステンドガラスを見つめ、救済を求む。
「最近不穏な空気が漂っています。町も、村も、人も。神様、どうか私達をお守りください」
コーデリアは一心不乱に祈った。
祈りを終えると床に着いた。その日の夜も細い三日月が教会を照らしていた。
次の日も日課の祈りや宣教を終えるとコーデリアは出かけた。しかし、どうも村人は余所余所しかった。まず、表を歩く人は少ない。そして、表を歩く人々も最低限の用事のためにしか出歩かない。外を駆け回る子どもたちもいない。
村の人々は日に日に閉鎖的になっているようだ。それは不景気や疫病、戦争のせいばかりではない。姿の見えない怪物に怯えているのだ。
つい今朝方見つかったと言われる、新たな惨殺死体が人々の恐怖心を殊更に煽った。それも、犠牲者は村の人間で、買い物のために町に出てきた人だった。人々が恐怖するには充分だった。度重なる不幸は疑心暗鬼の元になった。そして、人々の関心は姿の見えない化け物に変わって行った。人々は心の余裕をなくしていた。教会に来る人間達も眼に見えて減っていった。