第十章 孤独の少女
ノエルは、村を抜けてから世界を彷徨い歩いた。
それは大変なことであった。若い女の一人旅ということで襲ってくる男達がいた。幸いヴァンパイアの力で軽く応戦できた。
だが、ヴァンパイアの体も厄介だった。この常人より優れた体には欠点があったのだ。
一つ目は日の光だった。日の光が苦手になってしまったのだ。長く日の光にあたると、体力が削られてしまう。日にあたると、老人や子供のように弱々しくなってしまうのだ。だから、日差しの強い日はフードなどで頭を隠し移動しなければならなかった。曇りの日や夜は快適に過ごせた。
二つ目は血の渇きだった。突発的に血が飲みたくなる。放っておいたら理性を失ってしまう。なので、自分を襲ってくる人間から血を吸ったり、そう言う人間がいなければ、夜道を歩く人を襲う他なかった。そうして彼女は世界を渡り歩いた。もしかしたら、自分の体を元に戻せるかもしれない。もしかしたら、こんな自分を受け入れてくれる人がいるのかもしれない。そう希望を持たなければ生きていけなかった。
しかし、現実は非情だった。先述の通り、ノエルを襲う人間が多く、他にも保護された村で冤罪を掛けられたり、不老不死が裏目に出て迫害を受けたりした。その度に逃げだして拠点を変えたが、逃げた先でも人の悪意に晒された。
「またこれか……」
度重なる苦難が彼女の清く純粋な心を汚していった。それは人間的に成長したと言い変えられるのかもしれない。彼女の長い人生は、彼女にとって苦痛でしかなかった。何度も自害しようとしたが、不老不死の体がそれを許さなかった。
世界を周ってみたが、彼女の待遇は変わらなかった。襲ってくる人、騙す人、怯える人、彼女の周りには大きく分けてその三パターンの人間しかいなかった。希望は粉々に打ち砕かれ、彼女は惰性だけで生きていた。
そんなある日、ノエルは大きな街に来た。途方もない長い時間を生きている間に、文明は発展していたようだった。彼女が行きついた街は華やかだった。〝教会〟という宗教施設を中心に築かれたその街は、 彼女が今まで見た街の中で一番発展していた。
酒屋で情報収集をすると、どうやらキリスト教と言われる宗教の布教のためにこの街に拠点を置いた布教者がいたらしい。その宗教の名は旅の途中でよく耳にした。ノエルが気になったのはその後の情報だった。この街に来たその布教者は奇跡の力で、老いることがない男だったそうだ。
「老いることのなかった男? アイツの事かしら……」
ノエルの頭にかすめたのは、あの村を滅茶苦茶にしたドムナルと言う男だった。自分をヴァンパイアにした人物でもある。老いない男と言うと、ヴァンパイアであるドムナルしか心当たりがなかったのだ。ノエルはさらに耳を澄ませる。すると、衝撃の情報を手に入れたのだ。
『キリスト教の布教者の老いない男は、数年前に亡くなった』というのだ。
「あの男が死んだ? どういうことなのかしら?」
ノエルは驚いたが、ますます興味をそそられた。もしかしたら、ヴァンパイアの体を人間に戻す方法があるのかもしれない。そうじゃなくても、ヴァンパイアのままで死ぬ方法があるのかもしれない。彼女が旅に出て、はじめて有意義な情報を手に入れたのだ。ノエルは、その男の家を訪れることにした。
そこは、立派なお屋敷だった。先程得た情報では、亡くなった男の妻と子共達が住んでいるらしい。扉をノックする。
「ごめんくださ~い」
「は~い」
女性が扉を開けてくれた。二十代後半くらいの優しげな女性だった。
「あらあら、可愛らしいお嬢さんね。こんな夜更けにどうしたの?」
「……私、旅をしていまして、今晩泊めていただきたいのですが……」
ノエルは努めて弱々しく言った。このタイプの女性は、弱い人間を装えばすぐに同情してくれるはずだと思ったのだ。まして、教会の主宰の妻となれば、不幸な人間を受け入れなければ、世間体に悪くなる。そこまで理解しての演技だった。
「あらあら、それは大変。空き部屋があるから今晩はゆっくりしましょう。それから身の振り方を考えましょう」
思ったとおり、彼女はノエルを受け入れた。客間に案内された後、彼女はお茶を入れようと席を外した。客間で静かに待っていたノエルを彼女の子供達が覗いていた。
「……だあれ? 綺麗な人……」
「お客さんかな?」
小さな男の子と女の子の兄妹が珍しそうにノエルを見ていた。ノエルは、その二人にかつての友人の面影を見た。
「……いけないわ。あの人が生きている訳ない。もう何年も経っているのだから……」
首を振り、頭に浮かんだ懐かしい人物を消そうとする。そうしていると、子供達の会話がまた聞こえてきた。
「あのお姉ちゃん、お父さんと同じ眼をしてる……」
「真っ赤だね……」
ピクッっと眉を動かすノエル。
(考えてみれば、この子供は、あの忌まわしい男の子かもしれない……)
ノエルは無言で立ち上がると、子供達の方へ近づく。子供達に手を伸ばそうとしたその時、未亡人の女性がノエルに声をかけた。
「お茶が入ったわよ。今晩は寒かったから温まって。……貴方達! 今日はもう遅いから寝なさい」
女性が子供達を寝室へ連れていった。しばらくお茶を飲んで待っていると、女性が戻ってきた。
「ごめんなさいね……」
「可愛いお子さんですね。やはりご主人との間の?」
「ええ。主人は子供を作る気はなかったのだけど、私が無理言ってね……」
(やはり、あの男の……)
「そう言えば、貴女の名前を聞いてなかったわね」
「あ、ノエルと言います……」
「――! ノエル!?」
未亡人は、ノエルの名を聞くと大層驚いた。そして、ノエルの姿を舐めるように見ると、その特徴を捉えて、呟いた。
「銀髪に、整った顔立ち、真紅の瞳、ノエル……」
「あの、どうしたのですか?」
「……あなた、ロッシュという人を知ってる?」
「!」
今度はノエルが驚いた。あれからもう何百年と経っているのに、懐かしい名前を聞いたからだ。
「――古い友人の名前ですが、それが何か?」
「やっぱり!」
未亡人は喜んだ。不思議に思っていると、彼女が驚くべき事を言った。
「わたしの死んだ夫の名前、ロッシュって言うのよ……」
「!」
ノエルはさっきより驚いた。だがその言葉から色々な事を悟った。自分がドムナルだと思っていた老いない男は、何らかの理由でヴァンパイアになったロッシュだったのだ。あの子供達に彼の面影を感じた理由もわかった。ノエルが情報を整理していると、未亡人が話し出した。
「ロッシュとはね、15年くらい前に知り合ったの。彼がこの街に来てね。その頃、この街は衰退していたのだけれど、彼が宗教と一緒に色々な技術も伝えてくれたおかげで復興したの。彼の宗教は人々の心を救い、彼の技術は現実的な問題を解決してくれたの。それで、当時街の顔役だった父が彼に感謝し、私も彼と付き合うようになった」
「……そうなのですか」
「私は彼が好きだったけれど、彼は私を見てくれなかった……。何度も告白を断られてね。理由を聞いたら、あなたの事を話したの……」
「私の事を……?」
「ええ。『自分には好きな人がいる。その人を傷つけてしまった。私は人に愛される資格はないが、愛する人は生涯でただ一人だけだ』って言ってね」
ノエルは眼を見開いた。未亡人が話を続ける。
「私はね。それでもいいって言ったの。愛する人がいるなら、その人が貴女に会いに来るまででいいから私と一緒に言ってほしいって……一緒にその人を待ちましょうと言ったわ」
沈黙が流れた。未亡人がノエルに話しかける。
「ノエル、あなたがヴァンパイアであること、ロッシュと貴女の間に何があったかは彼の口から聞きました」
そう言って、彼女は近くの引き出しから手紙を取り出し、ノエルに渡した。
「生前の彼から、貴女に会えたら渡してほしいと言われていたの……」
ノエルは黙って手紙を受け取った。手紙を広げて黙読する。
『親愛なるノエルへ
この手紙を呼んでいる頃には僕はもう生きてはいないだろう。あの日から、僕は傷つけてしまったキミへの懺悔をする毎日だ。
キミが村を抜けてから大変だった。あの男、ドムナルが村の実権を握ってからやりたい放題だった。反発する者は殺し、恭順する者はヴァンパイアに変えて村が壊れていった。
僕はと言えば、キミに裏切られたと思い込んで引きこもってしまったんだ。父の言葉で、キミが僕を裏切った訳ではない事はわかったが、全ては手遅れだった。キミのお父さんを支持していた皆は殺されてしまった。僕の父を含めて……。そして、僕は奴に生かされた。殺してくれと懇願する僕をヴァンパイアに変えて『苦しみながら生き続けろ』と言ったんだ。何度も死のうと思ったが、死ねなかった。これはキミも分かると思う。
僕はキミにもう一度出会うために生きることにした。会って謝るために。
僕はキミに憎まれて当然のことをしてしまった。あの夜、キミが生き血を渇望した理由も今はわかる。あの欲求は三大欲求よりも強い事を身をもって知ったよ。キミに対して、本当に最低な事をしてしまった。
僕は世界を旅している間に、色々な事があった。人々に悪意を向けられた事は数知れない。それにドムナルによってヴァンパイアに変えられた、かつての村人が様々な蛮行を行っているのを見つけることもあった。その度に僕が彼らを止めた。理由は分からないが、ヴァンパイアの中には死ぬ者もいた。稀にヴァンパイアを殺した男の話も聞いた。結局、ヴァンパイアを殺す方法を完全に見つけることは出来なかったが……聖水と十字架に弱いということだけはわかった。僕は己を殺す術を得ることが出来なかった。
僕は生きることが辛かった。様々な出来事が僕を追いこんだ。そんな時、とある宗教にであった。罪悪感で壊れそうだった僕を救済してくれたその教えに感銘を受け、この宗教を布教することにした。その間にキミに出会える事を祈ってね。結局会えなかったが、こんな僕を好いてくれる女性に出会った。良い人だが、僕は君の事を忘れられなかった。
色々あって結局、彼女との結婚し、子をもうけることになったが。幸い、子供達はヴァンパイアにはならなかった。キミに対しても彼女に対しても申し訳ないと思う。だが彼女にこの手紙を託した。運が良ければ、彼女からこの手紙を受け取っていると思う。もしそうでなくても、僕の子孫からこの手紙を受け取っていると思う。
ノエル、遅くなったけれど言わせてください。ごめんなさい。そしてありがとうございました。あなたと過ごした楽しい思い出が、昨日のことのように思い出せます。一緒に畑を耕した事、野原を走り回った事、村の有事に際し共に知恵を絞った事、将来を誓い合ったこと。
貴方と過ごした思い出が、数百年の孤独の中で私を照らす光でした。僕は貴女の事を心から愛していました』
手紙を読みながら、ノエルは泣き出してしまった。零れる涙を止める術がなかった。その涙には色々な意味があった。ロッシュが自分を好きでいてくれた嬉し涙とドムナルから村を救えなかった悔し涙、ロッシュと僅差で再会できなかった悲しみの涙であった。ロッシュが残した手紙も所々、涙で文字が滲んでいた。手紙の内容は、しばらく事細かにロッシュの人生と、ノエルへの想いとノエルの謝罪が続いていた。そして、手紙の最後はこのように綴られていた。
『私は、罪深い私を愛してくれる人を見つけることが出来ました。彼女と共に生きることで私の何百年もの苦しみが癒えた気がします。ノエル、あなたが今を幸せに生きているのなら、謝罪の言葉以外に言うことはないです。しかし、今を苦しんで生きているのならどうか諦めないでください。罪深い私ですら愛してくれる人が見つかったのだから、優しい貴女に見つからないはずがありません。例え今はいなくても、必ずそう言う人が現れます。未来を信じてください』
ノエルは涙で何も言えなくなった。そんな彼女をロッシュの妻が慰めた。一通り泣き明かした後、ノエルは未亡人に尋ねた。
「ロッシュは何故死んだの?」
「私にも、彼自身にもはっきりとした理由はわからないわ。ただ、ヴァンパイアは不老不死の筈。その不老不死の例外にあたることを偶然彼がやってしまったのかもしれない」
「血を飲まなかったの?」
「いいえ、彼は密かに信頼のできる人物に血をもらっていたわ。私も彼に血をあげていた一人よ。それに、彼が村を出る前にヴァンパイアにされた村人が血を飲む事を拒み、発狂して人を襲うだけの怪物になったのを見たらしいから。血を飲まないだけなら少なくとも死なないわ」
「そう……」
彼が死んだ訳は結局分からなかった。しばらく静寂があたりを支配したが、婦人が意外な提案をしてきた。
「ねぇ、あなた、ここで暮さない?」
「え?」
「ヴァンパイアが迫害されることは主人から聞いたわ。あの人も司祭になるまで苦労したみたいだから……。だから、貴女さえよければ、一緒に暮さない?」
「……いいの?」
「ええ。子供達もあの人が死んでから心細かったみたいだし。あの人もそれを望んでいると思うわ」
婦人が気を利かせてノエルを客室に案内し、一人にしてくれたのだ。その日、ノエルは数百年振りにぐっすり眠れた。
それからしばらく一緒に過ごす事になった。街の人はロッシュの友人という事で、ノエルを受け入れてくれた。ノエルも久しぶりに人間との触れ合いを楽しんだ。
「ノエル、コレを貴方に返すわ」
ある日、婦人がそんなことを言ってきた。差し出されたのは村にいた時、漠然と将来を誓い合った時にロッシュに渡した手作りの指輪だった。ノエルはまだ彼がこれを持っていた事に驚いたが、首を横に振った。
「それはロッシュにあげたものだから……。ロッシュの子孫であるあの子たちに受け継いでほしい。私と歳を重ねることはできないけれど、せめて彼の子孫たちの行く末を見守っていきたいから……」
ノエルはロッシュと婦人の子供達を見てそう言った。
「そう、あなたがそう言うなら、そうするわ」
婦人はそれ以上言わなかった。指輪はネックレスのようにして子供の首にかけることにした。一人だけでは可哀想なので、もう一人にも同じ指輪を作ってあげた。かつて愛する人に作ったときと同じように――。
ノエルはロッシュの残した家族と共に協力し、日々を生きていた。ロッシュと言う老いない人物の前例があるため、皆ノエルに優しくしてくれた。ノエルは日々の生活の中で人間の優しさを思い出していた。ロッシュの妻だった夫人は年老いていき、子供達は大人になり、結婚した。ノエルは、そんな彼らの様子を微笑ましく見守っていた。
「いつまでも、こんなうれしい日常が続けばいいのに……」
しかし、人間の善意は人間の悪意によって粉々に砕かれた。戦争が起きたのだ。それによって街は焼かれた。栄華を極めたその街は一夜で荒野へと変わった。人々は命からがら逃げ出した。
ロッシュの妻であった婦人が兵士に殺された様を見たノエルは、彼女の子供達を庇って簒奪者達の足止めをした。
「ノエル姉さん! 一緒に行こう!」
「姉さん、お母さんもそれを望んでいるはずよ!」
必死にノエルを呼びとめるロッシュの子供達を、ノエルは遮った。
「貴方達は早く逃げるの! それが貴方達の母親が望んでいる事よ! 今は自分の家族のことだけを考えなさい! 今までありがとう。楽しかったわ。せめてもの恩返しがしたいの」
そう言って彼らを無理やり逃げ出させた。最後に彼らを一瞥した時、彼らの首にかかった指輪が光ったのが見えた。
ノエルは簒奪者から子供達を守るために戦った。彼らもノエルが普通の人間ではない事に気付き、しばらくしてから逃げていった。
「人を殺めるのは初めてではないけれど、慣れないものね……」
返り血を浴び、白いドレス服が真紅に染まるくらいノエルは戦ったのだった。ノエルは落ち着くと、婦人の亡骸の側に寄った。
「あなたの愛する子供とその家族は逃がしたわ。これで義理は返せたわね……」
ノエルは号泣した。ロッシュの手紙を読んだ時と同じくらい泣いた。優しい人は死んでしまう。人の悪意によって殺されてしまう。ようやく見つけた安息の地と心を許せる人もいなくなってしまった。ノエルは親友の死と共に自身の境遇を改めて嘆いた。ノエルは村はずれにあるロッシュの墓の横に婦人の墓を作った。
「同じ人を愛したからね……。あなたには幸せになってほしかった。せめて天国でロッシュと再会できる事を祈ってるわ……」
ノエルは二人の墓前でそう言うと、どこへともなく歩いていった。