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空き缶世界論

SFです。よろしくお願いします。

 たとえば世界とは、この缶の飲み口みたいなもの、と西崎は言った。

 雨に降られ、周囲は年季の入ったフィルムを想起させる灰色に覆われている。トタン屋根の、今にも灰色に押し潰されそうなバス停に僕らは背を向け合って立っている。幸いなことに、雨が本降りになる前にバス停に逃げ込めたのはよかったものの、壁の如く視界を塗りつぶす雨に行く手を阻まれてもう三十分が経とうとしていた。昔の体温計みたいな形をした時刻表の標識に目を向けるも、バスが来るまであと一時間はある。それまでの間を持たせようと、バス停の脇にある自販機で二人分のジュースを買ったのだが、それを西崎に渡したところ、先ほどのような奇妙なことを口走ったのである。

「世界が、なんだって?」

 僕は聞き返す。西崎はプルタブを爪で弾きながら、まだ空けていない缶の淵をなぞった。

「世界が缶の飲み口と同じ、と言ったの。世界は円環。何度でも繰り返し、繰り返されていることを当該の生命体は理解できないけど、またスタート地点にいつの間にか戻っている。それを幾度となく繰り返しながら、世界はあるべきルートを模索する」

 西崎は長い黒髪を払った。ついていた水滴が空中に舞い、やがて霧散した。

 西崎――下の名前は知らない――は、僕のクラスの中でも目立たない部類の女子だった。いつも本ばかり読んでおり、話しかける友人もいないようだ。長い黒髪は珍しかったが、誰もそれを話題に上げて彼女に話しかけようという酔狂な人間はいない。端的に述べれば話しかけづらい。まるで見えない防御膜を張っているように、彼女が歩けば誰とも知れず道を譲った。

 西崎がそんな部類の人間だから、僕も西崎に話しかけようなんて思わなかった。今、一緒にいるのは帰り道が偶然重なっただけだ。僕が最初にこのバス停を見つけ、雨宿りすると西崎もバス停に入ってきた。こうして気まずい沈黙の空間は完成したのである。この雨の中、びしょ濡れになってでも西崎と離れる手はあったが、生憎なことに明日は学校の恒例行事、いわゆる卒業式という奴だった。僕は卒業しない。卒業するのは一学年上の人たちだったが、下級生数人は卒業式に参加しなければならない。運悪く、僕はその数人のひとりだった。なので制服を台無しにするわけにはいかない。卒業式には下級生も制服で迎えることが義務になっている。ジャージで代用、というのは許されないだろう。西崎は卒業式には出ないはずで、ならばここを出るのは西崎が適任であるはずだが、女の子をどしゃ降りの雨の中帰らせるわけにはいかない。それくらいの良識は僕も持っている。とはいっても傘も持っていない僕は、その役目を果たすことが出来ないのだけど。なので、バスが来るまで気まずい沈黙を持て余すことになった僕は、せめてその緩和のためにジュースを買ったのだが、それが思わぬ呼び水となった。

 西崎が話しかけてきた。しかも、僕の知識では及びもつかないことを唐突にだ。西崎は缶を空けずに、淵を指でなぞっている。その指から西崎の横顔へと僕の視線は移った。月並みな表現だが、陶器のような白い肌とはこのようなことを言うのだと思った。切れ長の眼は涼しく、完成された芸術品か何かのようで何だか近寄りがたい。きっと、それが西崎を覆っている防御膜のひとつなのだと僕は思いながら、とにかく何か言葉を返さなければと血の巡りが悪い頭の中で考える。口の中がやけに渇いている。西崎は先ほど何と言ったか。もう思い出せない自分の頭の出来に苛立ちつつ、そういえば世界が円環しているといったのだ、とようやく思い返す。頭のおかしい奴だ、という言葉が先に立ったが、もちろんそんな言葉を発して余計に空気を悪くするようなことはしたくない。僕は先に空けたジュースから水分を補給してから、口を開いた。

「お、面白い発想じゃんか。西崎、ってそんなこと喋るんだ」

 声が上ずってしまった。気恥ずかしさを覚えつつ、西崎の様子を窺う。西崎は僅かに僕の方へと目を向けてから、小さな唇で言葉を紡いだ。

「喋るわよ。人間なんだし」

 にべもない、とはこのことだと思った。僕は何かを反射的に言いかけて、口を噤んだ。この場合、怒ってもいいのだろうか。僕は戸惑いながらも、何とか間を持たせる言葉を探す。

「いや、世界が円環しているだっけ。そっちだよ、そっち。なんかスゲーっていうか。西崎っていつも本読んでるからさ、そういうの思いつくの?」

 質問すれば間を持たせられると思ったのだ。だが、西崎はどこか警戒するような目を僕に向けてから、プルタブを爪で弾く。ピンと、どこか張り詰めたような鈍い音。それが連続して続き、まるで舞踏のようだなと僕が感じ始めた辺りで西崎は言葉を返した。

「ええ。まぁ」

 たったそれだけの短い返事。期待するんじゃなかった。落胆しつつ、僕はまた時刻表に目をやる。ついで左手の時計に視線を投じる。まだ十分と経っていない。これでは一時間が永遠のように思えてしまうだろう。僕は半分くらいになったジュースの缶を軽くゆすった。こんなことなら半分も飲むのではなかった。やけくそ気味に、こうなったらもう半分も一気に飲み干してやろうか、と思った時、潜めたような西崎の声が耳に届いた。

「……信じてくれるの?」

 意外な言葉だった。僕は肩をすくめながら返す。

「信じるも何も、僕には疑うだけの頭はないよ」

 そう言うと西崎は僅かに顔を伏せた。それが笑ったように見えたのは僕の気のせいだっただろうか。確かめる間も無く、西崎は無表情の顔を僕に向けてきた。真正面に顔が来ると、目鼻立ちが整っている様がよく分かる。それに見とれていると、西崎が声を発した。

「こういう話、すると頭がおかしいと思われるからあまりしないの。大抵の人は、顔をしかめるか、表面上だけで話をあわせようとしてくる。でも、実際には私の話は全く信じられていなくて、彼らは裏では私を馬鹿にしている」

 その言葉に、先ほどの西崎が警戒の目を向けてきた理由が分かった気がした。西崎は僕が表面上で話をあわせていると思ったのだ。頭がおかしいと思ったのは事実だが、この際言わないことにした。

「でも、私は嘘なんかついていない。私だけが感じられる解釈なんだと思う。だから、あなたには理解できないかもしれない」

 西崎が顔を僅かに伏せる。内心で不安を押し殺している、ように見えた僕はおどけたように言った。

「大丈夫だって。僕は、頭はよくないけど、理解しようとはする。端から理解できないとは決め付けたりしないから」

 西崎が上目遣いに「本当?」と問いかける。僕は少しどきりとしながら頷いた。西崎は「それなら」と話し始めた。

「この時間平面は実は繰り返していることを私は発見したの。繰り返しているといっても、それを知覚できる生命体はいない。ハムスターが回し車の中でどれだけ視界が回っても、同じだと認識していないのと一緒。微細な違いによって、それは別の記憶として組み込まれる。つまり、似たような記憶だけど小さな違いによって、それを別の記憶だと思い込んでいるって言うのかな。でも、それは同じ記憶を多重させないために自我のある生物ゆえに組み込まれた防衛本能のようなもので、本当は同じ記憶、同じ場所、同じ時間。ただ観測するタイミングの差異によるもので、それは円環の中を分裂して眺めているに過ぎない」

「……えっと、それってあれだ。ほら、毎日同じことの繰り返しだと、あれ、これって前にもあったな、って思う奴。デジャヴだっけ」

 僕は無い知恵を絞って何とか話に割り込む。だが、僕の割り込みを予期していたように、西崎は淀みない口調で続けた。

「デジャヴ、という考えはそれを違和感だと認識し始めた人間がつけた概念。いわば、それ以上考えないようにするためのストッパー。考えすぎると壊れちゃうから。人間は時間の理に触れすぎると自壊する。原理は分からないけどそういう風に出来ている。多分、自我と時間との擦り合わせが下手なんだと思うけど、それは分からない。思うに、人間の自我っていうのは円環の理から外れるために発明されたものじゃないかな。他の生命体は円環の理を意識しないし、したとしても人間ほどの思考の迷路には迷い込まない。彼らの思考って、予めマッピングされているから。行き先の指定がある地図とでも言えばいいのかもしれないけど。人間の場合は、何の標識もない広大な地図。その広大な空間の中で、指針だと認めるものが円環する時間の断片。それがさっき話した観測のタイミングによる差異。差異を私たちは目印として使っているの。この標識みたいに」

 西崎がバス停の標識を顎で示す。僕は眼球の奥が痛み始めるのを感じて、覚えず額に手をやった。

「時間とは人間にとって標識みたいなもので、それがあるから、ああ、この時間は体感したものだと実感できる。ただ、それが多重すると人間の意識にずれが生じて、既視感に脳が耐えられずに暴走してしまう。暴走した状態を、人は『壊れた』って形容するけど、あれは正確には壊れたわけじゃなくて、ようやく『見えるようになった』っていうことなの。意識の外に置いていた出来事にようやく目を向けることが出来た。つまりは進化。喜ぶべきことなのだろうけど、まだ人間にとってはこの進化は危険みたい。円環の時間に触れることそのものが種族的なタブーになっている節がある。でも、私は違う」

 西崎がプルタブを引いて、缶を空ける。缶を僕の方に差し出して、西崎は続ける。

「私はプルタブになった。円環から抜け出したの。そしてより正確な観測が出来るようになった。そうして気づいたわ、この世界が円環から脱し切れていないことを。だけど、人は円環から抜け出している。いえ、本当に抜け出しているわけではなく擬似的に抜け出したようである、と言った方が正しいかしら。彼らはまだ円環の内側にいながら、自我によって外側に、つまり継続しない時間平面へと移行したと考えている。恐らく、本当に時間平面を抜け出しているのは私だけ。円環の理を抜けた時間の世界って想像できる? そこには何もないの。無の空間だけが茫漠と広がっている。人間はいずれ、その空間にも足を踏み出すのかしら。いつか月に足跡をつけた人間がいたように。でもね、無に耐えるには相当な精神力が必要なの。私にはかろうじてそれが備わっていた。だから、あなたたち円環の内側にいる者たちのこともある程度、傍観を決め込める。そうじゃなければ、介入して私の見たものを……、ああ、でも駄目ね。あなたたちはきっと信じはしない。きっと私の頭がおかしくなったのだと思うことでしょう。本来は私の脳だけ上部構造を認識できるようにシフトしたと考えることも出来るのだけれど、あなたたちにはその認識はまだ追いついていないわ。第一、円環から抜け出したのに私の肉体は円環の中にあることが不思議だものね。円環の外に行けるのは意識だけみたい。多分、今の人類のこれが限界なんでしょう。肉体を捨て、意識だけの世界に旅立てるのは死者だけみたいね。でも、私には死者が見えるわけじゃない。むしろ、そんな陳腐な世界だけじゃないわ。私には、死者世界、あなたたちの生きるたんぱく質と物質にまみれた世界、そして八の字構造、メビウスの輪と言ったかしら。そうなっている時間軸が、多元的に重なって――」

「もう、やめろ」

 僕はうめいていた。今にも脳が引き千切れそうなほどに痛い。西崎は驚いたようだが、すぐに平静を取り戻して、どこか悲しげに言った。

「そう。あなたはまだ円環の内にいるのだったわね。じゃあ、無理ね」

 西崎は奥にある寂れたベンチにジュースの入った缶を置いた。その時、バスがやってきた。西崎はバスに乗り込む間際、僕に言った。

「ジュースありがとう。じゃあね」

 バスのドアが閉まり、西崎を乗せたバスは緩やかに発車する。

 僕は額を押さえたまましばらく動けなかった。心臓が脳に移動したみたいに、掌が鼓動を感じている。その鼓動が爆発寸前まで激しく脈打っていることに気づいた。僕はベンチに座り込み、しばらくトタンの天井を眺めた後、西崎の言ったことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。何が円環の理だ。結局は妄言じゃないか。西崎は、誰とも話さずに本ばかり読んでいるからそんな妄想に取り付かれるのだ。僕は乾いた笑いを上げた。西崎の論理は穴だらけだ。何も根拠がない。下らない。僕は立ち上がり、雨の降りしきる世界に目を向けた。すると、灰色の世界の中に影が揺らめいた。その影は紙に浮いた墨汁の染みのように広がり、人の形となった。僕の兄だ。どうやら、母から迎えに来るように頼まれたらしい。兄から傘を受け取り、僕は兄と並んでバス停を立ち去ろうとした。その時、不意に首筋に刃を差し込まれたように違和感を覚えた。その違和感の命じるまま、僕は口を開いていた。

「ねぇ、こんなことって前にもなかったっけ」


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