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ディビッド・レオン シリーズ   調査

作者: 社岩家難

   っぽい仕事


 皆さんは探偵業と聞くとどんな仕事をしているところを思い浮かべるのだろうか?謎多き殺人事件を解決するために自分の推理を自慢げに話しているところ。それとも、こそこそ隠れながら浮気調査をしているところ。これは人それぞれだと思うが、きっと探偵を生業としている者なら後者を選ぶだろう。なぜか、それは我々緋色探偵事務所は全員後者を選んだからである。この話はよくある仕事から思わぬ方向に進んでいった依頼のことについて記録したいと思う。


 依頼が来たのは十月。外は秋の木がその顔を紅潮させ、風が肌寒くなってきていた。依頼人は探偵事務所が開く午前九時半ピッタリに来た。

「すみません。ここの探偵事務所の噂を最近よく耳にするのですが、殺人事件でないと引き受けてもらえないのでしょうか?」開けたばかりで我々は突然の来客に驚いたが、入り口にいた姫子が対応した。

「いいえ、そんなことありませんわ。どのような依頼でも大丈夫ですよ」

「あぁ、よかった。新聞で最近見て知ったのですが、どちらの事件も殺人事件だったものですから」女性の引きつっていた顔は少し和らぎ、声の震えもとまったようだった。

「そういうことでしたか。ではレオン君案内して」

「どうぞ、こちらです」私はいつも通り応接間に案内した。女性は背が低くて痩せ気味、黒の長い髪は傷んでいて、顔や腕など服で隠れているところ以外は青あざがあることが見てとれた。疲労が溜まっているのは誰が見てもわかるような目の下のクマの持ち主だった彼女は、今でもはっきりこの時の様子を思い出せる。これはあくまで私の持論なのだが、この手の依頼人、というか被害者は美人の割合が他の事件と比べても高い。というのも、こういった女性は幼いころから親や保護者に虐げられ、美しくないと洗脳されて育ち、そんな教育の環境のせいなのか大人になって自由を手に入れても、いわゆる「男を見る目がない」というか、親と似たような男を簡単に信用して一緒に歩むことを決めてしまったが故に同じような生活を続けてしまう場合が多いからである。またそれ故、そういった生活が「普通の生活」と思っている。普通の定義とは非常に難しいものであるが、これが普通であってはならないということは私にもわかる。

「今日はどういったご用件で?」

「えぇ、聞いてください。もう私は限界なのです。あぁ、どうしたらいいのでしょうか。私は真美と申します。はい。えぇ、石田真美です。今日ここに来たのは夫のことについてなのです。浩さんはお付き合いしていましたころはとても優しい紳士だったのですが、えぇ。結婚をしてから一年が経った頃から態度が急変しまして、酒癖が悪くなり、言葉遣いも悪くなって、最近では私に暴力を振るうようになったのです。挙句の果てには浮気ですわ。でもこれが確証がないので調べてほしいのです。それが分かれば別れるつもりなのです。どうか力をお貸しください。あぁ、こんなことを考えるなんてもう私は変になってしまったのでしょうか。私には浩さんが変わるような出来事は思い浮かびませんし……はぁ」彼女が涙ぐみながら話した内容に、姫子がひどく感情的になってしまい、普段なら私とゴールド君の二人で調査しに行くところを自分も行くと言い張って聞かなかったので、三人で行くことになった。

 調査対象の夫の職場付近に着くまでの間、我々は奥さんから詳しく話を聞くことにした。

「奥さんは主婦なんですね?」

「えぇ、結婚するまでは同じ職場で働いていたのですが、夫が主婦になってほしいと言うので」彼女はそう言うと表情を曇らせた。

「どうやら奥さんは職場に浮気相手がいるとにらんでいるようですね」

「はい。ここ最近出勤する時間が早くなっていますし、帰りも遅くなっているのです」

「しかしそれだけではただ忙しくなっただけかもしれませんしね」そんな何気ない一言をぼそっと言った後、姫子が恐ろしい表情でこちらをにらんでいることが見なくとも感じとることができた。

「お子さんはいらっしゃいますか?」

「いいえ」

「本当に思い当たる節はないのですね?」

「えぇ」

 と、そうこうしているうちに夫の職場付近に到着してしまった。

「あれが夫の職場です」この辺り、私たちの探偵事務所がある海辺通りは再開発が活発に行われており、最近改築されたのか、新しいコンクリートの外観の建物を指さしながら彼女は言った。

「二階が夫のいる職場です」

「では向かいの建物の二階から観察させていただくことにしましょう」我々は道路を一本挟んだ、十数メートル離れた向かいの建物の二階にある建築会社の強面社長に無理を言ってなんとか調査の場所を確保した。こういう時の姫子ほど頼りになる人はいない。巧みな話術と生まれ持ったその美しいアドバンテージで性別に関係なく五分もあれば相手の懐に入るのだ。


 我々は観察を始めた。調査対象の周りに女性はおらず、どこか孤立している様子さえうかがえた。その夫は黒いスーツを着て、眼鏡をかけている表情は暗く、顔はひどくやつれていた。腕も細く、腹も出ていなかったし、スーツもどこか貧相に見えた。私が依頼人の話から想像していた外見とはほど遠く、華奢で、何かに絶望しているような夫を見て、私はある考えを巡らせていた。

ほどなくして夫の会社は昼休みの時間を迎えた。夫の観察にさらに集中したが夫に変化はなく、同じくさえない表情でどこかに移動する様子もうかがえなかった。夫は席で依頼人が作ったと言う食事を済ませた。その後三時間ほど経った午後四時頃、私は口を開いた。

「奥さん、この様子だとまだ何も分からないので、我々はこの後も調査を続けますが、奥さんがこのまま一緒にいるのはまずいです。帰ったときにいつも通りでないと怪しまれますので。今日は我慢できそうですか?我々の事務所に逃げることもできますが……そうなると」

「えぇ、わかりました。あなたがたに相談できただけでも救われました」彼女はそう言いながら、顔からは不安な表情が全く消えていないことが窺えた。それどころか、どこかイライラしている様子さえ垣間見えたような気がした。

「では、明日また事務所においでくださいますか?」

「はい。わかりました、どうかよろしくお願いいたします」彼女はいつも通り夕飯を作るために帰宅した。

「対象の仕事帰りを尾行して何か探るんだね?」彼女の姿が見えなくなってからゴールド君が口を開いた。

「その通りだよゴールド君。慣れてきたみたいだね」

「ははは、そうだね。で、彼女にはああ言っていたが本当に何も分かっていないのかい?君のことだからもう何か推理し始めているんだろう?」彼は得意げな顔でそう言ったが、私は確かに考えを持っていたものの、予想していた状況ではなさそうだったので、自信を持てずにいた。そんなことを考えていたら少し黙ってしまって、静かになってしまった。

「珍しいわね、あなたが悩んでいる様子をみせるなんて。まぁでも確かにこの状況は珍しいわ。職場の雰囲気からして奥さんのにらんでいた浮気相手もいないようだし、あの男はあの男で様子が変だし」

「そうだね。夫が酒におぼれて妻に暴力を振るうようになり、妻が浮気調査の依頼を我々探偵、警察に頼みに来る場合、大方妻の読みは当たっている。しかし……何かわかったのかい?ゴールド君」ゴールド君の表情が明るくなったことが横目に入った。

「対象は職場ではなく別の何かが原因のストレスを感じていて、それで家庭で暴力を振るっているのではないかな?浮気も、本当にしているならストレスを妻への暴力で発散する必要もないだろうし……」

「そう、おそらく浮気ではないと思う。でもその先は分からない。僕らがここで調査を開始してからもう何時間も経っていて、昼休憩も挿んだというのにまだ誰とも会話していないんだ。ストレスの原因が職場なのか、それとも帰宅途中に行くどこかなのかは今から明らかになることだろうから」ゴールド君にはそう説明したものの、私の*総合的推理の結論の選択肢は増え始めていた。

(シャーロック・ホームズが作中で言う、未来へ推理を働かし結論を出すこと。緋色の研究抜粋)


 そんな会話が終わって一時間ほど経った頃、調査対象の職場に動きがあった。

「中に誰か入って来たわ。みんなに挨拶されているから課長あたりかしら」

「付き人が三人もいるから社長だろうね。それよりその後に入ってきた男が気になるな」

「あの何人かと立ち話している男ね?どうかしたの?」

「彼と話している男の中に対象の席の両隣がいるんだ」

「それがどうしたって言うの?」その時私は姫子がだんだん顔を赤くしていっていることを確認できた。

「君は今日冷静さを欠いているよ。僕もゴールド君の考えと同じで、対象は暴力を振るっていないのではないか、と推測するよ。配偶者に暴力を振るう人間の典型的なタイプは相手を洗脳する手法を使うんだ。しかし彼の愛妻弁当は非常に早く食べ終わるような質素なものだった。この一流企業に勤めて何年か経っているのだから稼ぎが悪いはずがない。それなのに身なりもどこか貧相だ。さっき言ったタイプは他人からの評価や目線をすごく気にするし、スーツや弁当一つにしても豪勢じゃないという点で、相手を支配できていない可能性が高い」

「じゃあ何?彼女は嘘の演技をしているって言うの?」

「そうなるね。でも依頼人の彼女が暴力を振るわれていないとは言っていない」

「何かわかっているならはっきり言ったらどうなの?」そう言うとゴールド君と私は目を合わせてしばらく黙った。

姫子にいつも通りの冷静さを取り戻させなければならないと思ったし、何より姫子が自分自身で推理して納得しなければこの調子が続くと思ったからである。

姫子は我々の態度から察したのか一つ深呼吸してこちらを仕事の目で見つめた。

「ごめんなさい。レオン君の推理を聞かせて」

「これはまだ誰かに言う段階ではないと思うけど……本当に浮気しているのはもしかしてって思うんだ。依頼人である彼女が浮気をしているのではないか……と。そうだとしたらある可能性が出てくる。浮気相手に暴力を振るわれているというね。その人物に洗脳されて暴力を振るっている人物を夫と勘違いしているか、正常な判断ができていないのかもしれない。じゃないとあの助けを求めに来た顔の説明がつかない。……しかしだ。この推理が怖いのは手がかりが少なすぎて*分析的推理ができていないことと、そもそも浮気相手がいるということも確定していないということなんだ」

(シャーロック・ホームズが作中で言う、ある一つの結果から結果に至るまでの過程を逆推理すること緋色の研究抜粋)

「彼女が包み隠さずすべての情報を僕たちに話し切った印象も受けなかったしね。それでも、レオン君の推理がどこか事実かもしれない以上、僕たちはその線で調査したほうがいいんじゃないかな?推理のどこが事実じゃないかもわかるわけだしね」

「んふふ、ゴールドさんもこちら側になってきてるようで頼もしいわね」

「僕の頭はまだ君たちみたいに推理ができるほど働きやしないよ」姫子をいつも通りの調子に戻すことに成功したと思った我々は、対象のその日の勤務終了と同時に向かいの建築会社に感謝の気持ちを支払ってビルを後にした。八時半になった外は風もなく、私の推理をあざ笑うかのように生暖かい不思議な空気が漂っていた。

 我々は私の推理の事実確認をすべく二手に分かれた。姫子とゴールド君はそのまま依頼人の夫を、私は社長と会社に入って来た怪しい人物のその後が気になり、尾行することにした。男は社内で話していた部下たちを連れて出前のおでん屋に寄り、店の主人と常連の様子で二、三会話のラリーを済ませると何やら真剣な表情で話し始めた。私は勿論、多少の変装をして隣に座って話を聞いた。姫子から学んだこの変装術は、薄毛のカツラをかぶり、頬に少し化粧をすることで酔っているように見せ、小さな穴の開いたコートを羽織り、決して濃くない髭を顎に貼るだけで終わる、全行程二十秒もかからない素晴らしい技なのである。

彼らは他愛もない話と非常に興味深い話をした後、男に代金を払ってもらったおでんのこんにゃくとイモをそれぞれほおばりながら男の帰りを見送った。私はすぐにお代を済ませて彼の後を追うことを継続する。彼は路地に入って最近建てられたマンションに向かった。この時すでに星が綺麗に見えるほど暗くなっていたので十時を迎えたぐらいだった。

そこでまた非常に興味深いことが起こる。彼は女性と入り口で会うと肩を引き寄せて入っていくのだ。入っていったのを確認した後、我々は笑顔でロビーを見つめた。ゴールド君だ。無論さっきの女性は依頼人である夫人である。ゴールド君がこちらを向いて会話を始めようと口を開いたその時、コツッコツッとヒールと革靴の二人の足音が近づいてきていた。気づいた我々は陰から展開を待った。二人はロビーに入っていった。

「どういうことかな?」

「社長だね」

「そしてその奥さん」

「どうやら僕が追った人物は社長の息子。次期社長といったところかな。ゴールド君の方の話が聞きたいな。まず姫子さんを迎えに行って事務所に帰ろう」

姫子と合流して事務所に戻ると、お互いが手に入れた情報を頭に入れる作業に取り掛かった。

「まずレオン君の情報を聞きたいわ」

「うん。僕が追っていたのは対象が勤めている会社の社長の息子。対象の両隣の部下は一日対象の監視をする役だ。対象はリストラの危機にあるようで、僕らからはそういうふうには見えなかったけど大量のノルマを課されているようだ。彼が自発的に辞めるようにいやがらせしているらしい。……ここからはゴールド君も知っていると思うけど、彼は帰り道マンションに入る直前に女と会う。依頼人の真美さんだよ。彼らがどのような会話をしたかが分かるほどは近づけなかったから詳しくはわからないけど、まず男女の関係であると視ていい。何故か、そのあとすぐにマンションに入っていったのは社長夫妻で、その二人の会話から面白いことを聞けたからさ。「あの優子とかいう女さえいなければ……のご息女の園子さんとの縁談をそのまま……というのに、なんで辰雄はあんな憎たらしい女を……あなたもあなたですわ!なんであの女の……」所々聞き取れなかったけど全く問題ない箇所だったからよかった。これでまた可能性が増えた。……多重人格……」

「残念ながら否定できそうにないわ。夫と直接話したもの」

「なんだって!?」ゴールド君の方を睨んでも、彼もまた驚いた様子で首を振った。

「とりあえずは何もなくてよかった」

「何もなかったわけじゃないわ。真美さん、寝ているときに泣きながら「ごめんなさい」と叫んだり、「辰雄さんのお母さんを何とかしないといけない」とか声色もそのたび違っていて、様子が変なのは夫も気づいていたもの。でもそれは結婚から一年が経った半年ほど前なんですって。暴力も振るった覚えはないとか」

「少なくとも彼女は三人の人格を持っていることになった。ということか。夫に暴力の話をするなんて……やっぱり今日の君は焦りすぎだよ」

「でも、これで僕らは早急にこの一連の出来事をなんとかしなくちゃいけなくなったんだ。嘆いてる時間も、説教している時間もないよ。レオン君」

「わかってるよ。多重人格で、夫婦生活をしているのにもかかわらず夜に抜け出す。そんな人だ。明日ここに来るかどうかも分からなくなったんだ。今から急いでマンションに向かうよ!」

 その後は幸い何もなく、朝になって彼女は出てきて我々の事務所に来た。我々は彼女の後ろから声をかけてドアを開け、中に入れた。

「私たちに相談していただきありがとうございます。まずあなたにお聞きしなければいけないことがありますがよろしいですか?ありがとうございます。病院に行ったことはありますか?いえ、ご自分のことでです。ないですか……では、これは私たちだけでは解決のお手伝いにはならないので精神科医の橋本さんに同席していただきます。また質問になりますが……あなたは今、真美さんで間違いありませんか?」彼女にはこの質問だけで十分だった。

「あぁ。あぁ、私。何てことでしょうか」

 その後彼女はひどく取り乱した。というのも過呼吸になり、倒れたのだ。呼吸が止まったりして病院に行ったが、心臓が止まることはなく、意識が戻れば退院できることになった。昼を過ぎ、意識を取り戻して落ち着いた後、彼女は声を震わせながらゆっくりと話し始めた。

 彼女は半年前、不運にも今の居場所を父親に特定されてしまった。この父親は中学を卒業するまで彼女に暴力をふるい続けた張本人である。彼女は卒業と同時に大阪に逃げてきて、今の会社は四社目だったという。そこで今の夫と出会い、結ばれ、幸せを手に入れた。逃げられてから職をなくした父親は娘を探した。金が目的だった。出会ってしまってからは、暴力による脅しで父親の生活費を家から持ち出していたらしい。そんな時、父親は娘の夫を調べており、愛する夫がリストラの危機にあることを彼女に告げる。自分の生活に危機を感じた父親は、彼女に別の男に乗り換えるように命令する。当時夫と別れたくなかった彼女は、共同生活を続けながら社長の息子の辰雄と関係を持つことに成功した。辰雄の行くBARに通ったらしい。優子として。それからの彼女の生きる場所は地獄だったと言う。

「私は多重人格じゃないとはっきり言えます先生。えぇ、片時も自分を。はい、私は井畑美和子。本名です。片時も井畑美和子の意識を失くしたことはありませんわ。つい先ほどまではですけれど。真美の時も夫をだましている意識はありましたし、優子の時もまた然りですです。偽名を使い、ほんの少しの演技を……これはある意味では精神的な病気かもしれませんが、私は自分を殺せると言いますか、えぇ。自分に酔うといいますか、うまくは言えないのですけれど、感情をある程度殺せるのです」

「はい。わかりますよ。大丈夫、誰もあなたを責めませんよ」

「あぁ。先生、探偵さん。本当に。でも彼だけは、父の前では使えないのです。これまでの仕打ちの記憶を、これから待ち受ける恐怖を想像したら。あぁ、なんてことでしょう」

「大丈夫。それは使いすぎるときっとまた今日みたいに倒れることになるでしょう。負担が大きすぎます。心のね」

 彼女は今の夫である浩と別れるように父親から執拗に迫られ、急に言い出すわけにもいかず、誤った選択をしたと言う。それは社長の息子である辰雄に、自分の夫に女性を近づけさせ、それを我々探偵に証拠を押さえてもらい、それを突き付け離婚を迫るというものだった。彼女は限界を迎えていたのだ。高校も大学もろくに出ていない田舎の女性がこの一流企業に入ることはどれほど困難であることか、しかも能力を買われて今でいうヘッドハンティングでの入社だ。想像を絶する苦労もあったはずである。そんな頭のキレる女性が、冷静に考えれば成功の可能性の低いこの案しか思い浮かばなかったのだ。彼女は誤ったと言うが、これが正しい選択だったのだろうと私は思う。このまま生活を続けることは、誰でもわかるだろうが、危険なことだったのだ。

 だが、こうなったのは恐ろしいことに偶然が重なったからなのだ。まず、女性への指示を出すはずだった辰雄氏が社長とともに急な用事で会社にいられなかったこと、美和子さんが使おうとした探偵事務所が近くにある我々の事務所だったということ。そしてダメ押しは予定通りに事が運ばずに焦った美知子さんが辰雄に問い詰めに行ったこと。その辰雄は自分の両親と美和子さんとの食事の場を作ろうとしたこと。我々はこの奇妙なめぐりあわせで一連のことの概要を知ったのである。

 この一連の事件の結末を書こうと思う。

 その後すぐ美和子さんは夫の浩さんと別れる。彼女は賢く、責任感も強い。この案を思い浮かべて実行しようとした自分を許せなかったのだろう。夫への裏切りを。勿論、浩さんもこのことの内容を会社、地元新聞等で知ったわけなので(当時メディアは隠さなければいけない事柄を時として公表してしまうことがあった)美和子さんとの夫婦生活を続けようとしたはずである。しかし結局浩さんは美和子さんへの怒りをもって別れることになるのだ。彼女が浩さんに何と言ったのかは今になっても話そうとしないが、夫に怒りの感情を持たせるような発言をして責任を取ろうとしたのはどれほど辛かっただろうか。

 この事件の元凶である美和子さんの父親はというと、我々が南警部に頼んで罪を償わせると同時に、二度と娘に会わないようにすると約束させた後はわからない。

 ただ、私が知る二つの事実は、今、美和子さんはこの事件によって通わなければいけなくなった精神科に行かなくてよくなったこと、つまり病から立ち直ったということ。

それと、この事件で姫子が感情的になっていたのは顕著に表れていたが、実はいつになくゴールド君の前向きな姿勢が出ていたということだ。発言も行動も探偵だった。つまり、この事件から十年の月日が経った頃、彼は美和子さんと結ばれ、彼女は我々の事務所で事務として働いている。辛い過去の事実を片時も忘れずに自分を戒めながら、ゴールド君という素晴らしい人物と、いわゆる「普通の」幸せな生活をしているということだ。

 この複雑で、繊細な事件は本来公表するべきではない。が、過去に新聞等に記事が出てしまっていたことと、私が事件簿という名の日記を書いていると美和子さんが知ると、自分の事件を書いてほしいと本人からの強い希望があったということの理由により、ここに記すことにする。





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