二十九回目
「ああ、寒い。こうも寒くて、くそみてェに強い風が吹いてやがると、死にたくなるなァ。本当、馬鹿らしくなる。全く、なんで生きてるんだろうな、俺ァ」
「全くだ、今日はずいぶんと寒い」
「寒い寒い、さみぃなんてもんじゃねェよこれは。まるで雪でも降ったかのような寒さに違いねぇ。風が強いのがまた笑えねぇなあ、こんな日には悪い考えばかり浮かんでこれもいけねェ。アー、この風に乗って落っこちて死んでみようかなあ」
「なら死ぬといい。だが俺はここから回収できないし、今日落ちると丸一日は放置されるぞ」
「そうだなぁ、なんで落ちねェのかなあ、勇気がねぇとかそういう問題とかじゃねーンだがな。はァ、なんでこうも今日はさみいかなァ」
「年変えの日だからな、今日は。時期が時期だ、寒いのも当たり前だろう」
「全く、今日は風が強くていけねェや、年変えの日だってのにこんなとこに居る俺達もいけねェなあ。俺もこんな番なんてつまんねェ仕事じゃなくて戦地にでも行けた日にゃ、死にてぇなんぞ考えねェのかなあ、寒くて適わんな、今日は」
「年変えの日に攻めてくる馬鹿はいないだろう。敵だといえやつらも年変えの日はもっぱら宴の最中だろうに、わざわざ俺たちもご苦労なこった。本当、全く無駄に寒いな今日は。だがしかしお前、戦地に行って死んで、それでお前に悔いはないのか?」
「どうだろうなぁ、どうなんだろうなあ、そうならねェ分には何とでも言えりゃァ」
「そうだな。たとえば、家族はどう思う」
「妻に、娘っ子も一人いるなあ、だが娘はまだ手に乗るくらい小せェよ。俺の顔もわからねえ内に俺がこっちに来たもんだから、俺が死んでもあいつは悲しまないね」
「なら奥さんは」
「あいつも強かな女でよ、きっと今頃にゃ俺の稼いだ金でもって新しい男でも作ってるに違いねェや。俺が子供は男が欲しいと言ったのをあいつはまだ気にしていたしなぁ、きっと子が女でも可愛がってくれる柔な男でも捕まえてらァ」
「そうか。しかしあれはずいぶん美しい女だったろう」
「勿体ねえくらいには整った女だよ、器量も気立ても良いとくりゃあ、俺が死んで悲しみにくれる間もなく男どもが群がるに違いねェ。ちっともかなしまねぇなあ、ありゃ」
「お前の両親はもう無いのか」
「この前の年変えの日にはもう死んでやがったなぁ、親父が病気で逝った次の日にゃ、母親はぽっくり追いかけて逝ったよ。ありゃ今でも可笑しいと思うがな、滑稽に笑う暇もなく俺は葬っていたよ。むしろあいつらは上で楽しくやってるだろうから、俺が来るのを喜ぶだろうよ」
「そうか。それにしても今日は寒いな」
「ああ寒い寒い、本当にこの時期は寒くていけねえや。俺達が寒さに泣いて稼いだ金は妻子の懐をあっためて、しかもあいつらは今頃あったけぇ暖炉の前で笑っていられるなんざ、お笑い種だね、本当」
「しかしもうずいぶん寒いのだから、いい加減しゃべるのをやめたらどうだ。俺は先から口が渇いて仕方ない」
「馬鹿言え、口を閉じておとなしくしてろッてか? 俺達は交代が来るまでここに居にゃならん。この風にこの寒さ、なにをするでもなくここにずっと居てみろ、すぐに身体中が凍っちまって交代は俺達の死体を見て慄くだろうよ。何せ丸一日はここで飲まず食わずだ。さみいさみいと泣きながら死んで逝くなんざァ、俺はごめんだぜ」
「お前は死にたいのではないのか」
「そりゃあ、この生に疑問は持ってるし、落ちて死ぬのもありだと思うがな。ここでの凍死はごめんだ。なにせ考えてもみろ、俺達の死体の発見はまず明後日中だ。凍死で死んだ身体は腐敗こそしないだろうが、無残な姿だろうよ。それをお前、ここから村まで運ぶのに何日かかる。交代として来るのは馬二頭に人二人。村から馬を走らせて五日かかる場所を、重たい男二人を番じゃない方が一人で担いで帰る。ンなことしたら、十日経ったって着けるかどうか。その間ここを空けるワケにもいかねェから、一人が残るだろう。残ったそいつは暇をつぶす事も出来ず凍死してみろ、ったく、笑えるものも笑えねえ」
「そうなったらあれだな、この馬鹿らしく意味の無い制度も体制もすべて、上は見直すだろうから、俺らの死は少なくとも役にはたつだろう」
「しかしそんなモンじゃあ、上は隠蔽こそすれど見直しはしねェだろうよ、役にすら立たずにただ死ぬなんざごめんだなァ。なんにしても寒いな。これは困った。風が強くて冷てェや」
「ああ、寒い。そろそろ年変えの時間かな」
「いや、どうだろうなァ、ここからじゃあ月の傾きはよく見えるが、学の無い俺達にゃあれがどの時間なのかわからねえ」
「全くだ。まるでここは陸の孤島だな」
「言い得て妙だが、そりゃァお前、海に浮かぶ孤島のほうがまだ生きる楽しみが沢山あるだろうよ」
「ははっ、違いない。そうだな、口を閉じたら死ぬというお前の言葉に従って、俺も一つ昔話でもしようか」
「おうおう、昔話を話す時間なんざいくらでもあらァ。なにせ丸一日暇とあれば、そりゃあ暇すぎて困るくらいだ」
「俺にはこの年でもまだ妻がいないが、かわいい妹と弟が居てな。そいつらは村のはずれの農家にいるんだが、そこが要するに俺の実家なんだが、二人は寒いのが得意なやつらでなぁ、俺と仲が良いわけでもないのだが、どうにもかわいくてな」
「それは確かに昔話なのか? まるで最近の話じゃねェか」
「そうか。そうだ、違いない。そうだな、昔話か。ああ、あれにしようか。その妹が嫁に出るときの話だ、それは昔だよ、まあそう遠くも無いが、昔話といえるさ。そうそう、その夜がもう御伽噺の一文にあるかのような美しい星空でね」
「美しい星空、ねェ。ここから見えるモンよりも美しいのかぃ、それは」
「ああ、もう比べ物にならないね。満点の星空、まるで降るようさ」
「降るような星空か、そりゃあ、美しいだろうなァ。でもここは何も無いこのあたりじゃあ、唯一ある一番高い塔だぜ? それに今日は一段と寒くて、風もくそみてェに強いから雲ひとつありゃしねェ。ここから見える星空もまるで手を伸ばせば掴める位、馬鹿みたいに近い。こりゃあまるで満点の星屑だ。そいつァ、この眺めよりも美しかったか?」
「間違いなく。それに俺はあの日、喜びに満ちていたからな。それはもう、美しかったさ。妹の結婚式に、その星は滲むくらい美しく光ってたよ」
「星が滲むくらいの想いを俺も抱いてみてぇなあ。そういやここ何年と女を抱いてねえよ、ああ、女も恋しいがなにより酒が恋しい。こうも寒い日にはきっつい酒に限るってのに、全く、陸の孤島にゃ酒一本どころか水一滴すらねェ。劣悪な仕事環境に笑えるなァ」
「劣悪な仕事環境に俺が耐えられるのは一重に妹の笑顔だな。あの笑顔はこの身が死ぬときにも忘れられないねきっと、我が妹ながらかわいいよ。お前には兄弟は?」
「兄貴が一人。もうずいぶん会ってねェよ。生きてるのかね、あいつは。連絡一つも来やしない。いや、そういえばこの前の親が死んだ年変えの日に馬を寄越したか。生きてるね、十分、今でも性懲りもなく、博打に明け暮れてるだろうよ。親が死んでからも続く生粋の親不幸者さ。あいつの顔なんざ見たくも無いのに、全く、あいつの馬は俺の持つ馬なんかより賢いやつでなァ。それがまた腹が煮えるね。俺達の稼ぐ金じゃあ手に入らないような、美しい毛並みを持った良質の馬さ、こんな話をしてたらまた惨めになってきやがった、ああ、死なねェかなァ。俺もあいつも、さっさと死ねばいいのになァ、全く不憫な世の中だぜ」
「本当、本当。この世の中は全く不憫にできているよ。それにしても、その妹の夫が冴えない男でね、どうにも俺はあいつには似合わないと思ってるんだよ。あんな男のどこがいいのか俺にはわからない」
「そんなものァ、当人達にしかわからねェなにかがあるんだろうよ、兄貴のお前にもわからねェ愛情っつーモンがよォ」
「愛情か。愛情。お前にはわかるのか、愛情が」
「さァなあ、どうにも。まあ良くも悪くも愛されて育てられたんじゃねェの、俺ァ両親にゃ感謝はしてるよ。不治の病でぽっくり逝く男と、後追いする気弱な女にしちゃ、俺はよく出来た子じゃねーか」
「なかなか素敵なご夫婦だったろう。旅の宿屋を二人で営んでいたな」
「小さいときにゃそれが嫌で嫌で堪らねェや。しらねぇ奴らが何人と、毎日そこに居る。まるでここには俺の居場所なんざありゃしねーぞって言われてるみたいでよォ、幼心にも怖かったなァあの店は。今やもう継ぐはずだった俺もこの有様じゃァ、店なんざ廃れ朽ちる一途だぜ、なんせ元々繁盛もしていなかっただろう。潰れて当たり前の摂理だね」
「それはどうだか、村唯一の宿屋だったろうに」
「そのちんけな細胞で考えろ馬鹿野郎が、あんな外れの村に誰が来るって言うんだい」
「お前の幼い頃には繁盛していたのだろう、それはお前が良く知っているはずだ」
「違いねェ、確かに昔は繁盛していただろうよ、しかしそれは昔だ、それもまだ村の周りが平和だった頃だろう、俺達駐屯兵も必要ないくらいに平和だった頃の話だ。今じゃああの村に行こうと思えばこの戦地を通りぬけにゃならん。ああ、ここも十分に戦地だとよ、上の奴らは敵一ついない、獣一匹いないこの塔だって戦地だと抜かしやがる、くそみてェな話さ」
「あの村が戦場に選ばれる必要など、どこにあっただろうな」
「さァ、俺にゃあ、俺の上司が何を考えてるかもわからねェっつーのに、敵さんの上の方が何を考えてるかなんざ、死んでもわらかねェに決まってらァ」
「俺もだ。妹はもう実家を離れ南に三つはなれた村に引っ越しているよ」
「三つだァ? あの村は丁度戦地のど真ん中、こっちのキャンプじゃねぇか? そんなとこに居ちゃあ、いつ攻められるかわからねェ拠点だろうに、心配じゃないのかお前は」
「心配さ、しかしどうにもできまいよ。俺の仕事場はこの陸の孤島で、俺はここから離れられない上に、働かねばならん。そんな俺には、なにもできまい」
「違いねェが、そりゃあお前、淡白が過ぎないか。どうにも俺の下についた若い連中は、こんなこたァしたくねえだの、ママのおっぱいが恋しいだの、死ぬならこの手で死んでやるだの、現状に我慢ならずに駄々を捏ねる奴らばかりでいけねェよ」
「若いからだろう、俺達はもう、ずいぶん年をとったものだ」
「全くだ、この老体に鞭打って戦場を駆け抜けるより、この寒い陸の孤島で凍死する方が性に合ってるってかァ? ああ、虫唾が走るほど綺麗に出来た不憫な世だね、全く」
「本当に今日は寒いな。ずいぶん目も乾いてくる。ここは目を閉じてはどうか」
「お前ってやつは。仕事まで放り出してくっちゃべったら、本当に凍死するためだけにここに居るみてェじゃねえか、せめてその自慢の目で仕事ぐれぇ全うしやがれ」
「言ったろう、ずいぶん乾いてしまっていつもの半分も視界が無いよ、風に乗って砂が舞うのがいけない。それに寒い。何一つ起こりはしないだろうに、俺達もよくやるな」
「そうさなァ、何年続けてる? 俺達はこの仕事を、もう何年続けてやがる。何年目だかもわからねぇ。いったいいつになったらこの戦は終わりの鐘を鳴らす? わからねェ事ばかりで、上の奴らの言い草だけはしっかりしてやがるとくれば、もう死ぬしかねェなあ。寒い日にはこればかりを考えるからいけねェ、抜けるような夜空が恨めしいぜ」
「凍てつくようだな、本当に寒い。もっと毛布をもって来るべきだった。代えの奴らに伝えないとな」
「俺達の代わりにくるふたりにゃ、寒い思いさせちまうな。全く、なんでたって年変えの日に丸一日ここに拘束されにゃならん。くそみてェな話に続きは無ェのかよ、この世に飽き足りて気がついたらここから飛び降りちまうだろ」
「好きにするといい。ここらでは死んだ後でも獣に食い荒らされる心配もあるまいよ。続きね、そうそう、弟の話だがあいつは良い嫁さんをもらって実家を継いでいるよ。俺なんかよりも立派に、楽しそうだ。時折俺の元に馬を寄越して連絡をくれるが、その葉書にはいつだってお元気ですか、僕は元気でやってます、の一文がついてるんだ。それを見るたび妹の式の時の夜空を思い出すようで、老人になったなあと思うよ」
「またそれはずいぶんと最近の話じゃねェの、昔話だと言ったろうが」
「ああ、そうだったな。すまない。昔話か、昔の事がいつだったかもうずいぶんわからなくなってしまったな。困った。あれはいつの頃だったか、そうか、妹の結婚より前の話だから、昔話だろう。違いない。小麦の良く取れる頃だから、今からどのくらい前だったかな、その頃は戦地はもっとずっと遠くだったな。まだ俺も農業をやっていた頃だよ」
「ずいぶんとそりゃあ、昔の話じゃねェの。俺と同じ頃に兵士になったろう、お前。だとしたらずいぶんと昔だ、もう俺ァ記憶も曖昧だ」
「俺もだよ。年を食うのがいけない。寒くて頭も回らないとなれば、いよいよつまらないな。そうそう、その頃隣の家の家畜が逃げ出す事件があってな、あれは村総出でその家の家畜を探し回ったものだが、お前はその頃何をしていたって?」
「だから覚えてねェっての。にしても、そんな事件あったなんざァ、知らなかった。いったいいつ頃だ。俺も同じ村にいたろうに、総出の家畜探しなんざ知らねェなあ、いったいいつだ」
「俺も細かい事は忘れてしまったよ。しかし森の方まで家畜が逃げていたらしくてな、夜中だったものだから女子供が泣き喚いて仕方ない。あんなに煩いんじゃあ、嫁にもらうのも気が引けるくらいだ。全く怖がってどうにもならなかった。まだ戦地でもない頃なのにな、昔から村の奴らは村の外が怖くて仕方ないよ、いや、俺も人事じゃなく怖かったがな。今や何も無いここに恐怖なんぞ抱きはせんというのに、笑える昔話だろう、滑稽だ」
「全く、俺に身に覚えの無い話にしちゃあ、よく出来た話じゃねェの。女子供は喚いて泣いてが仕事じゃ仕方ねェ。村の外が怖いわりによく俺の実家は生き延びていたなァ。外から来る旅人なんざ、一番に怖い奴らじゃねェの」
「だからこそ尊敬されていたよ、お前の家は」
「嬉しくないねェ、嬉しくない。ちっともそっとも嬉しく無いもんだから、やっぱり死にたくなったって仕方ねェや。さみィな、寒くて凍えそうだ。凍えるのは嫌だから帰ったら風呂にも入りたいねェ、身体が汚くて気持ち悪ィ」
「この高さから落ちて死ぬのは痛いだろう。凍死も痛いだろうに、何がお前を死に駆り立てる」
「どうだかなァ、俺にもわからないね。なんにしても衝動ってモンがあるだろうよ、その身を燃やすくらいの、灰になって誰かの肺に入るなんて、愉快な話じゃねェの?」
「なら燃やしてやろうか」
「それはいけねェ、お前がヒトゴロシになっちまったら、お前の妹弟たちに顔向けもできねェよ」
「そうだな、それは困る。しかし砂嵐がひどいな。これでは何も見えやしない」
「俺も口の中に砂が入ってきた、こうも風ばかりが強いと吐き出したくても吐き出せねェや、くそみてェな世の中だな、本当に」
「風が強いとどうにも何もできやしない」
「どうせ敵が来るわけでもあるまい。何をするもないだろうに、何を言ってるんだおま」
――――右の鼓膜に、衝撃が走った。
寒い中漂う煙に、俺は自分の意識が遠のいていくのを他人事のように感じた。
北の国と、南の国が戦争を始める前、国境線に程近い村に男がいた。農家を営む男は、生まれたときからその仕事を継ぐことを定められていた。それは村にとって、当り前のおきてであり、男もまた、それに対して不満はなかった。
あるとき、国境を越えて村に旅人がやってくる。男に妹が生まれたころだった。
村の者たちはみな、国境を越えてきた旅人を恐れ、それと同じくらいに尊敬し、崇め、もてなした。旅人は一家で旅をしているといい、それには嫁と息子がいた。ちょうど、男と同じ年の息子だった。ひどく疲れた表情の、その男と目が合った。旅人の男はにたりと口角をあげて、村人を見ていた。その眼には怯えと、恐怖を押し隠さんとするプライドが見え隠れしていた。農家の男は、その男が気にかかって仕方なかった。
旅人はここから先にまた旅をすると言っていたが、どうにも息子がこの地を離れたがらないといって、ひと月の間旅人達は村にいた。
竦んだ身体に、わけがわからないまま力を込めて硬直から抜け出した。かすむ視界にぼやけた湯気が揺らめいた気がして、慌てて目を乱暴に擦った。
何かの見間違いだと、そう信じたかった。
乾いたように笑った顔のまま、眉間に空いた赤い丸、倒れこむ精悍な青年、汚れていない軍の正装。それに息は、ない。その男の顔は若く、徐々に薄ら青くなるその様は見ていて楽しくなかった。
「ああ、またか」
衝撃は飲み込むより先に、体中に染みわたった。
「また、やってしまったのか、俺は」
そうか、銃殺もあり得るのか。死ぬのを必死に止めたら自殺、遠まわしに止めたら他殺で、促したら銃ときたもんだ。全くもって、不条理な世の中じゃねェか。
本当。俺はもう、年を取りすぎたなァ。
「友よ、やはり俺は、間違ってンのかねェ」
声に出したってもうお前には届かないが、ずいぶん一人の時間がつらくなる年になった。
幾ばくも変わらない世の中じゃ、ちっとも変わりはしねェんだなあ、くそみてェな世の中だ、全く。
男は一人、首にかけた錆びれた金の十字を握って、目を閉じた。
祈れ。この十字にささげて、また、祈れ。この身が朽ちて亡くなるときまで祈ることをやめるな、断罪から逃げるな。祈りをささげろ、心から。
その顔は涙することもなく、ただ疲れたような皺ばかりが刻まれていた。
彼が刻んだ同じ時間の数は、次でついに三十を迎える――――
「ああ、寒い。こうも寒くて、くそみてェに強い風が吹いてやがると、死にたくなるなァ。本当馬鹿らしくなる。全く、なんで生きてるんだろうな、俺ァ」
「そうだな。今日も寒くて。俺はいつまで、これに耐えられるのだろうな」
Fin.