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東方河童忌

作者: のえ

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 おそろしく不吉な物語。ひとりの人間と、河童の物語。



  一、



 妙な男が川のほとりで寝ていた。幼い少女がその男の頬をつん、と指で突付いてみるが、男はわずかに顔を顰めただけで、瞼を開けることはなかった。少女は少しむっとした様子で、どこから取り出したのか、一本のキュウリを片手に持ち、男の口へ思い切り押し込んだ。


「ふぎゅ!」


 妙な声を上げて男は飛び起きた。もじゃもじゃの頭を左右に振りながら、キュウリを吐き出す。何度か咳き込み、ようやく落ち着いたところで、少女は男の背中をポンと叩いた。


 男は驚いた様子で少女を見下ろし、そしてあたりをきょろきょろ見回した。


「ここは……どうして川があるんだろう。僕は自分の部屋に居たはずなんだけれど」


 ぶつぶつとつぶやきながら男は再び少女に視線を落とした。まだ十歳にもなっていないようなその少女は、膝を抱えるようにしゃがみ、じっと男を見ている。


「きみはどうしてここに居るんだい?」


 男が尋ねると、少女はフウとため息をついた。


「あんたは何でここにいるの?」


 思っていたより生意気な口調に男はまた少し驚いた。


「何でって……それよりここはどこなんだ?」


「げんそうきょう」


「えぇ?」


 少女の答えに男は首をかしげるしかなかった。子供にからかわれているのだろうと思った。


「あんた、どこから来たの」


「どこって……東京、かな……」


「おお」


 東京、という言葉に少女は喜んだ。


「あんた日本人なんだね。もしかして人間ってやつ?」


「……まるで自分は人間じゃないみたいな言い方だな」


「あたし、河童だよ。信じなくてもいいけど、この谷に住んでる河童なんだよ」


「……」


 男は目を丸くしたまましばらく黙り込んだ。言葉が出ない、というほうが正しかった。水色の着物を着た少女は、髪も水色で、水滴がぽつぽつとついていた。頭にはなぜが緑色の布を巻いていて、その布も少し湿っているようだった。


「なるほど……」


 苦笑いと共に男は地面に落ちたキュウリを拾った。


「河童と話をするのは始めてだ」



  二、



「河童は自由でいいな」


「あんたは自由じゃないの」


「どうかな。やりたいことをしているつもりだけれど、心の底ではいつも何かを恨んで、恐れているような気がしてならない」


「だったらずっとこっちで暮らせばいいじゃないの」


「でも僕は帰らなければ」


「どうして」


「よくわからないけれど、帰らなければならない気がする」


 さらさらと流れる川を見ながら、二人は思いついたことをただつぶやいていた。


「そういえば、まだ君の名前を知らなかった」


「あたし? にとりだよ。河城にとり」


「そう。僕は、龍之介っていうんだ」


 龍之介とにとりは、しばらくぼーっと川を見つめていた。透き通るような青空に、美しい森、ふきぬけるその風――言葉を変わらなくとも、そこにいるだけで心が穏やかになっていった。

 にとりは暇そうに花や野蒜を積んでいたが、龍之介の傍から離れることはなかった。


 やがて日が暮れ、あたりが薄暗くなってきた。龍之介は胡坐をかいたまま、相変わらず川を見つめている。


「ねえ、あんた帰るんじゃないの」


「帰り道がわからないんだよ。にとりは知らないのかい」


「河童だからわからない」


「そうだろうねぇ」


 龍之介はふふ、と笑い、その場に仰向けに寝転がった。


「このまま寝てしまえば、家に戻っているような気がする。こんなにいいところに来たんだもの。今日はゆっくり眠れるはずだ」


「いつもゆっくり寝ていればいいのに」


「だめなんだ。最近薬を飲んでもよく眠れなくて。……お願いがあるんだけど、いいかな」


「なあに?」


「僕が寝るまで、そこに居てくれないか」


「……人間ってめんどくさいね」


「だれにでもいいから、傍にいてほしいと思ってしまうんだよ」


 龍之介は瞼を閉じた。にとりも同じように並んで仰向けに寝転がり、どんどん暗くなっていく空をぼんやり見ていた。龍之介が安らかな寝息を立て始めたころ、どこからともなく足音が近づいてきた。確かめなくとも、にとりにはその足音の主がわかっていた。寝ているふりをして、その主がいなくなるのを待った。




   三、



 しばらくのあいだ、龍之介は現れなかった。にとりは何をするわけでもなく、川から流れてきたものを拾い集めては、遊び道具にしていた。河童の仲間と泳いだり、キュウリを食べたりした。毎日毎日、何も変わらずに流れていった。


 やがて季節がめぐり、龍之介のことを忘れかけていたころ、ひとりの天狗が新聞を置いていった。幻想郷のことを書いているのかと思いきや、どうやらその新聞はこことは違う世界のことを記事にしているようだった。新聞記者を名乗る天狗は、時には別の世界へ出張することもあるらしい、と仲間の河童が言っていた。


 記事は、日本各地で河童の目撃談が相次いでいる、という内容だった。にとりはなぜか、たまらなく寂しくなった。胸が痛み、唇をぎゅっと噛んだ。新聞を握り締めたまま、にとりは川の下流へと走り出す。下流には人里がある。そこへ行けば龍之介がいるかもしれないと思った。


(ばかだな私……あいつは外の世界の人間なんだから、会いにいけるわけないのに)


 にとりは今まで外へ出たことがなかった。幻想郷から出てみたいと思ったこともない。ここにいるだけで充分楽しいし、不自由なことは何もない。たまによそ者が訪れることはあっても、河童の世界が脅かされることはなかった。


 人里の近くまで来て、足を止める。下流は川の流れが穏やかで川幅も広い。遊びにくる人間の子供たちと出会うのも珍しくはない。にとりは水の中に足を浸して、川辺に腰掛けた。初夏の風が心地よい。


 もう少し歩けば人里に着く。だが、にとりは動けなかった。人間に会いたいのか、会いたくないのか、わからなくなってしまった。


(私がもし人間だったら……)


 そんなことを考えて、ハッとした。首をブンブン左右に振り、心を落ち着かせる。


(何、考えてんだ私! 人間になったってどうしようもないのに!)


 河童に生まれて、嫌だと思ったことはない。人間になりたいと思ったことはない。ない、はずだった。


「どうしたの?」


 ふいに後ろから声がして、にとりは慌てて振り向いた。一瞬、龍之介かもしれないと期待したが、そこには少女がひとり立っていた。


「なんだ……だれかと思ったら厄神様か」


 頭に大きなリボンをつけ、上品に両手を合わせて立っているその少女は、にとりがよく知っている厄神、鍵山雛だった。


「今日はいつもより静かね」


 雛はにとりの隣に座り、川の水に指先を浸した。


「川は良いわね。いろんなものを流してくれる」


「……何か用なの?」


 つい、冷たい口調で言ってしまった。


「あなたが会いたがっている人はね」


 雛は川面を見つめたまま言った。


「とても多くの厄を抱えているわよ。近づかないほうがいいと思う」


「べつに……」


 べつに、とは言ったものの、にとりはそれから何と続けたらいいのか、わからなかった。あの男を擁護する言葉も、雛を否定する言葉も出てこなかった。


「私はあなたのために言ってるの。多分、わかってはもらえないだろうけれど」


 そう言うと雛は立ち上がり、どこへともなく行ってしまった。にとりは着物のすそを握り締めたまま、俯くことしかできなかった。


「なんのための厄神様なのさ……」


 あの男が厄を抱えているなら、それを雛が取り除いてやればいいのに、と思った。自分にはそれができないのだから。




   四、




 夏。いよいよ日差しが強くなってきたころ、龍之介は現れた。何の前触れもなく、ある朝、川のほとりに突っ立っていたのだ。ぼーっと宙を見つめたまま、何をするでもなく、脱力した様子で、そこに居た。


 にとりが近づいても、龍之介は気づいていない様子だった。


「ねえ……」


 声をかけると、龍之介はぴくりと肩を震わせた。そしてにとりの顔を見るやいなや、表情を綻ばせた。


「もう会えないかと思ったよ」


「私も……」


「相変わらず綺麗なところだね、ここは」


 龍之介の表情は少しくたびれているようにも見えた。目の下には濃いクマができ、頬も少しこけてしまったように思える。立ち姿もどこか弱弱しく、まるで病人のようだ。


「具合、よくないの?」


 隣に立ってたずねるが、龍之介は曖昧な返事しかしなかった。どこを見ているのかわからない目で、ぼんやりと笑っている。

 雛の言ったとおり、龍之介の身になにかよくないことが降りかかっているのかもしれない。彼が心身ともに疲れ果てていることは明らかだ。


「……どこか、僕が生きていける場所はないだろうか」


「え?」


 ぽつりと呟いた言葉は、ひとりごとだったのだろうか。にとりは何か不穏なものを感じ、焦った。このままにしておいたらいけないと思った。


「ねえっ、泳いでみない?」


 龍之介の手を引き、川のほうへと引っ張る。


「いや、僕は……」


「泳ごう? こんなに暑い日なのに、ただ突っ立ってるだけじゃ具合悪くなるよ!」


 戸惑う龍之介をぐいぐい引っ張り、にとりは川に入っていく。


「うわっ!」


 どぼん、という音とともに龍之介が視界から消えた。この川は大人でも足がつかないほどに深いのだ。


 にとりは構わずに龍之介の手を掴んだまま、深く深く潜っていった。龍之介の手はにとりの手と比べると大きく、ごつごつしていた。龍之介は水の中でじっと目を瞑りながら、にとりに抵抗することもなく、黙って水底へと沈んでいった。


 日の光が川底まで届き、水草や魚たちを照らしている。龍之介にその光景は見えていないのだろう。にとりは龍之介の体を引き寄せ、その首に両腕を巻きつけた。


 河童は気に入った人間を川に引きずりこむ――。人間が河童を恐れて広めた迷信だったはずだが、まさか自分自身が同じ事をするとは。


 このままどこまでもどこまでも沈んでしまいたい。


「あれ……」


 ぼんやりした声で龍之介が呟いた。


「変だな……川の中なのに、息ができる」


「河童は水を操るんだよ。私と一緒にいれば、空気の幕を張る事だってできる」


 にとりはそっと龍之介の頬をなでた。二人の周りを包み込むように、球体の幕が張り、まるでシャボン玉の中にでもいるかのようだった。


「ねえ、どうしてもここでは暮らせないの?」


 にとりがそう尋ねると、龍之介は悲しそうな目をして俯いた。はあ、と溜息をつくと、龍之介の口からは小さな気泡が漏れた。


「そうしてしまえたら、どんなにいいだろうね。だけど、僕は怖いんだ。ここは幻想の世界だからね。自分が狂っているような気持ちになって、とても怖い」


「どうして……」


「きみが……にとりが、僕の幻想だったら、悲しいから」


 龍之介の言葉の意味が、にとりにはよくわからなかった。にとりにとってはこの幻想郷こそが自分の世界であり、龍之介のほうが異端といえる存在だ。


「全てから逃げてしまいたいのに、知らないところへ行くのは不安なんだ」


(不安……?)


 水がどんどん冷たくなっていく。もうどれくらい沈んでいっただろうか。この川はこんなに深いところだっただろうか。にとりはもう、自分がどこへ行こうとしているのかさえ、考えられなくなっていた。ただ目の前の男を連れて、どこまでも沈んでいきたいと思った。




  五、



 あれからどれくらいの月日が流れたのだろう。いつの間にか目の前から龍之介が消えていた。どうやって別れたのか、覚えていない。何か言葉を交わしたような気もするが、思い出そうとすればするほど、頭に霧がかかったように何もわからなくなる。


「だから言ったのよ」


 呆れた様子で雛が言った。


「そうやって川のそばで待っていても、また会えるとは限らないじゃない」


「……」


「河童が人間に魅せられるなんて聞いたことないわ。外の世界からなんて、そう何度も来られるものじゃないのに」


「……わかってるよ」


 にとりは口を尖らせながら、川面を睨み続ける。


「あんなに厄を抱えていてるのに、それを手放そうとしないんだもの。とんでもない変わり者だわ」


 ざわ、と風が吹いた。


 雛の話では、あの男は人より多くの厄を抱えているにも関わらず、それをどうこうしようという気はないらしい。なぜ、苦しみから逃れようとしないのだろう。以前見たときは疲れ果てた顔をしていたのに。それとも、落としきれないほど大きな厄なのだろうか。


「人間ってよくわからない」


「あら、今頃気づいたの」


 山はすっかり紅葉し、赤や茶色に変わった葉が川の上を流れていく。最後に龍之介と会ってから、何度目の夏が過ぎただろう。こうして秋になり、やがて冬がやってくる。それでもきっと彼は来ない。そう思いながら、にとりはいつも川のほとりで待っている。


「私も、おかしいのかな」


 呟いた言葉に返事はなかった。いつの間にか雛はいなくなっていた。かわりに、どこからか足音が聞こえてきた。砂利を踏むその足音は、ゆっくりこちらに近づいてくる。

 にとりはしゃがんだまま、川面をじっと見つめた。


「おかしな河童……」


 いきなり真後ろから声がして、にとりはぎょっとした。しかし、振り向くことはしなかった。そこに立っているのが誰なのかは、考えなくともすぐにわかった。


「外の世界へ行きたいの?」


 にとりは黙って首を横に振った。


「ただ、会いたいだけ?」


 くす、と笑うように、後ろに立つ者は言った。にとりは答えなかった。


「これが最後になるかもしれないわ。それでもいいなら、ずっとそこで待っていなさい」


 ――必ず彼はここに来る……。


 木々のざわめきと混ざり合うようにな奇妙な声が、森全体から響いてきた。にとりはきつく目を閉じ、後ろの気配が消えるのを待った。



「……にとり?」



 とん、と肩を叩かれて、にとりは弾かれたように立ち上がった。


 そこには、あの男がいた。随分とやつれてしまっているが、間違いない、龍之介だ。


「どうして」


 待っていたはずなのに、いざ本人が目の前にいると困惑してしまう。しかし、それは相手も同じようだった。


「不思議だな。会いたいと思っていたら本当に会えた。川を見ていただけなのに」


 龍之介は、少し白髪の混じった頭をくしゃくしゃ掻きながら、照れくさそうに言った。にとりは胸が締め付けられるように痛むのを感じた。鼓動が早まり、目の置くがグッと熱くなった。そして、無我夢中で龍之介の体に抱きついた。


「うわっ、どうしたんだ、にとり?」


「もう帰るなんて言わないで。ずっとここに居てよ!」


「にとり……」


 龍之介の手が、帽子をかぶったにとりの頭をなでる。


「そういえば、今日はワンピースだね。それに、随分大きくなった」


「あんたは老けたね」


 龍之介の体からは嫌なにおいがした。何日も風呂に入っていないのだろうか。体臭もそうだが、なんだか、生きた人間のにおいとは違っているような気がした。どちらかといえば、獣や妖怪に近いにおいだ。それが寂しくて、にとりは一層強く抱きついた。


「人間はずるい。憎たらしい。いつも自分勝手だ。何もできないくせに! 何も知らないくせに!」


 叫ぶたびに、にとりの目からは涙が零れ落ちた。


「……そうだね。僕もそう思う」


 龍之介はにとりの視線にあわせるようにしゃがみ、そっと抱き寄せた。


「きみたちの世界にもきっと、思想や、宗教や、習慣があるんだろうね。きみたちは人間よりずっと優れた存在だ」


「わからない。わからないよ……!」


 人間のことは理解できない。それは自分が妖怪だからだろうか。河童だからだろうか。もし自分が人間だったなら、龍之介のそばにいられたのだろうか。こんなふうに、涙を流すこともなかったのだろうか。


「殺してやりたい」


 何も考えず、ふいに出た言葉だった。龍之介は一瞬体を強張らせたが、すぐににとりの背中をぽんぽんと叩いた。


「その必要はない」


 あまりにも優しい声なので、にとりは怖くなった。これが不安というものだろうかと思った。


「僕は自分でやれる」


 そう言うと龍之介はにとりから離れた。しがみつこうとするにとりの手をそっと払いのけ、龍之介は背を向ける。


「帰るの……?」


「やり残したことがあるからね」


「また、来る?」


「ああ。必ず」


 うそだ、とにとりは思った。この男のことなど信用できない。いつも勝手に現れて勝手にいなくなるのだ。


「私も一緒に……」


「それはダメだ」


 厳しい口調で言われ、にとりが口を噤んだ。


「かわりに、頼みたいことがある」


「……」


「もし、この世界に僕の母親が来ていたら、伝えてほしい」


「……何を」


「龍之介は恨んでいない、と」


 振り向いた龍之介は優しく微笑み、満足した顔をしていた。


「次こそは、きみの盟友として恥じない男になっていると約束する」


「そんな約束、いらないのに……」


「でも僕はそうしたいんだ。きみに会うことができて、本当によかったと思ってるから」


 最後ににとりの頭をポンと叩き、龍之介は川下のほうへと歩き出した。にとりは黙ってその後姿を見つめていた。追いかけて、言ってやりたい言葉がたくさんあるはずなのに、どうしても足が動いてくれない。ただ肩を震わせながら、あふれる涙を拭うことしかできなかった。


 おかしな河童、と呟く声が聞こえた気がした。




 終はり

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みやすくてとても面白かったです。 続きが気になります。
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