お隣さんと右隣の私
私のお隣さんは幽霊だ。
ということが、つい先だって判明した。
それはある暑い一日、思い返せば前日に夏の怪談特集なんて見たのも、きっと悪かった。
が、そんなことはちょっとしたプラスアルファだ。本当の原因は、そう、フラれたことである。
ああーもう、フラれたとか…。…。…考えるだけでもしばらく放心できる。
つまり、元をたどり続けるなら私が彼にどれだけの想いを抱いていたか、とかこっぱずかしいことについても説明することになるのかも知れないけれど。
一言でいえば「ショックだった」これにつきる。そしてこのショックこそがお隣さんについて知ってしまうきっかけだったらしい。
その日、私は呆然と家路をたどっていた。
あの人が…あの人が…いや、今はまだきちんと思い返したりしたくない。察して欲しい。
その日その時は、とりあえず家に帰ることしかできなかったのだ。
とぼとぼとぼ、と足を運び続けて。ふと気がつけばいつの間にやら階段も昇り、学生向けワンルームマンションの三階、自分の部屋の前に立っていた。ここ三年数ヶ月で見慣れた、ちょっと洒落た青灰色のドアだ。オレンジ色の夕日が差した部分が、よくわからない色になっていた。
鍵を開けなければいけない。
そう思った。ところで、いわゆる酩酊状態、その時はまともに動いて話ができている気がしていたが、一夜明けてみるとおいおい酔っぱらいじゃないか危ないなあ、という感想を自分の行動に持ったことはないだろうか?
この時の私は、大体そんな感じである。
そうだ。鍵を開けなければ部屋に入れないではないか。
私は大いに納得し、鞄のポケットに手を入れてキーケースを取り出し、鍵を出して…取り落とした。
カチャンとキーケースが落ちた。
もう落ちたキーケースに目を向けるのも面倒くさかった私は、ドアに向いたままふと浮かんだ言葉を適当に呟いた。別に独り言の癖はないのに。
「おまえもか」
いやこれは裏切られた時の台詞であって別に私は裏切られたわけではないのではないかいやでもこれもやっぱり裏切られたようなものかそうなのか…!
口に出したことについて思索が勝手に巡り出しヒートし始めたところで、横手から声がかけられた。
そう、ドアの前で鍵を落とし何事か呟いて微動だにしない私の行動が運命の決定打であった。親切な隣人の目に留まる、それスタートのなし崩しの運命、というか腐れ縁というかこれは間違いないという表現では、私的パラダイムシフトの。
「落ちましたよ」
声ははっきりとごく普通の、強いて言えばやや明るい女性の声音で言った。
そうですね。落ちましたね。もちろん私のキーケースのことでしょう。
正直ほっといてくれと思ったが、確かにキーケースは落ちているし、拾わなくてはならないものである。
視界の端に、しゃがみ込む女性の膝と伸びてくる指が見えた。拾ってくれるの?親切だねー。
はあー、と溜息が出た。ほんと、ほっといてくれ。
でもさすがに、ほっといてくれ!と叫んで手を振り払い、キラキラと涙を振りまきながら駆け去るなんてできないので、私はおとなしくキーケース、ひいては女性の方に体を向けた。
「あ、すいません」
もちろんそのまますっと手を出し拾われた鍵を受け取り、ドアを開けて撤退する…予定であった。
しかしキーケースは依然として、力なく床に転がっていた。中身をはみ出させべしゃりと広がり、拾い上げれば内側にも細かな埃…きちんと掃除されていても、外廊下とはそういうものである…がついているであろう哀れなそれに。しゃがんだ姿勢でビシッと伸ばした指を突きつけながら、こちらを見上げる女性。
拾ってくれるんちゃうんかい嫌味かい。
目があった瞬間、彼女はビクッとして若干のけぞり、目を見開きまじまじと私を見つめた。
あ、つい睨んでしまっただろうか。もともとあまり愛想のある顔ではない。
「すいません。今ちょっと…あー、頭痛くて」
言い直した。彼女は硬直した。なぜ。今の私に頭を使わせないで欲しい。
見つめ合ってしばし。彼女が口を開いた。
「…大丈夫ですか?」
「よくあることなんで」
ないない。ぜんぜんない。でもとりあえず言っておく。家に帰る、今の私にはこれが精一杯。
「…キャーーーーッ!!!!」
なぜ叫ぶ。
「えーーーーーーっ!!!!」
もう一人加わった、アンタは誰だ。
しばらく後、私は当初の予定とは違い、自分の部屋ではなく隣の部屋にいた。
お隣なので間取りは線対称に違う。暖色系にまとめられた、明るい印象の部屋だった。小さめのテレビにパイプベッド、こたつ机(もちろん今は布団はない)といったごく普通の家具の中で、やたら大きな本棚が目立つ。
そのこたつ机を、私も合わせて三人の女が囲んでいた。
藤川さん、私に声をかけ、あげくなぜか悲鳴を上げた人。今は2枚しかない座布団からあぶれ、ベッドに腰掛けてにこにこしながらこちらを見ている。
谷村さん、後から現れたこの小柄な女性が、どうやらこの部屋の主らしい。冷たいお茶を出してくれて、オレンジの座布団にぺたんと座った。
二人とも私よりやや年下くらい、二十歳前後に見える。ここに住んでいるのだし、たぶん同じ大学の学生だろう。
私は黄色の座布団に座って、受け取ったお茶を一口含んで考えた。
初対面の他人の家でお茶を飲んでいる…一体私に何が…。
マンション廊下にて唐突に叫び声を上げた二人は、口を閉じるとちらりとお互いに目配せし、隣のドアから半身をのぞかせていた女性がすっと私の前に立った。
突然叫ばれて唖然、もともと茫洋としていた私は、
「306号室の方ですよね?私お隣の307の谷村です。こちら藤川。せっかくお会いできたんですしちょっとうちでお茶でもいかがですか?この後何かご用事が?」
というスラスラとした紹介と質問に、思わず首を横に振っていた。この後特にやることないです、の意味である。この仕草はべつに、いいえお茶しません、の意味にもとれたと思うが、愛想のいい谷村さんは正しく(または都合良く)受け取り、サクサクと事は運ばれ私は座布団に落ち着き、部屋を眺めながらお茶を入れてもらい。
ごくん。一口飲んだお茶はよく冷えた麦茶だった。ああ、クーラーの効いた部屋は涼しい。
…私は何をしてるんだ。唐突に、目が覚めた気がした。
よし、帰ろう。おかしいじゃないか。隣人で推測同じ大学に通っている女性とはいえ、知らない人の家に上がってお茶を飲むだなんてどうかしている。というか、突然叫び出すような人の家にホイホイ招き入れられてしまったのだ。こうなると手に持っている麦茶のグラスまで不審に思えてくる。
今更ながらぞっとした私は、慌てながらも穏便に部屋を出るべく口を開こうとした。そこで。
右斜め前、ベッドに座っていたはずの藤川さんが、いないことに気づいた。
本当についさっき、一瞬前までそこにいたのだ。
ぎょっとした私に気づいたのか、谷村さんが藤川さんのいた辺りと私とを交互に見る。
部屋を見回してもやはり藤川さん、と言われた人はきれいさっぱり見あたらなかった。
実は本当にちょっと寝ていたのだろうか?いや、持ち上げたままのグラスは無事だ。待て、それどころかベッドの布団には全く乱れがない。きれいに整えられた上掛けの面に、押せばへこむマットレス。
もし人が座れば、絶対にシワのひとつやふたつ残るだろう!体温が下がった気がした。
「…げんかく…?!」
まさか自分の精神がそこまでヤワだったとは。追い打ちだ。これからどうすればいいのだろう?医者…に相談したく、ない!思い当たる原因なんてひとつしかない。どこかの白い診察室丸い椅子に座り、カウンセリングを受ける自分の想像図が一瞬で頭を巡った。なにがありましたかーショックを受けたことについてーなんて知らんおっさんやおばさんやさらにはお姉さんになんか語りたく、ない!!
苦悩する私に、幻覚じゃありません、とにっこり笑顔で谷村さんが言った。
「見えなくなっちゃいました?大丈夫ですよー。
彼女は幽霊です。私にも見えてますから」
ぽかんと口ぐらい開いていただろう私に、幻覚じゃないです、ともう一度言った。
引いた。もうマジでドン引きーって気持ちで体ごと引いた。
立つところまで行かなかったのは、まだ麦茶のグラスを持ったままだったのと、正座のせいで足が痺れていたからだ。
ちょっと思案顔になった谷村さんは、もう一度藤川さんのいたように見えた辺りを見て、一つ頷くと私を見て言った。
「今日何かあったんですか?」
中途半端な姿勢のままで、後で落ち着いて考えよう今はとにかくどうしたら家に帰れるかなできれば穏便に何はともあれちょっと怖い、と考えていた私に、にっこり笑顔の彼女は続けた。
「ですから、今日、かな?なにか、すごくショックなこと、ありませんでした?」
ありましたとも。その瞬間、血が上がって下がって、下がったような気がしていた体温が上がって下がってその場面を脳内プレイバックしたとき、藤川さんが現れた。
ばっちり目が合い、笑顔であまつさえこちらに手を振っているときた!しんぞうが、いたい…。
「ぅらなぃとか、つぼとか、そぅぃぅのですか」
なんだか情けない声が出た。谷村さんは慌てて首を振った。
「ちがいます!…あの、お願いがあるんです」
もし金とか入信とかって言ったら、殴ってでも、逃げる!心臓と足と拳を叱咤し、心に堅く決めて見つめると、彼女たちはそろって神妙な顔になり、で、藤川さんがこう言った。
「あの、友達になってもらえません?」
ここいらへんで、私は色々と諦めた。
そこからの話は簡単である。同じ年頃似たような境遇の若い女が三人寄って親睦を深める経緯について適当に想像していただければ、おおよそそんなものだと思う。
なんと多少のずれはあるものの、幽霊の彼女も大体私と同い年で、しかも生前は同じ大学に通っていたのだ。死人の存在がリアルすぎてやめて欲しい…。
三名中二名が大変積極的だったこともあり、話があまりに突っ込みどころ満載だったせいもあり、…なんとこの幽霊、突っ込むと感触がないのだ。スカスカだ。
この胡散臭い二人組と私は、私の感覚からすればびっくりするような早さで親しくなった。
だらだらとアレな話を聞き、コレな話に突っ込むうちに、気がつけば例のあの人のことについても話していた。なぜかばれていた本日のショックについて、ということである。そもそもショックを受けている、という精神状態が幽霊であるところの藤川さんを認識できたキモなんだそうな。そうねタマシイぐらい出てたかもね。口から。
失恋ですか?いやまあ…ほんとですか!どんなひとですか?!いやそのう…そんなに好きだったんですね!!の一連の流れから、好きだったなんて生ぬるく、ずっとずっと私の日々の中でダントツで一番の輝きであった。といったことを大変熱心に語ったと思う。気がつけば酒も入っており、泣きも入り、笑い上戸の幽霊になぜか爆笑され、くっそ藤川コノヤロウああこれがフラれてヤケ酒名付けて夏の夜の幽霊眺めて一杯どうだい……
この夜、人生2度目に記憶が曖昧になり、明けて翌日、朝の光を浴びる幽霊を眺めてモーニングコーヒーをいただくという初体験をした。
別れ際の朝日の中で谷村さんは、相変わらず愛想のいい笑顔で藤川についてこう言った。
「まあ妖精さんみたいなもんですよ」
妖精さん…。思わず隣の女の顔を見直すと、そいつはにやりと笑った。いやこれは違うよ!
さて、正確に言うならば、隣人の同居人は幽霊だった。
運命というのは大げさな気がする、腐れ縁になるのかはまだわからない。不思議現象とは無関係の人生を送ってきた身としては、私的パラダイムシフトだったのは確かなのだが…いざシフトしてみると滑り落ち終わったウォータースライダーのようなものである。
そんな平常心の私は後日なかなか藤川と再会することができず、業を煮やした藤川による怪奇現象に、再度ぎょっとさせられる羽目になった。
なぜこんなに積極的だったのか?藤川さんお友達が一人しかいないから、他にもお友達を捜していて、自分を見てくれた私はとってもいいタイミングだったそうな。
お友達が欲しい…なんて言うとまるで悪霊のようだね。もういいけどさ。
そんなわけで、私の最近の友人には幽霊が含まれている。
ありがとうございました。
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