嘘と悲劇
「あの、すいません」
突然声をかけられ、僕は咄嗟に振り返った。
振り返るとそこには、利発そうな少年が佇んでいた。小学五年生くらいだろうか。
時刻は夜の十一時を少し回った頃だ。もうすぐホームに電車がやってくる。僕は仕事終わりに同僚と飲みに行った帰りで、この週末何をして過ごそうかと考えているところだった。
この少年は何をしているんだろう。
こんな時間に一人で。塾帰りかとも思ったが、彼は鞄一つ持っていない。僕と向き合った少年は、じっと僕を見つめている。彼の賢そうな外見とあいまって何となく不気味に思えた。
「どうしたの?」
何か困ったことでもあったのだろう。僕は尋ねた。
「お兄さん、次の電車乗らない方がいいですよ」
少年は年の割りには余りにもしっかりとした口振りで言った。
「え? どうして?」
——この子、ちょっとおかしいのか?
そんな考えが頭をよぎった。
「次の電車、事故になるから。沢山人が死んじゃう。お兄さんも死んじゃうよ。だから、次の電車には乗らない方がいいです」
ぞっと、背筋が冷たくなった。
——おいおい、冗談にしても子どもならもう少しましな冗談言えよ。
一瞬驚いて何も言えなくなったが、すぐにそう言おうとした。けれど、先に口を開いたのは少年の方だった。
「信じてくれないと思いますけど、本当なんです。次の電車、○○駅の踏切で車とぶつかって脱線しちゃうんです。急なことで減速も間に合わなくて、全速力で衝突する。運転手さんも疲れてるみたいで、反応が遅れる。明日の新聞の一面を飾る大事故になります」
「そういう冗談は言うものじゃないよ」
一言目では驚いた僕だったが、よくよく話を聞いているうちにうんざりした。ただの少年の超能力者気取りだ。この年頃の少年ならありえることだろう。やっぱりちょっとおかしい子なんだ。まともに話を聞いても仕方ない。
「冗談じゃありません。お兄さん、大事な人がいるんでしょ? まだ死んじゃいけない人だ」
少年の表情はどこか鬼気迫るものだった。僕の目を真っ直ぐに射抜く。その顔付きに少したじろいでしまった。確かに僕には先月婚約した彼女がいる。半年後に式を挙げる予定だ。僕は少し考えてから言った。
「確かにそうだよ。僕には婚約者がいる。でも、誰にでも大事なくらいいるだろう。誰しも親がいて、子どもがいる人もいる。当たり前のことだ。なら、君はこのホームにいる他の人にもそれを教えてあげるべきじゃないか? 一人でも多くの人を事前に助けるのが君の役目だろう。僕だけに言っても仕方ない」
少し話し過ぎただろうか。余り口数が多いと動揺していることがバレてしまう。しかし、何もこんな少年相手にそこまで考える必要はないだろうと自嘲した。
「無駄だよ」少年はぽつりと呟くように言った。
「どうして。ほら、あそこに立ってるお姉さんなんて、いかにも君の言うことを信じてくれそうだ。僕なんかよりよっぽどね。さぁ、あのお姉さんに今言ったことを教えてあげなよ。お姉さんが信じてくれれば、君は一人の命を助けられる。ヒーローになれるよ?」
僕はホームに立つ若いOLらしき女性を指し示しながら言った。
「僕はお兄さんにしか見えてないんですよ」
「え?」
また、背筋が冷たくなった。しかし、それもまた一瞬だ。
「おい、ぼく、大人をからかうのもいい加減にしないと怒るぞ」
「見てて」
そう言い残して、彼はすたすたと僕のもとを立ち去り、十メートルほど先に立つ女性の方へ歩いていった。
少年は女性の隣に立つと何か声をかけた。しかし女性は見向きもしない。再度、少年が声をかける。女性が顔を動かした。しかし彼女の視線は少年の頭上を通り越し、電車がやって来る方向へ向けられた。彼女は少しも少年を見ようとはしなかった。
少年が僕の方へ戻ってくる。
「どうですか?」
——そんな馬鹿な。
「だからね、僕が救えるのはお兄さんしかいないんです。分かってもらえましたか? お願いですから、次の電車には乗らないで下さい」
その時、電車の到着を告げるアナウンスと電子音がホームに鳴り響いた。僕が数分前まで乗ろうと思っていた、この少年が言うところによると事故を起こすという電車が、間もなくホームにやってくる。
その音を聞いても、僕はその場を動けずにいた。少年と見つめあった、金縛りにでもあったかのように。
「馬鹿馬鹿しい」溜め息と共に、吐き捨てるように僕は言った。やっとの思いで。
「今度から、人をだますならもうちょっとましな嘘をつけよ。もっとも、そんなことしちゃいけないけどな。いい酒の肴をもらったよ。ありがとうな」
「お兄さん、死んでもいいの?」
少年は一つも表情を変えずに僕に尋ねた。その目は冷たいようにさえ感じられた。何とも不気味だ。
「君の思惑通りにはいかないよ。僕は死なない。こう見えて悪運は強いんだ。たとえ君の言う通りこの電車が事故にあったとしても僕は死なないね」
じゃあな、と僕は彼に背を向けて電車に乗り込もうとした。
右足を電車に乗せた瞬間、腕を掴まれた。
「駄目ですよ。死んじゃうんですよ? いいんですか? お兄さん、死にたいんですか?」
まくし立てるように矢継ぎ早に言う少年の顔に、何故か表情はない。僕はほとほと気味が悪くなって、強引にその手を振り解いた。
「うるさいな、どうせ嘘なんだろ? 放っといてくれよ!」
酔いのせいもあってか、つい大きな声を出してしまった。周囲の人間の厳しい視線が一斉に僕に向けられる。
少年はホームに佇んだまま僕をじっと見つめていた。発車をつげるベルが鳴り響く。ドアが僕と少年を遮ろうとしたその時、少年の口が微かに動いた。
——何て言ったんだ?
僕には彼が何と言ったのか、ついに分からなかった。
電車が滑るように走り出す。少年はホームで一人、去っていく電車をいつまでも見つめていた。
半ば勢い任せに電車の乗り込んだものの、僕は不安で一杯だった。
あの妙な少年が言ったことが本当だったら……。そればかり考えていた。
本当に事故が起きるのか? ——僕は死んでしまうのか? あの少年の言う通りに? そんなはずはない。あれは子どものついた質の悪い嘘だ。ちょっと大人をからかってみたくて、あんなことを言ったに違いない。信じる方が馬鹿だ。
『××駅、××駅。次は、○○駅、○○駅にとまります』
心臓が飛び上がった。どくん、どくん、と今にも口から出てくるんじゃないかと思う激しさで脈打っている。
少年の言うことが本当だったなら、もうすぐだ。もうすぐ事故が起きる。駅までにある踏切は確か一つだけ。この駅を出て少ししたところにある。時間にしてわずか二、三分だろう。そこで、電車が脱線する。つまり、僕の命に残された時間はわずか数分かもしれない。
僕は窓の外を睨んだ。踏切を見逃さないように。そこに突っ込んでくるという車を見逃さないように。
——あと少し。震える手に力が入る。全身がわずかに震え、いたるところから汗が吹き出してくる。緊張の余り、頭がガンガンと痛む。
——カンカンと鳴る踏切の音が一瞬で通り過ぎていった。何事もなく。
なんだ、やっぱり何もないじゃないか。僕は一人胸を撫で下ろした。今まで息をするのを忘れていたのか、無意識のうちに大きな溜め息が出た。それと同時に大声で笑だしたくなった。全く情けない。子どもの冗談を真に受けて不安になるなんて、大人げないにも程がある。
安堵とお酒のせいか、僕は○○駅を過ぎた辺りから眠ってしまっていた。ふと気が付いたときには自分が降りなければならない駅に着いていて、僕は慌てて電車から飛び降りた。
改札を抜け、家路を歩く。
深夜の静まり返った町を歩きながら、妙なことがあるものだと僕は先程の出来事を振り返っていた。
あの少年は一体何者だったんだろう。あんな時間にあんな場所で、一人きりで。もしかしたら変わっているというか、少し可哀想な子だったのかもしれない。そして、どうしてあの女性は少年を無視したのだろう。本当に僕にしか見えていなかったなんて、そんな馬鹿な話はないだろう。いわゆる霊感というものは僕には備わっていないのだから。——こうして考えれば考えるほど、何となく腑に落ちない。
そう言えば、少年は別れ際に何と言ったのだろう。気になって、僕は歩みを止めた。
頭の中でもう一度あのシーンを再生する。少年の顔、表情、動きを事細かに思い出そうとした。
「ざ、ん、ね、ん……」
僕は口に出して呟いてみた。少年の口はそう動いていた。同じ母音の言葉は思いつかない。
ぞっと、背筋から全身へ悪寒が走った。
——どういうことなんだ……?
衝撃の余り、僕は歩き出すことを忘れてしまっていた。そして、真正面からちかづく人影に僕は気が付かずにいた。
足を引きずるように歩き、ズルズルと音を立てて近付いて来る人影に。
はっと顔をあげたが、すでに遅かった。頭に激しい衝撃が走る。
再度、頭に。腹、足、顔、また頭。なにかで殴られている。誰かに。
顔にぬるりとしたものが流れてくる。あぁ、血だ。血が出ている。
あたま、あたま、あたま。あたま。はら。
僕は倒れた。意識が もうろうと、する。だれかが、楽しそうに笑っている。
もし、あの電車に乗っていなかったら。僕はこんな目に あわずにすんだのか。
了
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