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白磁の微笑

作者: 橘霧子
掲載日:2026/04/26

 王太子エドワードは、常に不遇を嘆いていた。


 婚約者━━王家を支える有力公爵家の令嬢、アリスとの婚約は、ただの疎ましい義務でしかなかった。

 たぐいまれな美しさ、教養の高さを忍ばせる立ち居振る舞い、数カ国語を自在に操る語学力、その非の打ち所のない完璧さが、全てにおいて凡庸な彼には、生理的な嫌悪を抱かせた。

 彼女の背筋は常にまっすぐ伸び、その瞳は凪いだ湖面のように静かで。それはまさに、己の義務を理解した、模範的な令嬢の姿だった。


 幼い頃は徹底して無視し、凛と佇むその姿が、視界に入ることさえ拒んだ。無理やり引きずり出された定期的な茶会は、そのほとんどが無言。付き添い役の王妃と公爵夫人が終始、気を使って場を盛り上げるだけだった。


 思春期と呼ばれる年頃には、当人同士で交流するようになった。母親の監視はなくなったものの、周囲を侍従や衛兵にに囲まれ、逃げ場をなくした状態での茶会など、楽しめるはずもない。


 立場上、エドワードが話しかけなければ、アリスは一言も言葉を発せないこともあって、ただただ、予定された時間を、互いに茶を飲んで潰す。退屈に居眠りをしようものなら、ご丁寧に侍従が起こしにくるから、アリスと交流する気が全くないエドワードは、黙って椅子に座り、この時間に耐えた後の予定をぼんやりと考えてばかりだった。


 その間も、アリスはしゃんと背すじを伸ばし、目を伏せて、エドワードから声がかかるのを待っている。一瞬たりとも気を抜かず、いつ声をかけられても、万全の体制でお答えしますと言わんばかりに。


 嫌味な女だ。意地でも声をかけてやるものか。

 エドワードはますます意固地になった。

 それでも、アリスは必ず約束の日には城を訪れ、全く会話のない茶会をこなし、帰宅する。その規則正しさが、エドワードを苛立たせた。


 成人すると、エドワードはアリスと同じ席に着くことも拒んだ。

 しかし、やはりアリスは約束に日には城を訪れ、黙ってエドワードが着席するのを待った。公爵家の従者らは、取りすました顔の下にエドワードに対する憤怒を隠し、城の侍従たちにも、それは痛いほど理解できた。

 かといって、世継ぎである王太子に向かって、堂々と苦言を呈すことなど、誰にもできやしないのだ。


 ある時、エドワードは気まぐれに茶会がおわる時間に顔を出し、アリスに声をかけた。アリスは礼儀正しく立ち上がると、淑女の礼で挨拶を返した。


「お前、つまらない女だな。なんのためにそこにいる?」

「わたくしは、王太子殿下のお人柄に触れ、王太子殿下のお心を知りたく存じます」

「知ってどうする」

「殿下のお人柄に触れることが、わたくしにとっての幸せでございます」


 この娘は本当は馬鹿なのではないだろうか━━と、エドワードはアリスを見下ろした。

 何年も自分を無視する男を知って、なんになるというのか。まさか、嫌われていることに気づいていないのか。それとも、こうして義務を果たしているうちに、エドワードが懐柔されるとでも思っているのか。


「図々しい女だ。お前ごときが私を理解しようと言うのか」

「……申し訳ございません」

「私はお前の理解のおよぶ程度の人間ではない。二度と、そのような思い上がりを口にするな」

「肝に銘じます。大変失礼いたしました」


 無理やり言わせた謝罪の言葉は、あまりにも鮮やかで、哀願も卑屈さもなかった。ただ言われたことを事実と受け止め、エドワードを不快にした自分の不始末に謝罪をしていた。

 見下ろしているエドワードの方が、なぜか喉がつまり、息苦しくなる。


 ぐうの音も出ないとは、このことだろうか。

 自分がひどく下劣で、情けない人間に思えてきた。

 鉛を流し込まれたような重苦しさが、胸をおしつぶすのをごまかすように、エドワードは舌打ちして踵を返した。








 おりしも、世は技術革命の真っ只中。

 石炭が燃やされ、蒸気機関が発明され、世界は一新された。

 もう、貴族だけが土地を支配し、人馬が野を駆け巡る時代ではない。鉄と蒸気が世を飲み込み、国中を鉄道が走る。工場で物資が大量に生産されて、大規模な輸送も可能になった。


 その怒涛のうねりを引き連れていくのは、資本家と呼ばれる平民━━莫大な富を動かす、新しい時代の覇者たちだ。


 社交界も様変わりした。かつて高貴な血筋の特権であったそこは、既に金の力に侵食され、むしろ圧倒されている。王宮の宴にも、いつの間にか、名ばかりを馳せた工場主、銀行家が我が物顔で出入りするようになった。


 主役であったはずの貴族たちは、「格式高い王宮にも、香水に混じって煤と機械油の臭いが漂うようだ」と陰口を叩きながらも、彼らに愛想を振りまき、ご機嫌を取るのに忙しい。


 その嘲笑と欺瞞が渦巻くホールで、ティアラは異彩を放っていた。


 ある大銀行家の娘。苦労など露ほども知らず、金さえ積めばこの世に不可能などないと信じて疑わない、わがままな選民意識の塊。

 だが、エドワードの目に、彼女はまったく違う生き物として映った。


 ティアラは大声で話し、笑い、男性と同じように飲んで食べる。人を馬鹿にし、嗤い、気分のままに無視する。貴族の女性が扇越しに、そのマナーの悪さに眉をひそめても、何処吹く風だ。


 隣に立つ婚約者のように、ただ伝統と家柄という殻に閉じこもり、義務を果たすために微笑むだけの退屈な人形ではない。彼女の放つ傲慢なまでの不遜さは、エドワードの目には、自らの足で新しい時代を切り拓こうとする、目も眩むほどの活力に見えた。


 彼女が口にする浅はかで軽率な欲望の数々を、エドワードは「既存の古い価値観に縛られない、確固たる己の意見」なのだと都合よくはきちがえた。


 エドワードが関心を持って声をかけた時でさえ、ティアラはあろうことか、手にしていた扇をパチリと鳴らして、彼の声を遮った。


「ごきげんよう、殿下。わたくし、今、退屈しておりますの。ここにいる皆様、どなたも面白みの欠片もありませんのよ。殿下なら、わたくしを満足させるお話の一つでも、してくださるのかしら?」


 ティアラはそう言って、笑いながら、目の前で傅く令息の頭にグラスをかかげ、迷うことなく傾けた。手付かずのワインが令息の頭、肩を濡らし、床を濡らした。その空いたグラスを、不躾にエドワードの胸元に差し出し、エドワードは考えるまもなく受け取っていた。


 周囲の貴族たちが息を飲むのがわかった。

 貴族に対する無礼。しかし、酒をかけられた令息は文句も言わず、立ち上がると、黙って身なりを整える。貴族の大半は、彼女の背後にある、父親の金の力には逆らえない。


 それから、王族に対する不敬。王太子を給仕扱いするなど、あまりに不遜。

 しかし、普段、恭しく傅かれることしかないエドワードには、ティアラのそのただの男(・・・・)に接するような尊大な態度は、雷に打たれたような衝撃だった。


 なんという生命力。なんという強烈な自我。


 温室育ちの貴族令嬢には、天地がひっくり返っても真似できない、眩いエネルギーの輝きがそこにあった。

 エドワードはあっという間に、ティアラの虜になった。


「私は誰の機嫌も取らない。だが、私の手を取れば、面白いものが見られるかもしれないぞ」

「例えば?」

「時の流れに逆らい、古きものにしがみつく愚か者たちを、笑い飛ばすことができる。私と共に、そららに抗う覚悟があるのならな」

「それは、とても面白そうですわ」


 エドワードは給仕を呼び止め、新しいグラスを受け取った。赤い美酒が満たされたグラスを、2人は同時にあおって笑った。


「手始めに、ダンスでも」

「喜んで」


 エドワードの視線の先には、公爵夫人に付き添われながら、壁側に控えるアリスがいた。アリスは悲しみも怒りもない涼やかな面持ちで佇んでいた。彼女らしいといえばらしい(・・・)、なんの感情も見いだせない姿だ。


 エドワードは彼女をずっと無視し続けていた。それは夜会だけでなく、普段からそうであり、王太子と婚約者の関係が完全に冷え切っていることは、とっくに社交界に知れわたっていた。


 だからこそ、周囲の動揺は凄まじかった。

 王宮の格式ある床を踏むことすら許されなかったはずの平民の、それもただの成金娘。そんな女に、一国の王太子が骨抜きにされ、甘く微笑み、熱烈な視線を送っているのだ。


 いくら大銀行の娘とはいえ、相手はただの平民。それも、婚約者である公爵令嬢と、その母である公爵夫人の眼前で、堂々と口説くとは。


 公爵家を敵に回すつもりなのか、と。

 貴族たちの間で、気が気でないといった怯えと嘲笑の囁きが広がる。

 淑女の鑑と呼ばれる公爵令嬢を蔑ろにし、時代の寵児たる娘の手を取り、底の浅い傲慢な微笑みに向かって、エドワードは一歩を踏み出す。


 エドワードとティアラは、社交界の慣例など無視して、何曲もダンスを踊り続けた。

 アリスが、冷たい壁際でそれをただ見つめていることなど、エドワードの頭からは完全に抜け落ちていた。


 ただ面白おかしく踊り、身を寄せて愛の言葉を囁き、ふざけては無作法に声を上げて笑った。そんな二人のそばから、一人二人と貴族たちが離れ、あたかもそこだけが意図的に切り離されたような空間が空いていた。


 やがて見かねた侍従が、エドワードの耳元で「殿下、公爵令嬢をこのまま無視なさるのは……」と苦言を呈した。

 その時初めて、ティアラはエドワードの婚約者の存在に気づいた風を装い、わざとらしく小首を傾げた。


「あら……。もしかして私、王太子の婚約者様に、とんだご無礼を働いてしまったかしら?」


 ティアラの声は、広間の中央から隅々まで、よく響いた。真っ赤に彩られた唇には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。


 王太子の婚約は国事だ。王宮に出入りする家柄の娘が、知らぬはずがないのだが、盲目になっていたエドワードの目には、それさえも自分の過ちを率直に認められる、素直で愛らしい姿に映ってしまったのだった。


「そんなことはない。気にするな」


 エドワードはティアラの手を引き、騒がしいホールから逃れるように、強引にバルコニーへ連れ出した。

 古き時代の束縛を捨て、自由の風を掴んだのだと、陶酔しきっていたのだった。








 一方、残されたホールでは。

 娘の尊厳を完璧に踏みにじられた、公爵夫妻の怒りは頂点に達していた。


 無理もない。公爵家は単なる古い血筋ではない。国の内外に鉱山や炭鉱をいくつも所有し、鉄道事業にも巨額の投資を行う、新時代をも牛耳る怪物なのだ。そもそも、蒸気機関が発明され、様々な産業に活用されるきっかけとなったのも、公爵が決して少なくは無い額の投資を根気よく続けた賜物だ。


 領民のより良い生活のため、ひいては社会貢献のため、公爵自身も危うい橋を幾度と渡りながらも、新技術の開発に心血を注いだ。結果、領民ばかりではく、国全体の生活水準を底上げすることに成功した。

 なのに、だ。


 公爵夫人は僅かに夫に不満を漏らすと、氷のような無表情を貫く娘の手を引き、こんな場所には一秒足りとも居られないとばかりに、会場を去った。

 怒髪天を衝く思いで詰め寄る公爵に対し、エドワードの父親である国王は、親しげに公爵の肩を叩きながら、煙に巻いた。


「まあ怒るな、公爵。あの娘はただの成金だ。礼儀も常識も持ち合わせておらん。だが父親は、我が国の国庫を潤す金づるでもある。(けい)の忠誠、及びアリスの献身は、余も重々承知している。……息子には私からきつく言っておくから、今夜はどうか矛先を収めてくれ」


 国王はそう言って公爵の自尊心をくすぐり、機嫌を取りながらも、決して無礼な銀行家の娘を追い出そうとはしなかった。

 伝統の権威も、新興の資本家も、すべてを両天秤にかけて操る。それが抜け目ない国王のやり方だった。


 そんな大人の打算だらけの駆け引きなど露ほども知らず、エドワードは冷たい夜風の中で、ティアラの挑発的な微笑みにただ見惚れていた。








 夜の帳が下りた王宮の庭園。

 遠くで鳴り響く楽団の演奏も、ここでは冷たい夜風にかき消され、僅かな雑音でしかない。エドワードは早くも、目の前の娘が放つ芳醇な香りに眩暈を覚えていた。


「まあ、殿下。わたくしをこんな誰もいない場所に連れ出して、どうなさるおつもり?」


 ティアラは困ったように眉をひそめてみせたが、その瞳の奥には、エドワードの清純さを嘲笑うかのような、熱っぽい光が宿っていた。

 月の光を浴びた彼女は、温室の薔薇にはない、野生の棘花のような危険な美しさに満ちていた。エドワードは衝動のままに彼女の肩を抱き寄せ、さらに奥の、木々に隠された静かなあずまやへと連れ去った。


 そこは、王族が昼下がりに茶を楽しむための、清廉な憩いの場のはずだった。

 しかし今、そこは闇に塗りつぶされ、秘密の背徳を隠すための檻と化す。

 侍従は柱にぶら下げられたランタンに火を灯すと、音もなく去った。


 あずまやの冷たい石造りのベンチに彼女を押し込むと、彼女は拒むどころか、エドワードの首にその白い腕を絡みつかせてきた。


「はしたない場所ですわ、殿下。私のような平民の小娘と、王位を継がれるお方が……」


 耳元で囁かれる言葉は、エドワードの欲望を諫めているようでいて、その実、理性を焼き切るための起爆剤だった。不意に腕を引かれ、引き寄せられた唇が重なった。熱い舌が歯列を割り、戸惑うエドワードの舌を絡みとる。手が下腹部に当てられ、指先がその熱の形をなぞるように動く。

 ティアラの仕草、吐息の混ぜ方、触れる指の強弱。そのすべてに、貴族の淑女たちが逆立ちしても持ち得ない、生々しい手練手管が込められていた。


 平民の女の、安っぽい挑発。

 頭ではそう理解していながらも、抗えなかった。


 エドワードの手は、彼女のコルセットの紐へと伸びていた。

 高価なシルクのドレスが擦れる音が、静まり返った夜の庭園にやけに大きく響く。誰に見られるかも分からないという危うさが、血を沸騰させた。


 宮廷の退屈な規則、婚約者という重荷、時期国王としての義務。そのすべてが、ティアラの唇によって融解していく。

 それは、いけないと分かっていながら飲むことをやめられない、極上の悪徳の美酒だった。


 彼女の首筋に顔を埋めたとき、エドワードは思い出した。

 先ほど貴族たちが嘲笑っていた言葉を。

『格式高い王宮にも、香水に混じって煤と機械油の臭いが漂うようだ』


 なるほど。確かに彼女からは、社交界の古臭い香水ではない、新しい時代の生々しい匂いがした。

 鉄と、蒸気と、燃え盛る欲望の匂いだ。

 そしてエドワードは、その混沌とした時代のうねりに、ティアラという名の魔女を通じて、自ら溺れることを選んだのだ。


 荒い息遣いがあずまやの天井に消えていく。

 こうして二人たちは、誰にも引き裂くことのできない、甘く泥濘のような恋愛という名の地獄へと足を踏み入れた。








 王宮のあずまやでの情事以来、エドワードは完全にティアラの虜となっていた。

 ティアラとの時間は退屈な現実からの逃避であり、新しい時代という大義名分をかりた反逆でもあった。エドワードは王太子としての義務を放り出し、彼女を王宮に呼び出しては、情愛に溺れる日々を送っていた。


 当然、公爵家との婚約が解消されたわけではない。

 その日も、アリスが次期王太子妃としての義務として、定期の茶会に訪れた。

 エドワードはその茶会を完全に無視した。

 同じ王宮内の別室で、ティアラを膝に乗せ、彼女の浅はかな我が儘に耳を傾けながら、高価な酒を煽り続け、鼻息荒く肉体を貪っていたのだ。


「殿下、あの方、またいらしてますの?  健気なことですわね。……でも、殿下の心はもう、わたくしのもの」


 ティアラは甘えた声でそう言い、エドワードの胸に顔をうずめる。エドワードはその言葉にひどく満足し、壁一枚隔てた向こうで、茶も出されずに待ち続けているであろうアリスのことなど、無視するに限ると、ティアラの体をまさぐった。


 数時間後。ようやく飽きたエドワードが、ティアラを送り出し、千鳥足で廊下を歩いていたときだった。

 前方から、音もなく歩いてくる一団があった。

 アリスと、その侍女たちだ。

 無視され続け、何時間も虚しく待たされたはずの彼女は、しかし、髪のひと房すら乱れていなかった。


「……ごきげんよう、殿下。お会いできて嬉しゅうございます」


 アリスはエドワードを見つけると、完璧な角度で、優雅に一礼した。

 その顔には、怒りも、悲しみも、焦りも、一切浮かんでいない。ただの冷徹な、美しいだけの人形の顔だった。

 怒ればいいものを。

 そのすました顔を見た瞬間、エドワードの胸の奥で、どす黒い不快感が爆発した。

 エドワードはアリスへの憎しみをはっきりと自覚した。


 どれほどアリスを無視しようと、別の女に溺れようと、彼女は決して傷つかない。その泰然とした態度は、まるで「あなたがどれほど足掻こうと、伝統の鎖からは逃れられない」と、嘲笑っているかのようだった。


「その面が、気に入らないのだ」


 どろりとした酒の酔いと、やり場のない苛立ちが、エドワードの理性を完全に吹き飛ばした。

 気づいたときには、右拳を固く握りしめ、アリスの完璧な輪郭を持った顔面へと、思いきり叩きつけていた。

 鈍い、肉と骨がぶつかる音が静かな廊下に響き渡る。


「きゃあああっ!」


 侍女たちの悲鳴が上がる中、アリスの身体は、力なく床へと崩れ落ちた。

 美しい白磁の肌に、みるみるうちにどす黒い痣が浮かび上がり、その端正な鼻梁からは、鮮血が床の絨毯へと滴り落ちていく。


 それでも、彼女は泣かなかった。

 床に手をつき、乱れた前髪の間からエドワードを見上げるその表情は、僅かに恐怖に強ばっていた。

 エドワードは荒い息をつきながら、自分の拳を見つめた。


 これでいい。ついに、あの忌々しい美しいだけの仮面を、自分の手で叩き割ってやったのだ。エドワードはアリスを介抱することもなく、きびすを返すと、自室に閉じこもり、祝杯をあげた。


 アリスの両親は、今度こそは婚約を解消すべきと、国王に激しく抗議した。


「我が娘は、王太子殿下の玩具ではございません!  このままでは殺されてしまいます!」


 しかし、国王は冷淡に切り捨てた。

「公爵家の令嬢が、次期国王の妃以外に、釣り合う相手などこの国に存在するか?」と。


 それは、公爵夫妻にとって、最も頭の痛い問題だった。貴族の最高位である公爵の令嬢と釣り合う家格は、同じ公爵家か王家しかない。しかし国内の公爵家に、アリスと婚姻を結べる相手がいないからこその、エドワードとの婚約だ。


 これを解消するとなると、もはや国内を諦め、言葉も文化も全く異なる他国の王族や公爵家を探さねばならない。または、一生公爵家に留まらせるか。


 公爵家としても、アリスを行かず後家にするわけにはいかず、結局、沈黙を守ることしかできなかった。周囲から「王太子殿下を怒らせるな」「大事にされるよう努めよ」と圧をかけられるたび、アリスは頷くことしかできなかった。








 期待と圧迫に晒されながらも立ち続けるアリスを、エドワードは「公爵家という権力の象徴」としてしか見ず、何とか仲をとりもとうとする周囲のそんな配慮すら、彼の自尊心を逆なでし、「どうせ王家の威光を目当てに媚びているのだろう」という被害妄想を加速させる悪循環を生んでいた。


 父、国王からの苦言はあった。とはいえ、国王の子供はエドワードと隣国の王家に嫁いだ姉の二人。どれほど勝手をしようが、王位はエドワード以外の手に渡ることはない。

 むしろ、それだけにエドワードは物事が自分の思いどおりに行かぬ現状を、忌々しく思った。


 新時代の到来で、落ちぶれる貴族も多い中、公爵家は投資で莫大な利益を上げ、今や王国経済の心臓部を握っている。平民の新興勢力とは違い、生粋の貴族であり、忠誠心も厚い。

 国王はその従順さと資金力を喉から手が出るほど欲し、どんなにエドワードが暴虐を働いても、ティアラとの結婚を熱望しようとも、決してアリスとの婚約を解消しようとはしなかったのだ。








 エドワードの暴力は止まらなかった。


 最初の暴力のあと、アリスの登城には公爵夫人が付き添うことになったのだが、所詮、貴婦人の細腕で止められるものではない。エドワードは茶会や妃教育の同席は断っても、アリスを殴って鬱憤を晴らすためだけに、アリスの姿を探し、その端正な顔を歪ませることに悦びを感じ、拳を振るった。


 どれほど罵倒し、髪を掴んで引きずり回しても、彼女は「ごきげんよう、殿下」と、痛みさえ超克したような冷めた声を出す。


「その顔だ。その、すべてを見透かしたような、取り澄ました面が気に入らんのだ!」


 エドワードの不満は、とうとう爆発した。

 それは、愛するティアラとの結婚を認めない父親にではなく、最も弱い立場にあるアリスに向かった。


 妃教育を終えて帰宅するアリスを捕まえて、エドワードは拳を振り上げた。転倒した彼女に馬乗りになり、何度も、何度も殴りつけた。制止する城の衛兵さえも振り払い、気が済むまで暴行を加えた後、大階段から突き落とした。血の海に沈むアリスを、

 愉悦に満ちた表情で見下ろした。


「可愛げのない人形が、やっと壊れたか」


 アリスなど死んでも構わない。そう思った。

 むしろ、これで死んでくれたら、ティアラとの結婚を阻む障害が消えるのではないか。

 駆け寄った公爵夫人が、血溜まりにひざをつき、半狂乱で娘の名を呼ぶ。衛兵や侍従たちが右往左往する。その喧騒の渦中でさえ、エドワードは自分の蛮行を恥じるどころか、晴れやかな心地で恋人との未来に思いを馳せていた。


 事件は瞬く間に社交界に広まった。誰もが両家の縁談は破談になるだろうと確信したが、驚くべきことに婚約は継続された。娘の惨状を前にした公爵夫妻も、外聞より愛娘の命が大事だと、必死に婚約解消を訴え出た。


 しかし、資本家が台頭しつつある時勢で、有力貴族を確実に繋ぎ止めておきたい国王は、公爵家の叫びを冷酷に黙殺した。アリスは公爵家を縛りつける人質として利用されたのだった。


 凄惨な暴行を受けたアリスは、数週間も生死をさまう昏睡状態に陥った。顔面や全身の数カ所に骨折を負う重体だったが、国内最高峰の医師による懸命な治療の結果、ようやくその目を開いた。待ちわびていた公爵家の人々は、その痛々しい姿を涙ながらに迎えた。







 

「そうか、目が覚めたのか」


 侍従からの報告に、エドワードは露骨に落胆の表情を浮かべた。謝罪する気など欠片もない。

 婚約継続が決定事項である以上、彼が望むのはアリスの死のみだった。


「意外としぶといんですのね。人は見かけによりませんわ」


 腕の中で、ティアラが口を尖らせた。

 感情の読めないアリスと違い、よく笑い、躊躇なく贅沢品を欲しがり、愛らしく甘えてくる。わがままを聞き、ねだられるままに高価な品を買い与える━━それはエドワードにとって悦びだった。


 侍従は相変わらず、職務だ教養だとエドワードを管理しようとするが、しょせんは召使いの言葉。無視してしまえばそれまでだ。無理強いされないのをいいことに、エドワードは一日の大半を、ティアラとの情事に費やしていた。


「ねぇ、殿下。目障りなあの方を、いっそのこと殺してしまいましょうよ」


 ティアラはまるでお茶にでも誘うかのような軽い口調で、エドワードに提案した。


「大丈夫。毒の手配はわたくしがいたしますわ。お父様のお友達の工場には、それは恐ろしい劇薬がいくらでもありますのよ。一口で、確実にあの方はお死に遊ばせますわ(・・・・・・・・・)

「ああ、そうだな……」


 エドワードはそれを寝物語の冗談だと聞き流していた。そんなことよりも、ティアラの豊満な肢体を味わうのに夢中だった。


 だからこそ、次の逢瀬でティアラが、目を輝かせながら茶色い小瓶を差し出したとき、一瞬戸惑った。しかし結局は、「バレはしないだろう」という短絡的な思考にかき消され、その呪わしい小瓶を受け取ってしまった。








 計画は滞りなく進んだ。

 母妃から「アリスに見舞いの品を」と再三促されていたこともあり、エドワードはティアラとの王都散策のついでに、手頃な焼き菓子を買い求めた。自室に戻ると、二人はまるで子供の遊びのようにいそいそと、甘い香りを放つ菓子に毒を滴らせた。

 命を奪うことへの罪悪感など、微塵もなかった。


「なんて素敵なのかしら。これできっと、わたくし達の幸せな未来が開けますわ」


 丁寧に包装し直しながら、ティアラが愉悦を堪えきれない様子で、くすくすと笑った。上手いことを言う。これを殺人だと思うから、罪悪感などという余計な感情が芽生えるのだ。二人の幸せのために、アリスの死が必要不可欠ならば、これはそのための通過儀礼にすぎないのだ。


 エドワードは自ら公爵邸に足を運び、病床から起き上がったばかりのアリスに、その菓子を手渡した。

 傷跡も生々しく、全快には程遠い身体でありながら、アリスは精一杯に礼を尽くして、茶席を用意した。そして、婚約者が持参した死の贈り物(・・・・・)を、疑うことなく口にはこんだ。


 が。


 アリスは何ら苦しむ様子も見せず、菓子を二つ平らげ、紅茶をすすった。


 おかしい。こんなはずでは。エドワードが冷や汗をかき動揺するのをよそに、アリスは今後の予定について、療養のためにしばらくは登城を控えることを、淡々と語りつづけた。


 そんなことは、どうでもいい。毒が効かない。その不可解な事態に混乱するエドワードを繋ぎ止めるかのように、アリスは珍しく饒舌だった。話題は公爵家の庭を彩る季節の花から隣国との交易にまで至り、退席の機を逃したエドワードは、無意味な時間がすぎるのを待つしかなかった。


 やがて、自然な流れで、アリスが残した菓子は『王太子殿下からの贈り物』として侍女たちに下賜された。侍女たちは頬を上気させ、感動に震えながらそれを受けとった。


 そして━━。

 惨劇が起こった。

 菓子を口にした侍女たちは、一つを食べ終わる間もなくもがき苦しみ、鮮血を吐いて次々に崩れ落ちた。絨毯のうえで喉や胸を掻きむしり、痙攣しながら異様なほど体をよじって息絶えていく。


 苦痛に目を見開き、虚空を睨む死者たちの視線が、自分を射抜いている錯覚に陥り、エドワードは椅子から転げ落ちた。自分が仕組んだことだということさえ忘れて、無様に床を這いずりながら、助けを求め、叫んだ。








 当人たちが完璧だと自信満々だった計画は、あまりに杜撰だった。侍従や衛兵を引き連れて菓子を買い、侍従や侍女が控える自室で毒を盛る。口止めすらしなかった粗忽さが仇となった。毒の入手経路は即座に特定され、アリス暗殺未遂の罪でティアラは逮捕された。


 湿った冷たい牢に入れられ、家畜のような食事を与えられても、ティアラは自らの置かれた状況を理解せず、不遜な態度を崩さなかった。


「わたくしのお父様は大銀行の頭取なのよ。こんな場所、お父様の力ですぐにでも出られるわ!」


 弁護士から娘の言動を聞かされたティアラの父親は、暗澹たる思いで頭を抱えた。相手が平民であれば、金の力で揉み消すことも可能だっただろう。しかし、今回は話が違う。相手は貴族、それも公爵令嬢なのだ。


 平民の貴族殺しは大罪。

 身分階級━━それは、どれほど札束を積みあげようとも、決して超えることのできない巨大な壁だ。

 ましてや王太子の婚約者を殺めようなど、国家への反逆にも等しい大罪である。


 ここで愚かな娘に加担すれば、共謀と見なされ、一家全員が連座の刑に処される。そうなれば、自分ばかりか、なんの罪もない妻も他の子供たちも、全員が処刑台に送られる。


 ティアラは何をしても助からない。ならば、自分が選択すべきは、一家の受ける傷が最も軽く済む道。それが自分の役目。

 資本家としての計算、そして何より家長としての責任から、ティアラの父親は、血の涙を飲んでティアラを見捨てる決断を下した。








 処刑当日。

 広場は世紀の悪女の最期を見逃すまいとする、膨大な数の平民で埋め尽くされた。観覧席は高値にも関わらず満員。黒山の人だかりの中を、商魂たくましい売り子たちが、軽食や飲み物を売り歩く。中には、悪女の獄中記と銘打たれた眉唾物の読み物まで、人々は奪い合うように買い求めた。


 貴族たちもまた、この残酷な娯楽を心待ちにしていた。彼らは広場を見下ろす建物の一室を借り切り、オペラグラスを片手に、優雅に新興勢力の娘最期を観察する準備を整えている。


 その処刑台の正面に、そこだけは周囲とは切り離された異様な空間があった。


 上質な絨毯が敷かれ、その上には王宮のサロンさながらにソファーが置かれ、花々が飾られている。周囲は重装備の衛兵が囲み、侍女が焚く香の煙がたなびく中、アリスとエドワードが着席していた。もっとも、エドワードだけは、騎士に拘束され、むりやりソファに押し付けられている。


 高らかに鳴らされるラッパに続き、後ろ手に縄で縛られたティアラが、処刑台の上に姿を現した。

 艶やかだった髪は肩の位置で乱雑に切り落とされ、粗末なワンピースをまとい、かつての栄華を忍ばせるものは、何ひとつ残っていない。


 そのむき出しの首に、無慈悲に絞首の縄がかけられた。


「嫌よ! 死にたくない! お父様! 殿下! 助けてぇ!」


 ティアラは全身を大きく震わせ、喉を枯らして叫んだ。

 恐怖に顔を背けようとするエドワードの頭を、騎士が背後から掴み、強制的に正面に向けた。


「殿下! 殿下ぁ! どうして! どうして私だけなのお!?」


 恨みのこもった瞳が、エドワードに、絶望を訴える。

 再びの合図とともに、ティアラの踏み台が勢いよく弾け飛んだ。


「ティアラ! ティアラ! ティアラ!」


 空に投げ出されたティアラは、次の瞬間、凄まじい衝撃が喉を襲った。自分の体重の全てが、一点に集中し、頸椎が悲鳴を上げた。酸素を求め口を大きく何度も開けるが、締め上げる縄はひとかけらの空気も許さない。呻き、必死にもがく様に、人々から拍手喝采が湧き上がった。


 ティアラは虚空を足掻き、不格好に脚をはね上げた。しかし、もがけばもがくほど、縄は容赦なく喉にくい込み、ティアラを死の淵へと引きずり込んでいく。遠のく意識の中で、エドワードの絶叫が聴こえた気がした。


 ずるい! ずるい! エドワード、どうしてあなただけ! ━━足掻き苦しみながら、わずかに残った視界で、ティアラはエドワードを探す。


 しかし、ティアラが見たものは。

 優雅に椅子にすわり、無表情で自分を見つめるアリスの姿だった。

 アリスの瞳に、憐れみも怒りもない。ただ、命じられるままに、目の前で消えゆく命を見届けようという、底なしの()だった。


 ティアラが渇望した王太子妃の冠が、アリスの頭上で光り輝いている。

 あれを望んだ。ただそれだけだ。エドワードに愛された、自分にこそ、ふさわしい。


 憎い。憎い。憎い。

 愛されもしないのに、ただ公爵家に生まれたという幸運だけで、当然のようにその権利を享受するアリスが。


 望んだことが罪なのか。

 愛を独占したことが罪なのか。

 身の程もわきまえずに、愛されもしないくせに、エドワードにまとわりついた寄生虫に、罪は無いのか。


 害虫を払っただけだ。

 当然の権利だ。

 愛されていたのだから。

 彼の隣で、女性の頂点に立つことができるのは、自分だけのはずだった。

 潔く身を引いてくれれば。


 決して許さない。

 毒を使わせたのは。

 自分を処刑台(ここ)に送ったのは。


「ア、リ……スッ」


 熱い。視界が真っ赤に染まる。ティアラは、飛び出るほどに見開いた眼球にアリスの姿を焼き付け、最期までその魂を呪い続けた。


 やがて、ティアラの体から力が抜け、だらりと垂れ下がった。

 ピクリとも動かなくなったその骸を、民衆の熱狂的な喝采が包み込む。


「あああああ! ティアラ! ティアラ! ティアラがぁぁぁ!!!」


 エドワードの正気を失った絶叫も、歓声に飲み込まれ、誰の耳に届くことなく消えていった。


 狂乱し、嘔吐を繰り返すエドワードの横で、眉ひとつ動かさずに座り続けたアリスを、貴族たちは絶賛した。


「なんと気高い。自分を亡き者にしようとした毒婦の最期を、これほど厳かに見届けられるとは」

「まさに未来の国母の姿だ」


 貴族たちはアリスの強靭な精神を、王家にふさわしいと称えた。それに比べて、未練たらしく泣き叫ぶ王太子の不甲斐なさはどうだ。そんな陰口が囁かれ始めたが、それすらも、「これほど賢明な次期王太子妃ならば、王太子の不出来を補ってあまりある」と、アリスへのさらなる盲信に繋がっていった。


 だが、エドワードだけはそのアリスの強靭さに、恐ろしさを感じずにはいられなかった。


 目の前でひとつの命が奪われたのだ。よく笑い、甘く愛を語り、男を手玉にとり、我儘で欲望のままに王妃の座を望んだ、生命力に溢れた一人の女が、縄に吊るされ、その最期の一瞬まで足掻きながら事切れたのだ。

 だというのに、アリスは顔を背けることもなければ、悲鳴のひとつもあげない。ガラス玉のように澄んだ瞳で、死を見届けていた。


 そんなアリスに、エドワードはおぞましさを感じずにはいられなかった。








 結局、エドワードは現実から逃避するように、他の女へと溺れていった。「王太子殿下の女狂いはもはや病の域」と周囲が呆れるほど、エドワードは次々と女達を抱き、快楽に逃げ込んだ。けれど、どれほど肌を重ねても、ティアラを失った心の穴を埋めることはできなかった。


 国王夫妻は、もはやエドワードとアリスの仲取り持つことを断念した。婚礼のその日まで、エドワードを野放しにすることにしたのは、それがアリスの希望でもあったからだ。


 自由を得て、エドワードは次から次へと新しい女の求めていったのだが、不可解なことに、彼が手を出し愛を囁いた女たちは、次々と悲惨な末路を辿り始めたのだ。


 ある者は原因不明の病にふせ、ある者は不慮の事故で命を落とし、ある者は実家が急激に没落し路頭に迷った。身に覚えのない大罪で、処刑台に送られる者さえいた。


 やがて、社交界には血も凍るような噂が広がった。

「王太子の愛人になれば必ず死ぬ」

 恐怖に駆られた女たちは、呪いから逃げるようにエドワードを避け、逃げ場を失った彼は、いよいよ本当の孤独に追い込まれた。気づけば酒と女しかない生活だ。縋る友さえいない。


 こうしてエドワードは逃げ場さえも失い、呪わしいアリスとの婚礼の日を迎えたのだった。








 月日は瞬く間に過ぎ、気づけば十年が経過していた。

 二人の間に、ついに子供が産まれることはなかった。


 夜の営みはあった。義務としてアリスは夜着を脱いだ。エドワードも義務に従い、その冷たい肌に己を重ねた。しかし、抱いている間も、アリスはただ天井の一点を見つめ続けるだけだった。


 まるで精巧にできた蝋人形でも抱いているような虚無感。ティアラとの血肉の通った情熱的な情交を知るエドワードにとって、何ひとつ満たされない時間。彼は絶頂の瞬間でさえ、ティアラの柔らかく熱い肌を思い出し、涙を流しながら果てるのだった。


「あれほどの女狂いでありながら、隠し子の一人もいないのだから、原因は殿下にあるのではないか」


 そんな屈辱的な噂が王宮を駆け巡り、エドワードの自尊心は粉々に砕け散った。

 十年を区切りに実子は諦め、隣国の王家に嫁いだ姉の末っ子を養子にもらうことが決まった。


 この縁組によって、同盟国である隣国との絆はさらに深まり、国の経済は一層の発展に向かった。息子は末っ子らしく甘えんぼうだが、姉の教育が行き届いたお陰で賢く、手がかからない少年だった。


 アリスはすぐに子供に夢中になり、まるで本当の息子のように慈しんだ。

 エドワードにとって、これでアリスとの不毛な義務から開放されることこそが、何よりも救いだった。


 しかし、真のこの国の継承者である自分をさしおいて、アリスが理想の母として民衆の崇拝を集めることは耐えがたかった。ましてや、その実家である公爵家がますます勢力を増し、今では国の政はもちろん、王太子宮の全ても牛耳っていることは、どうしても我慢ならなかった。


 目の前で、息子がアリスと睦まじく過ごしている。それを横目に、エドワードはただ黙って酒を飲む━━それが彼のが日常の風景と化していた。


 睦まじいといっても、そこは感情の起伏に乏しいアリスだ。笑い声をあげ、身体を揺らして、無邪気に駆け回る。それらは全て息子一人の動作だ。アリスは相も変わらず、愉しんでいるのか退屈しているのか、どちらとも判別できない無機質な表情で、子供に接している。


 それでも、息子が「もう、母上、笑わないでくださいよ!」などとはしゃいでいるのを見ると、息子にだけはわかる程度で、笑みを浮かべているのだろう。


 これがティアラだったら。


 きっと子供と一緒になって駆け回り、歌い、踊り、笑い転げているだろう。

 歳月と共に、失われていくティアラの記憶を必至に手繰り寄せ、エドワードは忌々しげに舌打ちして、強い酒を喉に流し込んだ。


 アリスは完璧だ。

 王太子妃としての職務を完璧に全うしつつ、エドワードが放棄した王太子の仕事までも、淡々と請け負う。

 語学力を武器に外交では最前線に立ち、官僚たちはおろか老獪な宰相までも彼女に頭を垂れる。


 その上、母親としても、羨望の的だ。

 貴族も平民も、アリスの慈愛を称え、その振る舞いを模倣することに心血を注いでいる。


 そして━━今や誰もエドワードの事など、見向きもしない。かつて王宮の中心にいたはずの彼は、今や酒だけが拠り所の、透明な存在に成り下がっていた。








 ある夜、酒に溺れたエドワードは、アリスの寝室に乱入した。

 何かをしようと思ったのではない。若い頃のように拳をふるう気力もない。ただ、いつものように息子が眠るまで寄り添い、全ての仕事を終えてから、ようやく侍女を従えて寝室に向かうアリスを見かけた、それだけだった。


 アリスは寝台で体を起こし、読書をしていた。

 灯火に照らされたアリスは、若いころと何ひとつ変わっていない。()()()()()()()()()()()エドワードでさえ、日々の不摂生と時の流れには抗えず、確実に容姿を衰えさせているというのに。


「お前は……化け物か?」


 エドワードは酒瓶を床に叩きつけ、嘲笑混じりに罵倒した。


「何が楽しくて生きている! 親に言われるまま、好きでもない男と結婚し、血の繋がらぬガキを愛でて。……お前には、意思というものがないのか? あの時、ティアラを殺してまで生き残ったのが、こんなつまらん女だったとはな! 毒を食らっても死なないなど、やはりお前は人間ではないのだ!」


 アリスは、黙って本を閉じた。ガラス玉のような瞳が、真っ直ぐにエドワードを射抜いた。


「ええ。わたくしはもう、生きた人間ではありません。わたくしはあの日、あなたに殺されたのです。……毒をいただくずっと前に」


 その声は、重力を持たない霧のように、部屋の隅々まで染み渡った。


「取り澄ましたこの顔が気に入らないと、あなたがわたくしを殴り続け、大階段から突き落としたあの日。わたくしは死んだのです。死人に、毒など効くはずがないでしょう?」


 エドワードは戯れ言と鼻で笑った。だが、背筋を這い上がる戦慄を止められない。


「公爵令嬢としての義務、次期王太子妃としての義務。それだけがわたくしをこの世に繋ぎ止めていました。時折、自分が生きているのではないかと錯覚することもありましたが、自分の肌に触れる度、氷のように冷たく、腐敗さえ拒むほどに凍りついていることを思い知らされるだけでした」


 アリスは静かに立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。


「義務は果たしました。世継ぎも決まり、国も安定しました。あなたが玉座に就くのは、まだ先でしょうけど。……もう、死んでもいいのかしら」

「勝手にしろ! 化け物が!」


 エドワードは吐き捨て、寝室を飛び出した。


 アリスはエドワードの背を見送ったあと、机に向かって、二通の手紙をしたためた。

 一通は、いつもアリスを支えてくれた両親に、溢れんばかりの感謝と愛を。

 もう一通は、愛する息子に、輝かしい未来を願う祈りを。


 死んでもよいかと問うたら、勝手にしろと答えが返ってきた。それはすなわち、アリスがこの世から消えたとしても、王家もこの国も困らないということだ。


 自分に課された役目は終わった。

 その日が来ることなど、これまで考えたこともなかった。それほど、毎日が公務に忙殺された。


 父と母を悲しませるような最期は本意ではなかったし、息子がこの先、どんな人と出会い、どのような愛に囲まれ、成長するのかを見届けたい未練も、わずかにあった。だが、義務を全うしたと悟った瞬間、自分を現世に繋ぎ止めていた気力が、ぷつりと断ち切られた。

 アリスは寝台に横たわり、侍女を下がらせた。


「ああ、これでようやく眠れるのね。……おやすみなさい」


 そう呟くと、静かに、二度と開かぬ目を閉じた。








 翌朝。王宮はかつてない侍女の悲鳴に包まれた。

 王太子妃の寝室━━そこには、昨夜まで凛として美しかったアリスの姿はなかった。純白のシーツの上に横たわっていたのは、顔を砕かれた骸骨が一柱。王太子妃の夜着だけが、その象牙色に変色した骸骨を優しく包みこんでいた。


「このお方は、少なくとも十数年前には亡くなっているはずです。昨晩まで生きておられたなど、医学的に有り得ぬことです」


 検分した医師の言葉に、エドワードはその場に崩れ落ちた。

 あの日、エドワードの蛮行によって、アリスは本当に命を落としていたのだ。

 自分が見ていたのは、復讐でも未練でもなく、ただ義務という呪縛にとらわれ、眠ることを許されなかった屍。


 そして、エドワードは気づく。

 自分が手を出し、不幸に見舞われた女たち。

 その一人一人の素行を確認し、末路を見届けたのは誰だったか。表情一つ変えず、王太子としての未来に障害となる女たちを冷徹に排除し、時に処刑台に送ったのは誰だったのか。


 それもまた、アリス自身が果たし続けた、義務の一つであったのだ。

 エドワードは今更ながら、取り返しのつかない自らの罪の深さに、ただ震えるしかなかった。








 アリスの死は、国中に深い悲しみをもたらした。王太子の堕落ぶりとは対象的な彼女の慈愛と功績は、読み物となって王都から遠く離れた辺境にまで広まっていた。そのため、最期まで愛されることのなかった悲劇の王太子妃に、国民の凄まじい同情が集まったのだった。


 彼女に仕えた召使いたちは、涙ながらにエドワードがアリスに加えた仕打ちを暴露した。本来なら不敬に問われるべき行為であったが、それすらも不問にふされるほど、人々はアリスを崇め、その死を悼んでいた。


 公爵家も黙ってはいなかった。

 愛娘の残した最期の手紙を読み、公爵は涙に暮れた。そこには夫への不満も恨み言も、ただのひとつもつづられていなかった。あるのは両親への深い感謝と、長寿を願う慈しみ、兄弟の幸せを願う言葉、それから、自分が去った後の息子と()をどうか宜しくと頼みますという願いが、穏やかな筆致で記されていた。


 どこまでも優しい娘だった。

 その上、他人が自分になにを求めているのか、正しく推慮し、応じることのできる賢い娘でもあった。


 エドワードとの婚約がなければ。

 公爵の激しい怒りは国王とエドワードに向かった。不敬を恐れず剣を突きつける公爵に、国王はひざをついて平謝りすることしかできず、恐れおののいたエドワードは、あらゆる面会を拒否し、自室に閉じこもった。


 たとえ公爵がその場で国王の首を跳ね飛ばしたとしても、止める者はいなかっただろう。噴き出す怒りに公爵の奥歯はきしみ、身体中の血液が沸騰する。抜き身の剣先は小刻みに震えた。だが、公爵は血が滲むほど強く拳を握りしめ、剣を鞘へと納めた。


 脳裏に、民のために尽くし抜いた娘の姿がうかんだ。

 領民のために、その生活を豊かにせんと心血を注いできた自分自身の背中を、娘は真っ直ぐに見つめ、その生き様に倣おうとしていた。その健気さを、公爵は密かに誇りに思っていた。


 その自分が、暴力(・・)をもって復讐するなど、許されようか。

 娘の前では清廉でなければならない━━と、公爵は荒れ狂う激情さえも飲み込んで、娘の遺志を全うすることを選ぶ。すなわち、国を正しい方向に導く(・・・・・・・・・・)道を選んだのだ。


 公爵が国王に迫った退位の要求に、反対する者などいなかった。むしろ、それが新聞に報じられるやいなや、民衆は歓喜し、公爵に続けとばかりに王宮に押しかけ、王宮前の広場は民衆で埋め尽くされた。

 かつて王権を支えた貴族議会でさえ、アリスという唯一の希望を失った今、満場一致で王の廃位を議決した。


 そして公爵は、狂乱し拒絶するエドワードを力ずくで引きずり出し、その頭上に黄金の冠を押し戴かせた。

 ━━だが、それは祝福ではなく、生涯消えぬことのない呪印を刻むための儀式であった。


 王として君臨したのは、わずか一日にすぎない。

 翌日、公爵は再びエドワードの手から王笏をとりあげ、その身分を剥奪した。代わって、アリスが育て上げた義理の孫へと、その冠を譲らせた。


 少年王の誕生に、民衆は沸き立った。新時代の到来を新聞各紙が書き立て、戴冠の儀を描いた絵画は飛ぶように売れた。

 人々は、アリスを人質にして弄んだ先々代国王にも、欲望に負け、暴力と酒に身を落とした先代国王━━エドワードにも、とうに嫌気がさしていたのだ。

 譲位を祝う祭りは幾日も続き、街には歌声と踊りが溢れた。


 そして、祭りの最後の夜、悲劇の王太子妃のために、安らかな眠りを祈り、街中の灯りが一斉に消された。祈りの静寂が、夜の帳を優しく包み込んだ。








 エドワードは王太子宮にひとり佇む。


 アリスが遺した息子は、恐ろしいほどに優秀だった。母に慈しまれた記憶をその魂に深くきざみ、母の死を悼みながらも、若き王は彼女から授かった知恵を国政へと見事に昇華させていった。

 周囲の老臣たちも、亡きアリスを偲ばせる若き王を支えるべく、かつてない結束をみせている。


先王(・・)とは違い、聡明でご自分のお立場をよくよく理解しておられる」


 臣下たちの囁きは、隠しようもない蔑みを孕んで、時折王宮をさまようエドワードの耳に、明瞭に届く。薄暗い回廊の影から、新王が中心となって国が眩い光を放って変わっていく様を、ただ虚ろに見つめることしかできなかった。


 かつて自分が人形だと見下したアリス━━彼女が作り上げた世界の中で、今やエドワードこそが、意志も居場所も持たぬ、惨めな抜け殻と化していたのだった。




細々と書いておりますので、感想をいただけるは大変ありがたいのですが、ネタバレ、特にストーリーの仕掛けや隠し球の部分を明記するのは、ご容赦くださいませ。


暗い気持ちになったあとは、↓コメディをどうぞ。

"無自覚にわたしを蔑ろにする婚約者は、幼なじみの令嬢と『男友達』ごっこに夢中です"

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若いうち悪い事をするのは、気持ち良いのだろうけど この結末になったのは 結局は王子様のIQが低いのが問題だったんだろうな。 それを許した国王も。 伝統の中で生まれ、伝統の中で育ち、伝統に守られてきた…
王もバカ王子も王子にたぶらかされたばか娘達も親に愛されてる有力者を敵に回すから酷いことに、、、。
アリス……… アリスの魂に安寧な眠りを願わずいられません
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