拾ってにゃん。
俺、お前のことがなんか嫌いだったんだよな。
父さんの膝の上を占領してゴロゴロ寝てたり、母さんが呼べば、にゃーって可愛く返事する。それなのに俺がご飯を用意してやっても、いっこうに出てこない。
それに一番ムカつくのは、お前の名前だよ。あとから来たくせに「シンイチ」って。意味とかなんも知らねえくせに。
夜の帳が下りて、小雨が降るバイパス道はやや渋滞気味だった。雨粒がフロントガラスを軽く打ちつけて、規則正しく動く無機質な音がそれらを流していく。動かない車列に、ハンドルを握る指が自然と動いた。
さっきからずっとこうだった。
まとまらない思考が頭の中を塗り替えては、嫌な想像と過去の思い出が何度も行ったり来たりしている。口に出してしまったらもうおしまいだ、とまで思った。
無造作に助手席に放っていた携帯電話が鳴った。悩んだのは一瞬、すぐさまスピーカーに切り替えて応答する。
「ちょっとあんた。今どこまで行ってるの!」
「あとで落ち着いたら説明するから待ってろって言っただろ」
わざとらしくため息までついてやった。もう別にいいんだ。どうせ、もともとこいつとは上手くいってなかったんだし。これ以上失うものなんてない。
「はあ? もうこんな時間なんだよ? あんただって明日は仕事もあるし、もう電車もなくなるんだよ」
分かってないな、と思った。いや、たぶん俺も分かってない。後先を考えずに飛び出してきたのは、いつも俺の方だった。
「いいから落ち着けって、レイカ。いや、落ち着くのは俺だったな。そうじゃなくて、うん。とりあえず、俺は今実家に向かっている途中だ」
言った直後、車内いっぱいに、彼女の叫び声がキンキンと響きわたった。
「ちょっとマジで意味分かんないんだけど。そこまで、あたしのこと嫌いだったってこと?」
「ちがうって」
「なにがちがうんだよ。はい、もう分かった。やっぱやめた。もう切――」
「実家から連絡があったんだよ。うちで飼ってたシンイチが亡くなりそうだって」
「え、シンイチって? 誰のこと?」
レイカの表情がすぐに頭に思い浮かんだ。思えば俺も、あいつとか猫としか呼んでこなかったかもしれない。
「実家で飼ってた猫だよ。たしか俺が小学生の頃にうちに来たんだ。もうすっかりおじいちゃんだな」
事実だ。ただの事実で、その過去が積み重なって、俺は今こうして車を走らせている。俺はお前とちがって、まだまだ現役なんだ。
「ふうん、そうだったんだ。でも、やるじゃん」
なにがやるじゃんなのかさっぱり分からない。
「な? だから、ちょっとは落ち着かせてくれよ。俺まで上の空で事故でもしたら、どう責任取ってくれるんだ?」
そろそろ切り時だな、と思った。
「なんかそれはちょっとやだな」
「え?」
「あんたが、死ぬかもしれないってとこだよ」
「いつから俺が死ぬ話になってんだよ」
俺、シンイチって言ってたよな。
「いいから。ちゃんと帰ってこいってこと」
「いいのか?」
「まだ言わせる気なの? それはあんた次第だよ」
ツーツーと言う音が、車内の静けさと混じり合って、一人になったことを嫌でも実感させる。気づけばテールランプはすでにまばらに散っていた。
お前、黒一色ってなんか地味で嫌だって、言われたことあるの覚えているか?それなのに女の子にヨシヨシされてさ、ずっと前から家族の一員でしたよ?みたいな顔してた。ほんと、そういうところだよな。
ちょうど今と同じ、傘をさすほどじゃない雨が降っていたんだ。
お前は知らないかもしれないけど、あの頃の俺はなにもできない自分を認めることができなかったのさ。
逃げ場のない水気が、だらんと伸びた服に絶え間なく染み込んで、擦りむいた膝に追い打ちをかける。人気がない路地裏で、それでもすれ違う人はいたはずなのに、目が合うことはなかった。ここまで数十メートルは蹴り続けてきた石ころが、見事に側溝に落ちてしまって足が止まった。
母さんには、それでも手を上げるのだけはダメだと宥められた。仕事から帰ってきた父さんとは言い合いになって、さらにボコボコにされた。父さんは胡座かいてるのに俺だけ正座させられてさ、意味分かんないだろ。膝の隙間で丸く収まってたお前もだよ。助けるとかないのかよ。眠そうな顔しやがって。
その夜、部屋全体がうっすらとした白銀に包まれていた。じっとしていられなくなって、乗り出すように窓の向こうを探してみた。はたして雲の中に、ぼんやりとそいつはいた。なんだよ、中途半端だな。
それから布団には戻らずに、ベッドの端に腰かけた。今になって、体のあちこちが鈍く痛みを訴えてくる。心の中はクリアで落ち着いているのに、どこかふわふわと浮いているような不思議な感覚がする。気づけば足を抱えて、縮こまっていた。
気配を感じた。
気のせいかもしれないと思ったけど、顔を上げてみたんだ。丸い二つの目が、遠くからはっきりと俺を見上げていた。別に声をかけたりなんてしないさ。
とん、と軽くベッドが軋んで質量を感じた。
なんだよとか、勝手に入ってくるんじゃねえとか、言葉が喉元で引っかかってうまく出てこない。そもそも、俺から話すことなんてなにもないのにな。じっと見られているような気がしたが、これ以上は近づいてこなかった。
「拾われたくせに、優しくすんじゃねえよ」
精いっぱいだった。
お前が部屋から出ていったことに気づいたのは、それからだいぶ経ったあとだった。
日付が変わる前には雨も止み、地元に辿り着いていた。
猫が亡くなったことは、途中立ち寄ったサービスエリアで知った。母は無理に帰ってこなくてもいいと言ってくれたが、それでも帰るとだけ伝えた。レイカにも軽く状況を説明しようとしたがやめた。もう夜も遅いしな。
煙草に火をつけると、ゆらりと煙が立ち上がった。駐車場をぐるりと見渡して、こんな時間でも結構車は停まってるもんだなと思った。
車から降りて実家を眺めていた。
正月にレイカと一緒に来たとき以来だから、かれこれ半年近く帰っていなかったのか。鍵のかかっていない玄関ドアを開けると、すぐに母が出てきた。
「頑張ってたんだけどねえ。ほら、お兄ちゃんが帰ってきたよって、早く顔見せてやりな」
「ああ。リビングだよな。あいつの寝床もちょうどそこだったし」
俺は、荷物という程でもない荷物を玄関に下ろしながら言う。
「譲二の部屋に連れて行ってあげたよ。もしかしたら、最後まで会えないかもしれないと思って」
母さんが堪えたような声を出す。
「どうも。じゃあ行ってくるよ」
そう言って、自分の部屋があった二階へ上がった。
たしかにここは俺の部屋だった。ベッドの上に載せられた小さな段ボール箱の中に、お前は横たわっていた。
「段ボール箱からまた段ボール箱行きかよ。お前も好きなやつだな」
ベッドの端に腰を下ろしてから、そう言ってやった。これくらいで十分だ。
それから手の甲で、そっと頭を撫でてやった。思っていたよりもずっと小さくて壊れそうで、冷たい。
もしかしたら、まだ寝ているだけかもしれない。そう言われても信じられそうだった。
一階から物音がする。
どれくらいそうしていたのか分からない。明日のこともある。そろそろだなと思って立ち上がろうとしたときだった。
停電か?
突然部屋の電気が消えて、部屋全体がうっすらとした月灯りの元に晒された。その瞬間、思わず心臓が止まりそうになる。
「あ、ごめん。間違えて切っちゃった」
レイカだ。レイカの声がする。でも、なぜだ?
「ちょっとごめんってば。あんたもなんか言いなさいよ。
ほんと、ギリギリで間に合ってよかったよ。友達に頼み込んでさ、車出してもらったんだ」
だめだ。今何か言ったら俺は――
「この子、信一って名前だったんだね。あんたがいつも、猫とかこいつとか呼んでたから、今初めて知ったよ」
レイカが俺の隣まで来て、段ボール箱に添えられた小さな手書きの札を指差していた。
もうだめだった。
みっともないやつだって笑ってるだろうな。
帰ってきたくせに結局これかよって。
「……泣いていいんだよ」
肩にそっと感触があった。
「あたしがいるからとか、そんなこと考えなくてもいい。そばにいるから」
なあ、お前。
俺の顔が見えているのか?
もう見えないだろうな。
でも、それでいい。
俺は、まだまだ現役なんだからな。




