あの頃のまま。
昔から変わらないもの。それがひとつでもあるならその人はきっと真剣でとても凄く情熱的で真っ直ぐなのだと私は思う。
雨上がりの夕方の匂いが、窓からそっと入り込んでくる。洗い立てのタオルみたいに柔らかくて、どこか懐かしい匂いだ。私はその匂いに包まれながら、膝の上の小さな娘の髪をそっと撫でていた。
「ねえ、まま。むかしのおはなしして?」
娘は眠る前になると決まってそう言う。まだ七歳のくせに、恋の話が大好きだ。私が少し笑うと、娘は期待の目をさらに大きくして揺らした。
「そうだなあ、じゃあママが高校の時に出会ったすごく情熱的なある男の子の話をしようか」
「じょうねつてき?」
「うん。まっすぐで、しつこくて、でも優しい人」
「えー!だれだれ?」
娘の目がぱちりと開く。期待の色が、大きな湖みたいに揺れた。
私は軽く咳払いをして、昔の風景をひとつずつ、そっと心の中から取り出すように語り始めた。
高校一年の終わり頃。廊下の向こうから、まるで走ってくる風のかたまりみたいに、勢いよく現れた男の子がいた。息を切らしながら私の前に立ち止まり、いきなり言ったのだ。
「あの!とても可愛いなって!その!一目惚れしました!好きです。付き合ってください!」
あまりに突然すぎて、私は息を飲んだ。教科書が胸の前でふるふると震えた。
「え、ごめんなさい。」
私はそう答えた。というより、反射的に拒否してしまった。だけど彼は、落ち込むどころか、笑ったのだ。
「そっか!わかった!返事ありがとう!
じゃあ、また明日!」
そのまた明日がそのまま一週間、二週間、そして一ヶ月以上続くとは、この時は思ってもいなかった。
次の日、また彼は私の前にきて言う。
「おはようございます!今日も好きです!」
「……はいはい」
放課後になると、
「いずみさん!ご飯行きません?おいしいラーメン屋があるんです!」
「行かない」
「じゃあ映画は?」
「行かないってば」
それでも諦めない。
「好きです!今日も好きです!」
「もう聞き飽きたよ……」
けれど不思議なことに、彼がそう言ってくれるのが当たり前みたいになっていった。
彼が声をかけてくるのを、私は心のどこかで待っていた。もちろん、好きなんて気持ちはなかった。でも、彼の声がしない日なんて来るはずがないと思っていた。
だからあの日、彼が学校を休んだ時、胸の奥にぽっかり穴が空いたようだった。
教室のドアが開くたびに、条件反射で顔を上げてしまう。だけど彼はいない。ただ、彼の席だけが律儀にそこにあった。
昼休みになっても現れなくて、私はやっと自分が寂しいと思っていることに気づいた。
でも、それを認めるのがなんとなく恥ずかしかった。しつこくて、暑苦しくて、毎日好きだと言ってくる人を恋しいなんてそんなの、私らしくない。
放課後、先生がプリントを配りながら言った。
「早川くん、熱で休みだそうだ。誰か家の近くの人、これ持っていってあげられるか?」
私は気づけば手を挙げていた。
夕暮れの青さが沈みきらない頃、私は彼の家の玄関の前に立っていた。
インターホンを押すと、弱々しい足音が聞こえて、彼が出てきた。顔が赤くて、目がとろんとしていて、髪は寝癖で跳ねていた。いつも大声で好きだと言う彼が、見る影もなく弱っていた。
「……いずみさん?」
「プリントついでに……大丈夫かなって」
言ってから、自分がなんだか恥ずかしくなった。
「ありがと……ごめん、ちょっとふらふらしてて……」
見るからに辛そうで、私は勝手に台所へ向かい、スポーツドリンクやらタオルやらを探し出して、小さなテーブルの上に並べた。
「ちょっとだけ看病してくね。親は?」
「……共働きで、まだ帰ってこない」
そう言った後、彼は布団に潜りこみながら、蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「……好き……です……」
「聞こえてるよ。寝なさい」
私は思わず頬を赤くして、視線を逸らした。
彼が学校に戻ってきた頃、私はまんまと風邪をもらって寝込んでしまった。
布団にくるまりながら、今度は早川くんが来てくれるのではないかと思っていた。
そんなことを少しでも期待している自分が、なんだか可笑しかった。
インターホンが鳴った。
玄関の扉を開けると、彼が立っていた。息を切らし、手には袋いっぱいのスポーツドリンクとゼリーと、コンビニの雑炊と、タオルと、なぜかカエル柄の冷えピタまで。
「いずみさん大丈夫!?来るの遅くなっちゃってごめん!」
「ちょ、ちょっと……声大きい……」
「だよね!ごめん!でも助けに来たよ!」
彼は私の部屋に入るやいなや、いつものように満面の笑みで叫んだ。
「今日も大好きです!付き合ってくださーーい!!」
「頭痛いから静かにして!」
私は布団の端で頭を押さえながら言った。
「ごめんなさい!でも大好きです!いずみさんの看病出来て幸せです!」
黙って欲しかったのか、熱のせいか、口から思わずこぼれてしまった。
「はいはい、わかったよ。
付き合えばいいんでしょ」
彼は固まった。目を丸くして、呼吸さえ忘れたみたいだった。
「え、い、いまなんて」
「だから、いいよって」
「ほんとに!?ほんとに!?やったー!!」
彼は子どもみたいに跳ねて喜んだ。私は枕に顔を埋めて、温まった頬を隠した。
そして、私の気持ちも。
好きなんて認めたくなかったけど、
彼の「好き」がない日はこんなにも寂しくて、
ひとりでいると胸が落ち着かなくて、
ようやく気づいたのだ。
私はずっと、あの声に救われていたんだ、と。
「えー!そんなすてきなひとがいたの!?」
娘はぱあっと顔を輝かせた。まるで、昔の私の胸の内がそこに写っているみたいだった。
「素敵というかしつこいと言うか、、笑」
「でもままもすきだったんでしょ?」
「さあ、どうだろうね」
私は笑って誤魔化した。
その時だった。玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「ぱぱだー!!おかえりー!!」
娘が勢いよく走りだす。玄関から聞きなれた少し低めの、でも弾む声が聞こえてきた。
「ただいまー!今日も可愛いなぁ、だーい好きだぞ!」
彼の声だ。高校生の頃からまったく変わらない、あのまっすぐな声。
娘を抱き上げ、少し伸びた髭がほっぺに擦りつけられ、娘がきゃあきゃあと笑い声を上げる。
私は立ち上がり、キッチンへ向かう途中で彼と目が合った。
「ただいま!いーちゃん今日もお疲れ様!大好きだよー!」
あの頃と同じ声。あの頃と同じ、やわらかい目。笑い方も全部あの頃のまま。
私は思わず笑ってしまった。
「おかえり。……ほんと、変わらないね」
高校生の頃から、何も変わらない。
娘が腕の中で叫ぶ。
「ねえまま!ままが話してたその人!パパみたいだね!!」
私はふっと笑った。
「そうだね。……パパだよ」
「なになに?!僕の話?!何話したの教えてー!」
「女の子二人のひみちゅ!」
小さな家の中に、彼の声が満ちて娘の声が響く。 毎日聞き飽きるほど言われたあの言葉が。
私はあの頃と同じように、胸が少しだけ熱くなった。
高校生の頃から、何も変わらないんだ、この人は。
そして、私の気持ちも。




