事件、再び
翌日も私と大貫はぎくしゃくしていた。
変な距離感になってしまうことは何度かあった。被害者と加害者なんだから当然だけれど、それでもまったく口をきかないのは始めてだ。
喧嘩になるようなことをした覚えはない。それなのに一言も話さず朝を過ごし、無言のまま一緒に職場へ来るのはストレスがたまる。
大貫は、何を考えてる?
一緒に職場へ向かう道中、私は歩きながら大貫の横顔を見上げた。
いつも通り綺麗な顔をしている大貫は、今日はいつもより少し涼し気な表情をしている。笑みとか喜びとかを微塵も感じない冷めた横顔は、知らない人みたい。
なんでそんな顔をするのよ。
わたしはただ、大貫ときちんと話したかっただけなのに。
大貫につられて、私の表情まで暗くなる。
仕事中、利用者さんにそれを指摘されて、私は無理やり口角を上げた。でもしょせん無理な笑顔は本心じゃない。上手くいかない。今日は利用者さんにもスタッフにも注意されっぱなしだ。
最悪。
今日も大貫は午後三時に帰宅した。
大貫が帰ってからはいつも通りの自分に戻ったけれど、大貫の存在ひとつでこうも自分を保てなくなるのかと、自分で呆れる。
私の中で大貫はかなり大きな存在になっている。
でも大貫は私に遠慮して、それでいて同棲を続けていて、ああ、ああ、もう!
「浅野ちゃん、なんかむしゃくしゃしてる?」
スタッフルームでおじさんスタッフに指摘され、私は日誌を書きながらペロッと舌を出した。
「そんなに態度出てます?」
「出てる出てる。でもその調子なら大丈夫そうだね」
「何がですか」
「いや、ほら最近このへんで変質者が出るっていうじゃない。でも今の浅野ちゃんなら相手をボッコボコにできそう」
できるかよ。
おじさんスタッフの発言にイラつきながら、私はあいまいに笑って話を終わらせた。
腹が立った。けれど、おかげで大貫へのモヤモヤが少し薄れる。
午後7時半。
外が真っ暗になって、私も帰宅する。
今日はいつもより少し早く帰れた。大きなトラブルがなかったおかげだ。
電灯の少ない真っ暗な道を独り歩き、大貫のマンションへ。
夜の独り歩きは寂しい。
今までそんなことを思ったことはなかったのに、最近は凄くそう思う。同じ道を、朝は大貫と二人で歩いているからだ。今は、ザッザッザッと一人分の足音しかしない。それが寂しいのだ。
ずっと一人が当たり前だったのに、頭の中がすっかり変わってしまった。
大貫がいないと、私は寂しい。
大貫とちゃんと向き合いたいと感じる。
被害者と加害者としてではなく、対等な関係になりたい。
ううん。できれば、もっと特別な関係に。
私にはもう、大貫が特別な存在なのだ。
――ガサリ。
急に背後で足音がした。すぐ近くで人の気配がする。
ふと、おじさんスタッフの言っていた変質者の話を思い出す。もしかしたら。まさか。
だけど振り向く勇気はなかった。だいたい、変質者とは限らない。ただの通行人かも。それにしては、妙に距離が近いけど。
――ガサ、ガサ。
大きな足音と共に、私は背後から肩を掴まれた。
「っ!」
息を飲み、振り返る。
私の背後に人がいる。
見覚えのない大男だった。
スキンヘッドに、金色のゴツいネックレスをジャラジャラつけている。パッと見、ヤクザみたいだ。
「なっ」
なんですか、と言いたかったのに言葉が出ない。
男はニタァと笑った。
「なあ、なんでお前、家に帰らねえんだよ」
その言葉で私は察した。
この男、私の住んでいたアパートを知っている。私がアパートを引き払ったことを知っている。
この男が私のアパートへ空き巣に入るよう指示したヤクザに違いない。
「なっ、なっ」
なんで。どうして。なんなの。
言いたいことが喉の奥でこんがらがる。
男はそんな私を見てニヤニヤ笑った。
「まあ、いいんだよ、引っ越したことはよぉ。なあ、神奈チャン。俺の女になれよ。俺んち来て、一緒に暮らそうぜ。可愛がってやるからよぉ」
男の手が私の肩から胸のあたりまで伸びてきて、肩を組む姿勢のまま胸をわしづかみにされた。
ショックで身体中に稲妻が走る。麻痺したみたいに動けない。
なんなの、この男。
なぜ私に絡むの。
私の何を知っているの。
男はそのまま腕に力を入れ、私を男の方へ引き寄せる。転びそうになった私は、引きずられるように男の進路通りに足を進めるしかなかった。
私の頭に、血まみれになった大貫の姿が浮かぶ。
刃物で刺された大貫。そのまま犯罪を強要された大貫。
もしかして、私も刺される?
心臓がバクバクする。速まる私の呼吸の合間に、男の「ヒヒッ」と笑う声がする。
ついて行きたくなんかない。それなのに、まるで男に催眠術でもかけられたかのように足が動いた。抵抗したら殺されるかもしれない。そんな恐怖に溺れそう。足が勝手に男に従う。
「俺、一目惚れしたんだよ。歩いてる神奈チャン見て、可愛いなぁ、おっぱい大きいなぁって。げへへ」
男が下品に笑い、つばが飛んだ。
鼓動が速すぎて息が吸えない。
男が何を言っているのか理解できない。
「それでさぁ、神奈チャンのこと知りたくて、いろいろ調べたんだぜぇ。部屋の合鍵作ったりよぉ、神奈チャンの私物集めたりよぉ。せっかく部屋に侵入させたのになんの収穫も無かったのはクソだったけどな」
今の話は大貫の空き巣のことだ、とピンときた。
なんの収穫もなかった?
クソだった?
何が?
私の身体が小刻みに震える。恐怖ではない。怒りが全身にいきわたる。
大貫に怪我をさせて、心を傷つけ、クソ呼ばわり?
ありえない。
ふざけるな!
そう思った瞬間、男が道路の脇に吹っ飛んだ。つられて転んだ私も、歩道に手をつく。
なに?
何が起こった?
私は、無意識のうちに自分で男を殴り飛ばしたのかと思った。だけど違う。男は誰かに頬を殴られ、吹っ飛んだのだ。
「浅野さん!」
私の名を、聴きたかった声が呼ぶ。
「え、お、大貫くん?」
なぜか暗闇の中に大貫が立っていて、大貫は私の手をグイッと引いて私を立ち上がらせた。薄暗くてよくわからないけれど、大貫はとても険しい顔をしている。怒っているみたい。
「怪我は?」
「な、いと、思う」
答える私を大貫は上から下までジロジロ見て、私をギュウッと抱き寄せた。
「よかった」
私の耳元に吐息のような大貫の声が届く。すっぽり包まれるように抱きしめられた私は、全身で大貫の体温を感じた。
「ほんとに、よかった」
大貫のかすれた声は安堵と恐怖と涙が混じったようなグチャグチャな声で、それが私の心のど真ん中に届いて、心の芯から熱が上がった。
なにこれ、ヒーローじゃん。王子様じゃん。
全身が甘く溶けて力が抜ける。
大貫のハグがたまらなく気持ちいい。
そんな私の思考を遮るように、ヤクザのような男の怒号が響いた。
「んだテメェはよお! なにしやが、って、テメェ神奈チャンに触れてんじゃねえぞコラァ!」
私を抱きしめていた大貫が手をゆるめ、自分の背後に私を隠した。
「大貫くん」
私は彼の背中を掴みながら、また刺されたらどうしようとか、どうにかして逃げなきゃとか、いろいろなことを考えた。
それを言葉にする前に、男が握りこぶしを振り上げる。
やばい。やばい。
――バチン!
大きな音と共に、大貫がこぶしを腕で受け止めた。
「警察」
大貫が小声で呟く。
そうだ、110番! 私は大貫の背中に隠れながら、こそこそと通話ボタンを押した。
「テメェどけよ!」
男は唸るような声をあげ、再度パンチを繰り出す。
大貫の頬にドガンと拳が突き刺さる。
「大貫くん!」
よけてよ、と思ったけれど、大貫はよけなかった。私をかばおうとしたからだ。ヒーローみたいに自分を犠牲にして、私を守ろうとするから。かっこいいけど、でも、でも!
よろめいた大貫が足元に崩れ落ちる。それを私は震える足で立ちながら見ている。スマホから声が聞こえているが、応答する余裕はない。震える手でスマホを握り締め、男を睨みつけるだけで精一杯だ。もうこれ以上大貫を傷つけないで。
男は崩れ落ちた大貫を見もせず、私に冷え切った目を向けて、歯をむきだした。
「とんだ邪魔が入っちまったな。おい、行くぞ」
男が私の腕を掴もうとする。
後ずさる私の目の前で大貫が立ち上がり、男を両手で突き飛ばした。
「浅野さんに触れるな!」
男はしりもちをつき、「テメェ」とドスの効い声を絞り出す。男がパンツのポケットに手を突っ込んだ。
なにか取り出すのだとしたら、それは、刃物ではないか。
とっさに私は大貫の腕をつかんで引っ張った。
「逃げよう、大貫くん」
しかし大貫はそれを振り払う。
「ひとりで逃げてください」
「なんで」
「こいつを捕まえなきゃ、いつまでも危険なままでしょ。浅野さん、狙われてるんだよ」
「それはそうかもしれないけど、でも」
男のポケットから何か出てきて、男がそれを振るとキラリと光った。やっぱり刃物だ。グリップ部には血の跡がついている。以前大貫を刺したのも、この刃物なのだろう。
「に、逃げよう、逃げようよ」
私は壊れたラジオみたいに「逃げよう」と連呼するしかできなかった。ひとりで逃げられるわけがない。大貫を見殺しになんてできない。
でも大貫は腰を落とし、男を警戒したまま動こうとしない。逃げてよ、逃げてよという想いは、大粒の涙になって頬を伝うだけだ。
男が刃物を握り直し、振り上げる。
「っつ」
男の動きに合わせ、大貫が左腕で男の腕を払った。それでも刃物の切っ先が大貫の頬をかすめ、血がピッと飛ぶ。
「大貫くん!」
もう嫌だ。
なんでこんな目に合わなきゃいけないの。
私があの空き巣の日、あの時間に帰宅したから?
大貫と鉢合わせて、大貫と知り合ってしまったから?
私の帰宅があと5分遅かったら、大貫はここまで巻き込まれなかった?
私のせい?
「動くなっ!」
どこからともなく大きな声が聞こえた。
我に返る。
暗闇の中で赤色灯がチカチカしている。
そういえばパトカーのサイレンも聞こえていたかもしれない。
すぐ近くにパトカーが止まっていた。警察官が銃を構えながら近づいてくる。
「チッ」
男は舌打ちして走り出す。
それを警察官の一人が追った。同時にもう一人の警察官が私と大貫の元へやって来て「怪我はありませんか」と切羽詰まった声で尋ねる。
「血が」
大丈夫ですと答えようとする大貫を遮り、私は大貫の怪我をアピールした。警察が無線で救急車を要請する。そんな大げさな怪我ではないけれど、念のためらしい。
パトカーが数台に増える。
遠くで男性の言い争う声がした。
私は大貫の腕の中に居た。震える身体を、二人で支え合っていた。