どういう状況????
それからというもの、大貫は「ひまわり」の美術スタッフになった。
塗り絵を作ったり、掲示物を作ったり。レクリエーションの一環として、お絵描き教室まで開いている。
大貫は生き生きと働いた。
介護のスタッフではないから本当に大した給料は出ないけれど、それでもその報酬は大貫の絵の対価だ。「絵で食っていく」という状態に大貫は喜んでいる。
そして。
大貫は公園ではなく、大貫の自宅で生活するようになった。
実は私もまだ大貫の自宅で生活している。
つまり、実質、同棲生活である。
「これは一体どういう状況なのか」
大貫のマンションでダイニングテーブルにつき、彼の作ったご飯をむしゃむしゃ食べていた私は独りごちた。
「浅野さん、なにか言った?」
洗い物をしていた大貫が、水を出しっぱなしのまま振り向く。家事はすべて大貫の担当だ。これが意外と器用な男で、家事のスペックが高いのである。
「ううん、別に」
私はふっくら炊けたツヤツヤなご飯を口にハフハフかきこんだ。
同じ家で寝泊まりしているのだから、同棲。
それは、そう。
でも別に、付き合っているわけではない。
それが非常に私の心の置き場所をわからなくさせる。
大貫は私に「お詫びにこの家を好きなだけ使ってください。家賃もかからないし」と言った。安月給の介護職員としてはありがたい申し出だ。男女二人のルームシェアが成り立つのか? という疑問を除けば、願ってもみない幸運である。
大貫はさらに「俺、家事得意だし、時短勤務だから、家事は俺が担当します」と言った。
魅力的すぎた。家のことを全部まかせた上に、家賃もかからない。特大のメリット。しかも大貫は顔も良いから、うっかり恋仲になってしまっても何も困らない。
どう考えても断る理由などなかった。
だから私はあっさり自分のアパートを解約した。
だがしかし、たまに疑問に思う。これは一体どういう状況なのか、と。
家事にいそしむ大貫の後ろ姿は色気が強い。
なぜ一緒に生活しているのか。
恋人でもないのに。
「浅野さん、明日の帰りは早い?」
洗い物を終えた大貫が振り向いて私に聞いた。タオルで手を拭くさまさえ、アイドルのトレカみたいにセクシーで困る。
私は邪念を振りほどくように目を閉じ首を横に振った。
「今日と同じくらいだと思う。また先にご飯食べて。そしたら絵を描く時間も確保しやすいでしょ」
私の話に大貫はしばらく沈黙してから、小さく「うん」と答える。
どこにそんな間を持たせる必要があったのかわからないが、とりあえずここしばらくは毎日こんな調子だった。
時短勤務で早く家に帰り、ご飯を作って先に食べ、それから絵に集中する大貫。
残業して帰ってきて、作り置きのご飯を食べる私。
お互い無駄な干渉はしていないはずなのに、大貫の顔は暗い。
「なんか文句ある?」と尋ねる私に、大貫は「いや、別に」と答えるだけだった。
ダイニングと続くリビングは大貫のアトリエである。
大貫は絵の具で汚れたエプロンに着替え、キャンバスに向かった。鉛筆で下書きされた絵を見るに、介護施設の利用者さんたちを描いているらしい。
邪魔しないように、私は料理をそしゃくしながら黙って大貫の動きを目で追っている。
大貫は筆に絵の具をベットリつけ、睨むように目を開いた。
ピリリと緊張感が走る。
作家のスイッチが入ると、大貫は神様が憑依したみたいに表情が変わる。手に炎が宿り、鬼気迫る勢いで筆をザッザッとキャンバスに押し付ける。見開いた目からチカチカと情熱の光が見えた。
ニート、なんて揶揄できない。彼は芸術家だ。
大貫は魂をガツンガツンとキャンバスにぶつけて、力を、情熱を、愛を、慈しみを真っ白な土台に乗せていく。
恐ろしく美しかった。
絵と大貫の熱量がグチャグチャになって、火山の噴火みたいに周囲を照らし流れ出す。普通の人間から放たれることのない七色の風が部屋中にいきわたり、私の身体をも巻き込んで、大貫の世界に引きずり込んでいく。
恐ろしく魅力的な沼。
触れてしまったら二度と出られなくなる。
それが大貫だった。
私は食事がのどを通らなくなって、キャンバスに舞う大貫の圧に耐えることしかできなくなった。
格好いい、なんて安っぽい言葉じゃ言い表せないほど、大貫はその存在感を爆発させ、私の心を奪っていく。
私はもう大貫から離れられないのだと、絵を描く彼の姿を眺めながら悟る。
これは恋なんて子どもっぽいものではない。もう、人生の一部にしたいほどだった。
人生の一部。
なんて厚かましいのだろう。恋人でもないのに。
考えれば考えるほど、この状況の意味不明さに嫌気がさしてくる。
不意に、大貫が筆を握る手を止め、私の方へ振り向いた。
「浅野さん、またご飯止まってる」
指摘された私は「あ、うん」と間抜けな声を出すことしかできなかった。
大貫に奪われた心がなかなか現実世界へ戻ってこない。
「まったく。浅野さん、こういうとこ子どもっぽいよね」
大貫はそう言って立ち上がり、私に近づいた。
私が持っていた箸を奪い取り、おかずのじゃがいもをつまんで、そのまま私の口へ押し付ける。
「はい、あーん」
大貫が大人っぽい顔をしてそんなことをするから、私は言われるがまま口をあけ、小鳥のように餌付けされれしまった。
「甘えんぼだなあ」
大貫が呆れたように口角をあげる。
頬が熱い。
なんなのよ、この恋人みたいな行動は。
大貫はいつもこうだ。
こうやって私の心を奪って、甘やかして、もっともっと私の心を奪うくせに、恋人ではない。
そう。恋人ではないのだ。
え、恋人ではない?!
びっくりした。本当に嫌になる。
「美味しい?」
大貫は私の気持ちなど露知らず、甘ったるく笑って尋ねる。私だけを見つめる大貫の瞳から目が離せない。王子様系アイドルみたいじゃないか。
自分がニヤけているのが、表情筋の引きつれ方でわかる。
「……美味しい」
素直に美味しいというのも癪だったけれど、美味しいと言って喜ぶ顔もみたい。キラキラ輝く大貫の笑顔を見るだけでご飯三杯はいける。
けれど大貫は私の答えを聞くと、目の光を消した。
「だったら、もっと早く帰ってきてよ。熱々のほうが美味いんだからさ。独りで食べるより一緒の方が美味いし」
そんな不満を、珍しく大貫が漏らす。
私は目を丸くした。
「――なぁんて。冗談」
大貫はそう誤魔化して箸を置いた。
いやいやいや、まてまてまて。
「ごめん、大貫くん」
私は大貫のゴツゴツした冷たい手の上に自分の手を重ねた。
冗談じゃないでしょう。
それ、本気でしょう。
私との時間、もっと欲しいんじゃないの。
私は彼の手をギュッと握る。
「大貫くん、遠慮してるよね? 私に残業が多いの、わかってるから? それともまだ、空き巣の罪悪感があるから?」
どうしても聞きたかった。罪悪感があるなら、もう気にしないでと言いたい。
けれど大貫の視線はキッチンへ逃げる。
私と向き合うことから逃げようとする、その態度が腹立つ。
「ねえ、言いたいこと言って」
私がそう言うと、大貫はスッと手を引っ込めて立ち上がった。なにも答えず絵の前へ戻り、筆をとる。
私とは話したくない。
背中がそう告げている。
こうやって私と線を引くから、大貫はこの同居が上手くいくと思っているのだ。お互い干渉しない。ただ部屋を分け合っている人。それが私と大貫。
大貫はその線の内側へすぐに引っ込んでしまう。
それが私はつらかった。