大貫と理解
翌朝。
私は大貫と共に通所介護施設「ひまわり」へ出勤した。大貫を連れていくことは施設長へLINEしてある。
大貫はスウェット姿できょろきょろしながら私のあとをついてきた。昨夜は公園のベンチで寝たらしい。スネがかゆいと言って、赤く腫れた脚を見せられた。よくわからない虫に刺されたらしい。そうか、と思いつつ、なんとなく罪悪感が湧く。そんなもの、不必要だ。だって大貫が公園で寝泊まりしたのは、自業自得なのだから。私のせいではない、けれど、微妙に心が痛い。それもまた腹が立つ。
気持ちのやりどころがわからないまま、私たちは介護施設にたどり着いた。
「あの、俺は一体どうすれば……?」
施設内で朝の支度をバタバタと整えていると、手持ち無沙汰の大貫が尋ねてきた。そういえば、勝手に連れてきておいて、なんの説明もしていなかった。
「ああ、ごめん。あのさ、塗り絵作ってくれない?」
「塗り絵?」
「そう。利用者さんたちがよく塗り絵するのよ。大貫くんの幾何学的な絵、なんか色塗りやすそうじゃない。そこにコピー用紙があるから、ペンで線画を描いてくれる?」
大貫の目に光が差す。
「何枚必要?」
「そうね、多ければ多い方がいい。毎日使うし。頼んでいい? 給料は出ないけど、弁当ぐらいはおごるから」
「わかった」
大貫は私を見て、口角をあげた。
優しくカーブを描く目じり。
柔らかく吊り上がる口元。
それは甘くとろけるような笑みだった。ぶわっと風が吹いたような衝撃を受ける。自信に裏付けされた魅力的な笑み。
私は急に高鳴る自分の心臓に驚いて、大貫から目をそらした。おい私、なにをときめいているのだ。
しばらくして大貫を盗み見る。
大貫はスタッフルームのテーブルに紙を広げて無心で絵を描いていた。力強い目元に、彼の意思の強さを感じる。やってやる、描いてやる、という熱みたいな気合が身体中から漏れている。
熱気がジリジリ伝わって、胸が熱い。
ドクン、ドクン、チリリ。
「真剣なときってあんな強い表情するんだ」
思わず呟いてしまった私は頬をパシンと叩き、気持ちを入れ替えて仕事に戻った。
掃除をして、お茶を準備し、送迎車から降りてくる利用者さんたちを迎え入れる。
ご機嫌でマシンガントークが止まらないおばあちゃんの車いすを押してダイニングへ。「お茶飲みます?」と聞いた私に、おばあちゃんは机の上にあった紙の束を指さして言った。
「なんだい、ありゃあ。安売りチラシ?」
見ると、どうやら大貫の描いた絵である。
机の上には、すでに10枚以上の塗り絵が置かれている。もうこんなに描いたのか、と驚きながら私はおばあちゃんに絵を渡した。
「新しい塗り絵ですよ。どうですか、いつもと絵柄が違うでしょう」
「ありゃあ、本当だねえ。ハイカラ。ハイカラだよ、これ。こんなハイカラな絵、塗ったことない」
大貫の塗り絵は好評のようだ。
いつもシンプルな線画を利用しているせいか、おばあちゃんは見慣れない絵に頬を赤らめ興奮している。
「塗ってみます?」
「ええ、良いのぉ? こんなハイカラなやつ。高いんじゃないのぉ?」
「良いですよ、どんどん塗ってください」
「やったぁ、嬉しい」
ポンと手を叩いて喜ぶおばあちゃんに、私は色鉛筆のセットを渡した。小学生女児みたいにキャッキャと鉛筆を握るおばあちゃんは、30歳くらい若返ったように見える。
私は急いでスタッフルームへ向かって大貫に声をかけた。
「ちょっと来て」
大貫の手を取ってダイニングへ。
おばあちゃんの邪魔にならないよう、少し離れたところで立ち止まり、大貫の腕を肩で小突く。
「見てよ、あの嬉しそうなおばあちゃんの顔。大貫くんの絵、『ハイカラだねえ』ってすごく喜んでたよ」
「ほんと?」
大貫はおばあちゃんから目が離せなくなっていた。
いくつもの色鉛筆を握り締め、鼻歌交じりに楽しそうに色を塗るおばあちゃん。塗った絵を少し遠ざけてみたり、色を悩みながら決めたりしながら、自分の世界を築き上げていく。
「あんなに嬉しそうに塗り絵することなんて、ほとんど無いよ。いつもルーティンワークで、やらされてる感じ。でも今日は子ども時代に戻ったみたいに楽しそう。大貫くんの絵のおかげだよ」
「俺の絵の、おかげ」
「そう。大貫くんに頼んで良かった」
そう言ったら、隣にいた大貫の手が震え出した。
何事かと思って見上げた大貫の顔に、ツゥッと一筋の涙が伝う。目が赤い。口をへの字にして、感極まる衝動を抑えているように見えた。
私は大貫の背中をポンッと叩いた。
「良い絵、描くじゃん。自信持ちな」
ニヤッと笑いかける。そんな私を大貫は見もしないで、声を押し殺して泣いていた。
可愛い奴。
私はまたポンポンと大貫の背中を叩いて、到着したばかりの別の利用者さんの元へ向かった。背後で鼻をすする音が聞こえる。
この日、塗り絵は大盛り上がりだった。
おばあちゃんが塗っているのを見て、他の利用者さんたちも次々に塗り絵を始めていく。幾何学的な絵に「なにこれぇ、変な絵だねぇ」と正直すぎる感想を漏らしながら、「でも楽しいわコレ」とか言って、塗り絵大会が繰り広げられた。
次から次へと消費される塗り絵。
スタッフルームで缶詰め状態になっている大貫は、それに負けないほどハイペースで線画をいくつも仕上げた。
額に汗をにじませ、生き生きとペンを走らせる大貫はスタッフの視線を独り占めしている。
黙々と描く大貫の口角はずっと上がっていた。相当楽しいらしい。スタッフたちも大貫の邪魔をしないよう、話しかけることをしない。スタッフルームは簡易的なアトリエと化した。
「大貫くん、ちょっと休憩しよ」
午後になって、私は大貫に声をかけた。
休憩を一切取っていなかった大貫は時計を確認してびっくりしている。
「もう2時?」
「そうだよ。お弁当買ってきたから一緒に食べよ」
私は施設の二軒隣にある弁当屋で買ってきた幕の内弁当をひとつ大貫に手渡した。大貫の手は側面がペンで黒く染まっている。
「大好評だね、塗り絵。すごいじゃん」
お茶を淹れながら言うと、大貫はまんざらでもなさそうにはにかんだ。
「こんな大勢に自分の絵を受け取ってもらえると思ってなくて、すげえ興奮した」
「あはは。たしかに興奮が顔に書いてある。顔、めっちゃ赤いよ」
「え、ガチ? 恥ず……」
大貫は片手で自分の頬を撫でた。その反動で指についていたペンの汚れが頬に付き、頬に黒い縦じまが入る。
「ああ、ああ。なにやってんの。綺麗な顔がもったいない」
私は弁当についてきたおしぼりで大貫の頬を拭いた。
無意識だった。
利用者さんの顔を拭く感覚で、なにも考えず手を伸ばした。
だけど相手は大貫で、大貫は私にいきなり頬を拭かれたことに驚き、私の手を掴んでフリーズする。
それを見て、私も我にかえる。
何してんだ、私。若い男をむやみやたらに触って。
「ご、ごめん」
手を引っ込めようとしたけれど、大貫の手が力強く私の腕を引いている。
なぜだ。
理解できず、私は眉を寄せた。遠くから大音量のテレビの音がする。
ざわめきの中、大貫は形の良い目を私に集中させた。
じっと見つめる大貫の瞳に、私の姿が映る。
「あの」
近い、とか、何、とか言いたかったのに、言葉が出ない。
そんな私を、大貫はまん丸の目でじっと見る。
「ありがとう浅野さん」
ささやくように大貫が言った。
目の前、数センチ。吐息すら感じる距離だ。
声を大きくしたら涙がこぼれてしまいそうな、感極まった声だった。
「俺、浅野さんにすげえ最低なことをしたのに、浅野さんは俺のためにこんな素敵な機会をくれた。感謝してもしきれないし、どうお礼をしたらいいかわからない。……どう、謝罪したらいいかも、わからない」
大貫の声が震えている。
自分のしたことを悔いているように聞こえた。重い空気が私の肩にのしかかる。これはきっと大貫が背負っている重圧だ。
大貫の長いまつ毛の下に、曇った瞳が見える。
私はなんとなく、こんな重圧なんて吹き飛ばしてしまえば良いと思った。
簡単に犯罪に手を染めようとした大貫は馬鹿だと思うけど、その罪で潰れてしまうのはもったいない気がする。ちゃんと学習して、ちゃんと前を向いて、ちゃんと生きていったら良いと思う。
私がなんとかする義理なんてないけど、それでも、正しい方向を向けるように協力してあげたくなる。
「大貫くんが真っ当に生きて、私を喜ばせてくれたら、私は嬉しい」
大貫の眉がぎゅっと寄って、彼は苦しそうに目を閉じた。
背負ったものに立ち向かおうと、自分を奮い立たせているのだろう。唇を噛んで力を貯めこむ大貫の頭に、私は手を伸ばした。
ポン、ポン。
「大丈夫。できるよ。できる」
そう言ってあげたくなった。
変なところでつまずいて、ニートになって、犯罪までおかそうとして。そんなしょうもない生き方を続けてほしくない。少なくとも、ここの利用者さんは大貫の絵に喜んでいる。だから、まともに生きてほしい。そう思って仕方なかった。