大貫という男
私の家から徒歩15分ほどの場所に大貫の自宅マンションがあった。
若い男が一人暮らしするには高級すぎるマンションで、エントランスには大きな絵画や花が飾られている。天井にはシャンデリアだ。
「あなた……一体何者なの?」
エントランスのキーを開ける大貫を見ながら、私は大貫に声をかけた。
「別に、金があってここに住んでるわけじゃないです。入って」
大貫に指示されるまま、私はエントランスを通り抜け、エレベーターに乗る。心なしかお高い家具屋の匂いがした。13階を目指すエレベーターはほとんど揺れない。高級感に、吐きそうになる。
「ここです」
大貫の家は真っ白い壁が印象的な綺麗な部屋だった。
廊下を抜けた先にリビングがあって、ダイニングがあって……。
「って、家具ほとんど無いじゃない。ほんとに住んでる? 怪しすぎるんだけど!」
リビングにはビニールシートが敷かれていた。
そのど真ん中に、絵を立てかけるイーゼルが置かれている。隣には丸椅子と小さな机があって、絵具が置いてあった。
これは家というよりアトリエである。
大貫は無言でキッチンへ向かった。冷蔵庫からコーヒーのペットボトルを2本取り出して、ひとつを私に差し出す。
「どうぞ。座れる場所、ここしかないんで」
大貫が目配せしたのは、ダイニングテーブルだ。私と大貫は向かい合って座る。
私はキッチンに目を向けた。調理器具や食器が見当たらない。かといって、弁当とかペットボトルのゴミが散らかっているわけでもない。生活感がまるで無い。
この男のことがますますわからなくなる。
私の怪訝な顔に気付き、大貫は小さくため息をついて顔を背けながら言った。
「生活してますよ、ここで。この家は両親の遺産として相続したんです。俺自身はニート。路上で絵を売って生活してます。っつっても生活するほど稼げてねえけど」
大貫は綺麗な横顔を見せつけるように、私と目を合わさない。コーヒーを飲む横顔は、頬骨のラインが美しかった。
でも、なるほど。合点がいった。
大貫のふざけたカラフルジーンズは、貧乏絵描きの正装だったわけだ。
「それで? お金がないから空き巣の依頼を受けたわけ?」
「ちがう、ちがう」
私の問いに大貫は一瞬私を見て、首を横に振る。
「個展を開かないかって言われて。開いてやる代わりに、手伝ってほしいことがあるって言うから、引き受けた」
「ヤクザが個展?」
バッカじゃないの、と言いかけて口をつぐむ。胡散臭いと思わなかったのか。なぜヤクザをすぐに信じられるのか。
純粋そうな大貫は天使みたいな顔をして、コーヒーをちびりと飲んで言う。
「公園でいつも通り絵を売ってたら、ヤクザっぽい男が『おう兄ちゃん、良い絵だな。個展でも開かねえか』って。そんな金無いって言ったら、金は出してやるから代わりに頼みを聞いてくれって。それでまあ、ラッキーだなって」
「最低」
なにがラッキーだ。このポンコツイケメンクソ野郎。頭からコーヒーをぶっかけてやろうか。
しかし綺麗な顔を伏せてショボンとしている大貫は、ビジュが良すぎて怒りづらい。
もたもたしていると、大貫は申し訳なさそうに口を開いた。
「まさか空き巣だとは思わなかった。もっと楽な交換条件だと思った。でも、なんも考えずついてったら、廃ビルに連れていかれて。いきなり腹を刺されて」
「はあ? なにそれ」
急展開すぎる。
つまらないドラマレベルの急展開だ。けれどあの血まみれを見ているから、信じざるを得ない。
大貫が顔を伏せる。
「まあ、見せしめだと思うんだけど。刺せば言うこと聞くだろう、みたいな」
「ああ、なるほど」
大貫は気が弱そうだし、ヒョロヒョロのホストみたいだし、たしかに脅せば言うことを聞きそうだ。それにしたって急に刺すとは、ヤクザの考えることは常人には理解できない。
私がため息をつくと、大貫はボソボソと続けた。
「で、それからスマホ盗られて。『このまま死ぬか、泥棒するか選べ』って言われて」
大貫の目に悲壮感が漂う。
「助けてくださいって言ったら、浅野さんちの合鍵渡されて『ここから金目のもの盗ってこい』って。自分の手は汚したくないからって。何か持っていけば治療費も払ってくれるって言うから、つい」
大貫はチラッと私を見た。居心地が悪そうに、すぐ目をそらす。
「でもまさか帰ってくるとは思わなくて。鉢合わせて、怖がらせて、すみません」
大貫が頭を下げる。
かわりに、私は頭を抱えた。
「状況はだいたいわかった。うーん、あなたはただ、助かりたかっただけってことよね。はあ」
特大のため息がもれる。大貫の雰囲気的に、きっと嘘はついていないのだろう。
ただ。
「馬鹿すぎる」
私はガックリうな垂れた。
「なんでそこで馬鹿正直に空き巣なんてするわけ? 警察に行けば良かったじゃん」
「でも、スマホ盗られてたし」
「だから何? 電話じゃなくたって、歩いて交番へ行くなり、そこらへんの人に助けを求めるなり、なんだってできたでしょう。なんで空き巣に入る度胸があるくせに、そんなこともできないのよ」
私の指摘に大貫は「おお」と驚いた顔をする。やっぱり馬鹿だ。
「でもわかった。大貫くんも被害者なんだね」
大貫はコクンとうなずく。
黒髪がサラサラとなびいた。悲しそうな瞳。でかい図体のくせに子犬みたいで、ちょっと哀れだ。
しんみりとした空気が室内を漂う。ふよふよ、ふよふよ。
彼の丸まった背中を見ていたら、彼の境遇に同情して、助けてあげたくなる。加害者に対してそんなことを思ってしまう私も、大概だ。
「で? そのヤクザって捕まりそうなの?」
「どうだろう。警察次第かな。俺のスマホも返ってこないし、はやく捕まってほしいけど」
そう言って、無音が広がった。
空気が重い。私はコーヒーのペットボトルに目を向けた。一応、気は遣えるんだよなあ、彼。結構、優しい。恨むには馬鹿すぎる。
私の心はほんのり大貫に歩み寄っている。
「ねえ。大貫くんはどんな絵を描いてるの?」
問いかけた瞬間、大貫の顔にパッと赤みが差した。クリクリな目を輝かせた大貫は、「見る?」と弾むような声を上げる。パタパタと尻尾を振る幻まで見えた。
「あー……、み、見る」
私の答えに、大貫がスッと私の手を掴む。
「来て!」
ナチュラルに手を繋がれて驚く。距離感、おかしいだろ。というツッコミもできぬまま、私はリビングの奥の部屋へ通された。
「って、え、わあ」
部屋に入って驚いた。
部屋の中は壁一面に沢山の絵が貼られている。
原色バキバキのド派手なカラーリングで、抽象的に風景や人物が描かれている。なかには幾何学模様だけの絵もあった。凡人にはわかりにくい、芸術的? な、絵だ。
「すごい、ね」
まあ、何がすごいのかはわからないけれど。
でも私の言葉に、大貫は口元を緩めている。
嬉しそうな大貫は、笑うと非常に可愛い。どんなアイドルのトレカよりも人を惹きつける、優しい魅力が彼にはあった。むしろ、絵よりも大貫の写真を売った方が儲かるんじゃないか。
「俺、本当に個展を開きたかったんだ」
大貫はそう言いながら、ほほ笑む男女の絵に手を添えた。
抽象的でわかりづらいけれど、描かれた女性は優しい目元と穏やかな笑みが聖母みたい。
「もしかしてその絵、大貫くんのご両親がモデルだったりする?」
なんとなく聞いた私を、大貫が大きな瞳で見つめる。
「なんでわかるの?」
大貫のくっきりした二重がジンジンと赤く染まっていく。瞳は涙で輝きを増した。
「そうだよ。俺の、初めてのファン。唯一のファン。それが両親だった。だから描いた」
大貫が自分の絵を見上げる。
力の入った目元は両親の絵をガッチリ捉え、強い意志をぶつけている。
「俺の頑張りを見せたかった。個展を見せたかった」
絵の両親の明るさが、影を背負う大貫とは対照的だ。両親の絵は部屋に飾られた無数の絵をニコニコ笑いながら眺めている。
「大貫くん。さっき、両親の遺産って言ってたよね。ご両親は、その」
「うん、5年前に死んだ。交通事故。それで俺はこの家を相続して、大学を辞めた。そこから親の遺産で食いつなぎつつ絵を描いてる」
大貫の目に影が落ちる。
部屋の奥にはスケッチブックや画用紙、キャンバスがいくつも積み上げられている。この5年の歴史だろう。
「俺、美大に行きたかったんだ。でも才能がなくて無理だった。代わりに絵の専門学校に行きたいって言ったら、親に『それは大学を卒業してから趣味でやれ』って言われた。それで行きたくもない大学に行って、いつか絵を描くために頑張ってた。けど両親が死んで、なんかもう将来とか、どうでもよくなっちゃったんだよね」
大貫は伏し目がちのまま、「だから貯金がなくなるまでは、絵だけ描いて生活するつもり」と自虐的に笑った。
なんだか、不憫になる。
親への想いはわかったし、無職の絵描きってどうなの? と思うし、個展の言葉につられてホイホイ空き巣をするって馬鹿すぎないかと思うけれど、そこがどうしても放っておけない。
「ねえ、大貫くん」
私は、自分も大概だなと思いながら大貫に声をかける。
「明日、私の職場に来ない?」