事件、後
救急搬送された男はすぐさま処置室へ運ばれた。
その間に私は看護師に話を聞かれ、やって来た警察にも聴取され、治療を終えた医師にも詳細を聞かれた。
家に帰ったら知らない男がいた。
刃物を突き付けられ、現金を盗られそうになったけど私は無事。
でも男が血を流していた。
男が誰かは知らない。なんで怪我をしていたのかも知らない。
この説明を何度繰り返したことか。せめて医師と看護師くらい、自分たちで情報を共有してほしい。
結局、家に帰りつく頃には午後11時をまわっていた。帰宅する際、自宅まで一緒に来た警察の人は「証拠を保全させてもらいます」と室内の写真を数枚撮って帰っていった。現実感がなさすぎる。夢でも見ているみたい。
だけど、警察官が帰ったあと、私は自分の部屋の惨状を改めて確認し、ため息をもらした。
入口には血痕が残り、土足で入ってきた男のせいで床は黒く汚れている。
机や引き出しは荒らされ、床には手紙や本、服が散らばっていた。
「これ、片づけるの? 私が?」
思わず独り言が漏れる。グッチャグチャな部屋は、私のやる気をみるみる激減させた。
もういいか、明日で。
私はとりあえずシャワーを浴びて、ベッドに倒れこんだ。
眠いけれど、目を閉じてもあの男の姿が浮かんでくる。20代半ばくらいだろうか。黒髪で、ホストの写真みたいに綺麗な男だった。良い匂いがした。どうせなら、もっと全然違う場面で出会いたかった。顔だけは良い男だったのに、一番最低なタイミングで出会った気がする。
「大丈夫だったのかな」
結局、男の治療がどうなったのか、男が何者なのか、まったくわからない。
苦しむ姿さえ綺麗な男だった。ホストではなかったとしても、あのビジュでは女絡みで苦労しそうだ。刺されることがあってもおかしくない。何があったのか、聞けるものなら聞いてみたい。
「けど、まあ、面倒だわ」
疲れた。眠い。うとうとしながら私は足の裏に違和感を覚えて、ついていた血を床にこすり付けた。
翌日。
私はいつも通り通所介護施設「ひまわり」に出勤した。
朝は相変わらずバタバタだ。利用者さんたちが来る前にタオルと飲み物を用意して、電話対応して、打ち合わせをして。そうだ。レクリエーションの準備もしなくては。今日は塗り絵か、折り紙か。毎日同じレクの繰り返し。いくらすぐ忘れてしまう利用者さんたちだって、いい加減飽きていると思う。
そんなバタバタの中、施設長が私を呼んだ。
「浅野さん、警察の人が来てるけど。一応、個室に通しておいたから」
小声で私に耳打ちする。施設長は私が何かやらかしたと思っているのか、疑わしい顔を私に向けていた。いやいや、私は何もしていません! とんだ迷惑である。
警察。間違いなく昨夜のことだろう。
あの美麗な男。死んだ、とかだったら、どうしよう。いや、どうしようもないけど、胸糞悪い。イケメンだったのにな、と思う。別に、死んだとは限らないけれど。
いや、もしかしたら昨日、知らぬ間に何か盗られていたのかもしれない。窃盗事件として何か面倒なことが起きたのかも。
というさまざまな私の予想を裏切って、警察は言った。
「相手が謝罪とお礼をしたいとのことですが、どうされますか?」
「はい?」
意味がわからなくて、私は聞き返した。
施設内の個室は、主に利用者さんのご家族と面談する際に使われる。そのお客様の席で制服姿の警察官が二人、まるで取り調べみたいな威圧感を放ちながら、神妙な面持ちで私と向き合っていた。ヤバい話かと思いきや謝罪とお礼だなんて、脱力する。
「昨夜の男性、大貫千という男ですが――」
大貫、千。千。本名か?
ホストみたいなビジュだったから、源氏名かと疑ってしまう。でも警察なら本名くらい簡単に調べられるか。センという響きが似合いそうな、はかなげな男だった。昨夜のことを思い返しながら、私は小さく頷いた。
「――まず住居の侵入に関して。住居侵入と窃盗未遂で処理させてもらっていますが、詳しい当時の状況を確認させていただきたくて、またお部屋にお伺いしたいのです。その際、もし浅野さんが問題なければ、現地に大貫を連れて行ってもよろしいでしょうか」
「え、……え?」
加害者を被害者宅へ連れてくる?
ドン引きする私の顔を見て、警察官が慌てて言葉を付け足す。
「もちろん、断ってくださって構いません。ただ大貫の強い希望がありまして。実況見分に伺う際、もし可能なら、直接謝罪とお礼がしたいと。実際、大貫は浅野さんが救急要請してくださったおかげで、命の危機を乗り越えました。いかがですか」
昨夜の、大貫という男の様子が頭に浮かぶ。
刃物を突き付けられたものの、本当に危害を加えようとする様子ではなかった。それどころか、すぐに謝って――そうだ、あの時あの大貫とかいう男は『仕方なくて』と言っていたじゃないか。憂を帯びた大貫の顔を思い出す。仕方なく住居に侵入して刃物を突き付けるような理由があるのだとしたら、聞いてみたい。本当に悪い人なのか、確認したい。
しばらく考えて顔を上げた私に、警察官が微笑みかける。
「大丈夫ですよ。浅野さんのことは我々がお守りしますので、安心してください」
その一言に背中を押され、私は警察官の提案を受け入れた。