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事件

 ドアを開けた私の視界を、大きな真っ黒の塊が埋め尽くした。ビリリと心臓が跳ねる。

 え、なに?

 恐怖のあまり身体は硬くなり、私はぎゅっと目を閉じた。

 どた、どた、どた、と近づく足音。熱気をまとう気配が私の目の前までやってくる。

 やばい、やばい! と思う私の脳内を、くだらない感情が駆け巡る。


 ああ、5分でも遅く帰ってくれば鉢合わせなかったのに!


 そんなことを考えたって後の祭り。

 迫りくる気配に怯えながら、私の脳内は数分前の出来事を走馬灯のように映し出した。

 おかしいな、とは思ったのだ。玄関の鍵が開いていた。締め忘れたことなんて、今まで一度もなかったのに。玄関ドアを押し開ける私の背中を、違和感がなでる。かすかな臭気に鳥肌が立つ。

 アパートの狭い玄関を通り抜けて、私、浅野神奈あさのかんなは六畳間のドア前で足を止めた。

 午後8時をまわった家の中は当然真っ暗。廊下の電気は点けた。見える範囲に異変はない。耳をすましても、冷蔵庫のブゥゥンと唸る音が聞こえるだけだ。

 だから、大丈夫だと思った。

 私はそっと、部屋のドアノブを引いた。


 開いたドアのすき間から、廊下の電気が差し込む。少しずつ照らされていく私の部屋。

 ベッド、カーペット、丸テーブル。

 そして人間の足――。


「ひっ」

 私は声にならない声を上げた。

 足の生えた影が、わあっと襲い掛かってくる。大きな黒い塊が私の視界を埋め尽くして、私は思わず目をぎゅっと閉じた。いや、駄目! 視界を失くしたら危険! 殺される!

 逃げなきゃ! と目を開いた。目の前で、Tシャツ姿の男がキラリと光る刃物をこちらへ突き付けている。

「――っ!」

 馬鹿だ。逃げられるわけがない。

 心臓がドクンと跳ねる。助けて、の声はのどの奥でつぶれた。足がガタガタ震えて一歩も動かせない。刃は私の目の前数十センチ。切っ先がこっちを向いているのに、私の身体は石みたいに硬い。

 Tシャツ姿の男は私の首筋に刃物を当てた。

「金、どこ」

 カネ。金目当てか。

 それは認識できたのに、あれ、どこだっけ、なんて馬鹿なことしか浮かばない。

 背負った鞄の中に財布が入っているのに、それを差し出せば助かるかもしれないのに、刃物を突き付けられた私の脳内は完全に真っ白だ。

「早く!」

 男は舌打ちし、刺すような声で言った。私も肩を震わせる。

 チッ、チッ。舌打ちが何回も聞こえる。チッ、チッ。チッ。……多すぎない?

 なんか、変だ。

 この男、右手で刃物を持ちながら体を妙にくねらせ、左手で右の脇腹を押さえている。ハァ、ハァと荒れる呼吸。舌打ちじゃない。呼吸が乱れているのだ。

 廊下から差し込む光に照らされた男の左手は、どす黒い赤で染まっていた。

 脇腹から、ぽたり、と雫が垂れる。

「血」

 反射的に私は呟いた。

 静かな部屋にハア、ハアと男の吐息が響く。首に当たる刃物の感触が消えた。男の右手がだらりとおりる。

 男と目が合った。長めの黒髪の奥に、くっきりとした二重の目。

 男は肩で大きく息をしながら私を睨みつけている。ただ、鬼気迫るのは視線ばかりで、男は全然攻撃性を持っていない。逃げられる、のでは? そう思ったものの、凍り付いた足を動かせるだけの勇気を私は持ち合わせていなかった。

 なんなの、これ。

 後ずさりすらできない私に、男が「逃げないの?」と問う。

 そりゃあ逃げたいですとも! 逃げられるならね!

 だけど真っ暗な部屋で刃物を見せられた揚げ句、目の前が血の海になっていたら、身体の動かし方なんて忘れるに決まっている。目だって離せない。そんな私の目の前で、男はへなへなとその場にしゃがみこんだ。

「まあ、いいや。通報するなら、好きにして」

 男はかすれた声でそう言って、持っていた果物ナイフを床に転がした。カランとむなしい音が響く。

「え?」

 落ちたナイフと共に私の緊張感も床にとける。男のシャープな顔に、黒髪がさらさらとなびいた。ドラマのワンシーンみたいだ。なんて、間抜けな感想が湧く。

 気だるげな男は私に攻撃するどころか、捕まる気満々で脱力している。

「なんで」

 と、聞くだけ野暮だった。男のシャツやパンツは血でぐっしょり濡れている。きっと、逃げることさえキツいのだ。私は自分の指先が温かくなっていくのを感じた。男の小綺麗な顔に汗が伝う。

 ハア、ハアと大きくなる男の呼吸。それを聞く私の焦りに火がついた。

「ちょっと待ってて」

 私は背負っていたリュックをおろし、中からタオルを出した。目の前で命の灯が消えるかもしれない。そう思ったら血の気が引く。死を前にしたら、私は被害者面なんてしていられない。

 私はタオルを握り締め、血濡れのTシャツの上から男の脇腹にタオルを押し付けた。甘い、香水みたいな匂いがする。

「っつ」

 男がうめくような声を上げる。でも気にしない。

「痛くても我慢して」

 手にグッと力を込めたら、男がさらに悲鳴に近い声をもらした。

「っぐ、やめろ。はぁ、もう、いい」

「良いわけないでしょ、馬鹿じゃないの死ぬよ?」

 こんなところで死なれたら困る。というか、このままでは死ぬかもしれない。

「そうだ救急車」

 私は男の脇腹を押さえたまま辺りを見渡した。スマホ、どこよ。

「いいって」

 男が声を振り絞る。

「救急車、いらない。もう、血、止まってるから」

「……はあ?」

 いやいや、なに言ってんの。さっきポタッと落ちたじゃん。

 そう思ったけれど、たしかに手に触れたTシャツは乾いた血でパリパリしている。出血してからかなり時間が経っているようにも感じる。

「むしろ、傷、ひらく。押すな」

「え、あ、ごめん」

 私は恐る恐る手を離した。押さえていたタオルにも、たいして血がついていない。

「えっと、どういうこと?」

 頭が上手く回らない。空き巣が血まみれ。だけどあまり出血していない。え? なにこれ。

 廊下の灯りで照らされただけの静かなワンルーム。

 入り口付近で座り込む不審者と私。

 不審者はよく見ればホストのように端正な顔立ちをしていた。上下左右バランスの取れた顔。細身でスタイルの良い肉体。

 それには不釣り合いな、どす黒い血。

「刺された、の?」

 恐る恐る聞く私の問いに、男の頭がこくんと動く。

 もしかして、痴情のもつれ、というやつだろうか。刺されて、逃げて、行く当てもなく空き巣に?

 だとしたら、この男も被害者ではないのか。

「あなた、空き巣、よね?」

 私は男の顔を覗き込みながら聞いた。

 男は青白い顔で必死に呼吸しながら、焦点の定まらない目で私を見た。震える唇が動く。

「悪い。仕方なくて。ごめん、もう、何もしないから」

 男のまぶたが重力に逆らえず閉じていく。そのまま頭、肩と順番に床へ崩れ落ちた。男は地に身体を預け、弱々しく声を出す。

「警察、来たら、起こして」

 そのまま男は眠りについた。

「ちょ、え? ちょっと待った! これ寝たら死ぬやつ! ちょっと! 聞いてる? おい起きろ! 寝るな馬鹿!」

 冗談じゃない。私は慌てて救急車を要請した。

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