小型機関車 日本バンタム級王者 堀口 宏
32連勝以上のボクサーが全員世界戦経験者であるのに対し、36連勝の堀口宏の現役時代はそういう機会さえ与えれれなかったため、対戦相手のレベルが低いと過小評価されているきらいがあるが、試合のスケジュールもいいかげんで二階級差くらいの試合も日常茶飯事だった。加えて記録を作ったのが18~19歳にかけての一年半であることを考えると、同じ環境に置かれたら、井上も中谷もとっくにつぶれているだろう。
リングに上がる前の控え室では、“殴り合い”の恐怖に苛まれてぷるぷると震えが止まらないほど純朴な男だった。そんな男がボクサーになんかなるべきではなかったのかもしれない。
しかし、一家の大黒柱にして兄弟たちにとって絶対的な暴君である長男は、弟たちの意思など全く省みることなく、勝手に人生のレールを敷き、自らが先頭車両として彼らを陽の当たる場所へと導くべく激走を続けた。
堀口家の長男、堀口恒男は「ピストン堀口」の愛称で知られる戦前の日本ボクシング界最大のスターだった。
四十七連勝、通算九十一KOという日本ボクシング史上に燦然と輝く偉大な記録が示すように、堀口といえば軍国主義日本における「無敵」の象徴的存在であり、堀口自身もその名を汚さぬように肉体と精神を極限まで追い詰めることを自らに課した。
やがて「拳聖」として神格化されるに至った堀口は、血の繋がった弟たちに対しても、自らが崇高なスポーツと信じてやまないボクシング道に精進することを強要した。結果、基久、宏、喬久の三名がプロボクサーとなり、そのいずれもがメインエベンターを張った。
アマチュア時代に後の世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノに勝利したこともある次兄基久は、プロデビューから九連勝するなど兄譲りの強打者として将来を嘱望されたが、同時代のライバル左右田基光と相性が悪く、タイトルマッチでは一度も勝つことができなかった。
末弟の喬久は、スピードはあっても非力で試合ムラも多かったせいかタイトルとは無縁で、結局、日本チャンピオンにまでなったのは五男の宏だけだったが、意外にもデビュー当時は全く冴えないボクサーだった。というのも、彼は素人のままいやいやながらリングに上がらされたからである。
昭和十八年九月十九日、すでに選手兼プロモーターとしても活躍していた恒男の福井巡業に同伴していた宏は、試合予定の選手が出られなくなった代役として兄恒男から強制的にリングに立たされることになった。
当時十五歳の宏は、兄の練習相手をさせられたり、ジムで見よう見まねでサンドバッグは叩いたことはあっても、ライセンスも取得していないど素人である。しかし、兄の命令は絶対であり、高橋道弘の偽名で尾関隆と対戦させられ六ラウンド判定負けを喫している。
正式なデビューは昭和十九年一月三十一日の目黒太郎戦だが、これも当日ジムの掃除をしている最中に兄から急に言い渡されたものだ(八ラウンド判定勝利)。
堀口兄弟は揃って兄の容赦ないスパルタ教育に嫌悪感を抱いていたという。宏も海で相撲を取らされ、何度も失神して溺死しかけたこともあったせいか、兄とのスパーリングの時はここぞとばかりに恨みを晴らそうとしたそうだが、皮肉なことに当時日本最強のボクサーだったピストン堀口に揉まれたことで、そのやさしい性格の裏側に隠された闘争本能と天性のボクサーとしての資質が呼び覚まされていったのだ。
戦後もピストン堀口はビッグネームであり続け、興行の目玉商品だったが、すでに三十歳を過ぎて動体視力の衰えが顕著になり、昭和二十二年の後半くらいからは格下相手にもしばしば不覚を取るようになっていた。
すでに無敵ではなくなった恒男と入れ替わるように台頭してきたのが、恒男に勝って名を挙げたフェザー級のベビー・ゴステロとバンタム級の宏だった。
昭和十七年五月二十七日、全盛時代の恒男にはKO負けしたゴステロだったが、翌十八年六月十七日の秋山政司戦から二十一連勝。二十二年十月四日に笹崎僙に一旦連勝を止められるも、そこからさらに二十八連勝し、関西ボクシング界きってのドル箱スターとなった。この間に日本フェザー級タイトルを獲得したほか、恒男にも二連勝と雪辱を果たしている。
一階級上の日本チャンピオン笹崎僙に対し四勝一敗と圧倒しているゴステロは、階級を選ばず誰とでも戦い、その華麗なテクニックは重量級のチャンピオンクラスさえ寄せ付けないほどだった。
後年の白井義男を彷彿とさせるゴステロとは対照的に、堀口宏のボクシングは堀口一門の伝統を継承した無骨なラッシュ戦法だった。それも兄恒男譲りのタフネスにスピードが加わり、ともすれば手打ちタイプの兄よりもパンチの切れでは上回っていた。
昭和二十一年四月二十一日に関西の雄ゴステロと無判定試合を演じてからというもの、宏は無人の野をゆく快進撃を続け、わずか一年間で二十五連勝を記録。まだ十代の弟にこれだけ過酷な試合スケジュールを組んだ兄恒男は、戦争が終わってもなお精神力が技術と体力に勝ると妄信した時代遅れの男だったが、宏はそれに反発するわけでもなくリングで黙々と結果を残し続けた。
昭和二十二年八月二十九日、西日本バンタム級チャンピオンの秋山竜三と頂点をかけて相まみえた日本バンタム級王座決定戦は壮絶な死闘だった。
初回から闘志むき出しの秋山と壮絶な打ち合いを演じた宏は、「殺される」と覚悟したほど追い詰められながらも、「兄の名前を汚せない」という必死の思いだけでリングに立っていた。
疲労困憊で迎えた六ラウンド、「もうこれで終わりだな」と半ば諦め気分でコーナーを出たところ、相手の秋山は完全にグロッギーでもはや椅子から立ちあがる力も残っていなかった。まさに拾い物のTKO勝ちだったが、宏は「秋山がコーナーから出てきたら私の負けだっただろう」と秋山の強さを素直に認めている。
翌年の再戦で宏が判定勝ちした二年後に秋山はピストル自殺して世を去るが、百戦錬磨の宏にとっても秋山との第一戦が生涯で最も印象に残る試合だったという。
十九歳三ヶ月で日本バンタム級の王座に就き、戦後のボクシング界最大のスターとなった宏は初防衛戦でフライ級の第一人者花田陽一郎に不覚を取り、連勝は三十六でストップする。それでも三十六連勝は兄恒男に次ぐ日本歴代二位の大記録であり、記録更新を目指した海老原博幸、高山勝義、亀田和毅も三十二連勝止まりだった。
可愛そうだったのは、花田とのタイトルマッチを控えながらその九日前に秋山、七日前には串田昇という一線級の強打者と対戦させられていることで、もし強行軍でなければ宏が兄の記録を塗り替えていた可能性もあった。
というのも、宏は花田とのリターンマッチでタイトルを奪回した試合も含めて再び十四連勝と勝ち続けているからだ。この間には兄恒男がリングに上がる直前に下痢で試合に出られなくなった代わりに、急遽笹崎僙と対戦した試合も含まれているが、昼食を取ったばかりにもかかわらずリングに引きずり出されてグローブハンディもなしで無判定試合と健闘しているのだから驚く。
バンタム級の宏が準備もせずにリングに上がり、現役の日本ライト級チャンピオンと互角に戦ったこの一戦(二十三年六月四日)は新聞紙上でも絶賛された。
当時、兄恒男は日本ミドル級タイトルを失ったばかりで、肥満した身体に鞭打っていまだに日本重量級のトップクラスには君臨していたものの、同じラッシュ戦法でもスピードとパンチの切れが段違いの宏のボクシングとは別物だった。
あくまでも想像だが、恒男は弟宏の輝きに嫉妬していたのかもしれない。このまま宏が勝ち続ければ、自身の持つ栄光の記録を更新してしまうかもしれないことを恐れて過酷なスケジュールを組んだのではないだろうか。
まだ二十歳になったばかりの宏には無限の可能性があり、評論家筋からも宏こそ堀口四兄弟の中で最高の資質の持ち主という声が聞かれるようになっていただけに、大切に育てれば東洋はおろか世界も夢ではなかったはずだ。
強欲なマネージャーならともかく、肉親が金の卵を酷使して潰すようなことをするというのはどうも腑に落ちないところもあるが、宏を馬車馬のように働かせることで巨万の富を得ていた恒男にとって、弟は金を稼ぐ道具であって、兄弟愛のようなものはとっくに失せていたような気がする。
そんな宏の前にゴステロをも凌ぐ強力なライバルが現れた。後の世界フライ級チャンピオン、白井義男である。
戦後の一時期、腰を痛めてブランクのあった白井は、進駐軍に所属するカーン博士の指導で甦り、かつてのハードパンチャーからスピードとテクニックを兼ね備えた万能型へと進化を遂げている最中だった。
宏より六歳年上ながら、「今牛若丸」の異名をとった花田陽一郎からKOでフライ級タイトルを奪うなど年齢的なハンディは一切感じさせない身体のキレがあった。フットワーク主体のボクサーファイターとはいえ、二十一勝四敗(九KO)という軽量級にしては高いKO率を誇り、KO勝ちのほとんどが序盤という詰めの巧さはあなどれなかった。
昭和二十四年十二月十五日、軽量級チャンピオン同士の一戦はピストン-笹崎戦になぞらえて「世紀の一戦」のキャッチフレースが付けられ、東京芝公園スポーツセンターに一万五千の大観衆を集めた。
なにしろ五百円のリングサイド席が飛ぶように売れ、十倍ものプレミアがついたというから凄まじい。この当時の五千円はまだ少数しかいなかった大卒初任給を越える高額である。今日では人気ボクサーの世界戦でもここまでプレミアがつくことはないから、日本タイトル戦としては異例の人気ぶりといっていいだろう。
それだけにファイトマネーも高額で、堀口宏の八万円は現在の三百万円を軽く超える計算になる(もちろん兄恒男はその何倍もの興行収益を手にしていたはずだ)。
やや白井有利の予想通り、序盤は白井のジャブとストレートが的確にヒットし、スピードで劣る宏は苦戦を強いられていたが、六ラウンドに宏の強烈なボディアッパーで腰砕けになった白井が、追撃の左右フックとアッパーのコンビネーションブローを浴びあわやダウンのピンチに見舞われた。
なりふり構わぬクリンチでこのラウンドを凌いだ白井は、最終ラウンドの打ち合いもなんとか切り抜け、僅差の判定で逃げ切った。
有効打の数では白井が宏を圧倒していたように見えたこの試合、打たれても打ち返してくるタフな宏の突進力は終盤まで衰えず、技術的には数段上の白井を最後まで手こずらせた。
しかし、この頃宏は激戦の疲労が蓄積しており、身体の不調を訴えていた。
宏がスターダムに駆け上った昭和二十一~二十二年頃の日本は物資不足で、ボクシングの用具も使い回しが当たり前だった。中でもグローブは皮が磨り減り中身の綿も潰れて硬くなっていたため、試合となると軍手をした状態で殴り合っているのに等しく、その衝撃度はベアナックルファイトと変わらなかったという。
そう考えると、三十六連勝中の宏は月に三度も四度もベアナックルで闘っていたようなもので、人体の回復力を超えるダメージが蓄積し続けていたことは想像に難くない。今日のボクサーが同じ条件で試合をしていたら、三十六連勝以前に廃人になっていただろう。
身体の節々に残る痛みと偏頭痛を抑えるために、宏は兄恒男と同じように薬の力に頼ってきたが、それも限界に近づいてきたことで、昭和二十五年の後半からほとんどリングに立たなくなった。
それでも白井と互角に戦い、その後も四連勝負けなしの金の成る木を世間は放っておいてはくれなかった。
昭和二十六年六月、世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノの来日にあたって、約一年ものブランクがある宏も引っ張り出されることになった。
同じくマリノと対戦して善戦したことで名を挙げた白井とは対照的に、準備不足の宏の方は八ラウンドTKO負けという不本意な終わり方をしている。
ふがいない敗北に納得がゆかなかったのかもしれない。
身体には多少ガタがきていることは自覚しているが、まだ二十三歳の若さである。
もう一花咲かせようと本格的にリングに舞い戻った宏は、二十七年二月九日、再びタイトルを賭けて白井と対戦し、またしても僅少差の判定に退いたが、この時世界ランキング一位の白井を幾度もロープに釘付けにした連打は宏の健在ぶりを存分にファンにアピールした。
その後、世界チャンピオンになった白井が返上した日本バンタム級タイトルを中西清明と競って奪還すると、白井の去ったバンタム級では無敵ぶりを発揮し、防衛八度の長期政権を築いた。
後に世界J・ライト級の名王者として君臨するフラッシュ・エロルデとの東洋バンタム級王座決定戦は無念の敗北を喫したが、すでに眼疾で左目がほとんど見えない状態で「フィリピンの閃光」と呼ばれるスピードスターと戦うこと自体が無謀だった。遠近感がつかめないため、パンチはほとんど勘で打っていたという。
これ以上リングに上がるのは危険、と判断したコミッショナーの引退勧告を受けた宏は、潔くチャンピオンのまま引退の道を選んだが、これまでの数々の功績に報いるかのように東京と大阪では盛大な引退興行が催された。
昭和二十九年、二十五歳の若さで引退した宏は当時の金で三千万円(現在なら四~五億)は稼いだと言われるが、兄と同じく浪費家だったせいか引退後ブラブラしているうちに貯金は底を突き、一時期は売り食いするほど経済的に追い詰められていた。仕事を始めようにも現役時代に常用していた薬などの影響で著しく健康を害していた宏は、左目の失明に加えてパンチドランカー症状による言語障害にも悩まされていたのだ。
スター選手として若い頃からちやほやされて金にも窮したことのない宏の生活は次第に荒んでゆき、幼馴染だった妻も彼の元を去っていった。
その後、東京寝台自動車に職を得てサラリーマン生活を送ったが、昭和三十七年に再婚した妻とともに世界救世教という宗教団体に入信すると、団体の事務局員を経て自らの教会を建立した。
生涯戦績 82勝11敗(24KO)6分2無判定
宗教家に転身してからの堀口宏は、ボクシング界とはほとんど絶縁状態になり、世間からも忘れられた存在になったため、昭和の終わりまで健在だったことは確かだが、その後は生没不明である。