隣国からの視線
それは、王国の東に位置する大国――アルヴィオン帝国の政庁で交わされた、ひとつの報告から始まった。
「ミュリエ村、という辺境の地に、非常に高品質な薬草製品を製造する者がいるとの情報が入りました」
報告したのは、帝国貿易監察局の若手官吏であるセドリック・ランフォード。
彼が手にしていたのは、王都経由で入手した薬草茶のサンプルと、簡単な調査報告書だった。
「……王国の中でも特に貴族社会に疎まれていた地から、ですか」
静かに声を上げたのは、アルヴィオン帝国第三王子――クラウス・フォン・アルヴィオンであった。
高い背丈に深い藍色の瞳。均整の取れた顔立ちに、冷静な知性と静かな威圧感を備えた若き皇子。その表情に、興味の色が浮かんでいた。
「特筆すべきは、その薬草の育成速度と効果の安定性。王国の貴族商会も関心を示している様子です。……そしてこの発案者、エリス・フォン・ベルグランド嬢は、かつて王太子の婚約者でありながら、最近追放された人物です」
「ふむ……これは面白い。通常であれば、ただの令嬢が追放されて地方に沈む。それが、“地を起こし、人を動かす”までに至っているのなら――これは視る価値がある」
クラウスは静かに立ち上がり、窓辺へと向かう。
春の陽光が差し込む中、彼はふと視線を遠くにやった。
「セドリック。調査団を派遣しよう。君が責任者だ」
「はっ、承知いたしました!」
「……いや、やはり私が行こう。書面では伝わらぬことがある。五人ほど随行を連れて、近日中にミュリエ村を訪問する。準備を」
「お、お待ちください、殿下ご自身が!?」
「隠密行動に近い。表立った使節ではない。あくまで“個人的な関心”という体裁だ」
それは、帝国の王族が、名もなき辺境の薬草園に目を向けた瞬間だった。
一方、ミュリエ村ではいつものように一日が始まっていた。
エリスは温室の中で新しい薬草の交配を進めながら、次の調合予定をマリーと確認していた。
「この調合、そろそろ試作品にできると思うの。リラックス効果と消化促進の二重効果を目指したい」
「かしこまりました! そういえば、今日は近隣の村からも注文が入ってます。配達用の瓶、多めに準備しておきますね」
「ありがとう。……でも、少しずつ広がってきたわね、この薬草茶」
エリスはほほ笑むが、その表情にはどこか遠いものがあった。
静かに、しかし着実に広がる評判。それがいつしか、大きなうねりになって彼女の元に戻ってくる予感がしていた。
その日の午後。
「エリス様、大変です!」
リーナの叫び声に、エリスとマリーが顔を上げた。
屋敷の門の前に、見慣れない馬車と数人の護衛らしき男たちが立っている。そして、その中央に――
「……あれは、王族の紋章?」
マリーが小さく呟いた。
そして、ゆっくりと馬車の扉が開く。
現れたのは、淡い銀の刺繍が施された帝国軍の礼服を纏う青年。落ち着いた態度でエリスの前へと歩み寄り、礼儀正しく頭を下げた。
「初めまして、エリス・フォン・ベルグランド嬢。私はアルヴィオン帝国第三王子、クラウス・フォン・アルヴィオンと申します。本日は、貴女の手による薬草と錬金術に、深い関心を抱き訪問させていただきました」
その名を聞いた瞬間、エリスは僅かに目を見開いた。
帝国の皇子が――なぜ、こんな辺境に。
けれど、彼の瞳にあったのは“興味”ではなく、“敬意”だった。
(この出会いが、何をもたらすのか――)
エリスの中で、何かが静かに、確かに動き出していた。