再会の弟
春も深まり、薬草園の苗たちがすくすくと育ち始めたころ。
エリスは温室の裏で土の確認をしていた。日課の作業に、もはや貴族の面影はない。袖はまくれ上がり、膝には泥の跡がついている。
そんな彼女の元に、マリーが息を切らしながら駆け込んできた。
「エリス様、大変です!……いえ、えっと、すごいです! 来客です!」
「またカリムさん? 連絡はなかったけど……」
「いえ、違います! もっと……その、若くて、背が高くて、ちょっと貴族っぽくて……!」
「……マリー、落ち着いて」
エリスが苦笑しながら立ち上がると、マリーが頷きつつ深呼吸をした。
「……エリス様の弟君です。アルフレッド様が、お見えになっています」
その名を聞いた瞬間、胸の奥にぽつりと何かが落ちたような感覚が走った。
弟――アルフレッド・フォン・ベルグランド。エリスより二歳年下で、侯爵家の次期当主候補として育てられていた。温和で真面目、幼いころからエリスを慕ってくれていた、大切な弟。
(来てくれたの……?)
その思いが形になるよりも早く、エリスは屋敷の玄関へと歩いていた。
玄関の前には、淡い栗色の髪を持つ青年が立っていた。整えられた騎士服に身を包み、背筋は伸びている。
けれど、エリスを見つけた瞬間、その端整な顔がぱっと崩れた。
「姉上……!」
駆け寄るアルフレッド。思わずエリスも一歩だけ踏み出していた。
「来てくれて、ありがとう」
「……遅くなって、すみません。姉上がこんな遠いところにいるのに、僕は、何も……!」
その声に、怒りも悔しさも滲んでいた。だが、それ以上に胸を締めつけていたのは、姉を心配する純粋な気持ちだった。
「謝ることなんてないわ。お父様やお母様が、あなたを王都に縛りつけてたのでしょう?」
「それでも、僕がもっと早く動いていれば……!」
震える声を聞きながら、エリスはそっと微笑んだ。
昔から優しすぎる弟だった。家族の期待に応えようと真面目に努力し、姉のことを心から尊敬してくれていた。
「もう、こうして来てくれただけで十分よ。会えて嬉しい、アルフ」
エリスの言葉に、アルフレッドはこくんと小さく頷いた。
「僕、何も持ってこられなかったけど……手伝いたい。姉上がここでどんなことをしてるのか、知りたいんだ」
「ええ、見せてあげるわ。私の今を」
その日、エリスはアルフレッドを連れて薬草園を案内した。
土を耕し、苗を植え、水をやり、魔力を注ぎ、調合し、商品として整えるまでの全工程。かつて王都の社交界で見せていた“理想の姫君”とはまったく異なる、土と汗にまみれた姉の姿。
「……これを、一人で……?」
「今はマリーとリーナが手伝ってくれてるけど、最初は一人だったわ。でも、楽しいのよ。ここにいると、自分が“誰かの役に立ててる”って、ちゃんと感じられるから」
アルフレッドは言葉を失いながらも、真剣な目で姉の仕事を見ていた。
「王宮にいたときより、ずっと……生き生きしてるね、姉上」
「かもしれないわ。私はようやく、自分の人生を歩き始めたのかもしれない。あの場所では、息をするだけで精一杯だった」
エリスは空を見上げた。夕日が薬草園を照らし、春の風が頬を撫でていく。
「アルフ、あなたはあなたの場所で頑張って。そして、時々でいいから、ここに帰ってきて。私は――この場所を守るわ」
アルフレッドは力強く頷いた。
「約束するよ。僕は、姉上の味方だから」
その言葉は、まるで祝福のように、エリスの胸に届いた。
その夜。エリスの部屋に差し込む月明かりは、優しく、暖かかった。
彼女は知っていた。自分には、何もかも失ってしまったと思っていたけれど――まだ、支えてくれる存在がいる。
そして、それはこれからの未来へと繋がる力になるのだと。