広がる噂と訪問者
それは、ほんのささいな始まりだった。
エリスが村で薬草茶を配った日から、わずか二週間。噂はじわじわと広まり、隣の村にまで届き始めていた。
「最近、ミュリエ村の薬草茶がすごく効くらしいよ」
「腰痛が楽になったとか、夜眠れるようになったとか……」
最初はただの流言と片付けられていた。だが、次第に確かな効果を実感する者が増え、やがて旅の商人の耳にも入るようになる。
そして――その商人の一人が、王都近郊の薬問屋にその噂を持ち込んだことで、物語は次の段階へと動き始めた。
ある晴れた日の午後、エリスはいつものように薬草園で土をいじっていた。
マリーとリーナが苗の植え替えをしている傍らで、新しく届いた土壌改良材の確認をしていたときだった。
「……あの、エリス様。お客様がいらっしゃってます」
リーナが小走りで駆けてくる。その様子に、ただの村人ではないと直感した。
「どんな方?」
「えっと……お名前は、ヴィルク商会のカリム様。王都から来られたそうです」
エリスは一瞬だけ眉を上げた。
ヴィルク商会は王都でも名の知れた老舗薬問屋。特に高品質な薬草の取引では貴族相手にも強い影響力を持つ。
(……なぜ、こんな辺境に?)
エリスは手袋を外し、庭先へと向かった。
そこには、小太りの中年男性が立っていた。柔らかい麻のスーツに金の縁取りを施した帽子。間違いなく上級商人の装いだった。
「これはこれは、お初にお目にかかります。わたくし、ヴィルク商会より参りましたカリムと申します。突然の訪問、失礼いたします」
「エリス・フォン・ベルグランドです。わざわざ王都からいらしたのですか?」
「ええ、どうにも気になる噂を耳にしましてね。とある薬草茶が非常に評判で、眠れなかった老人が夜通し眠れるようになった、胃の調子が改善された……。その出どころを辿れば、この地にたどり着いたというわけです」
「それは……大げさな話ですね」
エリスは苦笑したが、内心は緊張していた。
王都の商会が動くほどの影響力が、自分の薬草にあるとは思ってもいなかったからだ。
「実は、少し試作品を持ち帰らせていただけないかと思いまして。もちろん、相応の対価はお支払いいたします」
「……構いませんが、私は医師ではありません。効果を保証することはできませんよ?」
「結構。品質を確認できれば、それだけで十分です」
交渉は驚くほどスムーズに進んだ。
エリスは乾燥保存していた薬草茶をいくつか提供し、調合法の一部も開示した。秘密の要点だけは伏せたが、それでも十分だとカリムは満足げだった。
「お嬢様。いえ、失礼。エリス様。わたくし、確信しました。貴女は、これからこの地を変える存在になる」
「……そんな大それたことではありません。ただ、できることをしているだけです」
「いえ、それが一番難しい。皆、できることをしないで終わるのです。――また、近いうちにご連絡を差し上げます」
カリムが帰った後、マリーが目を丸くして駆け寄ってきた。
「すごいです、すごすぎますエリス様! 王都の商人なんて、私、初めて見ました……!」
「ふふ。偶然が重なっただけよ。でも、これで少しは“価値”を持てたかもしれないわね」
エリスは空を見上げた。
かつて、自分を“飾り”として扱った王宮とは違う。ここでは、自分の行動がそのまま評価になり、信頼になる。
それが、こんなにも心を満たしてくれるとは思わなかった。
(でも、これはほんの始まり)
彼女はまだ知らなかった。
この日を境に、彼女の名が少しずつ、王都とその外へ――やがて“帝国”へと広がっていくことを。