領地の始まり
春の陽気が村を包み込み、別荘の庭にも柔らかな風が吹き込んでいた。
エリスは小さな木箱を両手に抱えながら、敷地の端にある空き地に足を運んだ。昨日整えた土壌には、すでに芽吹き始めた薬草が並んでいる。
箱の中には、前日に乾燥させておいた数種類のハーブと、彼女が独自に調合した初めての“手製薬草茶”が入っていた。前世の知識と、この世界の素材を融合させたささやかな成果だった。
「やってみる価値はあるわ。少しずつ、でも確実に」
エリスはふぅっと息を吐き、箱を片手に村の方へと歩き出す。
ベルグランド侯爵家の第二領地にあるこの村――“ミュリエ村”は、小さな農村で、王都からも遠く離れているため、流行や政治の影響はほとんどない。
だからこそ、彼女にとっては最初の舞台として最適だった。
村の広場では、子どもたちが走り回り、農夫たちが荷車を押していた。
エリスが現れると、一瞬ざわついた空気が流れる。けれど、以前のような敵意はそこにはなかった。ただの「好奇心」――それだけだ。
「こんにちは。少しだけ、お時間をいただけますか?」
エリスが差し出したのは、香り高い薬草茶の小瓶。興味を示したのは、年配の女性だった。
「あらまあ、これは……良い香りねえ。これは、カモミール?」
「似たようなものです。眠りを助けたり、胃の不調にも効くはずです。試していただけますか?」
「へえ……お嬢さん、そういうのに詳しいの?」
「ええ。少し、昔に勉強していたので」
女性が一口飲んだ瞬間、ほんのりした甘みと、舌に広がる優しい香りに目を見開く。
「……これは、本当に効きそうだよ。夜眠れないことがあるから、助かるねぇ」
それを聞いていた他の村人たちも次々に興味を示し、薬草茶の瓶はあっという間に空になった。
「もっと分けてもらえるのかい?」
「今はこれだけしか作れませんが、また調合して持ってきますね」
柔らかく微笑むエリスに、村人たちの態度が次第に変わっていく。
“王宮を追われた侯爵令嬢”ではなく、“この村で共に生きる若い女性”としての姿を、少しずつ認められていった。
――その日の夜。
別荘の居間では、マリーが感激しながら報告していた。
「今日だけで、十人以上の方が“あれはすごい”って言ってました! お嬢様、やっぱり本当にすごいです!」
「ふふ、ありがとう。でも、ここからが本番よ」
エリスは調合器具を机に並べながら、慎重に草を刻んでいた。
薬草の中には、似て非なる成分を持つものも多く、扱いを誤れば逆効果になるものもある。だが、それもまた彼女の得意分野だった。
前世の知識、そして今世での魔力感知の能力――
彼女はそれらを統合しながら、自分だけの“錬金術”を形にしようとしていた。
「今は誰も気づいていないけれど……。薬草も、魔法も、正しく使えば、この村全体を変える力になる」
静かに、けれど確かに火が灯ったような瞳で、エリスは言った。
「私が、私自身で選ぶ道――その始まりよ」
数日後。
村に足繁く通ってくれる女性が現れた。名はリーナ。幼い子を抱えた未亡人で、少しでも家計を助けようと仕事を探していたという。
「よかったら、手伝ってくれないかしら? 薬草の栽培と管理。それから、簡単な調合作業も」
「やります! ぜひ、働かせてください!」
エリスは頷きながら、小さな薬草園の入り口に看板を立てた。
――〈ベルグランド植物室〉
それは、かつて王宮で装飾品のように扱われた令嬢が、自分の意志で生きるために掲げた、最初の“旗”だった。