名前を呼んで
研究棟の朝は、静かに、しかし柔らかい温度で始まった。
防衛網の再整備も一段落し、今日は久々に“緊急のない日”だった。
エリスは早朝から薬草園を歩き、湿気で少しうなだれた苗の手入れをしていた。
「……このくらいなら、午後には持ち直すはず」
そこへ、見慣れた白衣の人影がやってきた。
「おはようございます、エリス様」
アリアだった。
どこか、昨日までと違って見える。
背筋は変わらずまっすぐ。口調も丁寧。
けれど、その瞳にはかすかに“揺らぎのない自分”が宿っていた。
「もう“様”なんていらないわ。今は仲間でしょ?」
「……なら、エリス、と呼んでも?」
「もちろん!」
エリスの笑顔に、アリアは少しだけ、肩から力を抜いた。
午前中、調合室にて。
アリアは試薬棚の整理をしながら、リーナと並んでいた。
リーナは最初、彼女の正体を聞いた時、少しだけ怯えていた。
けれど今日、彼女はにっこりと笑って言った。
「アリアさん、最近すっごく表情やわらかくなりましたよね。
前は、薬草より固そうな顔してたのに!」
「それ、褒めてるの?」
「もちろんですっ!」
ふいに吹き出したアリアに、リーナは目を見開いた。
「笑った……!」
「……笑っちゃ、ダメ?」
「いえいえ、もっと笑ってください!」
アリアは照れ隠しに視線を逸らしたが、自然に頬を緩ませた。
“普通の会話”が、こんなに心地いいとは――いつ以来だったろう。
昼下がり。
エリス、クラウス、アリア、リーナ、マリー、フェルナーの6人で、久々の休憩を兼ねた昼食を囲む。
食卓に並ぶのは、村の食堂が作ってくれた素朴なパンとスープ。
けれど、その場に流れる空気はどこまでもあたたかい。
「……ここに来たばかりの頃、私、何も信じてなかった」
アリアがぽつりと呟いた。
皆の箸が止まる。
「でも、今は……こうして笑ってる自分が信じられない。
信じたいって思える人がいるって、すごいことなんですね」
誰も言葉で答えなかった。
ただ、フェルナーが静かにうなずき、マリーが目を潤ませ、
クラウスがグラスを軽く掲げた。
「だったら、祝おう。ようこそ、“本当の名前”を呼び合える場所へ」
「名前……?」
「君が“任務番号”じゃなく、“アリア”としてここにいることを、俺たちはちゃんと知ってるってことだよ」
アリアは少しだけ目を見開いて、それから静かに頷いた。
「ありがとう……。私、本当にここにいて、いいんですね」
エリスが微笑む。
「当然でしょ、アリア。あなたは、もう“誰かの道具”じゃない。あなたは、“あなた”なんだから」
その言葉に、アリアはゆっくりと深く息を吐いた。
「ねえ、エリス」
「ん?」
「今度、子どもたちに薬草の育て方……教えてもいい?」
エリスは顔を明るくして頷いた。
「もちろん! 喜ぶと思う!」
こうして、アリア・レーヴェントは――
“敵”でも“元工作員”でもなく、ただひとりの“研究者”として、ミュリエ村の輪の中に加わった。
午後の薬草園には、柔らかな風が吹いていた。
芽吹きは始まり、そしてそのそばには、誰よりも静かに笑うアリアの姿があった。
彼女はもう、仮面の中にいない。
名前を呼ばれ、心で応えられる“居場所”を手に入れたのだった。




