前世の記憶
朝日が差し込む部屋の中で、エリスはしばらく天井を見つめていた。
胸の内にあるざわめきは、夢の中にいたもう一人の自分が、確かに現実に存在していたことを告げていた。
(あれは、夢じゃない。――記憶だ)
無数の書類に囲まれたデスク、光の出る板のような機械。コンビニと呼ばれる店のレジ袋、そして「エリカ」という名を呼ぶ誰かの声。
エリスの中に流れ込んでくるのは、日本という世界で働いていた、ひとりの女性の人生だった。
彼女は薬学を学び、医療と民間療法の間で架け橋となる仕事を志していた。薬草と人の身体に関する知識を持ち、日々を真面目に、誠実に生きていた。
(私……エリカとして生きていたのね)
ゆっくりと起き上がる。古びた別荘の窓からは、澄んだ空気と柔らかな朝の光が差し込んでいた。
記憶が戻ったとはいえ、混乱はあった。だが、今のエリスにはそれを飲み込むだけの冷静さがあった。
「マリー。今日から、少し忙しくなるかもしれないわ」
扉の外に控えていた侍女マリーが顔をのぞかせる。
「お目覚めですね。お顔の色も良いです。……何か、あったんですか?」
「ええ。少しだけ、昔のことを思い出したの。……遠い昔のことよ」
エリスは苦笑しながら答えた。マリーには理解できなくとも構わない。
大切なのは、これから自分がどう生きていくか、だ。
朝食を済ませた後、エリスは荷物の中から古びた園芸用の手袋を取り出した。
「薬草を育てるわ。あの温室、まだ使えるかしら?」
「はい? あの……この辺りでは農作業は下人の仕事ですし、お嬢様が泥だらけになるなんて……!」
「私はもう、そういう立場じゃないの。マリー、お願い。できることは、自分の手でやりたいの」
マリーは戸惑いながらも頷いた。
屋敷の裏手にある小さな温室。かつてエリスの母が趣味で使っていたが、今では埃と雑草に覆われていた。
エリスはスコップを手に取り、ひとつひとつ、根をほぐし、土を耕していく。
その手つきは、驚くほど慣れていた。前世でエリカだった頃、彼女が小さなベランダでハーブを育てていた記憶が、手の動きとなって蘇る。
ローズマリー、タイム、カモミール――
この世界にも似た性質を持つ薬草が存在する。使い方は違っても、効果は似ている。
(少しずつでいい。まずは、私の知識が通じるかどうか、試してみましょう)
陽が高くなるにつれ、額には汗がにじみ、手には土がついた。
だがその姿は、これまでの王宮で着飾っていた彼女とはまったく別人のようだった。
それでも、エリスの顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
――それから数日。
エリスは温室の手入れと薬草の栽培を少しずつ始め、村の人々とも顔を合わせるようになっていった。最初は遠巻きに見ていた村人たちも、やがてエリスの素朴な姿に警戒心を和らげ、挨拶を返すようになる。
ある日、小さな男の子が膝を擦りむいて泣いているところに出くわした。
「どうしたの? 転んじゃったのね」
エリスはそっと屈み込み、自分で煎じたカモミールの湿布を取り出した。
香りに驚きながらも、少年は泣き止み、手当を受ける。
「これで大丈夫。もう痛くないでしょう?」
「……ありがとう、おねえちゃん」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
そう。こうして、自分の手で誰かを助けられる。誰かのために動ける。
それが、エリカが願い、エリスが今取り戻した“生きる意味”だった。
(王宮での時間も、無駄ではなかった。でも、私は今、やっと“私自身”になれた気がする)
真紅のドレスも、王太子妃という肩書きも、もういらない。
薬草と土と笑顔に囲まれた生活の中で、彼女の新しい物語は静かに、けれど確実に歩み始めていた。