追放の朝
朝靄に包まれた王都の空気は、どこか冷たく張り詰めていた。
陽が昇り始めたというのに、王宮の南門には見送る者の姿もなく、馬車が一台、ひっそりと停められていた。
エリス・フォン・ベルグランドは、昨日とは打って変わってシンプルなワインレッドのワンピースを身に纏い、無言で荷物を積む様子を見つめていた。婚約破棄の知らせはすでに王都中に広まっており、今や彼女の名は「王太子を怒らせた悪女」として囁かれている。
けれど――。
「マリー、準備は整ったかしら?」
「はい、お嬢様。……いえ、これからは“奥様”でも“令嬢”でもないんですよね。えっと……エリス様?」
困ったように小首をかしげる侍女マリーに、エリスは微笑んだ。唯一、王宮を出ると決めた彼女について来てくれた忠実な存在だ。
「好きに呼んで。私はもう、貴族の中に戻るつもりはないから」
マリーは小さくため息をついて、馬車の扉を開ける。
その瞳に、怒りとも悔しさともつかぬ色が宿っていた。
「納得いきません。どう考えても、ソフィア嬢の言葉は嘘です。陛下も、周囲の貴族も、お嬢様のことを……」
「……でも、もう終わったことよ」
そう言ったエリスの声は静かだった。
怒りも、泣き言も、もうとっくに通り過ぎた場所にある。たとえ真実を証明できたとしても、すでに信頼は地に落ち、王宮という舞台から彼女は降ろされたのだ。
「むしろ、好都合なのよ。やっと自由になれたもの」
馬車に乗り込みながら、エリスは小さく呟く。
(ずっと……どこかで分かっていたのかもしれない。私が、王太子にとって都合のいい飾りにすぎなかったこと)
冷たい宮廷で、周囲の目を気にして立ち振る舞い、微笑みを絶やさぬよう努めてきた。完璧な令嬢、理想の王太子妃として――。
だがその役割は、わずか数分の言葉で消えた。
馬車がゆっくりと動き出す。
王宮の石畳を離れ、街中を抜けて、南へ向かう道を進んでいく。
行き先は、ベルグランド侯爵家の第二領地。王都から離れた辺境の村にある、古い別荘だった。侯爵家としても、表立って彼女を庇う気はないようだった。せいぜい「療養のためにしばらく郊外で過ごす」との説明を出したにすぎない。
(追放ではなく“静養”という建前……。笑えるわね)
エリスは窓の外に目をやった。
春の芽吹きが感じられる草原が、馬車の車輪の音とともに遠ざかっていく。人々の視線ももうない。これからは、彼女自身の足で、何かを築いていかなければならない。
「……ねえ、マリー」
「はい?」
「もし、何もかも失って、何も残らなくなったとしても。私が私でいられるって、信じられる?」
マリーは少しだけ沈黙し、それから真っ直ぐエリスを見つめて頷いた。
「はい。私は、お嬢様がどこにいても、どんな立場でも、変わらずに支えます。お嬢様は“自分”で在り続ける方ですから」
その言葉に、ふっと心が軽くなった気がした。
そして――。
その夜。別荘にたどり着いたエリスは、ベッドの中で再び“あの夢”を見た。
暗く、静かな白い部屋。無数の棚に並ぶ薬草と試薬。
忙しなくパソコンに向かう女性の背中。日本語で書かれたビジネスメールと、冷えたコンビニのおにぎり――。
(……これは、前世……?)
その瞬間、彼女の中で何かが覚醒する。
まるで記憶の底に沈んでいた何かが浮かび上がるように、次々と現れる知識と感情。
「わたし……前に、こんなことを……?」
夢から目覚めたエリスの瞳には、かつての戸惑いではなく、静かな決意が宿っていた。
「なら、もう一度やり直せる。今度こそ、“わたし”の人生を――」