婚約破棄の夜
光の粒が舞い踊るような、きらびやかな夜だった。
王都エルステリアの中心、王城で開かれる春の舞踏会は、貴族たちにとって一年で最も重要な社交の場である。ドレスの裾が床を撫で、香水と花の香りが混ざる中、エリス・フォン・ベルグランドは真紅のドレスを身に纏い、静かに微笑んでいた。
侯爵令嬢であり、王太子レオナルドの婚約者。だが今夜、彼女の運命は劇的に変わることになる。
「エリス嬢。少し、お時間をいただけますか」
その声に、エリスはゆっくりと振り向いた。
金の髪を整え、白い軍服を纏った青年――王太子レオナルド・アドルフ・エルステリアが、いつになく硬い表情で立っていた。
「ええ、もちろんです。王太子殿下」
彼女は微笑み、軽く頭を下げて歩み寄る。周囲の貴族たちが、ひそひそと声を交わすのが耳に入った。だがエリスは気に留めなかった。彼が自分を求めてくれるだけで、十分だったからだ。
二人は舞踏会の喧騒から離れ、花の咲き誇るテラスへと足を進める。満月が空に浮かび、銀の光が石畳に注がれていた。
そして、静寂の中で、彼の口が開いた。
「……エリス・フォン・ベルグランド。貴女との婚約を、ここに破棄させていただきます」
時が止まったかのようだった。
エリスは一瞬、意味が理解できず、ただその場に立ち尽くした。微笑みは凍りつき、心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
「……何を、仰っているのですか?」
「君が、平民の令嬢であるソフィア・ミラー嬢をいじめていたという報告があった。これ以上、王家の威信に傷がつく前に、関係を解消すべきだと判断した」
ソフィア・ミラー。最近、王太子の周囲をうろついていた平民出身の令嬢だ。確かに、何度か視線を感じたことはあった。しかし、エリスが彼女をいじめたなどという事実は、微塵も存在しない。
「……それは、誤解です。私は彼女に何も……」
「言い訳は聞きたくない。すでに調査は済んでいる。これ以上の弁明は、君の品位を落とすだけだ」
冷たい。まるで、初めから決まっていたかのように。
彼の目には、もうエリスへの情はひとかけらも残っていなかった。まるで、罪人を断罪するかのような口ぶりだった。
だが、エリスは立ち去ることはしなかった。彼女は唇を噛みしめ、ひとつ深く息を吐いてから、凛とした瞳で彼を見上げた。
「承知しました。殿下がそのようにお望みならば、私は婚約破棄をお受けします」
レオナルドが一瞬、驚いたように目を見開いた。だがすぐに表情を戻し、踵を返す。
「君の荷物は、すでに侯爵邸へと送らせてある。明朝には王宮を出ていただきたい」
足音が遠ざかる。残されたエリスは、ただその場に静かに立ち尽くしていた。
夜風が吹いた。真紅のドレスが揺れ、淡い月明かりが彼女の頬を照らす。
悔しさも、悲しみも、怒りもあった。けれどそれ以上に、胸に巣くったのは――虚しさだった。
(……私が何をしたというの……?)
けれど、その夜。エリスは知らなかった。
この絶望の始まりが、彼女の第二の人生への扉であることを――
そして、彼女がかつての「悪役令嬢」として、すべてを逆転してゆく物語が、今、幕を開けたことを。