第9話 母さんに殺されるかも……
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第9話 母さんに殺されるかも……
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雪解け後の湿った腐葉土は、足音を消してしまう。
魔力感知を怠ったつもりはないが、油断していたかもしれない。
わずか十メートル先に姿を現したのは、オオカミである。
「お前かよ」
以前出遭ったロンリーウルフだ。
右耳が半分千切れているので、間違いなくあいつだ。
イノシシの血の臭いに誘われてやってきたのだろう。
「グルルル」
「今回は雌雄を決することになりそうだな」
俺が狩ったイノシシだ、俺は退かないぜ。
そして、血の臭いで気が立っているあいつも、退くとは思えない。
どうやら今日はイノシシをかけて戦うことになりそうだ。
俺は構えていたクロスボウのトリガーを引いた。
引き絞られた弦がフリーとなり、矢をこれでもかという力で押し出す。
なんとオオカミは余裕の表情を崩すことなく、高速で飛翔した矢を避けた。
まるで俺の行動を予測していたかのような動きだ。
まさかとは思うが、俺の指の動きを見ていたのか?
昔柔道をやっていた時、相手の目の動きで次にどんな技を仕掛けてくるか分かると言ったヤツがいた。
そいつは圧倒的な強さを誇り、大学一年の時にオリンピックで金メダルを取り、それから三大会連続でオリンピックの金メダリストになった。
俺が死んだ三十歳の時にもまだ現役だったので、もしかしたら四大会連続でメダリストになっているかもしれないな。
それほど強かったのも、あいつは相手の行動を支配しているかのように予測していたからだ。
あと、筋肉の動きで行動予測できると聞いたことがある。
そんなことできるわけがないと思うし、そもそも柔道着を着ているから見える筋肉は限定的だ。
そんな状態で分かるわけがないと俺は思っていた。
「こいつ……あの時より強くなっている?」
「グルルルル」
あの時はやり合っても勝てると思った。だが、今は負けるかもと思うようになった。
冬の間に進化しやがったか。
そういうヤツ、いるんだよな。ちょっと見なかったと思ったら、鬼強になって現れるヤツ。
俺のような凡夫には、そういったことが理解できなかった。
今まで余裕で勝てたヤツが、俺を秒で倒した。
クソ悔しくて、泣いたよ。
俺だって真面目に柔道に取り組んでいるんだ。
それなのになんでこんな差ができたのかと思ったものだ。
「俺だって冬の間になんとなく過ごしていたわけじゃないんだぜ」
毎日筋トレをし、身体強化魔法を全開発動させて何度も吐きそうになった。
それだけじゃない。倉庫《自室》の中で毎日木刀を振っていたんだ。
「進化した俺の強さを見せてやろうじゃないか」
神刀ケルンをゆっくりと抜く。
正眼に構えると、ただ至高の一振りだけを心がける。
「ガウッ」
「シッ」
俺とオオカミが交差する。
左上腕部に焼けるような痛みが走る。
体が大きくなったので、母ノーシュが服を縫ってくれた。
下したての服が破れ、血が滲む。
だが、オオカミも無傷じゃない。
左前の肩から血を流している。
俺と同じように大した傷ではないが、お互いに傷を負った五分と五分だ。
「母さんに殺されるかも……」
この戦いに生き残っても、この服を見た母さんに殺されるかもしれない。
俺は死ぬ未来しかないじゃないか!? うわー……。
「お前のせいで、俺は地獄を見ること決定だ。だが、お前にはここで地獄を見てもらう!」
この人生で初めて殺意というものを覚えたかもしれない。
それからお互いににじり寄り、三メートルのところで一気に動く。
それまでの静とは真逆の動の応酬。
息を吐くことができないほどの激しい動きの連続だ。
ヤツの爪を神刀ケルンでいなし、手首を返して首を狙うがオオカミは紙一重で躱す。
俺は細かい傷が増えていくが、ヤツには一歩届かない。
身体強化魔法を発動させているが、まだ足りない。
「ふーふーふー……すーっはーーー」
息を整える。身体強化魔法を発動させておけるのは、あと十秒といったところか。
このままでは魔力切れになる。
俺が先に倒れるのは明らかだ。どうする? どうしたらいい? ヤツに勝つには、どうすればいいんだ?
「考えるな、ただ感じろ」
恩師の言葉が浮かんできた。
前世では一度も感じられたことはない。
それをこの世界で、しかも五歳の体でしろというのか。
俺は目を閉じた。やったことはないが、心を無にする。
敵はオオカミじゃない。俺自身だ。
真っ暗な闇の中、ただ俺は神刀ケルンを右手に握りダラーンと下げている。
これが自然の構えなのか。
正面に俺がいる。
前世の十八歳の最盛期の俺だ。
柔道の構えをとった俺が迫ってくる。
柔道マンの俺が襟を取りにきた。
その時俺は無意識に動いていた。
どう動いたか覚えていない。だが、確実に襟を取られるタイミングだったのに、柔道マンの俺は地面に倒れている。
目をゆっくり開けると、オオカミが倒れていた。
その首筋からはドバドバと血が流れだし、虫の息である。
「今のは……なんだったんだ……?」
今の感覚を思い出そうにも、何をしたか覚えていない。
だが、オオカミは瀕死の状態で地面に横たわっている。
「すまないな。俺自身何をしたか分かってないが、勝ってしまったよ」
イノシシとオオカミを持ち帰るのは大変だった。
そしてもっと大変だったのが、母ノーシュの説教だった。
「新調したばかりの服がボロボロじゃない!?」
祖父ベナスが解体の指揮をしている間、俺は母から説教を受けていた。
軽く二時間は正座でマシンガンの弾のように途切れることない言葉の嵐に曝されていた。