ありふれた夜の話
駅から15分、妥協に妥協を重ねすぎて、何に納得して借りたのかわからないワンルームに備え付けられたクーラーが壊れて、少し開けた窓から覗く月の方が、よっぽど涼しい顔をしている。
隣人が窓を開けた音がして、空気の通りが悪いワンルームに煙草の煙が音を立てずに悪い顔をして侵入してくる。肺に毒が回った気がして、読んでいた本に栞を挟んだ。
外に出る、この部屋の鍵だけを持って。またここに帰ってくるためだ。
本が好きだ。状況も時代背景も様々だけれど、私が読む本の主人公は大抵、夜に散歩をする。明かりがないとまっすぐ歩けない夜にわざわざ出かけようとする人間が主役を張る物語が、私は特に、好きだった。
右にしか曲がれないと思っていた道は左にも曲がれることに気がついて、私しか知らないと思っていた駅裏の自販機にしかなかったはずのジュースがその先のコンビニにあった。独占欲めいたものがぬるぬると滲んで消えていく。本当はそんなこと、心底どうでもよかったのに。
眩しすぎる光の下で、やる気のない店員が欠伸をしている。居心地が悪くてそそくさとコンビニを出た。暗すぎる空を見上げてもこの街で星はひとつも見えない。満天の星空がどうとか歌っているあの歌手は、果たして満天の星空を見たことはあるのだろうか。目を瞑っても変わらない気がして、瞼を閉じる。
目を開けると、すぐそこに立っていた。
『こんばんは。』「…………こんばんは。」
暗くてよく見えなかったけれど、深く綺麗な目の色をした人だと、何故か直感的にそう思った。
その人にゆるりと近づくほどに、私の首の角度は駅裏の自販機を見上げる時の角度に近づいていく。その人はとても背が高かった。そしてその人は、夜の香りがした。
『綺麗な夜ですね』「……そうなんですか?」『うん。比較的ね』
その人は、“夜”なのだと、思った。
しぃ、と細く長い人差し指を、暗くてよく見えないけれどきっと美しいピンク色をした唇に当てて、『少し、歩きませんか。』と、その人は私に言った。
『……コンビニから、出てきたみたいだけど』「あ、はい」『何か買ったの?』「……いや、何も。ただ、」『うん』「私しか知らないと思っていたジュースが置いてあって、少し悲しくなりました。」『どんなジュース?』「……甘いジュースです」『あぁ、星のジュース?』「星、のジュース?」『うん。違った?もしかして、飲んだことない?』
その人はそう言って、“上”を指差した。“上”には、夜しかなかった。
「……星って、ジュースにできるんですか。」『うん、星はね、砂糖なんだよ。』
うん、と言うときの声が少し幼くて、私は彼のことを何故だかずっと知っているような気がした。
「……この街は星が見えないから、そんなこと、知りませんでした。」『あぁ、そうだ、そうだね。僕が絵の具で塗り潰しちゃったから、ここから星は見えないんだ。ごめんね』
なんで?と聞くと、だって、あんまり美味しくなかったんだもん、と笑う彼はやっぱりさっきよりも幼くなったような気がして、このまま消えてしまうんじゃないかとすら思った。
気がついたら左に曲がった曲がり角が右に見えてきて、私は思わず「ついていってもいい?」と彼を見上げた。
『おやすみ、またね』と手を振り微笑む彼は、眩しくて、私は、目を細めた。
駅から15分のワンルーム、壊れたクーラーの代わりに扇風機がカラカラと生ぬるい風を送る。窓から覗く月、隣人の煙草、本に挟まれた栞の紐が、ゆらゆらと、夜に揺れる。