Lady of Red Moon ~女神の血を引くとして~
シェリル・ヘリオット嬢は、一年前に伯爵家に嫁ぎ、シェリル・アルカナル夫人と成りました。財政的には貧しいアルカナル家ですが、シェリルは今日も明るく手紙を書きます。
親愛なるお父様へ。
今日で私の婚儀から丸一年が経過しました。嫁いだ愛娘が恋しいなんて言わないで下さいよ?
寿命が長いだけの貧乏貴族に嫁入りか、なんて、お父様達は嫌な顔をしていたけど、そんなことは全然ありません。
それは、食事は確かに質素だけど、普段は毎日焼き立てのパンとショコラを嗜んで、お祝いの時は大きな牛の肉と美味しいサラダが出てきます。
私のお気に入りは、キャベツがたくさん入ってる、酸味の利いた乳白色のソースで和えられたサラダです。スープだけで生きてるわけじゃないから安心して下さいね。
私のお姉様になったグレイシア様は、毎日、自分のお部屋で侍女やメイド達に何か指示を出しています。部屋にいた者達を怒る声を聞いた事があって、その時、侍女達に理由を聞いても、「グレイシア様の部屋には絶対入ってはいけません」と注意されるばかりでした。
時々、グレイシア様は額に手をあててラウンジの椅子に掛けていらっしゃいます。その時、「お姉様」と声をかけると、「グレイシアと読んで」と冷たく言われます。
ある時、「グレイシア様」と呼びかけたら、「何の用かしら?」と聞いてくださったので、「お庭の散歩でもご一緒できないかと思って…」と言うと、「散歩の出来る時間が欲しいわ」と答えて、グレイシア様は自分の部屋に籠ってしまわれました。
其れまで他人だった者が屋敷に出入りするようになったのですから、グレイシア様としては落ち着かない気持ちなのでしょう。私としては、せっかく家族になったグレイシア様と、もっと打ち解けたいと願っているのですが。
半年くらいの間で、グレイシア様は、段々部屋の外で休まなくなって、終いにはご自分の部屋から出て来なくなってしまいました。
お加減を気にして彼女の部屋の扉を叩くと、ついにグレイシア様は、扉の前で厳しい声を出しました。「何故あなたは私を追い立てるの。私があなたと話したくないことくらい、察していただきたいわ」って。
私は、この言葉がショックでした。それよりもショックなのは、私が声をかける事がグレイシア様を追いこんで居たと言う事です。
私は、その日から、自分を律するようになりました。屋敷の中でグレイシア様に会っても、黙礼するだけにし、彼女が何処で休んでいても声をかけないようにしました。
夫からも、「姉さんは、昔から人見知りが激しいんだ。君が悪いわけではないけど、少しだけ気を使ってあげてくれ」と言われました。
親愛なるお父様へ。
夫が私に新しいドレスをプレゼントしてくれたと言ったら驚くでしょうか? 結婚して一年間、社交界に出てはいませんでしたが、ついに夜会に出席する日が来たのです。
生地が傷むことを気にして、ブローチは付けませんでした。その代わり、首元を銀と翡翠で出来たペンダントで飾り、婚礼の儀の時にもらったプラチナの指輪をつけ、化粧をして紅を引きました。
それだけで心が高揚してきて、夫と共に会場に行ったときは、自分が「家の名を冠して社交の場に出かけているのだ」と言う事を忘れてしまいそうになりました。
夫は私をひどく気にかけてくれて、誰も聞いていないバルコニーでは「貧乏貴族の妻になったなんてって、君が気を落とさないか心配だったよ。だけど、君は実に自然で朗らかだ。君が君らしく居てくれる事が、我が屋敷の『平和』の証になるだろう」と言っていました。
お父様は、私が「褒められると失敗してしまう気質」なのはご存知でしょう? 私は夫からの言葉を受けた後、ひどく緊張してしまい、自然にも朗らかにも振舞えませんでした。
屋敷の平和が私の行動で推察されるなんてって思って、夫と一緒にワルツを踊った以外は、椅子に掛けたままお人形になってしまったものです。
グレイシア様は社交の場に姿を現わしません。パートナーが居ないためかも知れませんが、先日私の夫が言っていたように「人見知り」が激しいからかしら、と私は思っていました。
夜会が終わってから屋敷に帰ると、何やら見知らぬ者達が裏口から出入りしていました。仕立ての良い服を着た商人と一緒に、召使らしき人物が、大きな荷物を肩に担いで屋敷から出てくるのを見たのです。
私と夫が正門から屋敷に戻ると、メイド達はひどく怯えているようでした。さっき裏口から出てきた人達は誰なのかを聞くと、「この家に嫁いだからには、誰にもそれを尋ねてはいけません。恐ろしい事が起こります」と言われました。
まだ若いメイドの一人が、「グレイシア様が…」と言いかけましたが、「滅多な事を口にするんじゃない」と、他のメイド達にたしなめられていました。
親愛なるお父様へ。
異国の装束の者達が、屋敷から外へ帰って行く所を見ました。応接室からグレイシア様と侍女達が出てきて、私を見つけると、何も言わずに視線をそらしました。
私は、普段のルールを思い出して、黙礼だけして自分の部屋に戻りました。それでも、人見知りだと言うグレイシア様が何故見知らぬ者と会っていたのかが変に気がかりで、夫の部屋に行って事情を話しました。
グレイシア様が、異国の装束を着た者達と話をしていたようなのだが、あの者達は誰なのか、グレイシア様はあの者達と何の話をしていたのか。そんな事を聞きました。
夫はしばらく私から視線をそらし、手元を見つめていました。それからこちらを見て、「あの者達は、母の代からこの家に出入りしていた貿易商だ」と言いました。
アルカナル家は元々女系の家系で、家を取り仕切る女性達が、男達には教えない内密な仕事に就いているのだそうです。
複数の娘に恵まれたら、長子にその任を課し、血を継ぐ役は後から生まれて来た子供達に託されます。娘が生まれず、血筋からの養子でも娘を得られなかった場合にのみ、男子でもその任に就くことが過去の事例としてあったそうです。
一人娘だった場合、その者は家の任と共に、血を継ぐ役目も担います。
グレイシア様と夫は二人の姉弟だったので、グレイシア様が屋敷内の秘密の仕事を担い、夫は血を継いで領地を管理する仕事を任されました。
「姉さんは、時には、大規模な取引のために大きな資産を使うが、その結果が悪くなったことは無い」とだけ、夫は言いました。
私は、夫から話を聞いてから、グレイシア様に再び興味が湧いてきました。アルカナル家の長い歴史の中には、その娘達、そしていずれは母になる者達に受け継がれてきた秘密の仕事がある。
私が母になって、娘に恵まれたら、グレイシア様はきっと私達…いいえ、私の娘にだけは心を開いて、良き伯母、良き教師となってくれる。そう思ったのです。
それからも、私はいつも通りに振舞いましたが、自分の胸に宿った希望は、どうしても隠せません。黙礼する時も、視線を外すタイミングを忘れて、いつまでもじっとグレイシア様を見つめてしまったりもしました。
その視線が、グレイシア様はあまり気に入らないようでした。私と関わるのを基本的に嫌う方なのですが、私が視線を外さない時は、眉間にしわを作って、「その媚びるような視線の使い方は、何処で学んだのかしら?」と言います。
私が、自分が熱っぽくグレイシア様を見つめていたのに気付いて、「申し訳ございません。その…今日も、お美しいなと思って」と、言い訳をすると、「そう言う事は、自分の夫に向かって言うものよ。その調子で、夜会に行かないで欲しいものだわ」と言って、グレイシア様はご自分の部屋に戻られます。
とても合理的な事を言ってらっしゃるんですけど、私が誰にでも「熱っぽい視線」を向けるのだとは思われないように、これからも自制を心がけます。
親愛なるお父様へ。
私は恐ろしい秘密を知ってしまいました。その日は特にお加減が悪い風だったので、グレイシア様を見舞おうと、彼女が眠って居る隙に部屋を覗きました。
テーブルの上に置かれている、お花の備わった花瓶を見て、私は一瞬、心が華やぎました。そして、思わずお部屋の中に入ってしまいました。
廊下から見てると薄暗く見えた部屋は、中に入ってみると一通り回りの物は見回せるようでした。そして、そこで見てしまったのです。
牙をむいた蛇が漬け込まれている、透明な液体の入った瓶。管や風船のような肉の塊が漬け込まれている緑色の瓶。まだら模様だったり、ぐるぐると不気味に蔓を巻いていたりする、見た事のない植物。形の奇妙な、動物の骨のようなもの。思い出している今も、指先が震え出しそうです。それ等の、不気味な品々が、グレイシア様の部屋にはひしめいていたのです。
私は驚きの声を上げそうになりましたが、いつもの自制心を思い出し、声を抑え込みました。以前メイド達から聞いた「恐ろしい事」の意味が、分かったような気がしました。
もしやと思って、さらに部屋を見回すと、部屋の奥の棚と広いテーブルの上に、五芒星の書かれている本と、何かの作業をするための鋭いナイフと、乳鉢のようなもの。それから取っ手のついた車輪が舟のような入れ物に入って、置かれていました。
鈍い私でも、グレイシア様が「魔術」に関わっていることが分かりました。
ベッドで静かな寝息を立てている魔女が起きないうちに、私はそっと彼女の部屋を出て、扉から離れました。自分の部屋が近づくにつれ、早足になるのを抑えられませんでした。
私は、それから毎日、グレイシア様の行動を見張るようになりました。グレイシア様は常に侍女の誰かを連れているので、グレイシア様本人ではなく、おつきの侍女を観察していました。
侍女達が、こそこそと隠れるように行動している様子を観ると、「麻袋に入った何か」を、彼女達は複数人で屋敷の裏口のほうに持って行きました。
途中でその麻袋はメイドに渡され、メイド達の手で外の人間に手渡されていました。外に居たのは、以前屋敷に出入りして居た商人でした。
魔術で作った何かを、商人達に売りさばいている…と、私は思いました。
私が聞き覚えのある魔術と言うものは、人間の赤子の肉や、人を発狂させる植物などを煮詰めて薬にする…と言う、恐ろしいものだったので、グレイシア様がそんな恐ろしい事に手を染めているなんて、信じたくありませんでした。
もし、そんな恐ろしい事にグレイシア様が関わっているなら、私が娘を授かった時、その「古の術」を、私の娘にも継がせなければならないのだと思うと、気が狂いそうです。
私は自分の見てしまった部屋の様子や、毎日気分が悪そうにしているグレイシア様の様子、取引される巨大な麻袋の中身、そんなものを気味悪がりながら、それでも、観察し続けました。
親愛なるお父様へ。
だいぶ長い間、お手紙が書けなくて、ご心配をかけたでしょう。私のお腹に赤子が宿りました。妊婦になってからの体調の悪さや、気を付けなければならない期間を経て、お腹が真ん丸になる頃に、ようやくお医者様から「食事以外は普段通りの行動をとって良い」と言われるようになりました。
私が子を授かってから、グレイシア様は時々、不安なような情熱のあるような瞳で、私のお腹を見つめます。私は、魔女が私の子供の肉に興味を示しているのだろうか、それとも、授かったのが「娘」であると、あの魔女は見抜いているのだろうかと怯えました。ですが、生れてくるまでは、この子を私のお腹の中で守れるのだと念じながら、日々を過ごしています。
産後の療養をしながら、これを書いています。私は、グレイシア様を誤解していたことに気づきました。産気づいた私が病院に運ばれようとした時、グレイシア様は「医院に行ってはならない」と言い出しました。そして、ご自分の知り合いだと言う産婆を呼びつけました。私は屋敷の中で出産をすることに成りました。
私は出産の苦しみに耐えながら、私の子は生まれてすぐに肉にされてしまうのかと心の中で嘆きました。でも、そんな恐ろしい事は口にできません。
産婆は、だいぶ高齢の老女でした。ですが、その手は小さくて、赤子を私の体の中から取り出すと、出産の途中で切れた傷口に塗り薬を塗布してくれました。
そのおかげか、出産当日は熱が出たものの、次の日から私はベッドの上に起き上がることが出来、生れたばかりの幼い娘に乳を与える事も出来ました。
グレイシア様が、何故「医院に行ってはならない」と言ったのかを、その時は分かりませんでした。理由を聞いても、「世の中には、知らないほうが良い事はたくさんあるの」と言っていました。
でも、私が「お願いします。理由を教えて下さい。グレイシア様を信じるために」と言うと、グレイシア様は困った顔をしてから、答えてくれました。
「あの医院の職員は、毎朝死体の解剖をするの。腐った肉に触れた後で、手を浄める事もせずに、赤子を取り出す仕事をする。母親の腹に傷ができても、毒のついた手で平気で処置をするの。産婆を頼むより高い確率で、母子ともに死ぬことに成るわ」
知識と言うのは、なんと偉大な光を放つのでしょう。私は、理知に溢れたグレイシア様から、後光が射しているように見えました。こんなに聡明な方を、私は魔女だと呼んで蔑もうとしていたなんて。
自分の無知とふがいなさを痛感して、私は涙が頬を伝いました。神と名のつく全てのものに、感謝を捧げたい心持ちでした。
私の娘は、この、普段は言葉にしない真心を持った、偉大な教師の弟子となるのだと思うと、さらに喜びの涙が溢れて来ました。
親愛なるお父様へ。
私の里帰りの申請をして下さったそうですね。ですが、私はもう嫁いだ身。王様が許可しても、そちらに帰ることはできません。
私の娘の名前をお伝えするのを忘れていました。娘の名はエレンナ。ミルク色の肌と、私に似た水色の瞳、それからグレイシア様と夫に似た亜麻色の髪をしています。
グレイシア様が娘の様子を見て、「やはり…」と言葉を溢していました。グレイシア様が言うには、私の娘には「魔力」と言う力が宿っているのだそうです。
女達だけの秘密だと言って、グレイシア様は打ち明けて下さいました。
アルカナル家の血を継ぐ娘達は、代々魔力を持っている者が多数います。グレイシア様もその魔力と言う力を持っていらっしゃいました。その力を使い、何も力を持っていない人間には扱う事の出来ない、魔物の体の一部や、薬用効果のある植物を薬と成し、それを商品として貿易商や商人と取引をし、アルカナル家は財政を維持していらしたのです。
アルカナル家が困窮していたのは、先代の術師であるお義母様が若くして亡くなられ、幼かったグレイシア様が後を継ぐまでに勉学の時間がかかったからでした。
グレイシア様が、常々お加減が悪くいらっしゃったのも、新しく作った薬の効能を自分の体で実験していたからなのです。
重ね重ね、グレイシア様を「恐ろしい魔女」だなんて思っていた自分の浅はかな考えを、私はとても恥ずかしく思いました。
エレンナは、目がしっかり開くようになってから、悪戯をするようになりました。まだ首も座っていないのに、ベッドに寝ころんだまま、私の髪の毛を引っ張るんです。
それは特殊な引っ張り方で、エレンナ自身は片手をちょっと上に上げて、握った手をツンツンと動かすだけなのです。そうすると、私は髪の一房を引っ張られたような感覚がして、エレンナが私を呼んで居る事が分かります。
乳母やメイド達はこの「呼びかけ」が分からないようで、本来彼女達に任せれば良い仕事も請け負い、私は率先してエレンナの許に行きました。
親愛なるお父様へ。
アルカナル家が術師の血筋であることに、驚くのも無理はありません。ですが、先日の事をお父様に伝えたのは、アルカナル家を告訴したいからでも、異端審問にかけたいからでもありません。
確かに、「神の血」が世の中では信じられていて、「神の血」を継ぐ者以外は、奇跡を起こせない、医術に深くてはならないとされています。
ですが、私はグレイシア様をとても尊敬しておりますし、私の夫が屋敷の財政を気にせずに、領地を治める仕事にだけ集中できるのは、何よりグレイシア様の働きによるものなのです。
そして、姉の苦労を知った私が、何もしないまま夫人を務めているとお思いでしたか? 私は、今、社交界での仕事の他に、グレイシア様のお手伝いをしています。
主に、グレイシア様が作った商品を、より外の世界に行き届けさせるための仕事…と言ったら良いでしょうか。
お父様達がしっかり躾けて下さったおかげで、私はこの通りに文字の読み書きができます。そこで、外部からの商品の注文を表にしたり、どの商人が何時、何の品を取りに来るのかを把握して、速やかな発注作業ができるようにしました。
自分で書くのもおかしいですが、私の働きぶりも良好なものです。それまでグレイシア様一人で切り盛りするには、最小限に抑えるしかなかった流通の規模を拡大する事に成功したんです。
少しずつですが、アルカナル家はかつての繁栄を取り戻しつつあります。焼き立てのパンにバターが塗れる日も、そう遠くないでしょう。
エレンナが、「マム」と呼んでくれました。這って歩き回れるようになった彼女は、乳母達に見守られながらお転婆をしています。今日も、兎のぬいぐるみ噛んで遊んでいました。
歯の頭が出てきてるから、口の中がむず痒いのかも知れませんね。唾液も飛ばすようになったし、そろそろ離乳食を与える頃でしょうか。
今週中にでも、お米を潰してお粥にした物を作ってみようと思っています。
親愛なるお父様へ。
何故、お父様は私に里帰りを命じるのですか? 私は、アルカナル家での暮らしには十分満足しています。昨日は、庭に薔薇園を作ると言う私の夢まで叶えていただいたんです。
グレイシア様は、「殺虫剤が必要になるわね」なんておっしゃっていましたが、薔薇の花そのものはお好みなようで、香りと色を楽しんだ後は、さっそく薔薇の粉を作る作業工程を始めていらっしゃいました。
私も、この新しい商品には胸が躍りました。試作品は必ず自分達で試すので、紅茶に薔薇の粉を混ぜて、その香りを楽しみながらティータイムを過ごす事が確定したんですもの。
お金の事や、私や、私の娘の扱いについては、何も嘆くことはありません。私達は満足する時間を過ごしていますし、何よりグレイシア様の仕事を手伝いたいと言い出したのは私本人なのですよ?
先日のお返事を読んで、お父様が、かつての私の様に誤解をしているのではないかと、とても心配になりました。
何度も書くようですが、グレイシア様は異端者ではありません。ミサにはきちんと通っていらっしゃいますし、「神の血」についても理解しています。
もし、アルカナル家の遠い遠い祖先に、「神の血」を持つ者が居て、そのためにアルカナルの血を継いだ女達が「術」を使えるのだとしたら、「神の血」に対する反逆者はお父様の方ではありませんか?
反逆者、は少し強い言い方でしたね。ですが、お父様が心配している事のほとんどは杞憂です。お父様が他の者に喋りさえしなければ、アルカナル家が告発されることはありません。
お義母様の代から、いえ、そのもっと前から、アルカナル家と懇意にしている商人や貿易商達も、決して怪しい者達ではありません。彼等は顧客のために、普通の人間には作る事の出来ない薬を求め、場合に因っては海を越える長い旅の末、アルカナルの家を訪れているのです。
私も、秘密を守らねばならない身なので、何処の誰とは述べられませんが、船を出す事の出来る高貴な方々に召し使われた者達も、この屋敷を訪れます。
時には自国に蔓延している病を鎮める方法を求めに、時には二度と健康を取り戻すことはできないと言われた一族を助けるために、時には災害に見舞われ実りの絶えた国土を回復する方法を尋ねるために。
そんな、救いを求める者や、彼等を救おうとする者達の何処に、やましい心などありましょうか。
魔術に「怪しげな材料」を使いたがる、よく言われる「妖術師」達は、正当な魔術の担い手ではありません。彼等は他人を怯えさせて自分を畏怖させるために、敢えて禍々しい材料を使っているのです。
グレイシア様の仕事の手伝いをするようになってから、私は一回だって彼女が「胎児の肉を煮ている所」なんて、見たことはありませんから。
ヘリオット伯爵へ。
私は、もう貴方に「親愛なる」とも、「お父様」とも、呼びかけることが出来ません。何故、私達の幸福を壊そうとするのですか? アルカナル家の者達は、決して異端者ではないとお伝えしていたではありませんか。
先日、そちらの家からの申請があったと名乗る「信徒」の者達が、アルカナル家への出入りを求めて来ました。「信徒」達が私達の屋敷で見つけることが出来たのは、手作りの薔薇の粉だけでしたが。
外の者から…特に、貴方の家のような「名のある屋敷」から疑いをかけられた者が、審問を免れないのは知っています。私は、明日、異端者として審問の場へと足を運ぶでしょう。
グレイシア様とエレンナは、選ばれた血を持つ者。この血を途絶えさせること、アルカナル家の血を途絶えさせることは、あってはなりません。
アルカナル家が、グレイシア様が、世で、病や怪我、災いに苦しむ者達に、どれだけの貢献をしているのかを、貴方は理解できなかったのですね。グレイシア様の作る薬を待っている者達が、外の世界には行列を成しているのです。
ヘリオット伯爵。貴方が「娘からの手紙」を軽率に口外するような、思慮の浅い人間だったことを、私は残る短い生涯で、悔むでしょう。
広場で行われるはずだった、十数年ぶりの「異端審問」が取り消しになった事に、町の住人は肩を落としていた。
上等な暮らしをしていたはずの「魔女」に対して、普段言えない罵倒を飛ばして、服を脱がされた夫人の体をじろじろ眺めて、その体が血だらけになる程の拷問が行なわれるのを見る機会を逃したからだ。
長時間にわたるはずの異端審問を見物するため、ランチのバスケットを用意していた婦人達は、折角のご馳走を無駄にしないように、公開処刑の場ではなく、比較的衛生的な原っぱでランチを食べる事にした。
そのうちの、三人組はこうだ。
「異端審問だって聞いたのに」と、婦人の一人がつまらなそうに言う。「魔女の裁判で『奇跡』が起こるって、どういうこと?」
「さぁ? 高位の魔神と契約していたんだろうって言ってる審問官と」と言って、切り分け用のナイフでチキンを捌いている婦人も言う。「あの魔女が『神の血』を引いていたって言ってる審問官の間で、意見が分かれてるって」
「えー。それ、どっちにしても怖い」と、おっとりした様子の婦人が言う。
「そうだよねー」などと言い合いながら、婦人達はにこやかに笑い、ちょっとつまらなくなったランチの肉を頬張った。
囚われていた牢獄から跡形もなく消えた魔女…シェリル・アルカナルは、朝日の中で目を覚ました。其処は見た事のない小さな家の一室で、ベッドから体を起こすと、髪の毛がくいっと引っ張られたような感覚を覚えた。
「エレンナ…。エレンナ? 居るの?」と言って、シェリルは娘を探した。ベッドを降りようとすると、「騒がないで」と、隣の部屋から女性の声がした。「今、寝付くところよ」
確かに、眠る前の抱擁を求めて母を呼んで居た赤ん坊は、抱きかかえる女性の肩に首を預け、眠りに就こうとしていた。
「グレイシア様」と、シェリルはその人物に声をかけた。そして、木製の壁と梁を見せる家の中を見回し、「此処は、何処なのですか?」と尋ねる。
「私の家だよ」と、エレンナを産む時に処置をしてくれた産婆の老女が、両手にむしった野草を持って玄関から入ってきた。「あんたも、肝の座った女だね。自分から異端審問にかかりに行くなんて」
それを聞いて、シェリルは困ったような表情で微笑んだ。「きっと、グレイシア様が助けてくれるって信じていましたから」と言って。
それから、シェリルとエレンナ、そしてグレイシアは、老婆の家に隠れ住むようになった。
アルカナル家に異端の疑いがかけられたことから、術師達が居なくなったことを察した商人達は、速やかに屋敷との関わりを無くし、瞬く間にグレイシアの所在に「呼ばれ」て、老婆の所で材料の販売と薬の買取をするようになった。
グレイシアは、商人達を呼んだ時と同じく、「何等かの方法」で屋敷から執事を呼びつけ、屋敷と老婆の家の間の資金や契約書の移動を任せた。この執事、「口外、横領など考えたら、どうなるかは分かっているな?」と、グレイシアから念を押されている。
その暮らしは、エレンナが5歳になるまで続いた。
「パンサーハイエナの肝が5個、雪コウモリの羽が10個、鎮静グリースを一瓶、鳴き燕の卵が13個…と」と言って、商人は商品を並べる。
シェリルはテーブルに並べられた商品を確認して代金を支払い、商人を見送った。夫々の品を棚に収めながら、「あら?」と首を傾げた。「グレイシア・アルカナル嬢へ」と言う手紙が、グリースの瓶の下から出てきたからだ。
それをグレイシアに渡すと、彼女は古代文字で書かれた文章に目を通した。
「アルカナル家への異端の疑いが、晴れたそうよ。17代前の祖先の中に、『神の血』が入ってることが『証明』されたって」
そう読み上げて、グレイシアはフンッと鼻を鳴らした。「あなたの夫も、中々の策士ね」と言ってから、横目でシェリルを見て、口元を笑ませる。
情報屋をしている人達は、きっと喜ぶだろう。「神の血」の一族と姻戚関係にある者を、異端審問にかけようとしたとして、普段ひれ伏すしかない貴族の家と審問官達を糾弾できるのだから。
これを機会に、異端審問機関が崩壊してくれたらな、とシェリルは思った。そうすれば、今後、エレンナが血を残したとしても、その子供達も審問にかけらる心配は無くなる。
「マム。バッタが取れた」と言って、すっかり腕白に育ったエレンナが、虫鳥かごを差し出してくる。
屋敷に戻るには、まず、この子に「貴族社会の淑女の作法」を教えないと。
そんな事を思いながら、シェリルはその日に渡す予定の商品の瓶を、棚から取り出した。
空は明るく晴れている。夕食の頃には、気分の良い満ち月が見れるだろう。夕日を浴びて赤く光るはずの少女の横顔を思って、シェリルは目を細めた。
その後、魔術と一緒に淑女としての作法を学んだエレンナ・アルカナルは、師である伯母と、優しい父母、そして理解のある屋敷の者達に囲まれ、恵まれた少女期、青年期を過ごしました。
家督を継いで夫を迎え、二人の娘と一人の息子、そしてたくさんの孫達に囲まれて、「偉大なる赤き月の淑女」の名を、後世に残しました。
まるで女王陛下が描かれているような肖像画が、現在のアルカナル家にも存在します。その現在が何時なのか、それだけは誰にも分かりません。




